5.奴隷の少女
「な、な、なななななな……」
私は我が目を疑った。疑うしかなかった。
だってそこには、美少女が立っていたのだ。
奴隷などという卑しい身分には決して見えぬ、輝かしいまでの美少女。
これが、奴隷?
私と同じ上質なドレスを纏った彼女は、ただの可愛らしい少女だった。
揺れるふわふわの桃色の髪、濃いピンク色の大きな瞳、濡れた唇、華奢な体、真っ白な肌。
そのどれもが、私が知る全ての人間の中で一番可憐で愛らしい見た目だった。
全てにおいて、私よりも可愛らしかった。
ふと、隣に座っているシレン様が目に入った。
彼も目を奪われていた、目の前の少女に。
無理もない。私が男ならばその愛らしさから醸し出される近い未来の美貌を想い、その美しさに飲み込まれて酔ってしまった事だろう。彼女にはそんな蠱惑的な魅力があった。
いえ男じゃなくとも、女であっても彼女の魅力に取り込まれただろう。
彼女がアルの奴隷でなけさえあれば、私もきっと彼女の愛らしさの虜になっていただろう。
けれど、彼女はアルの奴隷。
つまり、私の敵。
いえ、いいえ違うわ。彼女はただの奴隷、ただの奴隷よ。
私のライバル? 冗談じゃない。奴隷である彼女が私と対等な敵であるわけがないじゃない。
そう! 彼女はただの奴隷。私の敵なんかじゃ、ライバルなんかになれもしないわ!
私は心の中で必死に自分へ言い聞かせて、表面上は冷静を装った。装おうと努力した。
両手も唇もワナワナと震え上がり、眼差しは射殺さんばかりに鋭くなってしまっていたかもしれないけれど、私は努めて平静を取り繕ったのだ。
「……あら、思ったより見た目は悪くありませんのね。奴隷というからどんな珍妙な姿なのと思ってしまいましたわ」
「言っただろう、彼らは同じ人間だと。俺達と何も変わらない」
アルが奴隷を手招きした。
覚束なく歩く姿も花のように可憐。
私は冷たい目でそれを見ていた。
「すまない、本来なら挨拶をさせるべきなんだが……」
座るアルの隣に立つも、一言も発しない奴隷を睨むこと数秒後、婚約者が申し訳なさそうな顔をした。
「何かあるのかい?」
「ああ、それが……」
「言葉が話せないのではないかしら?」
「そうなんだ。アヴィ、よく分かったな」
本来我が国のマナーでは、目下の者から挨拶するのが一般的だ。もちろん奴隷であれば尚更、促されたら挨拶と共に名乗らなければならない。
それが無いということは、できないということだろう。
「もう下がっていい。下がれ」
言葉だけでは通じないようで、アルが少女へ手で払う仕草をした。
それを見て、ようやく私の心が落ち着いた。犬猫相手にするような素振りを彼女にしているのを見て、私はやっと溜飲が下がったのだ。
そう、彼女はただの奴隷。私は何を気にしているというの。
「それでお前達に折り入って相談なのだが……」
神妙な面持ちのアルに釣られて、私は固唾を飲んだ。
今度は何を言うつもりなの?
「……名前、に困っていてな」
「名前?」
「ああ、呼ぶのに困ってな。変な名はつけられないし、だからと言って女性らしい名というものと縁が無くて思いつかないんだ」
なんだ、相談ってさっきの娘の呼び名か。
奴隷を買った以上の巨大な爆弾が降ってくるのではないかと思って身構えていたので、私は拍子抜けした。
正直、奴隷の名前なんて心の底からどうでもいい。
「『セルウス』なんてどうかしら? 古い言葉で『奴隷』って意味のはずよ」
それとも『肥溜め』って意味の単語のほうがいいかしら?
「そんな意地悪を言うな。名は体を表すという、彼女に相応しい名を授けたい」
私の軽口を、アルは意外なほど真剣な面持ちで窘めた。その顔が余りにも険しくて、私は慌てて居住まいを正す。
そんな顔を向けたこと、今まであったかしら。私がいつも軽口を叩いていても、軽く流していたでしょう?
「そうそう、同じ『奴隷』って意味なら『ラブ』のほうが可愛いんじゃないかな?」
「シレンもやめろ」
私の焦りを感じてか、シレン様が助け舟を出してくれたが、沖合に出る前にアルのひと睨みで船は早々に沈まされた。
「冗談だって。アルこそ、そんな顔ばかりでは良い考えも浮かばないよ。そうだね……彼女の人となりに合った名はどうだろう?」
「人となりか……」
「数日でも一緒に過ごしたんだろ? どんな子だった?」
「一昨日来たばかりだから何とも言えないが……」
アルは顎に手を添え考え込み出した。
「第一印象とかはどうだい?」
「う〜む……」
「そんなに悩む事かなぁ」
「シレンは他人事だからそう言うんだ」
「ああ他人事さ。アヴィにとってもね」
二人の会話を適当に聞き流していたところにいきなり名を挙げられ、油断していた私は咄嗟に口走ってしまった。
「わ、わたくしにとって、アルの憂いは他人事じゃないわ!」
「へぇ、じゃあアヴィは良い案が思いついたのかい?」
「そ、それは……」
「それは?」
シレン様の愉しげに細められた目元が憎らしい。私が奴隷に興味が無いのを分かっていて問い詰めている。
どうしよう……奴隷なんか関わりたくもないのに……。
狼狽して顔を逸らす私を他所に、アルは思い出したかのようにポツリと呟いた。
「そういえば、彼女は記憶がないようだ」
「記憶が?」
「ああ、何を話しかけても反応が乏しい。異国の生まれのようだから何ヶ国語か試したが、どれもピンとこなくてな」
「へぇ、それはまた面倒だね」
シレン様は笑顔でざっくり言い捨てた。
本当に、シレン様はアルに対して言いたい事をハッキリ言う方だ。
「語学も含め、これから覚えさせれば良い事だ。むしろどれくらいの期間で物を覚えるかの指標になるだろう」
「ああ、たしかにそうだね」
まるで奴隷を実験動物のように話しているように聞こえるのは、私が捻くれているからかしら……?
私としては、あの少女をアルが動物と同等に思っていてくれるほうがありがたいのだけれど。
「そんな忘れっぽい奴隷では、勉学の進みは期待できないかもしれませんわよ」
つい、嫌味っぽく言ってしまった。でも他の女の話をずっとされて良い気分になる女性はいないのだから、これくらいは許して欲しい。
「忘れっぽい……さしずめ『忘却の乙女』だね」
シレン様が冗談混じりに言った。
「忘却……たしか古の言葉では「リスィ』と言ったな」
「ええ……言いますわ」
「リスィ……リスィ、リスィ、リスィ!」
「あ、アル? どうしましたの?」
「リスィだ! 彼女の名は『リスィ』にする!」
弾かれたように眩い笑顔で連呼するアルに、私とシレン様は驚きのあまり身を引いた。
けれど、そんな私達に気付きもしないアルは、笑顔を振りまいて私とシレン様の手を取って強く握った。
「ありがとう二人共! これで彼女に良い名をつけられる!」
「え、ええ、よかったわねアル」
「そんなに喜ばれると協力した甲斐があったね」
アルのこんな笑った顔、初めて見た。いつも不機嫌な顔ばかりで、どんな時も不機嫌な顔をしているのに。
なんで今、そんな顔で笑うの……?
帰りの馬車の中、シレン様と向かい合わせの席で、私は心ここに在らずと外を眺めていた。
「さっきのは良くなかったんじゃない?」
『さっき』と言われ、私はお腹を突っつかれた気分になった。思い当たる節があり過ぎる。
「……『ルシィア』にしなかっただけマシですわ」
自分の態度が悪かった自覚はあるけれど、悔しいから軽口を吐いた。
「『ルシィア』ね。たしか異国の言葉で『ゴミ捨て場』だったかい? ルシィアって響きは可愛いから、黙って付ければアルを騙せたんじゃないかな」
シレン様は笑顔のまま私を追い込む。
彼は全て分かっている。私の醜い心の内を。
「だって……」
「ん?」
「後から意味を知ったら……アル、きっと怒るでしょう……?」
結局私は、アルに嫌われたくないのだ。
いきなり奴隷なんかを買って来る薄情な婚約者だけれど、私にとっては彼はたった一人の私の婚約者なのだ。
「君はほんと……いや、なんでもないよ」
「あら、本当に可愛くない女だって言いたいのかしら?」
「そこまでは言ってないよ。そこまでは」
シレン様はそう言って笑った。つられて私もようやく肩の力を抜いた。
奴隷を買ってきたと聞いた時は驚いたけれど、気にし過ぎなのかもしれない。結婚したら奴隷を買うのが一般的らしいし、それが少し早まっただけ。そう、気にし過ぎなのよ私。
私は不安と焦りに駆られる胸へ必死に言い聞かせた。
けれど、不安も焦りもこの日を境に激増する事となった。