呂宋の壺
濃茶のような彩をもつ大壺が智浩の部屋に転がり込んできた。父の遺品である。骨董品を蒐集するのが趣味の一つだった。オリーブの実のような艶やかな釉薬を垂らしたこの壺を、父は特に愛していた。
「これが呂宋の壺や」
そう言って、ざらざらとした大壺をしきりに撫でさすりながら、眼を細め、頬を緩めてにやにやと月桂冠のコップ酒をちびりちびりと飲む。そんな父の姿を智浩は幾度も見ていた。
「贋作ですね。これ」
父の遺品の整理に呼んだ男が、淡々とそう言った。母が電話帳で選んだ業者である。二束三文の値をつけられたのが、智浩には酷く悔しくなり、溜まらず引き取ると叫んでいた。
「セカンドオピニオンや。骨董品の処分は、ヨソの業者にも鑑てもらいます」
「足元みられて、買いたたかれるだけや」
「オタクよりも、マシや」
母は涙をためてそう訴えて、整理業者の男には引き下がってもらった。
「こんなガラクタに、いくら注ぎ込んだんや。いくら損したんや、あのアホは!」
母はそう叫んで、また泣いていた。
地元の銀行で部長職として働き続けている父は、平素、寡黙であった。巌のように硬い顔つきで食事をとり、新聞を眺め、本を読む。そんな姿ばかりだった。
「若いオネエチャンの尻よりも、こっちの方がエエ。触り心地が堪らんのや」
しかし時として、にやにやしながら、子供だった智浩を前にして、そういうことを言っていた。
「母ちゃんの尻は?」「いや、アレはもう、カサカサや」と酔っているときは躊躇なく、気分よく、何でも喋っていた。智浩はしばしばそんな父の側に寄って、話に付き合っていた。
鑑定のTV番組を見ていると、10万と信じていた陶器が、鑑定士の評価一つで、1万円にも、100万円にも化けた。智浩は狭い部屋の踏み場を喰う、呂宋の壺を観た。桃山時代にフィリピンから輸入されて、茶人たちに愛好された。しかしその実は、呂宋島の生活用の雑器の一つにしか過ぎない物であったとの記述がされていた。
――路傍に転がる石のように呂宋島には在った。
智浩は眉間に皺を寄せて、大壺を見つめる。何かの答えが返ってくる筈もない。
「博奕の際に羊を盗られても、読書の際に羊を盗られても、どっちがどうということはない。羊が取られたという現実は覆られないって話が、荘子か韓非子にあったろう。それと同じや」
棚にしまわれていた紙袋に骨董商の屋号が記されていた。智浩はそれを頼りにして、店を見つけ出して、足を向けた。しかし作務衣を着た骨董商の男は智浩が問いただしても、煙を巻くような語を並べるばかりであった。
「武夫さんはね、大枚を叩いて、この呂宋の壺を買うた。死ぬ間際まで、晩酌の肴として楽しんだ。そしたら、損得の話はナシの花や」
智浩は店主の男の言葉には眉根の皺を深くして、首を傾げるしかできなかった。
得心できぬままに踵を返すのも嫌だった。じっと、糸のように細い男の眼を見つめた。
そして、骨董商は一つため息を吐いた。「納得いかんか」ぽつりとそう呟いてから、バシンと自身の腿を叩いた。
「クレジットって言葉、知っとるか?」
「クレジットカードの、ですか?」
意表を突かれて、智浩は目を丸くしながら答えた。「そうや」と骨董商は深く肯じた。
「信用って意味や。取引の。殊に骨董なんてのは、最終的にコレが勝負や」
「は、はあ」と間の抜けた生返事が出た。
「もう今、アレは呂宋の壺と違うて、呂宋織部で江戸後期のモノや。君の父親は20万で買うたが、200万でワシが引き取ろう。といって、君は納得するか?」
「それは――」「できないやろ。そもそも20万でも200万でも根拠がない」「なら、20万でも――」「骨董屋が骨董を売価で買うか。仕入値と売価は違うぞ」ぴしゃりと言い放つ。
「信用。私と武夫さんの間で信用があったとはよう言わん。武夫さんと壺の間に信用があったんや。後の問題は、君と武夫さんの間や」
刺すような眼差しで返された。知らぬ間に身を引かせていた。骨董商の言葉に対して二の句が出てこなかった。そして、智浩は店を後にした。
部屋に帰り、父の愛した大壺の前に座る。徐に手を伸ばしてみた。真砂のようなざらつきが掌を擽る。撫でてみると、するりと滑らかに抜けていった。
智浩はフンと鼻で一つ息を吐いた。そして、もう一度、また一度と、呂宋の壺を撫で摩った。