呼吸
お釜の蓋のような分厚い蓋を開けると、目を開けていられないような強い光が顔にかぶさって来た。
瞼を閉じてもなお、明るいそれはお天道様の光。
防護服越しにも僕の肌をゆっくりと温めて、体中の毛という毛が一斉に逆立ち、鳥肌が上腕に浮かぶのを感じる。カタカタと震える音に目をそっと開くと、震えていたのは自分の手であった。
温かい。記憶の中を良く探せば、この感情は確かに存在した。まだ小さいころ、冬の良く冷えた日に銭湯の熱い湯に体を沈めるようなこの間隔。耳の奥がジーンと熱くなって頬に熱がこもる。長らく風呂に入っていないせいで重油を被ったように脂っこくなった頭皮を汗が一滴流れるのを感じる。
ザーッと木々の間を風が駆け抜ける。きっと炭のフィルターが無ければ、青臭い新芽と花の香りが鼻をくすぐったに違いない。
一歩足を踏み出せば、ガサガサと僕の腰の背丈ほどもある大きな草が音を立てる。巨大な草がシェルターの周りを覆っていた。ここは元々我が家の庭である。猫の額ほどの広さではあったが、確かにここにあったはず。
その我が家の名残は、半壊した出来の悪い夏休みの工作の様に、そこに鎮座していた。半壊。もうここは家というよりは廃墟だった。
まるで巨大なスプーンで削り取られたかのように見事に破損した外壁からは、クリーム色の保温材がむき出しとなり、モルタルとシナ合板の間には、カマキリの卵が巻き付いていた。
そっと縁側からリビングに入ると、ミシリと床材が鳴いて、足が沈み込む。
そいてここにはもう、先客がいた。
狸。いや、ハクビシンか。
一頭の親が自らと同じ灰色がかった毛皮の子供の首をちょいと持ち上げて、歩いている所に出くわした。じっと動かずに僕を見ている。その大きな黒目はどこか怒りも悲しみもなく、ただ淡々とこの世界に順応し、生き残ることだけを考えているように見えた。
「やあ、こんにちは」
声に驚いたのだろう。リビングから派手な音を立てて親子は消えた。床には大量の足跡と糞や抜け毛が散乱していて、どうやらここをねぐらにしているらしい。
家の中を見渡すと、天井には真っ黒な染みができて大きな穴が開いているのを見つけた。その下に行き、天井を見上げるとそこから青い空が見えた。まるで空から隕石でも落ちてきたような穴だった。長らく僕がいない間に外の世界は様変わりしたようである。
振り返って縁側から庭を見ると、まるでサバンナの様に風が美しく草の葉を揺らして、それはまるで緑色の波。そこに一点欠落があるのは、自分が這い出て来たあなぐらだった。
自分が恐れていた外の世界は随分と正常で、純粋で。自分がこれだけの重装備でここに立っているのがアホらしくなった。
僕はそっと防毒面を顎から聞き上げるように頭の上まで跳ね上げて、ぽけた床に胡坐をかく。
ス―――――。
久しぶりの空気は、勝利の匂いがした。