クンズラエダ・アソビ(禁じられた遊び)
最後の島――バウティスタ島の『バウティスタ』とは、異国の言葉で「祝福を受けた者」の意味である――と、イロハは語った。
その昔、初代ズンダー王は、この地のさらなる雄飛を目指し、はるか海を越えた先の国との国交・通商を目論んでいた。
その交渉は結局不首尾に終わったものの、五百年も昔に遥かなる海を渡り、異大陸と通じようとしたズンダー王の勇気、そして先見性は今もズンダー領民の誇りで有り続けている。
「祝福を受けた者」――まさに神からの祝福と守護を受けていたとしか思えないほど、数々の功績を打ち立てたズンダー王が残した聖地として、おそらくこれ以上の名前はなかったに違いない。
「この道を、歴代のズンダー王も通ったのだろうか……」
イロハはそう呟いて、朝靄が棚引く静かな道を、まるで熱に浮かされたような表情で歩いている。
遠くに聞こえる潮騒も、なんだかこの島だけは殊更静かに聞こえるのは気のせいだろうか。まるで島全体がすっぽりと静謐という霧の中に沈んでいるかのように、島は奇妙に静かだった。
ほぼ人跡未踏の聖域ということは、完全なる未開の森を想像していたのだけれど――島には明らかに人の痕跡がある。
否、今までの島と異なり、この島は明らかに長い間、人の手によって整備され、均衡を保っていることがわかった。
それが証拠に、今踏んでいる道は粗末な踏み分け道などではなく、きちんと石畳の敷かれた、しかも五人程度が横並びで歩けるほど広い道である。
「禁足の聖域だっつうのに、随分立派な道があるもんだなぇ」
オーリンがイロハに水を向ける一言を呟くと、イロハが説明した。
「このマツシマ群島が聖域である最後の理由は、ここがズンダー王を護るための避難先でもあるからだ」
「避難先?」
「そう。いざ王家や諸侯にベニーランドが侵攻された時、落ち延びて籠城する最後の場所――周囲は絶海の孤島、しかもあの通り魔物だらけだ。どの島に大将がいるか総当りで調べるようなことはできないであろう?」
確かに、それは今まで七十七の島々を死ぬ思いで渡ってきたレジーナにもわかる。
上手い方法を考えたものだな、と感心しているレジーナは、ふと向こうに見えてきたものに目を奪われた。
「あれは――」
朝靄に沈んでいてよくわからないが、巨大な何かが存在しているのはわかる。
ごくり、と少し前を征くイロハが唾を飲み込む音が、レジーナにまで聞こえた。
「見えたぞ。本当に――あった」
その実在が半信半疑だったような一言とともに、イロハはその威容を見上げた。
これは――城だろうか。
いいや違う。あの尖塔と、色とりどりに輝くステンドグラス、そしてその中心にあしらわれた真っ赤な薔薇の花は――聖堂?
「なんだや、これは……?」
あまりに意外なものの登場に、オーリンでさえ驚きの声を上げた。
ほう、と長くため息をついてから、イロハは小さな声で説明した。
「これがマツシマ最高の聖域――禁じられた聖堂だ」
イロハはその尖塔を食い入るように見つめた。
「遥か昔、ズンダー王の命を受けた臣が遥か異大陸から持ち帰ったもの、それは数々の宝飾品や美術品だけではない。その進んだ文化や技術、そして信仰も――。今では当たり前に皆が信仰しているが、遥か海の先からもたらされた預言者の教えは、当時は異端も異端の禁教であった」
「ま、待ってください。初代ズンダー王は――五百年以上前に、我々と同じく、預言者を信仰していたと?」
「その通りだ」
まさか、というつもりで訊ねたのに、イロハは肯定した。
「この大陸で異端として迫害される危険がなくなってからも、ズンダー大公家はずっとその信仰を隠し通してきた。一種の秘密結社だな。いつの頃からか行われなくはなったらしいが――歴代のズンダー王たちの多くは、ここで密かに洗礼を受け、その死後はここに眠っていると言われる」
あまりに意外な歴史の真実に、レジーナは二の句が継げなかった。
預言者の教え、または救世主の教え――それは今やこの大陸全域に広がった信仰だった。
遥か千年も前、異大陸の砂漠に現れた一人の預言者――創世の神からの言葉を聞き、その教えを広め、罪を悔い改めよと遍く伝道した男。
男が唱える自己犠牲の精神、そして敵味方を超えて人を愛せという教えは、人々が固有の神を戴き、獣のように憎み合い、殺し合う古代では危険な教えだった。
異端者だとの誹りを受けたその男は、当時世界を支配していた帝国に捕縛され、人々の罵声を浴びながら贖罪の道を歩き、そして最後には――。
「――初代ズンダー王の望んだ世界とは、争いのない世界だったのかも知れぬな」
イロハの言葉に、レジーナは物思いを打ち切った。
聖堂のステンドグラス――神の祝福を意味する薔薇の花の意匠を見上げたイロハは、なんだかぼんやりとした口調で呟く。
「あのステンドグラスを見ていて、そのことがわかった。誰もが笑い、豊かに暮らすことのできる王道楽土を、平和に浄められた世界を創りたい――。その願いを持っていたからこそ、ズンダー王は力を追い求めたのかもしれん。そしてその祈りが、あの偉大なる預言者に通じてほしかったのだろう――」
カタッ、という金属音が背後に発した。
何の音か、と思って目だけで後ろを振り返ると、アルフレッドが何故なのか剣の柄を手で押さえている。
今の音は剣の鍔の音か、となんとなくレジーナが察した時、ふーっとイロハが深く息を吐き出した。
「これで全部だ。マツシマの秘密、ズンダー大公家の歴史――その中枢部がこの聖堂だ。入ってみよう」
イロハはそう言って聖堂に近づく一歩を踏み出した。
レジーナはオーリンと瞬時顔を見合わせた。
「預言者の聖堂――まさかそったなものが隠されていたとはな……」
「先輩……」
「まず、歴史のごとばいいべ。今はやるごどをやらねば」
それだけ言って、オーリンは静かにイロハの後に続く。
長い間、もしかしたらこの世紀に入ってからは一度も開かれていなかったかもしれない聖堂の扉には、海から吹き付けてきたのだろう砂が厚く積もっていた。
その砂を押しのけ、ぎしぎしと軋む扉を開くと――まるで聖堂が息を吹き返したかのように空気を吸い込んだ。
「これが――禁じられた聖堂――」
イロハが、呆然と呟いた。
聖堂の中は――広かった。
通常の聖堂や教会とは違い、信者たちが説教を聞く長椅子の類はなく、その代わりにずらりと並んでいるのは石造りの古い棺だ。
歴代のズンダー王たちのものであるに違いないそれらが整然と並んでいるその奥に――古びた巨大な十字架と、おそらくは初代王のものであろう巨大な棺がある。
その場にいた全員が、しばらく無言だった。
あまりに意外なものの出現に絶句したのか、それとも聖堂が持つ自ずからの威厳がそうさせたのか。
とにかく、まるで五百年も前のものとは思えない光景が広がっていたのは事実で、全員がその聖域に立ち入ることもなく、ただただその光景を眺め続けた。
「エロハ――」
「ああ、わかっている」
どれだけ時間が経ったのだろう。
オーリンに促され、イロハが力強く頷いた。
「ここが最終目標地点だ。後は――私が誓いを立てるだけ」
イロハが、ようやく聖堂の中に一歩を踏み出した。
後に続いてよいものか、レジーナがまごついていると――それを押し退けるようにして、唇を真一文字に引き結んだアルフレッドがイロハの後を追う。
それに釣られるようにして、レジーナもやっと聖堂の中に足を踏み入れた。
聖堂の中は――不思議と肌寒かった。
威圧感ある石の棺の道を歩き、やがて十字架の前まで来たイロハは、ゆっくりと十字架を見上げた。
「プリンセス・ゴロハチ。覚悟はよろしいですか」
アルフレッドが促すようにその背中に語りかけた。
「あなたは今、この禁じられた聖堂、初代ズンダー王の亡骸の前にいる。あなたがここで誓いを立てれば、あなたはその偉業を継ぐ者、この地の真の王になる。そうなればもう誰もあなたの存在を疑いはしない。その存在を侵そうともしなくなる」
アルフレッドの言葉は、まるで宣教師の説教のように響き渡った。
「プリンセス・ゴロハチ。覚悟はよろしいですか。その偉大なるゴロハチの名前を継ぐ存在に、ズンダーの王に、神の祝福を受けた者になる覚悟は――お決まりでしょうか」
その言葉に、イロハは「ああ」とだけ呟き、そして石畳の上にゆっくりと跪いた。
創造神への祈り――。
ここで果たされるべき誓いとは、初代ズンダー王へ、そしてそれが信仰した預言者、そしてそれに連なる神への誓いであるのだ。
「プリンセス・ゴロハチ。汝に祝福あれ」
アルフレッドがそう言った――そのとき。
ぞっ、と、何か奇妙な寒気がレジーナの横を通り過ぎた気がした。
一体何だろう、とその空気を不思議に思った時、ウウー、という低い唸り声が足元に聞こえた。
「プリンセス・ゴロハチ。汝に祝福あれ。歴代王の加護が、預言者の加護が、創造神の加護があらんことを――」
レジーナが瞬時足元に視線を落とすと、ワサオが鼻面に皺を寄せ、牙を剥き出して唸り声を上げていた。
ワサオが警戒している――一体何に? 誰に対してだ?
しかし今までの経験上、この反応があるときは――。
「プリンセス・ゴロハチ。汝に祝福あれ。ズンダーの民たちから祝福を、父や母からも祝福を。そして――」
アルフレッドの右手が――ゆっくりと腰に帯びた剣の柄に回った。
「私から汝に、死の祝福を――!」
はっ、と、イロハが振り向こうとしたその瞬間。
隣りにいたオーリンがレジーナを背後に突き飛ばし、アルフレッドに向かって右手を掲げた。
ゆっくりと展開していく視界の中、白く冷たい光が弧を描いてイロハの頭上に吸い込まれたと思った瞬間。
甲高い金属音が発し、オーリンの出現させた魔法障壁が間一髪で剣を受け止めた。
「ったぁ――!?」
強かに尻もちをついた痛みを嘆くのもそこそこに、レジーナは目の前を見た。
そこにいたのは、驚愕の表情で振り返ったイロハ、凶相を浮かべるオーリン、そして――薄ら笑いを浮かべたアルフレッドだった。
「アルフレッド――?」
イロハの口が、それだけ動いた。
まるでガラス玉のような瞳が――眼の前の光景を受け止めきれていない。
「――やぱしお前が。お前だど思ってらった」
オーリンが殺気を含んだ声でアルフレッドに語りかける。
「《クヨーの紋》をわざわざ操った動物に残しておいだのは、ズンダー大公家に恨みを持つ人間の仕業でねぇが。これをやったのがズンダー大公家でばねぇがと疑わせるため、やったごどをなすりつけるためでばねぇのがと……そう考えて正解だったなや」
オーリンがゆっくりと言った。
「マサムネを、こごさいるワサオを、あんな風にし腐ったのはお前が。ベニーランドを護っていだったマサムネまであんなふうになれば――そりゃなんぼなんでもエロハだって焦るべの。早く大公にならねばねぇ、ベニーランドに強いリーダーがいねばねぇと思わせた。エロハが信頼してるお前なら、執政や将軍さ隠れて連れ出すのも簡単だったべのぉ――」
色を失ったイロハの唇が戦慄いた。
今しがたオーリンが言った通りのやり取りがあったことは、その反応を見れば明白だった。
「どうせお前なんだべ、こごさ来てエロハさ誓いを立てるように焚ぎつげやがったのば。これっだけ魔物ばいる島だ、膾に斬り刻んでも誰も疑いはしねぇさ。後は妾の子であるお前がイロハに成り代わって大公になるっだげ――そうなんだべ?」
妾の子、という単語に、アルフレッドが反応した。
ずるり、と剣の切っ先を下に向け、アルフレッドは低く笑った。
「プリンセスはそんなことまであなた方に話したのですか――私が穢れた血を持つ人間であると」
アルフレッドはそう言って胸元に手を突っ込み、首から提げていたネックレスを無造作に引きちぎり、足で踏み潰した。
途端に、妙な刺激臭が鼻を突き――ワサオがガウガウとアルフレッドに吠えついた。
【こいづだ! こいづが俺を呪ったやづだ!】
レジーナの【通訳】スキルを介さなくても、ワサオの反応を見れば、誰もがそれを理解しただろう。
それを見ていたアルフレッドが片眉を上げ、「おやおや……」と笑った。
「どこか見覚えがあると思ったら、あの辺境のフェンリルか。随分可愛らしい大きさになりましたね。そのせいで今まで気がつかなかった」
「アルフレッド……」
「獣というものは悲しい生き物ですねぇ。匂いや外見さえ誤魔化してしまえばもう何も覚えてはいられない。ドラゴンですら――呪をかけるのは簡単だった。やはり、獣はどこまでいっても獣なのだ」
「アルフレッド――!」
「そして、あなたもだ。プリンセス・ゴロハチ……いや、イロハ様」
アルフレッドは震えるイロハを振り向いて、にぃっ、と不気味に唇を吊り上げた。
「血縁や信頼という匂いで嗅覚を曇らせれば、敵味方の判別すらつかなくなる……あなたは哀れな獣の子ですよ」
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「薔薇と霊廟、フフン、あそことあそこのことだな」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。





