鹿でした
肉を食いたい。
良く熱した分厚い鉄板の上で、真っ白な脂肪が音を立てて溶け、甘い匂いをさせる。その上に封を切ったばかりの焼肉のタレを零れ落ちんほどにぶっかけて、腹に収めたい。吐くほど食べたい。腹がはち切れるんじゃないかと思うほどに食べたい。そこにちょっとお酒もあれば、これ以上の幸福も無いだろう。しかし新鮮な肉は今、閑古鳥の鳴いている食料品店で手に入れるのは難しく、どうにかして生き物を捕まえて肉にしないといけないのだ。
とりあえず、刺せば死ぬだろうと、ギラリと刃の光るナイフを手に、野原へと足を進めた。世が世ならば、警察官を呼ばれて即刻逮捕となる見た目である。フハハハ!!文明崩壊万歳!!
家にはハクビシンがいたのだけれど、なんだか見た目が可愛いので食べようと言う気にはなれなかった。あれは畜生というよりは犬猫に近い可愛らしさがあって、あれを殺すというのは、どうにも良心の呵責が許さないのだった。もしかしたらペットとして飼うのもいいかもしれない。数億、あるいは数十億の人間を殺してしまった男の狂言だと笑ってほしいが、あの場合は多くの人が悪者だったのだ。特に自分の上司と虐めてきたやつが苦しんで死んでくれたのではないかと想像するだけで、ゆっくりと足が沈み込む様な厚い腐葉土の地面を歩く自分はスキップまで始めてしまう。それに対して動物たちは、同族に対する罪は少ないのではないだろうか。そう思うのだ。
野原の中には、赤さびの浮いた滑り台があった。どうやらここは公園だったらしい。ずいぶんと仕事ばかりをしていたために、家の近くに公園があったこと自体は知っていたが自ら足を運んだのはこれが初めてである。小さい頃実家で見た青々とした稲にそっくりな草があたり一面に生え、滑り台の梯子を半ば覆い隠してしまうほどに生い茂っている。自宅の庭だけではなかった。ここにも自然が生きている。
そっと近づいて梯子に手を伸ばすと、鉄の手すりがボロボロと手の中で崩れてしまった。鉄がさび付いて風化している。
そんな中、なんだか視線を感じるのである。自分だけしかいないこの環境にも関わらず。
かつて公園を囲うように建設された住宅地には、誰もいないように思えた。そのほとんどが火事にあったように丸焦げになっており、家の柱の何本かが残るのみである。あの中に誰かが生きているのだろうか。あるいは、自分のように地下で7年もの間息をひそめて生き永らえたのかもしれない。ここは公園であり、人の寄り付く場所としては完璧に思えた。勿論、これだけ草が伸び放題になっていなければの話だが。
視線の正体が、ㇲッと首を上げた。それは鹿でした。
20mほどに二頭見えるそれらは、若葉を食んでいる。その真っ黒な瞳は、まるで黒曜石のようにつややかで、大きく、若葉を食べながらも、俺への警戒を怠らないのが見受けられた。しかしここは住宅地である。随分変な話だが、かつての住人である人が消えた代わりに、動物たちがそのねぐらに選んだらしい。
「おーい。早く逃げろー。食べちゃうぞ」
むくっと顔を上げた二頭は、不思議そうに俺を見た。二頭はびっくりする瞬間も全く同じで、まるで映像を二重に投影しているようなそんな違和感を覚える。
その違和感を理解するために鹿の首から下へと視線をずらす。
あれ?
一つしかない。
二頭いるはずなのに、その鹿たちには胴体が一つしかなかった。