ス(死)
ズパッ! という重い衝撃が空を震わせ、レジーナははっと背後を振り返った。
美しき海の向こうにあった岩山が絶ち切られ、それと同時にぞろぞろと進撃している魔物たちが、まるで手品のように斬り裂かれてゆく。
見えない刃は次々と空を飛んでいるらしく、そのたびに海は逆巻き、飛沫を上げ、遠く空に浮かぶ雲さえ断ち割れていく。
「先輩……!」
オーリンが奮戦している。見ればすぐにわかる。
あれだけの魔物たちを、たった一人で、あと何分抑えられるのか。
刻一刻と少なくなっていっている残り時間を思った時、ガキン! という金属音が発して、レジーナは目の前の光景に向き直った。
「驚いた。これほど動けるとは……!」
剣を構えながらのアルフレッドが、驚き半分、憎らしさ半分というような声で呻いた。
美しい銀髪をほつれさせ、顔中に汗の珠を貼り付けたアルフレッドからは、冷徹で穏やかな青年という第一印象はもはや消えていた。
気力を振り絞って両足を踏ん張り、全身を使って息をしているイロハの小柄を見つめて、アルフレッドは口元を歪ませた。
「ただ恐れを捨てただけ……とは言えまい。非才の身でありながらここまで剣を振るい続けた努力の賜物か。全く忌々しい、さっさと斬られてくれればいいものを……」
「斬られるわけにはいかぬと言ったはずだ! 今このときも、私のために戦ってくれているものがおる!」
はっ、とレジーナはイロハを見つめた。
イロハは握った木刀をぶるぶると震わせながら叫んだ。
「貴様の言う通り、私はずっと怯えていた……。他者から向けられる愛情にも、期待にも……! ずっと怯えていた! こんな非才の自分には過ぎたるものだと……ずっと怖かった!」
イロハは涙声で声を振り絞る。
「だが今は違う……私のために、ズンダーのために、勇を奮って戦ってくれる者が、私ならやれると言ってくれるものがおる! 私が戦わずしてどうなる! 怯えてなどおられぬ! 相手が誰であろうと、そのものたちのために決して私は倒れぬ!」
その声に、レジーナはイロハが抱えていた葛藤を思った。
こんな切ないほどに小さな身体で、しかし全身に闘気を漲らせながら、イロハはアルフレッドの前に岩のように立ち塞がる。
「決して倒れぬ、か……よかろう。ならばやってみるがよい」
アルフレッドが静かに剣を構え直した。
「私はあなたを敵として認めよう。あなたは最早、斬らなければならぬ障害だ。本気で行きますよ――!」
それと同時に、アルフレッドが地面を蹴った。
疾い、まるで瞬間移動のような速度で一挙に間合いを詰めたアルフレッドの剣が、イロハの首筋を狙う。
ギリギリの反応でそれを受け止めたイロハの木刀に刃が食い込み、ゴリ……と鈍い音を立てた。
体格差と連撃を利用しながら、アルフレッドは一息にイロハを追い込んだ。
気合の一言とともに繰り返される攻撃の連続に、防戦一方のイロハはたまらず十歩ほども後退する。
「イロハっ、頑張って!」
握り拳を握り締めながら、レジーナは大声を張り上げた。
「絶対にやれる……あなたならできる! ズンダーを護ることが! 負けないでっ!」
その声援が届いたのかどうか、斬り合いはブレークの時を迎えた。
どうにか剣をいなし、鋒を逸したイロハが右の木刀でアルフレッドの側頭部を狙った。
それを大きく身を屈めながら躱したアルフレッドだったが――その場で素早く体を捻り、一回転したイロハの挙動を見て、目を大きく見開いた。
「な……!?」
バキッ! という鈍い音が弾け、アルフレッドが苦悶の声を上げた。
ぽたぽた……と砂浜に赤い雫が垂れ、白い砂浜を汚した。
「ぐ……う……!」
強かに打たれた顔を手で押さえながら、アルフレッドはゆっくりと顔を上げた。
滴る鮮血に手を汚し、目を血走らせながら、アルフレッドはこぼれ落ちんばかりに両眼を見開いてイロハを睨んだ。
その凄まじい形相からの視線を受け止めても、イロハは動じることなく木刀を構え直した。
「恐れているな、アルフレッド」
は――? と、アルフレッドの唇が動いた。
「私を斬るのが怖いか。そうなのであろう?」
イロハは確信的な口調でそう言い、鷹のように鋭い目でアルフレッドを見た。
「そうでないというのならひとつ問おう。貴様は何故、この島に来てすぐに私を斬らなかった? 私を始末してからゆっくりと事を起こしたほうがよほどやりやすかったはずだ。何故貴様は最後の島まで私を生かしておいた? 何故、馬鹿正直に護衛の真似事などしていた」
アルフレッドの顔から一切の表情が抜け落ちた。
レジーナも、イロハの口から出た言葉に息を呑んだ。
「その気持ちはよくわかる……貴様は私を斬ることを恐れていたのだ。この島に来たときも、あの聖堂で私に斬りかかったときも――そうでなければ貴様程の人間が仕損じるはずなどない。誰かにそれを阻まれるのを待っていたのだ」
カタカタ……と、アルフレッドが握った剣が音を立てて震えた。
図星――であったのだろう。その反応を見ればすぐにわかった。
「それは三百万人の無辜を殺戮せしめることに対して……だけではないのだろう? 貴様は私を斬るのが怖かったのだ。全く……嫌なところが似たものだ。貴様は、いや、そなたは……私に似て臆病者なのだ」
アルフレッドの顔色が、青ざめるほどに変わった。
イロハは威厳ある声でアルフレッドに語りかける。
「正直、そなたが言うところの神や罰という言葉に、私は興味を持たぬし咎めるつもりもない。だが背負えぬ責を背負うのはやめろ。そなたは神の代理人にも、殉教者にもなることはできぬ。そなたは……ただの臆病者なのであるから」
ふう、とイロハは言葉を区切った。
「約束せよ。この闘いに私が勝ったら、きっとこの凶行を諦めると。兄であるそなたを処すことなど、私には出来ぬ。ズンダーを去れ、そして二度と戻らぬと……誓ってくれ、アルフレッド」
その声は、十四歳の少女の声でも、イロハの声でもなかった。
それは正しく大公息女――プリンセスとしての、威厳ある、そして拒否を赦さない命令だった。
その声を受け止めて、アルフレッドが一切の動きを停止した。
長い沈黙が、砂浜に落ちた。
一体何秒待ったことだろう。焦れたようにイロハが口を開いた。
「アルフレッド――!」
その、途端だった。
やおら顔を上げ、くわっ、と血走った目を見開いたアルフレッドの左手が――イロハに向かって振り抜かれた。
うっ! と悲鳴を上げてよたよた後退したイロハの顔をべったりと濡らすもの――血だった。
レジーナは思わずイロハに駆け寄り、その背中を抱きとめた。
イロハは両眼に入り込んだ鮮血を手でめちゃくちゃに拭おうとする。
見ると……イロハの顔にはどこにも出血した形跡はない。
アルフレッドの血か、とレジ―ナが気づくのと同時に、ゆらり、とアルフレッドが立ち上がった。
「私が……臆病者だと!? 神をも恐れぬ不届き者め……!」
アルフレッドの声は、壊れかけていた。
喉のどこかが破れ、そこから息が漏れ出したかのような、めちゃくちゃに震え、かすれた声は――恐ろしかった。
キッ、とレジーナはアルフレッドを睨みつけた。
「卑怯者……!」
「黙れ! 弱い者に道が選べた試しはないのだ!」
罵声に倍する大声で怒鳴りつけられ、レジーナは思わず身を竦ませた。
「貴様にわかるのか! 自分の血を呪うしかない惨めさが! 誰からも正常な愛情を受けられなかった人間の怒りが! 私を愛してくれたのはあの方……我らが神だけだ! それを愚弄することは赦さん!」
おおお、と、アルフレッドの背中から凄まじい殺気が立ち上り始めた。
ゆっくりと剣を持ち上げ、アルフレッドはよたよたと近寄ってくる。
「レジーナ、逃げよ……! 私に構うな……!」
「馬鹿言わないで! ほっとけるわけない! 私だってやれることがある!」
「よ、よせ……アルフレッドは本気だ……! そなたは死ぬな、我々兄妹の因縁に付き合うことはない……!」
「そんなことじゃない! あなたが立派だと思うから助けるの! 絶対に死なせない、私があなたを護る!」
レジーナはイロハの小さな体に覆いかぶさった。
レジーナたちを護らんと激しく吠え立てるワサオを、アルフレッドが無造作に蹴飛ばした。
ギャンッ! と悲鳴を上げてワサオが吹き飛び――アルフレッドが剣を構えた。
絶対にここから退かない――レジーナはそう決意した。
こんな卑怯者に、兄妹の絆すら捨てた男に、この勇気ある少女を殺させるわけにはいかない。
私はなりたい自分になる。
この少女を庇い、護り、立派に死にゆく人間になりたい――!
その思いがレジーナの中で灼熱を発した、その瞬間だった。
ドスッ――という、鈍い衝撃が真っ直ぐ背中から胸を貫いた。
血に塗れた剣の鋒が、自分の胸から突き出ていた。
ごぼっ……と、口から噴き出した鮮血がイロハの顔に降り注ぎ、せっかく拭った顔を再び汚してしまうのを――レジーナは確かに見た。
「レジーナ……!」
イロハの悲鳴が耳に聞こえたと思ったのが、最後の記憶だった。
それと同時に、視界が端の方から暗黒に沈んでいき……。
レジーナの意識が、途切れた。
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「まっとまっと読ましぇ」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





