#266
親父は、玄関に赴き出迎えた楓に荷物を渡すと、すんなりとリビングまで進んだ。
普段であれば、玄関前で奇声に近い求愛行動を楓にするのが恒例なのだが、今日はそれがない。
疲れもあるだろう、だが明かに醸し出す雰囲気は真剣そのもの。
親父も母さんも大切な話の為に帰国したのだと楓も察したことだろう。
俺は、リビングに入ってきた親父と視線を合わせることなく、ただその行動を眺める。
荷物を入口脇に置いて、上着を脱ぎ、母さんの座る椅子の隣に腰掛ける。
楓は、代わりに俺の隣へと腰を下ろした。
二人が交わした言葉は本当に短いものだった。
「話したのか?」
「いいえ、お父さんから話をしてください……」
尋ねた親父に対して、母さんは少し冷たく言い返すような言い方。
二人は俺達の前で、おしどり夫婦のような仲睦まじい姿を見せることは少ないが、それでも険悪な雰囲気や殺伐とした状況になることはなかった。
互いが尊重し合い、理解しているからこそ必要以上の言葉は必要ない、そんな感じの二人であったのだが、今回はどこか違う。
楓もそれには気が付いたのか、机の下で、二人からは見えないような場所で俺の袖を小さく握った。
「大丈夫だ……」
「はい……」
不安を感じたのだろう、上目遣いでこちらを見つめてきた楓に対して、微笑を浮かべて言う。
なんとかなる精神を忘れてはならない、まあ今回も何とかなるだろう。
親父が一息ついたところで、話を始めるべく視線をこちらに向ける。
いや、正確には隣の楓に向けた。
「今日は一つ提案があって帰国した」
「提案……ですか?」
「そうだ、よく聞いてほしい」
そう告げると、親父は母さんに目を向ける。
頷いて母さんが一つのファイルを机の下から取り出すと、卓上に置く。
俺と楓は覗き込むようにそのファイルに視線を落とした。
そして、楓は絶句したように体を硬直させる。
『桔梗女学院留学制度・ニュージーランド姉妹校への留学について』
資料のタイトルには、そう書かれていた。
留学……ニュージーランド。
楓は震える手でその資料に手を取り、中身を確認していく。
突然の提案、予想すらしていない話だ。
俺も当然ながら、親父が置いた書類の内容に瞳を見開いて、思わず二度確認をした。
随分と、急にデカい問題をぶつけてきてくれたものだ。
サプライズプレゼントにしては、少々笑えない内容だ。
楓は桔梗女学院に入学してまだ一年も経っていない。
そもそも、俺と同じ桜ノ丘学園に入学したいと言った楓の意思を反対で押し切って、親父が女学院への入学を勧めたはずだ。
それが、一体どうすれば留学なんて突拍子もない話が浮上するのか。
隣で、俺は限られた情報内で思案した。
それは、楓も同じことだろう。
このご時世、留学というのは珍しいことではない。
多様な能力を各々に求める時代だ、条件さえそろえば海外へステップアップという発想に至るのは自然なのかもしれない。
だが、あくまで条件をクリアした人だ。
学力、適応力、家庭環境、金銭でも大きく負担が生まれる。
……確かに、楓の成績であれば、留学制度を活用することも学校側から認められるかもしれない。
世間話程度で、前に楓が三年生の中には語学留学する生徒もいると聞いたことがある気がする。
楓にその意思があるのかは分からない。
その時は真剣な会話ですらない。
こんな人達も、女学院にはいるんです、そういう情報交換でしかなかった。
それが、現実に突きつけられるとは思いもしない。
それにしても、留学が本当であるのなら、ここまで深刻な雰囲気で話をするものではないだろうに。
もっと、背中を押すなりするのが家族だ。
そう口にしようと隣に視線を向けたところで、考えが変わる。
いくつかの違和感を抱いた。
母さんが何も反対を述べていないこと。娘の移住での苦労などを考えれば最初に否定的なのは母さんのはず。
しかし、今回はそれがない。
そして、次に楓だ。
彼女になら当然、最初から意思確認をしているのが当然のことだ。
本人の意思無くしては、留学など始めることはできない。
しかし、隣の楓が浮かべている表情は驚愕のみ、期待の眼差しではない。
それでも確かなのは、母さんが誰よりも不機嫌なのは間違いない。
何かに怒っている、それだけは伝わってきた。
そして、おそらく親父に対してだろう。
二人が話をする気配が見えないので、俺から口を開く。
「楓の意思は聞いてからの進展だよな? まさか勝手に話を進めてはいないよな」
親父に問うが、返ってくる言葉はない。
黙って聞いていろ、そう告げられているようだった。
こんな状況なのに、嫌気がさすほどに冷静な自分がいる。
普段以上に、脳は回転して親父の言葉が脳裏で再生される。
一つ一つ、覚えた違和感に様々な仮説を照らしあわせ、その繰り返し。
楓の学力は問題ない、拠点は親父達の海外での住居があるはずだ、金銭面では少し苦労はあるだろうが、大きな問題にはなることはないだろう。
そして、逆に問題は俺の方が多い。
学力的にも今から海外のハイスクールは難しい、入学試験で落ちてしまうだろう。
それに、環境に馴染めるか、そこも問題ではある。
だが、兄としては妹の留学経験を兄の責任で終わらせたくはないので、なんかしてみせる。
あとは……この家のことと付き合いのある人たちについて。
そこら辺は二人は考えてあるのだろうか。
一人で後々のことについての考えまで発展させているところで、楓が口を開く。
小さく震える妹の手は、握った紙を引き裂けるほどに力が込められていた。
「これは、いつからの留学を提案されているのですか?」
「年明けだ」
短く、親父が答える。
今は十一月の半ば、年明けとなれば残り時間は少ない。
昨日今日で出た話ではなく、親父の中ではかなり前から進んでいた話なのだろう。
ただ、進捗に関しては子供達まで共有していなかった。
本人の意思では反対するには遅すぎるタイミング。
狙ってこの時期に告げたのであれば、性格が悪いという言葉では片づけられない。
我が父親ながら、卑怯なやり方だと強い視線を向ける。
しかし、相手からの視線が交わることはない。
あくまで、楓に関する話でありお前には関係ないと言わんばかりの態度に、机の下に隠した手が充血するほどに強く握りこぶしを作る。
「兄さん……」
「……」
呟き、助けを求めるような震えた声に、気休めにでもなればと頭を優しく撫でる。
楓にも交友関係があり、生活がある。
それを壊すことになりかねないのだ、俺にも聞きたいことは多くあった。
「期間は……」
「相手方からは本人が希望するなら卒業まで在籍を認めると返答があった」
「一人で暮らせってのか」
「俺も母さんも、今はニュージーランドに移った、一緒に暮らせる」
問いかける質問に淡々と親父は答える。
母さんは何も言葉を発することなく、隣に座る夫に視線を向けていた。
優しいはずの母の強い瞳だ。
溜息を零して、考える。
俺にも大切だと思える人達がいる。
その関係を断つことは出来ない。
「突然すぎだ……親父が何を考えているのか知らないが、前もって本人の希望くらいは聞くのが普通だろう」
「……本来、俺が海外赴任の時に一緒に移住しようとしたが、お前たちの我儘でこの家を残しているんだ、言葉に気を付けろ」
珍しく、怒気の含んだ言葉を発した親父は、静かに楓の反応を伺う。
楓も状況把握が上手く出来ないのか、視線を泳がせていた。
考える時間が必要だ……
こんな急な話、すぐに分かりましたなんて言えるはずがない。
親父達が暮らしているのがニュージーランドであれば、娘も同じ屋根の下で暮らすことが出来る。
年頃の娘だ、さぞ安心できることだろう。
そして、これは提案などではないのだろう。
重苦しい両親の関係性を考えるに、これは決定事項であり事後報告なのではないだろうか。
だから、母さんと親父が視線を合わせないことにも合点がいく。
親父は楓が少しでも前向きな姿勢を見せたら、今日のうちにでも話を進展させるに違いない。
普段の溺愛度を鑑みれば、容易に想像ができる。
だから、俺も一考の余地を残せるように考える。
言葉を捻って、紡ぎだす。
「親父は覚えてないかもしれないけど、俺も生徒会に選ばれた……今この町を離れるなんて出来ないし、それに大切な人達もいる」
思い浮かんだ雫と綺羅坂、優斗に会長達の姿に後押しされるように、声はいつもより強く、見据える瞳にも力が籠る。
空っぽだった人間に、少なからず大切なものが出来た。
例えになるだろうけれど、人としての重みが少しは生まれたはずなのだ。
だからこそ、楓の語学留学については自分の意思を示さなくてはならない。
妹がその姿を見て、自分の意思を考えて答えを出せるように。
俺の言葉を聞いて、親父は数回頷いた。
それなりに、考えとしても一考の余地が生まれたのだろうか。
そう思い見ていると、親父は口を開く。
「湊……それについても話があってだな、お前はこのまま日本の大学で学んでいく方がいいと思う」
「え……」
声音は今日の中で一番優しく、向けられた瞳も懐かしいくらいに穏やかなものだ。
しかし、戸惑いを隠せない。
遠まわしに、いや隠し切れていないがついてくる必要はない、そう目の前の人物は言っているのだろうか。
俺は来なくてもいい、その事実だけが脳内を埋め尽くしていた。
「今からではお前には馴染むのに時間が掛かる、進路を決めるこの時期からではお前には得策ではない」
「……」
告げられた言葉には、説得力はあった。
俺にとっては時期が悪すぎる。
共に海外移住すれば、言葉の壁に阻まれているうちに進路が迫られ、何も分からないまま高校生活を終えてしまうだろう。
でも、親父の言った言葉は俺には違って聞こえてしまった。
お前は必要ない、そう言われているかのように。
楓には出来て、俺には出来ない。
昔からよくあることだ。
才能に恵まれた妹、才能を持たない兄、親としての優先順位は自然と妹へ注がれる。
そこに不平も不満もない。
この世界は、平等ではない。
能力を持つ人間が勝ち上がり、持たざる人間は最低限度の暮らしをするので精一杯。
将来の妹のことを考えて、語学留学をして異文化に触れることは大いに人生に役立つことだろう。
でも、それでもお前も一緒に来い、そう言ってもらえるものだと思っていた。
頭では、親父の言うように俺には海外の生活に慣れて一年で進学か就職か、それを考えるまで馴染めるとは思えないことは分かった。
大切なのは、楓が姉妹校に行くことであり、家族全員が一緒に住むことではない。
なら、俺はこの家に一人……そう思っていた矢先に親父が言葉を続けた。
「楓が留学を決めた場合は、この家は売りに出す。最初はおじいちゃんの家に住まわせてもらって、条件の良い物件が見つかれば移っていい」
親父が言い終えると、机に手を置き腰を上げる。
話は終わり、そう行動で示していた。
自分が大変なのに、隣で俺を心配そうに見つめていた楓は、立ち上がった親父に強い瞳を向ける。
「私は……ずっと兄さんと一緒です!」
「……」
楓が示した、最初の反応。
親父は少しだけ溜息を吐くと、なだめるように優しい声音で声を掛ける。
「楓……そろそろ兄離れしなさい」
そう短く言うと、親父は自分の部屋へと戻っていった。
時差に仕事明け、疲れが溜まっていたのだろう、仮眠を取りに行ったのだ。
親父の姿が確認できなくなると、俺は対面していた母さんに声を掛ける。
「二人はいつまでこっちにいるの?」
「三日よ、だからこの話も明後日には答えを出して相手にお伝えしないといけないわ」
三日、今日はまともな会話が出来ないだろうから、実質的には明日が丸一日あるだけ。
時間も情報も限られ、どうすればいいのだろうか。
こんなに頭が上手く働かないのはいつぶりだろう。
天井を見上げていると、楓は小さな腕で力強く抱き着いてきた。
「私は……兄さんの近くに居ます」
寂しそうに告げた言葉に、開いていた左腕で優しく髪を撫でる。
まずは、楓が留学の話をどう捉えたのか、それからだな。
修学旅行から戻り、休息の日々が訪れたかと思った矢先、真良家には最大級の選択が迫られていた。




