興味をひかれて
俺はその鹿を観察してみることにした。この世界で長く生きるためには、ここで生活する生き物から学ぶのが一番だと考えた。
双頭の鹿は、まだ若いようであった。耳をパタパタとレーダーのように回して、周辺の音をよく聞いている。食べているのは、街路樹であった木々の周りから出てきた細木の若葉である。
なぜ、頭が二つになってしまったという答えは、憶測の域をでないが、放射能によるものではないかと思われる。超高濃度の放射線はあの生き物を形成するためのDNAを破壊し、致命的な欠陥として双頭になったことが考えられる。
恐らくは、親の代からの異常である。しかし、年代としてはたった7年しかたっていないことから、あの鹿は、お母さんのお腹の中で、高い放射線にさらされたことによる奇形が考えられた。
この世界には人と言う生き物が姿を消して久しいらしく、鹿は、俺を恐れずにまだそこにいた。それどころか、こちらをじっと見つめて近づいてくる。
黒目がギョロッと動いて、足の先から頭のてっぺんまで見てくる。神々しさと言うよりは、どこか不気味さも持ったその生き物は、首が結合した不思議な体をゆらゆら揺らしてこちらに近づいてくる。
なんだか怖い。噛みつかれるのではないだろうか。近づくほどに、その鹿の放つ野生の臭いが鼻をついた。毛は剛毛で、見るからに触り心地は悪そうである。
やがて目の前までその鹿がきた。
大きい。
頭の高さが、自分の胸ほどもある。服の胸ポケットをしきりに鼻先で探るしぐさは可愛いげがあったが、テレビでかつて見た鹿よりもずっと巨大であり、俺は尻込みした。
やがてその見た目になれ、大きな体に手を伸ばすと、見た目通りゴワゴワとした毛皮の感触があった。
くすぐったいらしく、背中をブルブルと震わせて腰を引く。
食べるのは、やめにしよう。放射能を含んだ物質のなかには体内に蓄積し、排出されないものもあると聞くし、何より、こちらに興味をもって近づいてきた生き物を殺すと言うのはしのびなかった。
俺は二頭の鹿のそれぞれに名前をつけることにした。右の頭が『おはし』左の頭が『ちゃわん』である。右と左だ。こんな奇怪な生き物にまさか名前をと思われるかもしれないが、長い間一人だった俺には、生きているだけで素晴らしかったのである。
「おはしー」
名前で読んでみたが、反応を見せない。恐らくは、まだ名前だと認識していない。
この鹿の観察をして、餌を食べられる領域が首の届く範囲に限定されている事が分かったので、ナイフを抜いて、手を一杯に伸ばし木の高いところの枝をはらっておはしの鼻先に近づけると、ハミハミと食事を始める。ただ、左の頭のちゃわんも食べようとするので、結局どちらの名前を読んでいるのかはこいつらには分からないだろうなと思った。
二時間くらいはこうして遊んでいたと思ったが、太陽の位置がいっこうに動かない。そこから時間があまりにもゆっくりと流れていることに気がつく。正確には、仕事に追われていたあのときに出来上がった自分の体内時計が、異常を発し始めたのだろう。
自分の食べられる物も探してしまわなくてはいけないので、おはしとちゃわんに別れを告げて、かつての記憶に従い、商店街を目指すことにする。商店街ならば、缶詰やフリーズドライといった長期保存可能な食材があるはずである。
しかし、森を抜けた俺の眼下に広がったのは、緑に寄生された建物の数々だった。
かつて何トンもの車を乗せたアスファルトが、太い樹木の根に押し上げられて、大きくめくれあがり、ひび割れ、その隙間には小さな草がびっちりと生え広がっている。
窓ガラスが割れた建物には、我が物顔で狸が入り込み、ソファーやカーペットの上に巣を作っている。
自由だなぁと思った。