怜とお手伝い
綺羅坂の話です。
人生百年。
年々、平均寿命が伸びているこのご時世、百年も何を生きがいにすればよいのか、考えることがある。
百年、単純に計算して今の人生の四倍以上の年月を生きていくのだ。
趣味が一つ二つあったところで、何年続くやら。
悪態をつきたくもある日々で、やはり必要となるものがある。
年齢を問わず、どんな状況であれど、あったとして困らないもの。
そう、現金だ。
マネー、お小遣い、へそくり。
学生でも例外なく、今はお金がないと遊ぶこと自体が難しい。
ゲームやイベント、ライトノベルなどの書籍や云々……
趣味でバイクやPCなんかを買う人も多い。
つまり、お金最高、時間はお金で買えないと言うが、そもそも金がない時点で買う買わないという選択肢すら与えられないのだから、まずは稼がねば。
親父からの毎月の小遣いが、年々減少傾向にある湊君の懐事情では、やはり夏休みの短い期間であればこそ、バイトを考えるものだ。
解決とはいかないにしても、問題の先送りという意味では現状、目下の生徒会問題がなくなったここ数日、普段使用頻度の少ないスマホで求人サイトを眺める日々が続いていた。
いや……やる気はある。
だが、行動に移れない。
典型的な意識だけは先行して、行動に移さないパターンですねこれは。
バイト経験はある。だが、短期でとなると面接して、採用されて、一日二日の間の短い期間を働くことで日払いや週払いなどで給料を得られる。
仕組みに関しては理解しているのだが、如何せん得意な職種も、興味をそそられるものもない。
どうしたものかと思い悩んでいた時、あの女性から連絡がきた。
「バイトをしなさい」
「誘いじゃないんだよな……決定事項だそれは」
真良家のリビングに当然のごとく居座る女性、綺羅坂怜は暑中見舞いとこじつけてやってきた。
誘いのはずなのに、言葉自体が決定しているかのようだ。
目を細めて彼女を見据えていると、考えを見透かしたかのように告げた。
「夏休みは学生もバイトをするのでしょう?私は経験がないから分からないのだけれど、条件だけなら破格の提示を保証するわ」
「さりげない金持ちアピールはいらん……それで、何の仕事なんだ?」
知り合いからの斡旋であれば、見知らぬ場所で面倒な面接を受ける必要性もない。
俺にしてみればありがたい話だ。
「内容は簡単よ、一日私の家で手伝いをしてもらいたいの。給料は……これくらいかしら?」
彼女は指を三本立てて、提案を持ち掛けた。
つ、つまり……一日で諭吉が三人もやってくるのですか?
家の手伝いだけでそれとは、破格すぎる。
世間知らずもここまで行くと凄みを感じる。
「君は今からビジネスパートナーだ」
「表情からは一切やる気を感じないのに、声からはやる気が満ち溢れている気がするわね……まあいいわ、じゃあ明日の朝八時に迎えを来させるわ」
綺羅坂に差し出した手を、彼女の小さく白い手が掴み返すとそう告げられた。
一瞬、明日からかよ……なんて文句が頭をよぎったが、背に腹は代えられない。
俺の生活費が掛かっているのだから。
正直、人の家の手伝いと言われても、何をすればいいのか予想も立てられないが、接客や倉庫作業よりかはマシな気がする。
これで俺の欲しいものが買える。
本とか……本とか。
……案外、これまで通り小遣いでも生活できるな。
本当に欲しいものが本以外に無い。
完全にあれですね、物欲低い系男子。
やだ、これ将来は完全に需要高いやつだ。
完全に嫁さんにお財布事情を握られて、自分の稼いだ給料なのに毎月小遣い決められるパターンですね。
ともかく、夏休み初の小遣い稼ぎはこうして意外な形で決まった。
「椅子」
「……」
「椅子」
「……」
翌日、想像していたバイトとは程遠い光景が広がっていた。
まず、やってきたのは綺羅坂家の本邸ではない、金持ちお得意の別荘だ。
大きな豪邸を想像していただけに、木造でこじんまりとした落ち着きある建物に思わず呆けてしまった。
だが、決して安っぽいわけではなく、滲み出る金持ち感は保ちつつ、それでいて庶民感も忘れない。
綺羅坂が望んで建ててもらった、彼女のリクエスト通りの建物らしい。
木造二階建て、芝生の庭付きで田舎のこの街でも指折りの人がいない山の麓に建てられていた。
すぐそばに大きな川もあり、自然豊かなその場所は正直俺も落ち着くいい場所だ。
だが、中に入れば待っていたのは綺羅坂の世話係。
日常会話のついでに今回の誘いの理由を問いかけた所
「夏季休暇は世話係にも当然の権利よ……さあ、私の手と足となり働きなさい」と、視線も合わせず告げられた。
そして今、彼女から求められているのは椅子を差し出すこと……ではなく、椅子自体に俺がなれと命じられていた。
「いや……流石に無理だろ」
湊君、そんなに直角に曲がれない。
というか、人を乗せて空気椅子とか、俺の身体的スペックでは不可能だ。
綺羅坂の命令を拒むと、彼女は小さく溜息を零す。
「まったく、今日の私は同級生ではなく雇用主よ?可能な範囲で仕事を遂行するのがあなたの務めではなくて?」
「将来、俺はNOと言える人間になりたい……」
「その将来が心配でしかないわね……」
まるで母親のように将来を案じられていると、彼女が座っているソファーの隣をポンポンと叩かれる。
それが座れという合図なのは聞かなくても分かった。
白いその物体に腰掛けると、ふわりと体を優しく迎えられた。
やはり、金額が俺の家のとは違うな……そう思っていると、不意に隣に座り綺羅坂の体が横に倒れてる。
仰向けになり、俺の膝の上に頭を置いた綺羅坂は、すぐにこれまで通り読書に戻る。
その表情からは、一切の羞恥などは感じられない。
枕ですね、分かります。
少しでも頬を染められたら、俺も恥ずかしいという感情が湧き上がるのだろうが、ここまで澄ました表情を一貫されるともはや何も感じない。
ただただ、重いなーなんて思うくらい。
そんな態勢で、どれくらい時間が経過しただろうか。
一時間?もしかしたら、二時間近く経過したかもしれない。
その間、この室内に広がるのは互いの呼吸の音とページを捲る音。
そして、そこから響く自然の音だけだ。
幸い、座っているソファーの恩恵もあり、体の節々が痛くなることはなかったが、瞑想の時間が増えた。
思い出したくもない考えも、必要のない用事も、色々と思い出すものだ。
だが、それも綺羅坂が口を開くまでの事だった。
「夏休み……終わったらもう二学期ね」
「まだ二学期だ……三分の一しか終わってないと考えればお先真っ暗だ」
考え方、捉え方の違い。
しかし、声音からは俺とは違う感情を含んだ言葉に聞こえた。
まるで、時間が過ぎ去ることを惜しむように。
そんながらの人でないことは、これまでの付き合いで分かり切っていたことだが、一瞬の変化には目を疑った。
読書が終わり、次に待っていたのは庭の清掃だった。
芝生の上に落ちた枯葉をゴミ袋に入れていく。
この炎天下の中の作業だが、幸いにも水源地が近くにあるせいか、幾分マシな気がした。
淡々と作業をする姿を、綺羅坂は日陰のある屋根の下で眺めていた。
何が楽しいのか、いつもの冷淡な表情ではなく、口元に僅かに微笑を含んでいる。
「ちゃんとした付き合いが短いわりに、濃度の高い日々だとは思わない?」
「……その濃度を高めている自覚があるなら何も言わないんだがな」
夏らしく、と表現すればよいのだろうか、布面積の少ない袖の短いシャツに短パンという格好が、普段の彼女と雰囲気が違うことで、もはや幻想的にすら見えてくる。
彼女の肌は雪のように白く、この夏という単語がまったくふさわしくない。
短い髪の先で、一滴の汗が零れるように流れ落ちると、それを鬱陶しいように短い髪を手で払う。
「真良君の人生を色濃くしてあげていると考えれば、それは悪い気がしないわね」
「前向きに自己解釈しすぎだ……」
視界に入る限り最後の葉を拾うと、最後に熱を下げる意味を含めた水まきを行う。
水を滴らせた芝生が喜んでいるかのように、陽の光を反射させた。
果たして、本当に俺は人生を色濃くしてもらうことを望んでいたのだろうか。
人生は、毎日の繰り返しで、世の中が多用しているほど平等などではない人生を、変えたいと思っていたのだろうか。
あの頃の自分は、決して答えを返してはくれない。
ただ人生は戻らない、その事実だけが最近の俺には突き付けられていた。
「綺羅坂は……人生をやり直したいと思うか?」
「やり直し……」
珍しく、純粋で他意のない問いかけだった。
彼女は何かをやり直したいと思うのだろうか。
人望も、才能も、環境も、おおよそ人が欲しいと思うであろう才を手にしている彼女には、この世界はどのように広がっているのだろうか。
それが聞きたかった。
「……」
別に真剣に回答をしてもらいたくて放った言葉ではなかったのだが、彼女は一瞬だけ視線を上にあげると顎に手を当てる。
そして十分な間を置いてから言葉にして自分の考えを告げた。
「あるわ」
「……そうか」
―――お前でもあるのか
綺羅坂にそう言葉を投げかけようとしたとき、続けるように発せられた。
「でも、それって単純に後悔しているということに繋がるって思うようになってからは考えないようにしているわ」
後悔、綺羅坂の意見は的を射ている。
やり直したいと考える根底にあるのは後悔だ。
そして、当時の自分の先に待つ結果を知っているからこその考えだ。
意思が強い人間と、弱い人間の差は、この現実の捉え方ができるか否かなのではないだろうか。
過去に縛られる、過去の栄光を過去として置いておくことが出来ない。
でも、強い人は縛られることなく、過去として切り離すことができる。
だから綺羅坂は強い。
雫も、優斗も彼女に僅かに及ばないのは、意思の強さ故なのだろう。
「私がこの先、最初に後悔することがあるとすれば、それはきっと」
手に持った本を横に置き、陽の光の当たる庭にまで足を運ぶと、綺羅坂は普段のように不敵な笑みを浮かべる。
そして、ぬるりと指先を俺の顔の近くにまで運ぶと呟くように言った。
「真良君が私達のもとから離れていったときかしら?」
「……」
ふっと笑いをこの巣ように身を翻して、元の位置に彼女は戻る。
その背を見ながら、今度は俺が呟くように告げた。
「私達……ね」
その後も仕事は数多く注文された。
しかし、作業をこなしていても脳裏に思い浮かぶのは彼女の変化。
彼女自身、自覚のない変化なのかもしれない。
だが、だからこそ強く印象が残ってしまった。
あの人を突き放して、群れることを嫌う女子生徒が、友人ではないにせよ他者と自分を同じ場所に見ていることを。
夏休みの些細な一日。
給料が貰えるだけで、暑くて面倒な一日になると思っていたその日、本当に些細であったが一つの変化を知ることが出来た。
そして悟った。
お小遣いをやりくりして、バイトに体力を割くことは絶対にしないと。
……疲れた。
次は雫です。




