#309
空腹は非常に危険である。
勉学に集中することもできなければ、体を動かすことも面倒に感じてくる。
普段は意識していなくても、いざ食事を抜いて活動をしてみれば大切さが身に染みて分かるというもの。
なんて、格好つけた言い方をしているが、実際は単純な話だ。
昨日の夜、雫と会話をしてからというもの、川辺で一人思考の海の中へと潜り込んでしまった俺はすっかり時間という概念を頭の中から消していた。
母さんと楓に言われた夕食の時間までの猶予など、みじんも思い出すことなく。
気が付いて急ぎ足で帰ってみれば頬を膨らませた母さんと、呆れた妹が食事を没収する様を眺めるしかない無力な存在と変化した。
朝になっても変わらぬご機嫌斜めな母さんに、澄ました楓が優雅にコーヒーを楽しむリビング。
丹精込めてこしらえた食事を冷めてしまうまで放置していた俺に非がある。
ただ謝って夕食からは食事を用意してくれると言われたときは、安堵の息を零した。
しかし、授業の合間に何度と時計に視線を向けたことか。
今は午前中最後の授業である四限の半ば。
……授業が終わったらまずは食堂でパンでも買ってこよう。
菓子パンとかではなくコロッケパンとかサンドイッチとか、主食的なものが良い。
腹が鳴りそうなのを我慢して授業に参加していると、隣から見透かしたような声音で小さな言葉が投げかけられた。
「休み時間に軽食でも食べればよかったのに」
「朝の売店は運動部に買い占められてたんだよ……大食いどもめ」
恨めしそうにグラウンドに瞳を向ける。
コンビニに寄るか、学校で楽をして軽食を手に入れるかを天秤にかけて見事に裏目に出た。
売店が朝から開いている日は運動部の連中がこぞって買い食いをすることを忘れていた。
こんなことなら、面倒でも登校中にコンビニへ寄り道するべきだった。
……割高だからとお財布を労わってしまったのもデカい。
「……というか腹減っているとか言った覚えないんだけど」
「仕草とさっき可愛らしく鳴ったお腹の音で大体予想できたわ」
クスッと笑みを浮かべて綺羅坂はこちらに目線だけを向ける。
……聞こえていたのか。
恥ずかしすぎてお腹に穴が開いて、空腹どころか空洞になるまである。
今ならプロボクサーのボディーブローを自らノーガードで迎えても良い。
ここ数日、彼女と話す機会は格段に減った。
話しかけてきたということは、以前に俺が彼女が差し出した手を取らなかったことを許してくれたのか。
……いや、知りたいのだろう。
今俺が何をしていてどのような状態にいるのかを。
綺羅坂怜の行動原理は探求心だ。
自分の好む人間がどのような反応と行動を起こすのかを観察することに彼女は並々ならぬ意欲を見せる。
勉学も運動も過程に生じた些細な寄り道。
結果を十二分に伴う寄り道。
「夜の散歩が想像以上に長引いてな……夕食の時間をとっくに過ぎてたから反省中」
「あら、体を動かすこと自体を面倒と思うあなたが散歩だなんて、随分と思い悩んでいるようね、私の協力を断っておきながら……私の」
「二回も言わなくてもいいだろ……」
やっぱり根に持ってるじゃん。
左からの視線はいつの間にか冷たいものへと様変わりして、感じていたはずの空腹から寒気に変わる。
機嫌を損ねてしまったときの綺羅坂への対応の仕方を会長に聴いてみようかな。
そんなことを思っていると、彼女は小さく呟く。
「私のお弁当をお裾分けするわよ……どうせパンでも食べるつもりだったのでしょう」
「まあそうだけど……それで昼は足りるのか?」
彼女が大食いではないことは知っているが、人間なのだから空腹は訪れる。
無理させるのなら申し訳ないから丁重にお断りして購買に行くのだが、そこで口を閉ざす。
綺羅坂の気遣いをこれ以上断るのは、間違っている。
俺の問いに対して、瞳で問題ないと語る彼女にそれ以上は何も言うことなく途中までの内容を覚えていない授業へと意識を向ける。
空腹で時間を気にしていた時よりかは体感的に倍くらいは早く過ぎていった。
そして、ようやく訪れた昼休みに待っていましたと言わんばかりに俺は右に座る綺羅坂の方向を見やった。
ご飯を待たされる犬が如く。
待てを習得したばかりの俺に、彼女は満面の笑みを浮かべる。
まったく似合うことのない満面の笑みをだ。
「……」
「はい、好きなだけ食べなさい」
綺羅坂も授業終了の鐘と同時に机の上にどこから取り出したのか弁当を置いてこちらへ差し出す。
いや、弁当と呼称しても良いものなのだろうか。
黒々として、何段にも重なり、主に正月に見ることがある……だが、俺の知るその容器は今まさに綺羅坂が差し出した数倍は小さなものだ。
「重箱……デカすぎない?」
「特注よ、感謝しなさい」
どこのフードファイターが挑む大食いチャレンジなんですかねこれは。
綺羅坂が取り出した超巨大重箱の蓋を彼女自身が取り払うと、その中には綺麗に並ぶ品の数々。
とても一学生が食べる弁当ではない。
シェフを雇い、練られた技術の賜物がこれでもかと詰め込まれている。
「さあ……存分に食べなさい」
そう告げた綺羅坂の瞳は、氷の女王と呼ばれるに相応しい冷たさを帯びていた。
「腹がはち切れそう……」
心なしか体が重くなった気がしながら、廊下の壁面に手を付きながら呟いた。
小学生がついつい調子に乗って給食を大食いした時とは比にならない満腹感。
明後日までは飯を食べたくなくなるくらいには胃袋に詰め込んだが、今日の夕食だけは何としても時間通りに美味しく食べなくては母さんが本気で落ち込みそうだから学校が終わったら流石に軽く運動でもしようかな……
しかし、綺羅坂め……俺の困り顔を見て楽しそうに口元を歪めてやがった。
怒らせてはいけないことは痛いほど思い知らされたが、中身が非常に美味しかったので強く言い返せないのが悔しいところ。
「お弁当、すごい量だったね」
「助けてくれても良かったんだけどな」
効果があるのか分からないが、残された昼休みを消化に勤しんでいる近くには宮下が佇んでいた。
彼女は一階で購入してきた紙パックのイチゴミルクを口に含みながらニヤリと表情を変える。
どんどん、周囲の人間が似てきている気がするのだが気のせいだろうか。
重い体を少しだけ壁に預けて立ち止まると、宮下は、三人分くらいの間を空けて隣に立ち止まる。
二人分ではなく三人分。
ここに、俺と彼女の心の距離が現れている。
近くもないし、そこまで遠くもない。
普通に話せば声が聞こえるくらいの距離感。
あくまで宮下の中では優斗が優先で、俺はその友達に過ぎない。
下手に歩み寄って利を得ろうする他とは違って潔いところが少しだけ好感を持っていることは俺だけの秘密だ。
消化を促すように一つ息を零していると、隣の宮下が先に口を開く。
「朝、真良が何か話したそうにしていた気がしたのって私の勘違い?」
「いや、勘違いじゃないよ」
腰に手を当てて、深く息を吐いて胸の中に詰まっていた違和感を吐き出す。
息と同時に零れ出た返答に、宮下が「やっぱり」と一言呟く。
「大したことじゃないんだ……ただ知り合いに動画編集とか得意な人を知っていないかと思って」
「動画編集ねぇ、また何でそんなこと?」
宮下はそう告げると俺に眼を向ける。
彼女も俺が送別会の実行委員を担当していることは把握済みだ。
だから、その問いが何故送別会の準備に動画編集を得意としている人が必要なのかを問うているのは何となく察することができた。
よくある簡単な編集程度なら誰でも出来るであろうことは、彼女の中ですぐに答えが導き出されたのだろう。
その上で、俺が得意の生徒を探しているのだから、なぜ必要なのか気になったのか、はたまた違う理由があったのか。
「どんな形であれ、生徒達から俺に対する良い意味での印象を植え付けたい、そこで必要なのが慣れ培った技術とセンスだ」
編集に手いっぱいになるだけではダメだ。
余裕を持ってその中に独自のセンスを盛り込めるくらいに経験を重ねた人物が好ましい。
これの答えは宮下に納得させる言葉だったのだろうか。
彼女は続けて問うことはなく、静かに瞼を降ろす。
もしかしたら、優斗や雫から何かを聞いているのかもしれない。
何かを考えて、でも気が乗らないような表情を浮かべて唸るように声を漏らす。
深い溜息をすると、瞼を上げて仕方なさそうな声音で言った。
「教えるけど文句は言わないでね……それから、私から聞いたって他言しないこと!」
そう告げると、宮下はおもむろにスマホを取り出して操作を始めた。




