#171
熱気をまだ含んだ風が、青空に昇るように吹く。
目元近くまで伸びた黒い前髪が、その風に乗るように靡く。
部活動だけの喧騒に満ちていた学内には、新学期の真新しい空気が漂う。
約一ヵ月ぶりの再会を喜ぶように、また過ぎ去った日々を惜しむような会話が校内の各所で耳にする。
一年生からすれば、イベントのオンパレードの二学期がいよいよ始まった。
二年生は、二年の夏休みが終わってしまった、来年はいよいよ受験という焦燥感が心に生まれる。
三年生は、最後の夏が終わった。
これで、高校生活最後の夏が終わったのだ。
……高校球児の夏みたいなセリフになってしまった。
ともかく、各学年の心境は様々、多種多様だ。
同じ二年の俺と、今すれ違った見知らぬ男子生徒とでは、大いに違う。
ただ、確かに共有できているのは、新たな日々が始まったこと。
もう、すっかり慣れてしまった教室までの道のりを歩きながら、そんなことを考えていた。
時間は戻らない。
だから、今この瞬間を満喫するのだと言わんばかりの生徒達が自分たちの夏がどのように過ごされたのか、自慢げに語っていた。
将来、立ち止まって後ろを振り向いた時、高校生の頃を思い出すのだろうか。
高校の友人は一生ものだと親父は口にしていた。
でも、俺はそんな友人はいない。
中学からの悪友がいるが、高校で生まれた固い友情なんてものは存在していない。
結局は時の運。
高校生の時代を美談とする風潮を心から理解できる日は一生来なさそうだ。
内履きに履き替え、階段を上り二階の廊下を進む。
人波を縫うように生徒の横を通り、二年三組のある教室へ向かう。
日焼けの影響もあり、劇的ビフォーアフターしている生徒が何人か見受けられたが、それも夏休みの恒例行事でもある。
よく言えば垢ぬけている、健康的であり悪く言えば夏休みデビューとも言える。
ただ日焼けしているくらいならそんなこと微塵も思わないが、髪色が変化していれば話は異なる。
我が桜ノ丘高校では頭髪に規制はない。
赤くしようが、茶にしようが、金髪にしようがお咎めはない。
ただ、学生特有の偏見的な視線だけは如何せん集まる。
そんな彼らの隣を歩く俺の姿は、長期休み前と何も変わっていない。
肌の色も白く不健康的なままで、髪色だって何も手を付けていない。
視線など集まる要素が微塵もないからこそ、何食わぬ顔で彼らを一瞥して歩く。
いやー、あれだけ髪を染めていると、将来頭髪が薄くなってしまうのではないか、なんて考えが浮かぶのは夏休みに親父の後頭部を見たからとは思いたくない。
長期休みの後にはこういった変化が少なからず校内には広がっているはずだ。
一年生の棟では、俺達二年生以上の変化が訪れているだろう。
生徒会の時に火野君にでも聞いてみよう。
教室の前に到着すると、室内から鬱陶しく感じるくらいの談笑が漏れ出ていた。
言葉にする必要もなく、中では彼らが囲まれているのだろう。
久しく顔を合わせていないクラスメイト達にとっては、待望の再会だ。
そんな姿を想像して教室の戸を開けると、そこには予想通りの光景が広がっていた。
「……」
進級時と同様、一瞬だけクラスからの視線が集まるが、入ってきたのが俺だと分かるとすぐにその視線は霧散した。
そして、彼らのお目当ての生徒達に向けられる。
女子生徒の視線は優斗へ、男子生徒の視線は雫と綺羅坂に。
「荻原君は夏休み何してたの?」
「神崎さん荻原と夏祭りに行ってたって本当?」
各々が悶々と抱えていた疑問をぶつけていた。
彼らの記憶領域からは、俺の存在など既に忘れているのだろう。
自分と目の前の人間との関係性を正しく理解することが出来ずに、自分がいなかった状況や環境を疑い不満げにしている生徒がちらほらと見受けられる、そんな集団だった。
この光景を目にしても、何も感じることはない。
自分たちの意思とは関係なく囲まれている彼らが可哀そうだと思うが、手助けなどしない。
周りから逸脱するくらい優れてしまった自分を恨め……なんて、卑屈な言葉を心の中で思い浮かべる。
優斗と雫は、微塵も近寄ろうとしないで教室に入ってきたのに気が付いたようで、こちらに視線を向けるが素通りしたのを見て顔を見合わせて苦笑する。
「……おはよ」
「おはよう、真良君は新学期でも登校時間は変わらないのね」
隣の席に腰掛けた綺羅坂に、朝の挨拶を交わすが彼女の視線は動くことなく手元の文庫本に向けられていた。
今日は真新しい本ではなく、少し古びた本だったことに少し関心を持ちながら座る。
「新学期だからって登校時間を早くする必要はないだろ……それとも、綺羅坂は普段より早く登校したのか?」
「ええ……一時間は早く登校していたわ」
……早すぎだろう。
遠足前の小学生でもないのだから、そんなことないだろ。
彼女らしからぬ発言の理由を考えていると、彼女は聞いてもいない疑問を淡々と答えてくれた。
「新学期だから真良君が早く来る可能性を考えて、絶対に来ないであろう時間から待機していたのは内緒よ?」
「知っているか?内緒って誰にも言わないことだぞ」
本人に言ってしまっている時点で内緒もなにもない。
彼女なりの冗談なのだろうが、声のトーンと表情から読み取るのが難しいだけに分かりづらい。
椅子に腰かけて荷物を置いてから、改めて視線を教室内に向けるがやはり以前とは違う雰囲気が漂っていた。
どこを見ても、多少の変化を見て取れる。
変わっていないと明確に分かるのは、隣に座る綺羅坂と少し離れたところで生徒に囲まれている雫と、その反対で囲まれている優斗の三人だけだ。
まあ、こいつらに限っては容姿面で変わることは早々ないだろう。
窓を開けて、室内の空気を入れ替える。
吹き込む風はまだ暑く、だが教室内の喧騒とした嫌な空気を遠ざけてくれる気がした。
二学期はイベントの学期だ。
体育祭に文化祭、それに俺達二年生は修学旅行もある。
直近では生徒会選挙も控えているから年内で一番忙しいのがこの時期だ。
加えて学業も通常通り行わないとならないため、学生には楽しくもあり辛い日々が始まった。
「……」
校庭の脇で生い茂った草花を見てから教室に視線を戻せば、まるで遊園地にでも迷い込んだかと錯覚しそうになる。
それくらいに、久しぶりの学校はうるさく見えた。
「そういえば、生徒会選挙の公表は明日よね?」
そんな最中、綺羅坂が呟くように言った。
隣でないと聞こえないくらいに小さな声で、確認するように。
「明日の昼休みからだ……写真を撮るのに生徒会役員まで駆り出されたからな」
生徒会選挙は休み明けすぐに開始される。
これから一週間は選挙で更に賑わう。
小泉と白石が競い合う状況に、生徒達も呼応するように賑わいを見せるはずだ。
他人事だが、それでも自分たちの通う学校の選挙であれば見ている分には楽しかろう。
否応にも、現生徒会役員として関りがある俺には目下の憂いでしかない。
「白石さんとはあれから話をする機会はあったのかしら?」
「何度か休みの間に連絡は来たけど、直接会う機会は無かったな……そもそも会う必要もない情報交換のような連絡だったからな」
「そう……私の連絡にはあまり返事をくれないのに、白石さんには連絡をしていたのね」
「……いや、お前の場合は連絡を返す前に家に来るか電話をしてきただろうが」
語尾が寒気を感じるくらいに冷たく聞こえた。
しかし、何度外出を余儀なくされたことか。
大概が彼女の買い物の荷物持ちや手伝い、それに近しい雑用にこき使われた。
アルバイトの一件があったから、今回は容認したが次回は絶対に断ると確固たる決意を持っています、湊君は。
夏休みも、生徒会の活動に諸事情に奔走された影響で想像していたものとは程遠い結果となった。
だが、過ぎてしまったことを根に持っていても意味はない。
最後にもう一度だけ、私情を含めた冷ややかな視線を向けるが、綺羅坂は一向に目を合わせる様子はない。
黙々と羅列された文章を読み、そしてページを捲る。
無言と虚しさだけが俺と彼女の間に生まれる。
会話はない。
だが、それが俺には楽で良い。
必要最低限の会話で、それ以上は求めてこない関係性が、俺には合っている気がする。
眼前に広がるむさ苦しい集団の先の少女に、お可哀そうにと目を向けると気が付いた雫は輪の中から強引に出るようにしてこちらに向かってきた。
それと同時に、優斗も女子生徒の輪の中から出る。
二人が並んでこちらに向かうことで、クラス中の視線が集まるが構わんと言わんばかりの振る舞いで二人は目の前で足を止めた。
「おはようございます湊君、ついでに綺羅坂さんも」
「……おはよ、二人そろって俺を晒しものにする気か」
彼らの後ろに立ち尽くす生徒達からの悪意ある視線が突き刺さるのだが……
これだから、クラスの中心人物たちと教室内で話すのは嫌なんだ。
綺羅坂は毅然とした態度を崩さないが、雫の語尾にだけはピクリと肩を震わせる。
「あら、誰かと思えば男子生徒に囲まれて嬉しそうにしていたお姫様じゃない。私達のことは構わず満喫されてきてもいいのよ」
「……普段よりも早く来てソワソワと教室の戸を見ていた人もいたみたいだけれど、私だって教室では好きにしたいですから」
……怖いよ。
いや、本当に怖いよね女子生徒の言葉の端々に刺さるような会話のやりとりって。
俺じゃなきゃ完全に泣いているね。
ちなみに俺は膝がガクガクと泣いているよ。
詳しく言えば、背筋も震えているまである。
俺の隣で、窓に寄りかかる王子様は、その光景を楽しそうに眺めていた。
「なんだか夏休みを挟んだだけのなのに、懐かしいな」
「……青春真っただ中の男子高校生みたいな発言はやめろよ、気持ち悪いだろ」
「まさしくその通りなんだが……それにしても、クラスの雰囲気が結構変わったな」
俺と似たような感想を持っていたのか、優斗は呆れるように嘆息を漏らす。
それは、彼らしからぬ反応だった。
否定も肯定もしないのが、優斗の態度だった。
些細な変化だが、彼にも少しは変わっている点があることに気が付いているのだろうか。
「ともかく、二学期は忙しくなりそうだな」
「……そうだな」
隣で毎度のように言い合いをしている女子生徒二人を見てから、優斗の顔を見て答えた。
楽しそうに、これからの日々を期待しているかのような表情は、彼の寄りかかる窓に反射して見えた俺の表情とはまるで違う表情だった。
二学期編が始まります!