4.悪夢の襲来
何の前触れも、予兆も虫の知らせも無く、その日は突然やってきた。
そう、運命のあの日。私が思い出したくもない、最初の日。
二度と忘れない、忘れることのない日。
「アヴィ、シレン。『カデナ』についてどう思う?」
「カデナですか?」
ある日の昼下がり。アルのお屋敷の庭園で、シレン様とアルと三人で紅茶を楽しんでいた時だった。
この頃にはすっかりアルとも気の置けない仲となり、何でも話せるようになっていた。彼と初めて出会ってから、2年が経とうとしていた。
アルの発した余りにも聞き慣れない言葉に、私もシレン様も目を見開いた。
「この国には奴隷が数多くいる事は知っているだろ?」
「そうだね」
「ええ、習いましたわ」
私は毎日家庭教師から、この国の歴史や社会、法律、礼儀作法、文学、芸術、果ては結婚後のあれやこれを教わっている。成績は優秀なほうだ。
だからもちろん、『カデナ』も知ってはいる。
『カデナ』とは、奴隷の俗称。
遥か昔、他国との戦争で勝利した我が国は、多額の賠償金を手に入れた。
その賠償の中に、金の代わりに鎖で足を繋がれた大勢の人間がいたという。
彼らを労働力として、我が国は更なる発展を遂げたそうだ。
彼らのことを、鎖を意味する古い異国の言葉から『カデナ』と呼ぶ。
奴隷は人であるが国民ではない。そのため奴隷は、通常なら持ち得るはずの数々の権利を有していない。
最たるは人権。彼らは大切な労働力であるが、人であって人ではないものとして、売買が可能である。そうは言っても一人当たり金貨一枚〜十枚で売買されるため、一般庶民では手が届かない。そのため、もっぱら金持ちの貴族が彼らを所有している。
貴族の間では何人奴隷を有しているかで己の財力を誇示している者もいる。
そして繁栄と平和を誇っている現在の我が国での奴隷の主な労働は、『夜の務め』。
つまり奴隷とは広義的に、性奴隷を意味する。
貴族の間では男女問わず、結婚後に夫も妻もそれぞれ奴隷を持つのが一般的とされている。
……そう習った。習ったけれど、私は奴隷に抵抗がある。
なぜなら、私の両親は奴隷を持っていないから。亡くなった祖父も祖母も叔父も叔母も、我が公爵家の者は奴隷を持つ習慣がないのだ。
もちろん先日結婚した兄様も、その奥様であり次代の女王であらせられる義姉様も、奴隷を持つつもりが無いと言っていた。
だから、「どう思う?」と問われれば、「持って欲しくない」と答える。
好きな人が他の女と『そういう事』をするなんて、考えるだけで嫌だ。おぞましい。
けれどそんな私の思いも虚しく、婚約者はこう言った。
「俺は奴隷をもっと重要視すべきだと思っている。この国の人口の約三分の一は奴隷だ。奴隷が我が国を支えていると言っても過言じゃない。奴隷の扱いをより良くする事で、我が国ももっとより良いものになると思うのだ」
「はぁ……」
アルが言いたい事は何となくわかる。
奴隷は年々人口を増やしている。奴隷の子は必ず奴隷として扱われるため、性奴隷な彼らの子は増える一方。
それを労働力の増加と見るか、社会の秩序の乱れと捉えるかは難しいところだと、家庭教師が沈痛な面持ちで語っていたのが印象的だったのでハッキリ覚えている。
「俺は奴隷に一定の権利を与えるべきだと考えている」
「衣食住は与えられていると聞いてるけど? それでは足りないのかい?」
シレン様はいつもの笑みを乱すことなくおっしゃった。
奴隷は大抵の場合、住む所を与えられ、三食食事を摂らせ、服も着させていると聞く。雑な扱いをして病が繁栄するのを防ぐためであり、仮に己の奴隷の不衛生から病が伝染した場合、貴族であれ重い罰が待っているからだ。
また己の奴隷が痩せ細っているのを他人に見せるのは恥としているため、ほとんどの奴隷は中肉中背かそれ以上らしい。
と言っても、例外というものはどこにでもあるもので、奴隷はその持ち主の家から基本的に出さない風習を利用し、人目につかないところでは飢えで亡くなる奴隷も、体罰や病で亡くなる奴隷もいると聞く。
そう、同じく教師が悲しげに語っていた。
「ただ生きるためではなく、己の生き方を考える権利を与えるべきだ。それが人というものだろう?」
「奴隷は人であって人ではないと習いましたが……」
「だが、人だ。アヴィとシレンは奴隷を見た事はないのか?」
「ええ、ありませんわ」
「うん、ないね」
私とシレン様はチラリと視線を合わせた後、首を横に振った。
「彼らは俺達と同じ人間だ。変わりはない。だから同じ権利を与えてあげたいんだ」
アルは迷いのない眼差しでそう言った。
そのアルの考えこそが傲慢の上に立つ者の考え方ではないかと一瞬私の頭を過ったが、続く彼の言葉によってそれどころではなくなった。
「だから俺は、まず俺ができる事をしようと思う」
「できる事、ですか?」
「ああ。俺の資産はまだ少ない。だが足りなくもない」
「え?」
待って……彼は一体何を言おうとしているの?
「俺が今買えて養えるのは一人だけだが、彼女だけでも俺は一人の人間として扱いたいと思っている」
「……アル……彼女って……?」
恐ろしい想像が頭の中を駆け巡る。
まさか、そんな、彼が、奴隷を、待って、嫌、そんなの、やめて、やめてアルっ……!
「紹介しよう。昨日買った、俺の奴隷だ」
薔薇の園から現れた、一人の奴隷。
アルが連れてきたのは、誰もが見惚れるほどの美少女だった。