1 ラブレター
ピロン。
時刻はすでに午後五時を回っている。
西日が差してオレンジ色に染まった教室の中で、俺は固まる。
「あ、あ、これは……」
脳みそがフル回転する。
何かうまい言い訳を考えようと思考を巡らせるが、思い浮かばない。
少女は、にちゃりと笑う。
三日月に開いたその口の形から、底知れない悪意を感じ取れた。
ピロン。
少女はスマホをポケットにしまってその場を立ち去る。
俺はただその場に立ち尽くした。
そのことを、のちに後悔することとなる。
あのとき、彼女のあとを追えばよかった。
ここで必死になっていれば、未来は変えられたかもしれないのに。
◇ ◇ ◇
俺の名前は岩田薫。
十五歳。高校一年生だ。
春。
高校に入学して一か月が過ぎた。
最初はみんな不安そうにしていた。
高校での勉強についていけるか、部活はどこにしようか、友達はできるか、……誰しもが抱く自然な悩みだ。
だが、一か月も経てば、新生活にも次第に慣れていく。
それらの悩みは、時とともに晴れていく。
そうなると、今度は別の悩みが頭をもたげる。
そう、ずばり異性だ。
やれ、「隣のクラスのあの子がかわいい」だとか、「部活の先輩がかっこいい」だとか、中にはもう告白して付き合ったなんて奴らまでいる。
「死ねばいいのに……」
カップル成立の噂を聞いた俺は呪詛を吐く。
爆散して宇宙のかなたまで吹っ飛び二度と地球に帰ってこないでほしい。
本気でそう思う。
だが、同時に安堵する。
なぜなら俺の意中の人、和泉亜依にはそのような噂は今のところないからだ。
そう、俺もご多分に漏れず、異性の虜となっている。
クラス一の美少女、和泉亜依。
彼女はこの学校のニューアイドルだ。
金色に輝く長い髪、整った小さい顔、制服の上からでもわかる胸のふくらみ。
すべてが俺の心のスイートスポットに突き刺さる。
すでに男子たちの間ではファンクラブが結成され、女子たちの間では嫉妬の的として憎まれ始めている。
それもすべては彼女が美しすぎるからなのだ。
だが、俺が彼女に惚れているのはそんな表面的な部分ではない。
そこだけは、はっきりと言わせていただく。
俺はそんな一般ピーポーどもが有り難がるようなありがちな魅力に惹かれたりはしない。
「さて、今日も日課のあれをやっておくか」
俺は自分の席を立ち、毎日やっているアレを実行しに行く。
最近、毎日やっている。
つかつかと教室の中を歩く。
まだ朝のホームルームが始まる前で、みんなは雑談している。
意中の人、和泉さんも友達と楽し気に話をしている。
さあ、今日も気づかれるなよ。
自然に、自然に。
俺は和泉さんの席のすぐ後ろまでやってきた。
そこで二秒ほど留まる。
ここが肝心だ。
「あっれ~。消しゴム、どこ行ったかなぁ~。あっれ~」
その場でかがんで、消しゴムを探す”ふり”をする。
和泉さんがチラリとこちらを見たが、すぐに友達に視線を戻す。
昨日のドラマの内容で盛り上がってるらしく、俺にはまったく関心がない。
このように、今のところ、俺は彼女にとってただの友達ですらない。
ただのクラスメイト、いや、路傍の石。
だが、俺は気にせず消しゴムを探すしぐさを続ける。
よし。
いいぞ。
最高だ!
「あっれ~。おかしいな~」
そう言いながら、その場を離れる。
よーし。
今日もパーフェクト。
俺は今日の成果に満足し、誰にも気づかれないように小さくガッツポーズをした。
いや~。大量大量。
これで今日も一日乗り切れるな。
え?
俺が何をしたかって?
ふむ。やはり、一般ピーポーにはわからないか。
仕方がない。
読者諸兄にだけはお伝えしよう。
そう、俺は……
匂いを嗅いでいたのだ。
いや、わかる。わかるよ。その反応。
だけど、俺の話を聞いてくれ。
俺は昔から鼻がよかった。
小学校のころは、みんなが朝食べたものを服についた匂いだけで当ててみせたり、友達がなくした香りつき消しゴムを見つけ出したりしていた。
俺は調子に乗って鼻を鍛えだした。
日ごろから、あえて鼻以外の五感を閉ざすことで、嗅覚をより鋭敏にする訓練を行った。
能力はさらに開花し、目隠しでも匂いだけで教室の中の状況をほとんど把握できるようになった。
中学になってからは、匂いでみんなの体調がわかるようになった。
女子の生理の日を当ててビンタされたこともある。
あまりにも半端じゃない能力だったので、みんなが俺のことをエスパーだと本気で信じた時期もあったほどだ。
こうなってくると、当然のこととして、俺は匂いフェチとなった。
思春期の俺の感性と異常嗅覚の能力が合わさって、性癖となってしまったのだ。
つまり必然として匂いフェチとなったわけだ。
ご理解いただけただろうか。
「やはり、和泉さんの匂いは格別だ……」
俺は悦に入りながら、自分の席に戻る。
和泉さんの甘い体臭……たまらないな。
おそらく、朝食はバタートースト、飲み物は水のほかに野菜ジュースを飲んだな。
汗の匂いがいつもより強い。
今日は朝から日差しが強かったのもあるが、おそらくは遅刻しないように走ったな。
ああ。様々な香りが混然一体となって素晴らしいメロディーを奏でている。
そう、それはまさにオーケストラさながらの表現力。
俺は指揮者のような身振りで匂いを堪能し、隅々まで味わった。
至福のひと時。
「オーケー。今日も最高の出来だ」
最後にカラヤンフィニッシュを決めて今朝の日課を済ませた。
読者諸兄、この俺に失望しただろうか。
健全な高校生を装ってとんでもないド変態野郎だったと蔑むだろうか。
だが待ってほしい。
俺のこの性癖は、誰のことも傷つけない優しい性癖なのだ。
和泉さんは匂いを嗅がれていることに気付いていない。
そもそも匂いなど誰しもが無料で垂れ流しているものだ。
俺がそれを嗅いで何が悪い?
え? 開き直ってる?
馬鹿言っちゃいけない。
俺の行為が罪だと言うのなら、毎朝電車の中で女子高生の近くにわざと立っているサラリーマンを全員逮捕しろ!
それでなきゃ、俺は納得しないからな!
つまり絶対に納得しない!
俺は自席へと戻り、余韻に浸る。
――――だが、こんな俺の最高の趣味を邪魔してくる奴がいる。
ほら、今日もだ。
このツンとした匂い。
後ろを振り向く。
俺は二つ後ろの席にいる女子を睨みつけた。
黒澤公子。
彼女はこのクラスで浮いている。
いわゆるボッチで、バサバサの黒い髪と馬鹿でかいメガネをかけている陰キャ女子だ。
「はあ。相変わらずすごい匂いだな」
黒澤さんからはかなりキツイ香水の匂いが漂ってくる。
鼻が曲がりそうだ。
これは俺の嗅覚が強いということもあるが、客観的に判断してもかなりの匂いだ。
周りの連中も「ちょっと香水の匂いキツイな」くらいは思っているはずだ。
最初は生理を誤魔化すためなのかとも思ったが、入学以来一か月ずっとこの匂いだから、普段からこの調子なのだろう。
和泉さんの匂いを心地よいオーケストラとするならば、黒澤さんの匂いはジャイ○ンのリサイタルだ。
匂うに堪えない。
「朝の気分、ぶち壊しだよ」
俺は深くため息をつき、机に突っ伏した。
◇ ◇ ◇
放課後。
帰宅部の俺は玄関へ向かう。
クラスの連中は「先輩の迎えに行かないと」とか「グラウンドに急ぐぞ」とか言って部活に行く。
みんな燃えてるねぇ。
俺にはそんな青春は要らない。
早く帰ってゲームでもやろう。
下駄箱を開ける。
すると、ヒラリと何かが落ちた。
なんだ?
拾い上げる。
それは小さな手紙のようだった。
俺の脳内に電撃が走る。
こ、これは……!
まさか……!
見紛うこともない。
それはラブレターだった。
ハートマークのシールが貼られた白い封筒。
「ふむ……古典的だな」
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!
まじかあああああああああああああああああ!
やったあああああああああああああああああ!
俺は冷静な態度のままラブレターを見つめていたが、頭の中ではパレードが始まっていた。
それも無理からぬこと。
我が人生開闢以来の大事件だ。
脳内では戦国武将が勝鬨を上げ、日本がワールドカップで優勝し、天使が祝福のラッパを吹いている。
「『本日、午後五時、教室で待ってます』、か」
こ、告白されるのか……!
全身が心臓になったかのように鼓動がうるさい。
ああ、神様!
今までカップルに対して憎悪の念を抱いていたことを悔い改めます。
これからは俺もそちら側の住人として生きていきます故、平にご容赦を!
◇ ◇ ◇
午後五時。
西日が眩しい教室に入る。
まだ誰も来ていない。
「ふう。呼び出しておいて待たせる気かよ。ったく」
ああああ。緊張するううううう。
死ぬううううううう。
俺は「マジメンドクセー」という気だるげな態度で、適当にその辺の机に腰掛ける。
だが、その胸中は嵐のように吹き荒れていた。
誰だ。
誰が俺に告白するんだ?
この教室を選んだってことはクラスの女子だよな。
目ぼしい相手は、飯田、田中、佐伯とかそのあたりだな。
顔もスタイルもいい。そしてなにより匂いがいい。
この三人が来たら絶対にOKしよう。
それ以外が来たらひとまず保留だ。
いや、保留ってのは失礼か?
上から目線っぽいかもしれん。
そうだな。その三人以外なら断ろう。
も、もちろん和泉さんだったら絶対にOKするが……。
それはさすがにご都合主義がすぎるよな。
しかし、夕方の教室を告白場所に選ぶとは、なかなかシチュエーションが凝ってるな。
西日が差すオレンジ色の教室なんてロマンチックじゃないか。
正直、ここで告白されたらなんでもOKしてしまうかもしれない。
場合によっては、ここで、キ、キスも……。
俺は誰もいない教室で手紙の主を待った。
髪型、変じゃないかな。手鏡を持っていればよかったな。
制服の胸元は開けておこう。ワイルドに見えるかもしれない。
ああ、緊張するなぁ。
「…………」
だが、待てど暮らせど相手は現れない。
「遅いな」
そのとき、ふと目にあるものが入った。
床に体育着が落ちているのだ。
「誰かが忘れて行ったのか」
紫色のハーフパンツが床に落ちている。
誰のだろう?
まあ、誰のだろうと関係ないが……。
そう思いながらも気になった。
なぜなら、そのハーフパンツが落ちている場所が和泉さんの席のすぐそばだったからだ。
まさか、あれは和泉さんの……?
そう思ったとき、悪い考えが頭をよぎった。
――――か、嗅いでみたい。
さすがの俺でもそこまで非道なことはやったことがない。
あくまでも匂いを嗅ぐのは自然な行為の延長でやってきたことだ。
ここで、自発的に服を拾い上げて匂いを嗅いだら、変態を通り越して犯罪者予備軍になってしまう。
……だが、これは千載一遇のチャンスなのではないか。
告白相手はまだこない。
今なら……。
俺は床に落ちたハーフパンツに近寄る。
そして、凝視しながらゆっくりと持ち上げた。
ま、間違いない。
これは和泉さんのハーフパンツだ。
これだけ顔から離していても、染みついた汗の匂いでわかる。
そういえば、今日は女子は体育でバレーをやっていたんだったな。
か、嗅ぐか……。
俺は持ち上げたハーフパンツをゆっくりと顔に近づける。
こ、これを顔に押し当てたい。
いや、待て!
誰か来るかもしれないぞ。
あたりを見回す。
誰もいない。
みんな部活に行くか、帰宅しているかのどっちかだ。
「はあ、はあ、……」
胸がドキドキする。
やってはいけないことに手を出そうとしている背徳感と、和泉さんのハーフパンツの匂いを嗅げるという興奮が同時に攻めてくる。
もうあと数十センチ持ち上げるだけで、直に匂いが嗅げる。
「……ッ」
い、いや、やはりダメだ。
こんなこと、してはいけない。
落ち着け。
俺は変態かもしれないが、悪人にはなりたくない。
ギリギリのところで理性がはたらいた。
「危なかった……」
そう言いながら、ハーフパンツを置こうとした。
そのとき。
ピロン。
「え?」
ピロン。ピロン。
音がしたほうを見る。
すると、教卓の裏から一人の少女が現れる。
その手にはスマホが握られており、画面をこちらに向けている。
「あ、あ、これは……」
と、撮られた!?
今の様子を!?
頭が真っ白になる。
なんだ。
なにが起きているんだ。
なんで、こいつがここにいる?
「これは、違うんだ。黒澤さん……」
そこにいたのは黒澤公子だった。
あのメガネをかけて髪の毛バサバサの陰キャ女子だ。
黒澤さんは普段は無口で無表情なのに、今は口を三日月のように曲げて笑っている。
ただ、笑っているというほど上品なものではなく、「にちゃり」と音がしそうな下品な笑顔だった。
ピロン。
またスマホでこちらを撮影してくる。
俺はハッとして和泉さんのハーフパンツを席に戻した。
「これ落ちてて、拾っただけで……!」
だが、黒澤さんは俺の言葉に耳を貸すことなく、そのまま教室を出て行った。
俺はただその場に立ち尽くした。
このとき、彼女のあとを追えばよかったと、のちに後悔することとなる。
ここで必死になっていれば、未来は変えられたかもしれないのに。
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