6.エメラルドの瞳
「ほら、名を呼んでみなさい」
「……あ、アル、さま」
「ああ、そうだ。ではあちらは?」
「し、シレン、さま」
「そうだ。ではその隣は?」
「………………」
何度目だろう、このやり取りをしたのは。
アルの家へやって来てから、この繰り返し。
アルの奴隷を紹介された帰り、シレン様が馬車を降りる際「今度アルの家に行く時は一緒に行くよ」と言うお言葉に甘えさせて貰い、シレン様と共に再びアルの家を訪れたのはあの日から3日後だった。
正直、一人で来るのは怖かった。アルに会えない間、あの可愛らしい少女が常にアルの傍らにいるのかと想像しては怯えていた。想像は別の恐怖を生み、恐怖は別の想像を生んでいき。あの少女がアルと二人でいるところを実際に見るのが怖くなっていた。
けれど同じくらい、あの二人が二人きりでいる事が嫌だった。私が会いに行かない間、アルとあの少女が二人きりの空間で寄り添っているかと想像するだけで気がおかしくなりそうだった。
だからこうしてシレン様を巻き沿いに、アルの家へやって来た。
「アヴィ、大丈夫?」
「え、ええ。問題ありませんわ……」
「顔色が悪く見えるよ。日を改める?」
「いえ、忙しいシレン様にこれ以上お時間をいただくわけには……」
本当は、今すぐ帰りたい。あの可愛らしい少女を、もう見たくない。
けれど今日を逃したら、次にいつシレン様が同行してくださるか分からない。シレン様はとてもお忙しい。王位継承権第2位として、次代の王を支える存在になるため毎日勉学に励む傍ら、王家としての職務もなさっている。私なんかじゃ比べ物にならないほど、本当はすごくすごくお忙しい。
それなのに、忙しい時間を割いて一緒に来てくれた。その事に、胸がじんわり熱くなる。シレン様のお陰で、震える脚をどうにかアルの屋敷へと進める事ができた。
だからこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
私は心の中で己を鼓舞した。
「ご心配には及びませんわ、シレン様。本日はいつもの習慣の一環としてアルに会いに来たまでです。例の奴隷を見に来たわけではありませんもの」
「ふ〜ん? そんなに奴隷が気になるんだ?」
「え……い、いいえ。気になりませんわ全く。関係ありませんもの」
「そう? じゃあそろそろ入ろうか。いつまでも屋敷の前にいるわけにはいかないからね」
常と変わらぬ笑顔のシレン様が差し出してくださった手に、己の震える手を乗せた。
恐れる事なんて何一つもない。そもそも私が奴隷を怖がるなんてどうかしている。
奴隷は所詮、娯楽品。子供のアルにとっては鑑賞用でしかないはず。少し見目の良い人形を買って来ただけの事。大事にするほうがおかしいわ。
理性ではそう理解しているのに、本能がどうしようもなく私の全身を震わせた。
「シレン、アヴィ、よく来てくれた。早速だが、見て欲しいものがあるんだ」
広々としたウィリディス家の応接室。シックな色合いで統一された落ち着いた部屋に通され、私はアルに促されるままシレン様の隣へ腰を下ろした。
3人でテーブルを囲む時、私はほとんどの場合いつもアルの隣に座っていた。アルの横顔を一番近くで見ていたのは私だった。
けれど私は今、シレン様の隣にいる。そういえばこの前もそうだった。3日前、あの奴隷を紹介された日も、アルにエスコートされて座った席は、アルの隣ではなくシレン様の隣だった。
私は妙な胸騒ぎを覚えた。
「なんだか楽しそうだね、アル。君がそんなに愉快な性格だとは知らなかったよ」
見るからに地に足がつかない様子のアルに向かって、シレン様は呆れたようにおっしゃった。
「なに、お前達に見せたくて昨日から気が気じゃなくてな」
「そんなに自慢したいのかい?」
「成果を早く見て欲しいんだ。では呼ぶぞ。リスィ!」
心の準備をする暇すらなく、アルは奴隷を呼んだ。
扉の向こうから、可憐な美少女が顔を出す。
ふんわりと微笑む少女を視界に入れた瞬間、私の心は凍り付いた。
少女は、エメラルドグリーンの鮮やかなドレスを着ていたのだ。まるでアルの瞳のような綺麗な緑の布地。細やかな白のレース。胸の下で緩く結ばれた大きめのリボン。そのどれも恐ろしく彼女に似合っていた。
私は睨むようにまじまじとドレスを見た。彼女のドレスの色に、そのエメラルドグリーンに見覚えがあった。それはアルと初めて出会ったお茶会で着たドレスの色と、寸分違わぬ色合いだった。
恐怖と嫌悪から逃れるようにアルへと視線を移すも、アルの視線は少女へと向いていて、アルがどんな真意で彼女にそのドレスを贈ったのかを知ることはできない。
なんで……同じ色を……。
「リスィ。昨日覚えた通りに、挨拶を」
愛くるしい小さな少女はおずおずとお辞儀をした。
「は……はじめ、まして……リスィ、です」
舌足らずの、鼻を抜けたような高く甘い声が小さく聞こえた。隣でアルがうんうんと頷く。
言い終えると、少女はアルが座る長ソファに歩み寄り、そこがさも指定席でもあるかのようにアルの隣に腰を下ろした。
それだけではなく、あろう事かアルの腕に自らの腕を絡ませて甘えるように寄り掛かった。
なんなのこの奴隷は……。
「……アル……その子……」
「まだ躾がなっていないみたいだね、その奴隷」
私が怒りに任せて何かを発する前に、シレン様がアルへおっしゃった。
『躾』と。
笑顔のままのシレン様は、穏やかな声でもう一度おっしゃった。
「奴隷の躾は主人の最優先事項だよ。言葉よりも先に覚えさせなきゃ」
すると少女はアルから離れると、今度はシレン様の横へ行き、あろう事かシレン様の腕に腕を絡ませた。ニッコリと笑顔を浮かべて。
「リスィ! すまない、まだ意思の疎通ができてないんだ」
「だろうね。悪いけど、離してくれるかな? リスィ」
呼ばれた少女は何を勘違いしたのか、ますますシレン様に擦り寄った。腕を愛しげに抱き締めて、頬を擦り付けている。
なんて不敬! なんと恥知らず!
私は余りの事に動けずにいると、見兼ねたアルが席を立ち少女の腕を掴んで引き寄せ、元の長ソファに座らせた。アルの隣に。またアルと腕を絡ませて。
「これが見せたかった成果かい?」
「いや、すまない。こうまで通じないとは……」
「……ふ、二人きりの時は違うのですか?」
私は意を決して声を出した。訊かずにはいられなかった。こんな風に四六時中くっつき合っているのかと、訊かずにはいられなかった。
さっきからずっと胸が騒ついてどうしようもない。
「ああ、身振り手振りで意思疎通が大体できる。もちろん言葉はまだしっかり話せないようだが、俺が教えた単語を少しずつ覚えている」
聞きたいのはそういう事じゃない。
そう言いたいのに、なぜか声に出せなかった。根掘り葉掘り問い詰めたら、私が奴隷を気にしているのだとアルに気付かれてしまいそうで。アルに狭量な女だと思われたくなくて、黙り込む事しかできなかった。
その間も、アルの腕は少女と絡まっていた。ずっと二人はくっ付いていたままで。見たくないのに、目の前にいるから見てしまう。
「リスィ、俺を呼んでみろ。俺の名は?」
アルが空いている手で自分自身を指差して見せると、少女は笑みを深めて答えた。
「アル……さま!」
「そうだ。じゃああちらは?」
今度はシレン様を指差す。
王家の者を指し示すなど通常なら不敬に当たるが、アルとシレン様の仲なのでお咎めはない。
少女は小首を傾げてから、わざとらしく手を叩き笑った。
「……し、れん、さま!」
「そうだ。では、その隣は?」
「………………」
最後に、アルは私を指差した。それに釣られて少女の視線が私へと向けられる。交わる目と目。少女の深く濃いピンクの瞳が私へと注がれる。
少女は小首を傾げて、それから首を横に振った。
「俺の名は?」
「アル、さま!」
「あちらは?」
「し、れん、さま!」
「隣は?」
「………………」
何度も何度も繰り返される問いと、幼い返答。
なぜか私のところで黙る少女。
アルは懲りずに少女へ教え込む。
「リスィ、昨日は覚えていただろう? 俺の婚約者、アヴィだ。アヴィ。言ってみろ」
「あ、び?」
「アヴィだ」
「うーん……アル!」
「違う、アヴィ。アヴィだ」
「アル! アル! アル!」
少女ははしたなくもソファの上で座ったまま跳ねてみせた。その笑顔から楽しんでいる事が想像できる。
「リスィ、静かにしろ、リスィ!」
アルが諌めても、名を呼ばれた少女は嬉しげに何度もアルの名を呼ぶ。
こんなに騒がしいものを見た事がない私は、それを呆然と見ている事しかできない。
「……アル、とりあえず奴隷を下げて貰ってもいいかな?」
「あ、ああ、すまない。リスィ、部屋へ戻れ」
呆気に取られる私の代わりにシレン様が促すと、アルは少女へ手を払う素振りをした。3日前と同じように、犬猫へするように。いえ、虫を払うように。
少女はアルの仕草に一度頬を膨らませるも、渋々立ち上がって扉までゆっくりと、実にゆっくりとした足取りで下がった。
「アル、さま! まってる!」
「ああ、後で行くから」
「アル、さま! まってる!」
「分かったから、早く行け」
「アル、さま! また、ね!」
三度叫んでから、ようやく少女は扉の向こう側へと消えた。
ようやく耳障りな存在がいなくなり、静かになった室内で私はホッと胸を撫で下ろした。
「アル、人様の趣味にとやかく言いたくはないけど、あれは良くないよ。人に見せられるものじゃない。人前に出すのは当分止したほうがいい。アルだけじゃなく、ウィリディス家の名も傷つく」
シレン様らしくない冷たい物言いに、私は弾かれたように隣を見た。
シレン様は笑っていなかった。真っ直ぐと真摯な顔でアルを見ていた。
「すまない……もう少し聡明で大人しいと思っていたんだ」
「聡明? あれでかい?」
「ああ、教えた事はすぐに覚えて……だから、二人にも早く見せたくて……」
「気持ちは分からないでもないよ、芸を教えたら披露させたいものだからね」
「芸……」
シレン様の皮肉めいた言葉に、アルの顔が強張った。
「シレン、彼女は見世物じゃない」
「知ってるさ。奴隷だろう? 君の」
「ああ、そうだ。けれど彼女は……」
「そろそろ本音で話そうよ。本当は奴隷の未来なんてどうでもいいんだろう?」
シレン様は笑顔のまま溜め息を吐かれた。お茶を飲む動作も、わざと疲労感を露わにしていて、それが彼らしくなくて、私は違和感を覚える。
シレン様も、私のように奴隷に抵抗があるのかしら……?
「俺の奴隷がした無礼は謝ろう。だが、奴隷に人としての権利を……」
「本当に、そんな事思っているのかい?」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味だよ」
ピリッと、空気が凍った。
こんな二人、見た事がない。いつも冗談は言い合うけれど、口論なんて一度もした事がなかった。それなのに。
シレン様はお茶を飲み終えると、席を立って私を見下ろした。
「今日のところはお暇しようかな。アヴィ、君はどうする?」
「え、ええ……」
未だに現実味ない一連の出来事に頭が処理し切れず、曖昧な返事をしながらぼんやりと立ち上がると、片手を何かに引っ張られた。
アルに、手を引かれていた。
「……っ!」
「……アヴィ、話がある。時間をくれないか?」
先程まで少女が抱き締めていた腕と同じ手で、私の手を掴むアル。
私は一瞬その手が悍ましいもののように見えて、声にならない悲鳴を上げた。けれど頭の隅に立っている冷静な理性が、咄嗟に退きそうになる体をなんとか抑えつけた。
「外で待っていようか?」
扉の前で振り返ったシレン様が優しく声を掛けてくださった。
もうこれ以上、シレン様にお時間をいただいてはいけない。お手を煩わせるわけにはいかない。
「いえ、一人で帰れますわ。本日はありがとうございます」
「そう? じゃあまたね、アヴィ」
気さくに手を振るシレン様へ、私は深々と頭を下げた。
「それで、お話というのは……」
掴まれたままの手が熱い。アルの手の平から熱が伝わって全身に巡るような感覚に陥る。それと同時に、アルの腕の表面からじわじわと目には見えない病のような何かが繋いだ手を伝わって私を侵食していくような感覚に襲われた。奴隷が触ったところから、見えない何かが這ってくるような恐怖があった。
「彼女のこと……申し訳なかった。昨日はちゃんと呼べていたんだ」
そんな事はどうでもいい。それよりも、看過できない事が山ほどある。あるのに、私はそれを口にできない。
「今度アヴィが来る時までには、必ず覚えさせておく。待っていてくれ」
「アル……わたくしは……」
「シレンにも叱られてしまったしな、しっかり躾ておく。もう迷惑は掛けない」
「迷惑など……」
迷惑とか迷惑じゃないとか、そういう問題じゃない。ただただ、不快なのだ。彼女がアルと一緒にいる事が、この上なく不快なのだ。
けれどもやっぱり私はそれをアルに伝えられなかった。繋いだ手も振り解けなかった。
この時ちゃんと伝えられていたら、手を離していたら、何かが変わっていただろうか……。