#63
母さんの何気ない一言。
ただ純粋に疑問に思ったことを口にしたのだろう。
これまで、雫や楓以外の女性を母親の前に連れてくることなんてなかった。
そして、二人以外の女性を初めて連れてくれば親として気になったのも少しは頷ける。
だが、先ほどまで満面の笑みだったはずの雫は、顔を青くさせ涙目になりながらこちらを見てくる。
……俺にどうしろっていうんだ。
首を横に振り、その視線から逃れると雫は慌てて綺羅坂よりも先に……
「ち、違います!彼女はただの”クラスメイト”です」
そう言い放った。
母さんの腕の中にいた雫は、少しだけ後ろに下がると両手を大きく横に広げて綺羅坂を母さんの視線から隠す。
まるで、幼い子供が拾ってきた子犬でも隠すかのように。
「あら、ずいぶんとクラスメイトの所を強調するのね」
綺羅坂は腕を組み、雫より少しだけ高い目線から見下ろすように鋭い眼光を向ける。
ライオンが獲物に標的を定めた時のように。
普段の雫なら、負けじと睨み返していたり、はたまた無表情で冷たい視線を向けているはずなのだが今日は違う。
余裕など一切なく、少しでも綺羅坂を母さんから隠すように必死に腕を伸ばしている。
「え、そうなの?雫ちゃんと同じくらい可愛い子だから良いなと思ったのだけれど?」
母さんは綺羅坂にそう訊ねた。
昔から天然というか、空気を読まずに思ったことを口に出して所は相変わらずだ。
楓はこの辺りが似てしまったらしい。
綺羅坂は雫に向けていた顔を、正面に立つ琴音に向けると……
「お初にお目にかかります、湊さんと同じクラスの綺羅坂怜と申します」
とても様になった動きで一礼する。
ついつい彼女の性格などの内面に目を向けてしまっているが、綺羅坂は学園一のお嬢様。
俺たちのような一般人が足を運ぶことがない場所にも、彼女は数多く行っているに違いない。
このあたりの立ち振る舞いはさすがの一言。
何か大事な式に参加するときには、彼女から立ち振る舞いなどを教えてもらうことにしよう。
「お前にさん付で呼ばれるとなんだか気味が悪いな」
だが、それにしても彼女から名前で呼ばれるのは違和感がある。
いつも苗字で呼ばれているし、彼女に名前で呼ばれると何かしら企んでいそうで無意識に身構えてしまう。
そんな反応をしている俺を眺めて、綺羅坂はまたクスクスと楽しそうに微笑んでいるのは言うまでもない。
「あらあらご丁寧にどうも、母の琴音です。息子がお世話になってます」
「いえ、私のほうこそ湊さんには学校生活を楽しませてもらっています」
「楽しんでるの間違いだろう……」
俺が彼女を楽しませているんじゃない。
彼女が勝手に楽しんでいるだけだ。
隣に立っている綺羅坂には当然のことながら聞こえているが、それを分かった上で小言を漏らす。
ワザとらしくニッコリとした顔が、嫌なまでに整っているのが腹立たしい。
初対面の二人が挨拶を終えたのを確認してから、俺は会話の中で一つ疑問を思ったことを訊ねた。
「それ以前に、本人がその候補とやらの話を聞いたことがないんだが……?」
どこのラブコメだそれは。
お嫁候補だなんて、遠い昔に雫や楓と遊んでいたときに約束した記憶がない……わけでもない。
いや、あれは小さい頃の世間をよく知っていない頃の話だ。
今となっては無効だと思っている。
「それはもちろん湊ちゃんのお嫁さんの候補の話よ。もちろん第一候補は雫ちゃんよ」
当然のことのように話す母に、なんと返せばいいのだろうか。
そして、母さんの隣で嬉しそうに頷いている雫にも何か言ってやりたい。
「…………」
助けを求めるように綺羅坂に目を向けるが、彼女も何やら企んでいるのか考え事をしている様子だった。
「そうですね、今のところは候補ではなく未定という所でしょうか」
……さっきの母さんからの質問を考えていたのね。
彼女は短くそう答えた。
「お前も答えなくていいから……」
「そういうわけにはいかないわ、あなたのお母様から質問なのだから」
こいつは人によって返事を返す相手を決めているらしい。
学校で話しかけても返事を返されていない人は、彼女にとってそれまでの相手ということだろう。
「あらそうなの!さすが私の湊ちゃん!かわいい子にモテモテね」
親バカなのか、息子が二人の女性に少なくとも悪くは思われていないことに喜ぶ姿を眺める。
このままでは、駅から離れるのすら相当の時間を要する気がする。
ぴょんぴょんと飛び跳ねている母さんを置き、俺は一人自宅へ向け歩き出す。
「いいですか、あなたは候補なんかではありませんからね!私だけでいいんですから!」
「あら、候補は一人ではないほうがいいと思うけれど?彼にも選択肢が増えるのだから」
「だ、だめです!……もし湊君が揺らいでしまったらどうするんですか!?」
……安心しろ、今のところ揺らぐも何もないから。
その場に留まることなく、しっかりと後ろからついてきた三人は、二人が言い合い、一人がその様子をニコニコと眺め、先頭を歩く男が何事もなかったかのように歩くというなんとも異様な光景が自宅まで続いた。




