#267
親父がリビングから出ていくと、室内は静かな空間へと変わる。
楓は資料を握り黙り込み、母さんは依然として何も語ることはない。
俺もその場に立ち尽くしているだけで、何もすることは出来なかった。
何も、本当に何もすることが出来なかったのだ。
少しは成長して、自分の中では自信に似たものを抱き始めていた矢先、出鼻を挫かれた形となってしまった。
突然の海外留学の提案。
そして、実家の売却に加え、実質俺は一人暮らしを宣言されたようなものだ。
これを、見放されたと捉えるべきか、自立したと捉えるべきか。
後者にしては、ポジティブすぎやしないだろうか。
親父が帰宅してから、何も言葉を発することのない母さんに視線を向けると、偶然上げられた視線と重なる。
その瞳は、いつもと変わらぬ優しい瞳だ。
では、その優しいはずの母さんが何故、何も言わないのか。
正直、反対してくれるものだと思っていた。
親父の説明が終われば、表情を鬼にして反対してこの家にみんなで住み続けよう、そう言ってくれるものだと……
楓も同じような期待を抱いていたはずだ。
母さんに向ける妹の視線には疑念が混ざっている。
「母さんも親父と同じ考えってことでいいのか?」
兄妹を代表して母さんに対して問うた。
二児の母であり、四十手前の女性には見えない肌つやをした母さんは、落としていた視線を上げると俺と楓を交互に見据える。
そして、語る前の深呼吸を一つすると小さな口を開き、己の心境を吐露した。
「いえ、全然賛成はしてないわよ、むしろ大反対!」
「は?」
「へ?」
頬をリスの様に膨らませて、プンプンとでも効果音が聞こえてきそうな勢いで母さんは言った。
対して、俺と楓はぽかんと口を開いて立ち尽くす。
……どういうことだってばよ。
親父と母さんの間では話が固まっていたから、何も言わなかったのだと思っていた。
間違いなく楓も同様だ。
しかし、母さんは不満ありげに言葉を続ける。
「家を売る、兄妹を離す、息子を一人で日本に残す、何一つメリットなんてないもの」
「じゃあ、なんで……?」
先ほどの会話で何も言ってくれなかったのだ。
開いた口が続く言葉を発する前に、母さんは言った。
「でも、それは私の意見、お父さんの意見を最後まで聞いてから判断してほしかったの」
「判断て言ってもな……実質選択肢は残されていないだろ」
「違うわよ湊、選択肢は残っているの……楓の気持ち次第」
向けられた母の視線は優しく、心の内側に問いかけるような声音で楓に向かって問う。
「楓はどう思った? 留学に興味があった?」
「それは……でも」
短く区切ると、楓は視線を俺の方へと向ける。
意味はすぐに理解できた。
自分が海外に行った場合は、俺が一人になることが気がかりなのだろう。
しかし、そんな視線を向けていた楓に母は即座に言い放つ。
「お兄ちゃんを理由にしてはダメよ」
「……」
「お兄ちゃんに、責任を押し付けてはダメよ」
強く、確固たる感情を込めた言葉に楓は思わず黙り込む。
急な話の時点で、まともな判断は難しい。
期限も決められ、選択一つで家族がバラバラになるかもしれない。
高校一年生の少女には、荷が重すぎる選択だ。
しかし、母さんもすぐに表情を優しい微笑へと変える。
普段の母さんの笑顔だ。
「心無い、周囲からは酷いと思われることでしょう、でも一応はお父さんの言葉にも意味はあるの」
そう言って、母さんは親父の一方的な言葉の一つ一つに説明を付け加えて話を整理する。
まず最初に出たのは、留学について。
なぜ、留学を突然言い始めたのかについただ。
「お父さんはね、学生時代に留学を希望していたの。これからの時代は様々な言語が使える人が最先端だーとか言って、学校側に申請書まで提出して」
懐かしむように、当時の状況について語る。
その姿は、母さんだけが知っている昔の親父。
正直、興味の欠片もないのだが、耳だけは傾ける。
「本人の意思があっても、資金の都合や学校側の適正かどうかの判断で、お父さんは留学を断られてしまったのよ」
だから、そう続けて視線は楓に向けられた。
「自分は喉から手が出ても手に入らなかった可能性を、娘には見逃さないで欲しかったのよ」
そう説明する母さんに、楓は一度目を伏せてから言い返す。
表情には、先ほどまでの迷いや戸惑いは見受けられない。
「それでも……兄さんを一人にすることが父親の判断だとは思えません」
楓は強い声音で言った。
こういうとき、俺はどう反応すればいいのだろうか。
頷いて「そうだ、そうだ!」と抗議して見たり、しくしくと涙を流す素振りを見せたり……
とりあえず、大人しく母さんの意見を聞くことにしよう。
楓からの質問に対して、母さんは盛大に頷いて見せる。
「そこでお見合いの話が出てくるの……いくら湊が大人びていたとしても、自立できることはセットではない、母親は海外で妹も留学、となれば誰が湊のことを近くで見守ってくれるのか……」
「会長は二人の代役ってか……そんなの相手に失礼すぎて、断りたくなる」
「もちろん、こちらの一方的な思惑で取り決めた見合いではないのよ? 相手方も湊であれば是非と言われたのもあるわ、裕福な家庭ではないのだから利害関係なんて考えていない、ただお互いの希望が重なっただけ」
それを、先ほどの会話の中で親父の口から聞けたら、どれほど気持ちが楽になったことだろうか。
でも、母さんの口から聞けただけでも、心にのしかかった錘は少し軽くなった気がする。
視線を落とし、少し溜息を零していた時に、母さんは続けて明るい声音で言った。
「まあ、お母さんはこの話をお父さんに聞かされた時は、怒りのあまり四回もビンタをお見舞いしたから、全然大丈夫よ」
「……左様ですか」
それは全然大丈夫ではないですね。
だから、あなた達この家に帰ってきてから険悪な雰囲気を醸し出していたのね。
いや、本当に心配しましたよ、マジで。
親父の言葉に言いくるめられて、母さんが何も言わない嫁へと変貌してしまったのではないかと本気で考えたくらいだ。
だが、その理由も少しは分かったので、多少は安堵した。
というか、俺はこの会話の中で安堵しかしていない。
苗字を安堵さんに改名するくらい、安堵している。
だが、本題は何も解決はしていない、それを再確認するように母さんは楓に瞳を向ける。
「お父さんには言ってないのだけれど、学校側はまだ楓の留学について確定したわけではないと伝えてあるの、親の勝手な判断で子供の進路を変えるわけにはいかない」
「お母さん……ありがとうございます!」
ようやく、明るい表情を見せた楓に対して、小さく母さんも微笑むとすぐに会話も本題へと戻す。
「いい楓、湊はどんな状況でも楓を助けてくれると思う、でも人生の選択に関してはお兄ちゃんを理由にしてはダメ、自分の人生以外の責任は誰であっても担えないの」
楓は母さんの言葉を聞くと、小さく一つ頷いて見せる。
考える時間は限りがあるが、自分の今後に関わる重要な選択だ、俺は答えが出るまでの間、静かに見守ることにしよう。
そんなことを思っていると、母さんの視線は俺に向けられる。
「湊、あなたも三日の間にお父さんと本音で話してみなさい……お父さんと噛み合わない理由が分かるはずだから。あの人、すごく単純よ?」
微笑んで提案する母さんに、渋々ながら俺も妹同様に頷いて答える。
親父と二人だけで真剣に話をするのは何年ぶりだろう。
想像するだけで嫌な記憶ばかりが脳裏で再生されるのだが……
これまでの親父が突然言い出した問題に、謝罪の意を込めてか母さんは優しく楓の髪を撫でる。
大丈夫、そう小さく呟いて安心させると次はこちらの番だ。
親に頭を撫でられる年でもないのだが……状況的に拒めるわけもなく、と思っていたら母さんは瞼を閉じて口を突き出した態勢でこちらへと歩み寄る。
「はい、湊はごめんねのちゅー!」
「誰がするか……」
額の真ん中を指で押さえ、顔のギリギリで近寄れないようにすると母さんに向けて言った。
楓も母さんも、ようやく笑みを零してリビングの雰囲気が僅かに明るいものへと変わる。
楓も一人で考える時間が必要だ。
俺も、妹が頑張っている間、嫌だと駄々をこねることは出来まい。
窓から見える中庭を眺めながら、最後に父親と二人きりで真剣な会話をしたのはいつのことだったか、思い出すことにした。




