7.意趣返しの算段
落ち着かぬ心を胸に抱いたままアルの屋敷から家へと帰ると、私は早足で自室に戻り、棚から質の良い紙を何枚か取り出してテーブルの上へ並べた。
色取り取りの飾り紙の中から、縁が銀色の複雑な紋様で飾られた限りなく白に近い紙を手に取る。少し前に我が家を来訪した行商人が置いていったそれは、シレン様の御髪の色に似た神秘的な雰囲気を醸し出している。
その紙へ、紺色のインクで文を認めた。
もちろん宛名はシレン様。
アルの家へ同行してくださったお礼と、先にお一人で帰らせてしまったお詫びを遠回しに書き綴る。
本当は、シレン様に尋ねたい。
『シレン様も奴隷を良く思っていないのですか?』
と。
けれどそれを訊く勇気が無い。シレン様ならば、王家の方ならば、きっと無駄な諍いを避けるために当たり障りのない返答をなさるだろうから。そんな常套句を聞きたいわけではないから。
私は手紙には一切、奴隷について触れなかった。
書き終わり封を閉じていると、コンコン、と扉の向こうから音がした。
「どうぞ」
「失礼いたします」
私付きの侍女の一人が深々と頭を下げる。
「マルク様がいらっしゃっております。お嬢様にお会いしたいとの事でございます」
「お兄様が!?」
「はい。急ですがご夕食をご一緒にとのお話です」
私の兄マルクは、何を隠そう王家の人。次代の女王様であらせられる王位継承権第一位の方とご結婚なさったため、つまり婿入りしたため王家の一人となった。
私と十一も歳の離れた兄は物心つく前から私を可愛がってくれていたけれど、お婿に行ってからは滅多に実家に帰って来てくれなかった。それもそうだろう、成人してすぐに結婚した兄には大変な事が山のようにあるはず。
そうと頭で分かっていても、構ってくれなくなった兄に、私は少しばかり拗ねていた。7歳の私はまだまだ子供だった。
「……そう。たしかお父様とお母様は夕方から留守よね?」
「はい、出掛けていらっしゃいます」
つまり兄と二人きりの晩餐。
未だ拗ねている私は返答を渋った。
すると、侍女の後ろの扉が音も無く開かれた。
「アヴィ! 会いたかったよ!」
現れたのは、私と同じ髪色の背の高い男性。
「……淑女の部屋に無断で入るなんて……」
「固い事言うなよアヴィ、兄妹じゃないか」
「兄妹でも節度というものがございます。それにお兄様は今や王家の方。一介の国民であるわたくしとは適度な距離を保ったほうが良いかと存じます」
「アヴィは早熟だね。もっと子供らしくしていいんだよ?」
「今しておりますわ」
フンッと大袈裟にそっぽを向いて見せれば、兄は愉しげに笑った。釣られて私も、張っていた肩肘から力を抜いた。
「可愛いアヴィ、久しぶり。元気だった?」
「はい、お兄様。お兄様も息災でいらっしゃるみたいで」
「うん、私はね。でもアヴィ、君は違うだろう?」
兄の言葉に、私は息を飲んだ。
「……何の事でしょうか?」
「聞いてるよ。大変だったね」
頭の上にそっと手を置かれ、静かに撫でられた。その重みと優しい声音に、自然と潤んだ涙腺から雫が一つ二つと溢れ落ちる。
兄は、全部知っているのだろう。
私の婚約者が奴隷なんかを買った事を。
私の中に渦巻く不安と焦りを。
そして私の中に蔓延る醜い感情を。
ぽつりぽつりと垂れる涙が頬を濡らすと、兄は柔らかなハンカチで丁寧に拭ってくれた。
「──アヴィ、一つ提案があるんだ」
「……提案、ですか?」
「そう。アヴィも買えば良いんだ」
「え?」
「アヴィも、奴隷を買えば良い。そうすればお互い様になるだろう?」
私と似た顔立ちの兄が、包み込むような笑みを浮かべて言う。
「アヴィ、奴隷を買うんだ。やられたらやり返さなきゃ。このままじゃアヴィは……」
「……わたくしは、どうなるのですか?」
「このままだと国で一番憐れな令嬢になる。それは嫌だろう?」
国で一番憐れな令嬢。
この私が、憐れ?
この私が、同情される存在になるというの?
いいえ、もうなっているのだろう。
婚約者が結婚も待たずに奴隷を買って来るなんて前代未聞。
しかもたった7歳で奴隷を買うなんて。
私がいるのに。
私というものがありながら。
これを、他人が見たらどう思う?
私の事を憐れに思うだろう。
私の事を惨めに思うだろう。
この私を、可哀想な娘だと同情するだろう。
……許せない。
私が一体何をしたというの?
なぜ私がこんな目に遭わなければならないの?
許せない。許してなんかやらない。
……けれど、誰を許さないのだろう?
奴隷を買ってきたアルを?
それともあの可愛らしい奴隷を?
私は、彼らに何かをやり返したいの?
「アヴィは優しいな。顔に泥を塗られたのに、何もしないつもりかい?」
「……アルは、奴隷の未来を、いえ国の未来を見据えて行動したまでですわ」
「へぇ? 国のために?」
「はい。奴隷に人権を与える事で、ひいては国の発展になると考えているのです」
「仮にそうだとしても、だからと言って奴隷を買う理由にならない。婚前に、婚約者のアヴィに無断で、異性の奴隷を買った言い訳にはならないよ」
冷たく言い放った兄の言葉を、私はすぐには理解できなかった。
兄は何を言いたいのだろう?
アルは奴隷の将来を思い、国の将来を思って行動した。それだけの事。それだけの事のはずなのに、どうしてこんなにも私は辛いの……?
「今すぐじゃなくても良い。気が向いたらでも良いから、アヴィも奴隷を買うんだ。それがアヴィの為になる」
胸の奥に居座る焦燥に怒りが加わり、私の胸中は複雑に入り乱れて大混乱を起こしていた。
だから、よく考えもせずにこの時は曖昧に返事をした。
私はいつも、問題が目の前に現れると驚くばかりで咄嗟に何もできないでいる。
この時も、あの時も、これからも……。