シパナ・ムジャゲル(引っ張るな、破ける)
空よりも青い海、輝く緑の島々、吹き渡る風、太陽の輝き。
空渡るウミネコたちの白と、空の清廉さをまるごと取り込んだかのような海の群青が織りなす、圧倒的なスケール感。
陽光を受けてきらめく大海原、そしてまるで宝石のような島々の輝き――。
レジーナはいまだかつて、これほどに雄大で、美しく、秩序正しい光景を見たことがなかった。
思わず胸を開き、腕を広げ、風をいっぱいに吸い込んでみる。
湿っていて、だがどこか芳しい潮の匂いが全身の細胞に行き渡り、自身が清められていく感じさえする。
ほう、とため息をついたレジーナは、目の前に広がる光景にしばし茫然となった。
これが大陸で『三景』を謳われる美しき海か。
「これが、マツシマ――」
思わず呟くと、フフ……というくぐもった笑い声が背後に聞こえた。
振り返ると、オーリンが少し可笑しそうに船の舳先に経つレジーナを見ていた。
「何を感慨に浸ってんだや、レズーナ。お前さば似合わねど。今の今まで不安だ不安だって愚痴ってらったのはどこへ行ったで」
「あっ、酷くないですか!? そりゃまだ不安ですけど……普通に風景に感動ぐらいはしますよ、私だって!」
「まぁ、確がになぁ……俺も久しぶりに来たで。いづ来てもここはやぱし綺麗だね」
口を尖らせるレジーナの言葉に、オーリンも目の前に広がる青の世界を見つめた。
「マツシマさ来たのは久しぶりだっきゃ。子供の頃、ツガル村のリンゴギルドの研修旅行で連れて来てもらって以来だ。あの頃となも変わってねぇ」
「久しぶり……って、先輩って意外にいろんなところ行ってますよね。アオモリから一歩も出たことないんだと思ってましたけど」
「すたなわげねぇでの。いくら田舎者だからって馬鹿にすな、こら」
オーリンが少しムッとしたような表情になったが、それも一瞬のことだった。
人間はこんな雄大な自然を前にすると不機嫌で居続けることはできないものらしい。
「マツシマや、ああマツシマや、マツシマや……本当にそう言いでぐもなる。言葉っつうものが出はってこねぇもだね。バショーもこえ見でなぼ感動したべな」
「バショー、って、あのバショーですか? 忍者の?」
「そう、忍者だ」
オーリンは頷いた。
「最強の忍者、灰聖バショー……あの人は東と北の辺境を旅したごどがあるんだずおな。本当は偵察任務であったのがもわがんねけど、とにがくマツシマに凄く感動したのは本当らすぃ。東と北の間の辺境ではあの人は有名なんだど」
「へぇー、先輩って物知りなんですね。バショーって血も涙もない冷酷な暗殺者のイメージがありましたけど」
「そうではねぇど、バショーはすげぇんだ。他ばよ……」
なんやかやと話してみると、口下手で朴訥だとばかり思っていたこの青年は意外にも話し好きであるようだ。
ズンダー大公家が用意してくれた大型船に揺られながら、しばしレジーナはオーリンの話を聞いてみる気になった。
その言葉はやっぱり猛烈に訛っていて、レジーナの【通訳】のスキルがなければとても理解不能な言葉だったに違いない。
けれどその先入観を排してみると、これが割と一聞に値する話ばかりで、それから三十分ばかり、レジーナはオーリンの話に聞き入った。
「思えば、先輩とこうしてゆっくり話をしたのは初めてですね」
頃合いを見てレジーナが言うと、オーリンも「なんだや、急に」とびっくりしたような表情を浮かべた。
「だって先輩、『イーストウィンド』ではほとんど喋ってたイメージがなくて。いつも話しかけてもはにかむだけだったから」
「そりゃそうだね。俺は言葉がこえだがらな。王都の人間ば俺が何喋ってるがわがんねど思ってらったし」
そう言ったオーリンは、海の向こうに輝く美しい島々を見つめた。
「まぁな、俺もツガルから出はってきて、こいったげ話コばすたのは初めでだがもわがんねな。なにせ言葉が通じる相手がいねぇ。何喋てもぎょっとすた顔されるばりでよ、そのうぢ喋んのがおっかねぐなってきてな――」
ははは、とオーリンは笑った。
だがその笑いは、やはり隠しきれない孤独感が滲んていたように思う。
「それが原因でギルドば追い出されだのは少し予想外だったどもな……んだども、初めで話が通じだ相手がお前で良がったよ、俺は」
オーリンが急にそんなことを言い出し、レジーナは少し慌てた。
「せ、先輩、何を言い出すんですか、突然……!」
「いや、本心だで。もすお前がハッパかけでけねがったら、あのままどさがポイと身投げしてたがもわがんねっきゃの。それぐらいは落ち込んでいだったぉんね。俺、あのどぎお前がいでけでよがったでば。今の俺があんのはよ、お前のおがげさんだはぁ。――そう言えば礼も言ってねがったけどよ……ありがどな、レズーナ」
そう言うオーリン自身も恥ずかしいのか、オーリンは照れたようにぼそぼそと言った後、はにかんで俯いてしまった。
言葉はともかく、よく見ればそんなに悪くはない見てくれの好青年がそんな可愛らしい所作で照れるのを見て、レジーナの心の中に妙な気持ちが芽生えた。
あれ、これってもしかして……。
――繰り返しになることだが、この齢二十歳の乙女には、「人との距離感がバグる」という、とても悲しい性分がある。
他人に少し親しくされれば友達だと思い込んで次から馴れ馴れしくし、異性から少し優しくされると「この人もしかして……」といらぬ勘違いをする。
人付き合いにおいてどちらかと言えば致命的な弱点を持ったこの乙女の脳みそは、その時、異性から少しストレートな感謝の言葉をぶつけられたことで、あっという間に誤作動を起こした。
さっ、と、レジーナは尻をにじり、座っているオーリンとの間を開けた。
オーリンが不思議そうにレジーナを見つめるのにも関わらず、レジーナは恋する乙女そのものの表情でぎゅっと胸に手を当てた。
「そ、そんな、ダメですよ先輩……」
「はえ?」
「わ、私たちはあくまでパーティメンバーなんですから。そんな関係になるなんて……ダメ、ではないですけど、多分早すぎます」
「はぁ? 何言ってるんだ、お前?」
「いや、だって、今のってそういうことじゃないですか。わっ、私、まだ先輩とそういうこととか全然考えてないし……!」
「おい、本当に大丈夫がよ? 顔色変だど。船さ酔ったんでねぇのが?」
「えっ? なっ、なんですかその表情? ……ハッ!? まさか先輩、私をからかったんですか……!?」
「はぁ? な、なんだや……!?」
「ひどい……ひどいです先輩! こんな乙女の心を弄ぶなんて! 先輩を純朴なイモ系田舎男子だと思っていた私の純情を返して下さい! キィーッこんな人畜無害な顔して乙女心を弄ぼうだなんて! 都会の人混みに流されてよごれっちまったイモかアンタは! どこだ! どこでそんな手練手管を覚えた!」
「お、おい、やめれ! ローブ引っ張るな! 破れる! 破れる!」
と……そのとき。
ゴトン、と音がして、船にゆっくりと慣性がかかるのがわかり、レジーナはオーリンの胸ぐらを掴んで揺すぶるのをやめた。
そう言えば存在を忘れていたワサオが前足を伸ばして船べりにかけ、尻尾を振りながら、ワン! と吠えた。
見ると――船はひときわ大きな島の入り江に入り込み、海面には小舟が降ろされている。
ここが目的地なのか……と思っていると、オーリンがレジーナの手をやんわりと振り払って立ち上がった。
「さぁ、船旅は終わりらすぃの。蛇が出はるが鬼が出はるが、探検ど洒落込むべし」
そう言うオーリンの表情からは既に先程の純朴なイモ男子の幼さは消え、その表情は精悍な魔導師のそれに戻っていた。
その表情を見たレジーナも、慌ててまだ半熟な新米冒険者の心をバラ色一色になっていた脳内に呼び戻した。
いかんいかん、何を考えているんだ、レジーナ・マイルズ、あなたは冒険者なのよ? 如何に先輩が私のことを愛してくれていたとしても、今の私には応えることが出来ないということを忘れたの?
なぜなら、私は冒険者だから。
これは田舎から出てきたズーズー弁丸出しのイモ系青年とのハチャメチャ♡ラブロマンスではなく、れっきとした冒険のストーリーなのだ。
冒険者は危険を冒して栄光に手を伸ばす人々。その際に色だの恋だの情だの、冷静な判断を害する余計な感情は却って重荷になってしまう。だから私は先輩の想いには応える事ができない。そう、「今はまだ」――。
すう、と、レジーナは心を鎮めるために息を深く吸い、吐いた。
それだけで乙女の心は鎮まり、反対に新進気鋭の新米冒険者の魂が蘇ってくる。
全ての浮ついた感情を捨て、克と目を見開き、レジーナは目の前の光景を見つめた。
「さぁ、行きましょう先輩。私たちの未来のために」
キリッ、と、いい声といい表情でレジーナは言った。
えっ? と驚いたようにレジーナを振り返ったオーリンは、「お、おぅ……?」と中途半端な返事を返した。
こごまで読んでもらって本当に迷惑ですた。
「たげおもしぇ」
「続きば気になる」
「がんばれレジーナ・マイルズ」
そう思らさっていただげるんだば、下方の星コ(★★★★★)がら評価お願いするでばす。
まんつよろすぐお願いするす。