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焦燥

30

 七月。停滞していた梅雨前線がようやく日本列島から離れ、久しぶりに天気予報に晴れマークが現れた。

 夏が来る。

 毎年参戦している夏フェスに今年も行きたいと思っていたが、こんな気持ち、状況のままで行ってもきっと楽しめない。

 大地はいまだにどこからも内定をもらえていなかった。

 エントリーシートは通過するものの、一次、二次面接でことごとく落とされ、最終面接に辿り着けた会社は一社もなかった。

 今も必死でエントリー先を探しているが、この暑さで企業も参っているのか、採用活動をしている数が急激に減っていた。

 悠真も、それに豊嶋も内定をもらえたみたいだし、就活に追われているのはあのゼミの中では俺だけかもしれない。

 他の連中も直接聞いたわけではないが、顔つきを見ていれば何となくわかる。優は夏に海外を一人旅するって、浮かれているし、高井戸に至っては、ゼミの始まる前には必ず読んでいた就活関連の本を、一切読まなくなっていた。

卒論のテーマもそろそろ決めて取りかからないと……。就職もできない、卒業もできないなんてことになったら、父さんや母さんに合わせる顔がない。

どうしよう。大地はパソコンの前で頭を抱えた。

どうやったら内定をもらえる……?

大地は顔を上げると、机の上のスマホを勢いよく掴み、藁にも縋る思いでLINEを送った

〈お願い、助けて。どうしても内定がもらえない〉

 するとすぐに返事が返ってきた。

〈俺は企業の人事部じゃないから内定はあげれない〉

 そんなことわかってる。察しろよ。それともわざとか。こっちは切羽詰まってるっていうのに。内定もらってる奴はこれだから嫌なんだよ。

〈そういうことじゃない。俺も豊嶋みたいにレクチャーしてくれ〉

嫌味の一つでも言ってやりたかったが、機嫌を損ねられたりでもしたら頼る相手がいなくなる。大地はぐっと堪えた。

〈俺じゃなくて、藤崎とかに頼んだら? それに武田も内定もらったみたいだから、そっちでもいい〉

〈織戸が教えたから豊嶋は内定もらえたんだろ。だから、優や悠真より、織戸に頼んだ方が内定をもらえると思って〉 

 もし断られたらどうしよう。優に頼むとしても、優と俺ではスペックの違いがあるし、悠真はやっともらえた内定だから、あまり頼りになるとは思えない。林は院に行くし……。最悪の場合は、教授のコネを頼るしか……。

 返事が返ってくるまでのほんの数分の間に、断られた時どうすればいいか、様々な考えが頭を駆け巡った。 

〈わかった。でもあんまり期待するな〉

 いい返事が返ってきて、大地はほっと胸を撫で下ろした。

〈ありがとう〉

〈それで、俺は何をすればいいの?〉

〈今どこにおる? 大学?〉

〈図書館〉

〈じゃあ、今から行くから待ってて〉

〈わかった〉

 大地はすぐに、家を飛び出した。



図書館に着くと、大地は織戸の姿を探したが、目に見える範囲は図書館のほんの一部でしかないので、見つかるわけなかった。

大地は織戸にLINEを送って、どの辺にいるかを訊いた。

 送られてきた返事に沿って二階に行くと、織戸は熱心に本を読み、時々、何かをノートにメモしていた。

「織戸」

 図書館なので、静かな声で呼んだ。

 織戸は振り向くと、読んでいた本とノートを閉じた。

「どうやったら内定もらえる?」

 隣に座るや否や、大地は訊いた。

「その前に移動しよ。ここだと周りに迷惑かかるから」

「わかった」

 図書館ではちょっとした話し声でも周りに迷惑がかかる。二人は話し合いの場として、館内にあるミーティングルームに移動した。長机と椅子だけがある簡素な部屋だ。

 静寂がモットーの図書館にはこういった部屋がいくつかある。全面ガラス張りなので外からは丸見えだが、話し声はちゃんと聞こえない。それに、使用状況が一目でわかる。気を付けなければいけないのは、防音ではないのであまりに大きな声を出すと注意される。

「で、どうやった内定もらえる?」

 大地は再び訊いた。

「どこまでが最高?」

 急いている大地とは対照的な悠然とした態度で織戸は訊いてきた。その質問の意図がわからず、一秒でも早く内定獲得の方法を知りたい大地はやきもきとしたが、とりあえず今は、訊かれたことに答えることにした。

「最終」

「最終まで行ってもらえなかったの?」

「悪かったな」

 馬鹿にされているような気がして、愛想のない返事になってしまった。

織戸にはそんな気はなかったのかもしれないが、内定がもらえない不安と焦りで、神経質になってしまっているのかもしれない。

「何で落ちた?」

「それがわかったら、こうしてお前に頼んでない」

「だよな」

 織戸は机の上で手を組んだ、逡巡しているように見えた。

 部屋の外と負けないくらいの静けさが訪れた。

「最終まで行ってたら、俺ができることはないと思う」

 大地は縋るような目で織戸を見た。最後の望みが、今消えた。

「そんな目で見るなよ。仕方ないだろ。最終までは形式ばった質問が多いけど、最終では入社意志の確認以外に、そんなことで何がわかる? みたいなこと訊いてくるから、そればっかりは準備できないからな。強いて言うなら、保守的で優等生みたいな答え方をしないってのがアドバイスかな」

 求めていたような答えではなかった。もっと、こうすれば内定もらえる、みたいな具体的なアドバイスをもらえると勝手に思っていただけに、落胆を隠せなかった。

「豊嶋の時はあんなに自信満々だったじゃないか」

 悲しみは怒りへと姿を変え、目の前にいる人物に言葉なって襲いかかった。

「あいつの場合は、エントリーシートと面接のやり方を教えただけ。キラキラネーム用のな。けど、お前はエントリーシートが通らないわけでも、一次や二次面接で落とされてるわけでもないから、さっきも言ったけど、俺にできることはない。俺はキャリアセンターにおる就活担当の職員じゃないんだから」

「でも、内定七個ももらったんだろ」

「だからって、どうすれば内定をもらえるかなんてわからない。俺だって最終面接で落とされたことあるんだから」

「えっ、そうなの?」 

「当たり前だろ。落ちない奴なんかいないだろ」

 大地の間の抜けた反応を見て、織戸は呆れていた。

「でもエントリーシートは落ちてないって聞いたけど」

「エントリーシートは落ちてないよ」

 噂は本当だったんだ。

 大地は感嘆した。目の前にいる織戸に後光が差しているように見えた。

「何?」

「いや、凄いなーと思って」

「全然。あんなの書き方さえわかったら簡単に通る」

「言うねー。やっぱりできる男は違うね」

 織戸は囃し(はやし)立てる大地を横目で一瞥すると、溜め息を吐いた。

「内定もらえてないから落ち込んでると思ったけど、そんなことないな」

「これでも落ち込んでるけど」

「大丈夫、そうは見えないから。じゃあ、もういいか? 卒論を書きたいんだけど」

「待って。内定獲得のアドバイスができないのはわかった。質問を変える。この三カ月、最終まで行ったやつが一つもないんだけど、どうしたら最終まで行ける?」

 椅子を引いて、立ち上がろうとした織戸を大地は引き止めた。

「いつもどこで落ちる?」

 織戸は一度浮かせた腰をまたもとの位置に戻した。

「一次か二次」

「それだったら、企業研究がなってないからじゃないか。どんな企業で、どういった事業展開をしているか。もっと言えば、内定をもらったあとで自分はどういったことをしたいかっていう、明確なビジョンを見せれば大丈夫」

「それはできてると思うんだけどなー」

「じゃあ……本気でその会社で働きと思ってないからじゃないか?」

 胸が痛んだ。

織戸の言葉が文字となり、鎖のように心を締めつけられたようだった。

「どうしてそう思う?」

 平然を装って、いつも通りの声で言おうと努力した。その努力は実ったのかはわからないが、織戸は気にも留めず理由を説明してくれた。

「だって、最終まで行ったことある、企業研究もちゃんとしてる。それでも、一つも行けてないのは、面接の技術云々じゃなくて、やる気の問題だと思ったから」

 リフレッシュして、新たな気持ちで就活に臨んでいる。そう思っている。でも、どうして自分はこんなところにいるんだ? 説明会の会場、面接での受け答えの間、頭の片隅で、自問自答を繰り返すことが多かった。

「沼田は……嫌なことを思い出させて悪いけど、一回失敗してるわけだろ。しかも最終まで行ったのに。そこから気持ち切り替えて、名前も知らないようなところで働こうと思うのには、ちょっと時間がかかるだろ。でも、中小だって入社意欲のない奴なんか採用したくないからな。そういったのが面接官にバレたんじゃないか?」

「嘘はバレないのに、どうして……」

「嘘もバレる時はある。向こうもわかってるだろ」

 独り言のつもりだったが、織戸は会話を続けた。

「じゃあ何で嘘を吐いた奴が、次の選考に進めるの?」

 ついでに訊いてみた。

「それはその面接官が無能なだけだろ。それかその嘘が上手に吐けていたかのどっちか」

「織戸も嘘を吐いていいと思ってるんだ」

「それも含めて就活だろ」

 就活の場に嘘が蔓延していることに対して、あの頃と違い、もう何も感じなくなっていた。だから、織戸の発言に食ってかかることもなかった。

「織戸も嘘吐いた?」

「御社が第一志望っていう、定番の嘘は吐いた」

「それだけ?」

 こう言ってはなんだが、織戸ならもっと上手な嘘を吐いていそうな気がした。

「まあ、他にも吐いたけどいちいち覚えてない」

 ばつが悪くなったのか、織戸は口を濁した。

「沼田は? 嘘も吐かず真面目にやってるの?」

「それが普通だろ」

「そんなこと言ってる場合か? この際形振りかまってられないんじゃないか」

「確かに。綺麗事言ってる場合じゃないよな」

 前までだと、嘘を吐いてまで内定欲しくない、と一蹴していたが、そんなことを言える状況ではない。

「けど、バレないかな?」

 面接の場では一度も嘘を吐いたことがないので、うまく吐けるか不安だった。

「別に吐きたくなかったら吐かなくていいんじゃない。吐いたらもらえるってわけじゃないし、バレたら絶対もらえないからな」

「諸刃の剣?」

「そんな大層なものじゃないよ」

 織戸は笑っていた。

「さて、じゃあ今度こそ行くわ。お前も卒論に取りかからないと、卒業できないぞ」

「わかってる」

 織戸はドアノブを下げて部屋を出ていこうとしたが、身体が半分ほど部屋から出たところで動きが止まった。

「どうした? 忘れ物?」

 大地は今まで織戸が座っていた椅子や机の上を見たが、何もなかった。鞄もしっかり肩にかかっていた。

「倉木に会ったか?」

 外に聞こえないように一度開いたドアを閉め、大地の方に向き直った。

「会うって……遼はもう、大学には……いない」

 大地は途切れ途切れに言葉を紡いだ。

「そんなことわかってる。面会に行ったかって聞いてるんだよ」

「面会……か」

「そう、面会」

「そんなこと考えもしなかった」

 もう二度と遼に会えないと思っていたが、そうか、面会という手があったんだ。

「友達じゃないって言っておきながら、心配してるんだ」

 大地は嬉しくなり、自然と笑みが零れた。

「あんな人殺し、友達じゃない。友達じゃないけど、心配にはなるだろ」

 人殺し。ゼミの時に聞いた、糾弾するような響きはそこになかった。

「でも面会しようにも遼ってどこにいるの? 刑務所っていうのはわかるけど、どこの?」

「両親に訊いたらわかるんじゃないか」

「そっか。じゃあ、わかったら連絡する」

「いい」

「何で? 心配なんだろ。だから言ったんじゃないのか?」

「会っても……何を話したらいいかわからない」

 織戸は首を振った。

 その言葉を受けて、大地も同じ思いに駆られた。

 遼に会って、何を話せばいいんだろう?

「そういうわけだから、会うなら一人で行ってくれ」

「……わかった」

 織戸は大地の返事にうなずくと、部屋を出ていった。

「織戸、ありがとう」

 大地はその背中に、お礼を言った。


 事件からもう、三カ月が過ぎている。

 自分のところに記者が来たこともあって、水木と会ったあの日、大地はコンビニで普段読まない週刊誌を手に取った。

 内定をもらえなかった優等生の末路。そう記事の冒頭に大きく書かれていた。書いたのはあの水木だった。

 内容は事件のあらましについて二割、残りは倉木遼という人間について書かれていた。

 記事の中に、容疑者と同じゼミ生の証言を入手、と題した一文が字体を変えて書かれていて、そのあとに続く文章には、ゼミ生A、Bが登場していた。

 大地は断ったが、悠真や他のゼミ生が取材に応じていたことを思い出した。

 今では、裁判も終わったので、事件が報道されることもなくなり、世間ではすでに忘れられた事件になっていた。

けれど、説明会の受付、面接の自己紹介の時、大学名を言うと、大地を見る目が変わる人はいた。普段は忘れている記憶が、大学名を聞くことによって呼び起されてしまうのだろう。

 判決は無期懲役だった。

 二人の命を奪ったのだから、仕方のないことだ。

 判決が下るまで、本当は別に犯人がいて、遼が大学に戻ってくるんじゃないかと幻想にも似た思いがあったが、裁判所は容赦なく真実を突きつけた。


 一人になった大地は、しばらく部屋の中にいたが、ここにいる必要も、大学にいる必要もなくなったので、部屋を出て、その足で家に帰った。

 家に帰った大地は、数時間前と同じようにパソコンの前で頭を抱えていた。

 いや、織戸というカードを切ったから、数時間前よりマイナスだ。

 働きたいと思う意欲。

 どうやったら湧いてくるのだろう。

 そんなことを考えながら、いくつも登録している就活サイトをウロウロしていた。

 ある就活サイトのトップページには『積極採用中』『内定まで二週間』など、思わずクリックしたくなるようなバナーが、チカチカと点滅を繰り返していて、その中に『就活 夏の陣』と大袈裟に銘打ったバナーを見つけた。

 これだ!

 消えかけていた希望の光が、眩いくらいに輝き始めた。


31


 ちいさっ。

 それが、夏の陣に参戦した第一印象だった。

 夏の陣は規模の大きさを除けば、去年行った合説と同じだった。企業ブースがあり、就活サイト主催の就活セミナーが開かれる。

 ただ、去年行った合説は何か所にも会場が別れていて、全部を見て回るのも疲れるぐらい広かったが、今日の会場は体育館ぐらいの広さしかなく、しかも、今大地がいるこの場所、この一ヶ所のみだった。

 少し拍子抜けしたが、この時期なら仕方のないことだし、こういった場を設けてくれるだけでもありがたい。

 今日の目的は二時から行われる自己分析セミナー。これは、今一度自分を見つめ直してみようという趣旨のものだった。

 自分に足りないのはこれじゃないかと思い、予約した。

 これを機に内定への糸口を掴めれば、お祈りメールの連鎖から抜け出せるかもしれない。

 期待に胸を躍らせながら開始までの時間、企業ブースを訪問して過ごした。

 いよいよセミナーが始まる時間になり、指定のブースに行くと、結構な数の就活生がいた。そこには、同じ轍は二度と踏まないと心に誓った者しかおらず、一度闘いに負けたその目は、真剣そのものだった。

 その敗者の期待を一身に背負ったセミナーを任されている人は若く、ネクタイの結び目を何度も気にしていて、どこか頼りない印象を受けた。

 司会の人と、セミナーの内容は相関関係にないとはわかっているが、どうせなら、(いぶ)し銀溢れる人の口から聞きたかったが仕方ない。

 内定に近付けることを願って、大地は前方に垂れ下がっているスクリーンに注目した。



 夏の陣は全く役に立たなかった。

 エントリーシートを見直す、中小企業に目を向ける。

 そんなことこっちはとっくにやってるよ。やって上でここにいるんだよ。

 誰に向けていいのかわからない憤りを覚えただけで、セミナーは終わってしまった。

 夏の陣は午後五時まで開催されていたが、セミナーが終わると、訪問していない企業が残っているにもかかわらず大地は会場を出た。

 外に出た大地を灼熱の太陽が、頼んでもいないのに出迎えてくれた。

 たまらずスーツを脱ぎ、ネクタイを外し、首元まできちんと留めていたボタンを二つ外し、逃げる様に地下鉄の構内へと下りていった。

 魂が抜けきったような、どこに焦点が合っているかわからない目をした大地は、地下鉄の暗闇の中で、ジョーカーとも言えるカードを持っている人物に、会いに行くかどうかを悩んでいた。

 その人物にかかれば内定はもらったも同然。そうすれば、この危機的状況から脱出し、残りのキャンパスライフを優雅に過ごせることができるが、その方法は、やってはいけないことだと否定してきたことなので、今更どの面下げて、お願いすればいいかわからない。

 そんな心の中とは裏腹に、大地は地下鉄を降り、いつも通学で使っている路線の電車に乗り換え、身体は自然とその人物がいるところへと向かっていた。

 電車を降り、歩くこと十分。通うこと四年。見慣れたはずのいつも大学なのに、正門をくぐる時、なぜか初めて訪れる時のような独特の緊張感に襲われた。

 キャンパス内を歩き、教授の研究室がある、第一研究室棟へと入り、三階まで上った。

研究室に入る前に開けていたボタンを留めたが、ネクタイとスーツは着なかった。

「どうぞ」

 ドアをノックすると、中から返事が返ってきた。

 本来ならアポを取っておかないと、研究室にいるかどうかわからなかったので、大地は一安心した。

「失礼します」

 面接で培った入室の仕方で、初めて教授の研究室へ入った。

 ワンルームほどの広さの研究室には、奥に机と椅子。その手前に応接セット。そして教授という職業に相応しく、右手の壁一面が本棚になっていた。反対の壁には分厚いファイルが入った棚があった。

「どうしましたか?」

 椅子に座って本を読んでいた教授は、突然の来訪にも嫌な顔一つせず、大地を迎えてくれた。

「あの……、言い辛いんですが、就職先を紹介してくれませんか?」

 入室してすぐ、大地は訪れた理由を告げた。

「自分の力でやってみましたか?」

「もちろんです。自分なりに頑張ってみましたが、どうしても内定をもえませんでした」

「そうですか。……とりあえず座りなさい」

 すぐに紹介してもらえると思っていた大地は、戸惑いながらも、促されるまま応接用のソファに腰を下ろした。

「まだ就活は終わったわけじゃない。採用活動をしている企業はまだあります。今年一杯、頑張ってみるつもりはありませんか?」

 テーブルを挟んで大地の向かいに座った教授は、そう訊いてきた。

嫌がらせでも何でもないことはわかっている。大地自身も教授の言う通り、頑張って自分で内定をもらいたい。

 けれど、どうすればいいかわからなくなった今となっては……。

「正直、しんどいです」

 教授は視線をテーブルに落とし、少しの間黙った。その間、もしかしたら紹介してくれないのではないかと気が気でなかった。

「わかりました」

 その言葉を聞いて、大地の顔はパッと輝いた。

「紹介できると言っても、いくつもあるわけじゃありません。それに私の紹介だからと言って、必ず内定を出してもらえるわけではないということはわかっていますか?」

 教授は大地に視線を戻して、しっかりと目を見て言った。

「はい」

 教授はそう言っているが、実際に落ちることはない。コネとはそういうものだ。

「それじゃあ――」

 そう言って教授が紹介してくれた企業は、二社あった。一つはスーパー、もう一つはコンサルティング会社だった。

 スーパーの方は友人が重役、コンサルティングの方は教え子が社長をしているらしい。

 教授が一通り、どういった会社なのかを簡単に説明してくれた。

「あまり興味がないみたいですね」

 教授は大地の心の中を的確に読み取った。

「いや、そんなことは……」

 紹介してくれた手前否定したかったが、教授の言う通りだったのでできなかった。

 内定をもらえるならどこでもいいと思っていたが、一度も働きたいと思ったことがないところだったので、返事に困った。

「無理にここで働きなさいと言っているわけじゃないんですよ。だから、本当のことを言っても構いません」

 教授が優しく言ってくれたので、本当のこと、というよりかは望みを口にした。

「……はい。あの、食品メーカーとかはないですか?」

 図々しい。自分でも思ったが、恥など教授に頼みに来た時点でどこかに置いてきた。

「残念ながら、私もそんなに顔が広いわけじゃないのです」

 そうなる必要は全くないはずなのに、期待に応えられなかったせいか、教授は申し訳なさそうに言った。

「そうですか」

 どうしよう。

この二つから選ぶべきなのだろうか。それとも就活を続けて食品メーカーを目指すべきか。どっちが正解?

「自分が働きたいところで働くのが一番です。悩むくらいならやめておいた方がいい」

「それはそうかもしれないですけど……。そんな理想を振りまいている場合じゃないんです」

 大企業で働きたい。食品メーカーで働きたい。いずれも叶わなかった。理想なんて蜃気楼と同じだ。見えていても掴むことはできない。だったら最初から見なければいい。

「どうしてそんなに焦っているのですか? まだ決まってなくて焦る気持ちはわかりますが――」

「周りが決まっていて、俺ぐらいなんですよ、就活続けてるの。だから……俺も早く決めたいんです」

 教授の言葉を遮り、切実な思いを口にした。

「その気持ちはわかりますが、焦って、どこでもいいから内定をもらう。そんな気持ちで就活していては、決まるものも決まりません。仮に決まったとしても、すぐに辞めてしまうかもしれない」

 大地は口ごもった。実際まだ決まっていないし、織戸に精神面を注意されたばかりだ。

 教授は続けてこうも言った。

「残りの学生生活を楽しく過ごすためだけに、好きでも何でもない企業に就職するか、今年一杯頑張って、少しでも自分の望む企業に就職するか。目先の幸せより、五年後、十年後の自分の為になるように行動した方が、きっと将来、後悔しないはずです」

「そんなことわかってます。でも、もし就職できなかったら……。そう考えると不安でたまらないんです」

「だからと言って、働きたくないところで働くというのはどうでしょう」

「働きたくないとは言ってません」

「顔に書いてありますよ」

 虚勢を張ってみたものの、すぐに剥がされてしまった。

「沼田、もう一度よく考えなさい。別にコネで就職することが悪いとは言っていません。君の将来のことを思って言っているのです」

 そこまで考えてくれているのはありがたいが、今、大地に必要なのはそんな言葉なんかじゃない。

大地は意を決して言った。

「スーパーの方を紹介してください」

 大地は教授の目を見て言った。

「いいのですか?」

 それに応えるように、教授も真っ直ぐ目を見て言ってきた。まるで、大地の心の中に問いかけるように。

「はい」

「……わかりました」

 教授はしばらく大地の目を見つめていたが、根負けしたのか、何とか了承してくれた。

「連絡してみますから、ちょっと待っていてください」

 教授は立ち上がり、机の上に置いてあったスマホを手に取って電話をかけた。

「来週の土曜日に面接をしてくれると言ってくれました。場所は本社で、時間は十一時。その時に履歴書を持ってきてくださいとのことです」

 電話を終えた教授はソファに座り直すと、面接の約束を取り付けてくれたことを大地に伝えた。

「わかりました。教授、本当にありがとうございます」

 大地はお礼を言って、部屋から出ようとした。

「辞退したくなったら、その時は遠慮なく言いなさい」

 その背中に教授が言葉を投げかけた。刹那、心が揺らいだ。

「はい。失礼しました」

大地は向き直って、一礼してから研究室を出た。

少しでも研究室を出るのが遅かったら、決心した心が、教授の言葉に説き伏せられていたかもしれない。

これで内定がもらえる。就活が終わる。夏フェスに行ける。これから卒業まで遊びたい放題。……なのに、これっぽっちも嬉しくなかった。

もうあんな辛い思いはしなくて済むのに、どうしても素直に喜ぶことができなかった。自分で勝ち取ったものなら、こんな思いに苛まれることもなかったはずだ。

興味ない企業にコネで入る。何も悪いことはしていない。ズルいとは思うが、就職浪人なんていう、不名誉な称号は与えられなかっただけでもよしとしよう。

悪くない。俺は何も悪いことはしてない。何度も何度もおまじないように呟いても、心の中に芽生えた罪悪感は消えることはなく、日に日に育ち、今やどす黒い大輪を咲かすほどになっていた。


32


 大地は教授に紹介してもらった企業の本社、受付がある一階にいた。

「お待たせしました」

 受付カウンターにいた女性に名前と用件を言うと、担当の人が来るというので、しばらく待っていると、エレベーターから男性が降りてきて、大地に声をかけた。

「初めまして、沼田大地です」

 大地は頭を下げた。

「初めまして。福田です」

 福田は笑顔で名前を名乗った。

 半袖のシャツにノーネクタイ、スラックスという出で立ちで、歳は四十手前ぐらいだろうか。柔らかい物腰の人だった。

 福田に連れられ、大地は二階にある、小会議室と書かれたプレートが付けられている部屋に案内された。

 部屋には長机と椅子のセットが一つと、その向かいに椅子が一脚だけ中央に置かれていた。普段使われているであろうホワイトボードや長机、椅子は畳まれて、壁に寄せられていた。

 福田は長机がある方の椅子に座った。

「そんなところに立ってないで、座って座って」

 何か緩いな。

 そう思いながら大地は、向かいにある椅子に座った。

「失礼します」

 コネと言っても、ちゃんと面接用の態度で臨まなければ、もらえるものももらえない。大地は福田に声をかけてもらうまで、入口近くに立っていた。

「それじゃあ早速始めようか」

「はい、よろしくお願いします」

 大地は頭を下げた。

「あっ、その前に履歴書、もらっておこうか」

「はい」

 大地は就活カバンからクリアファイルに入れた履歴書を取り出して、福田に渡した。

 福田は、二つ折りになった履歴書を広げると、読まずに目の前に置いた。

「よし、じゃあ始めようか」



訊かれた内容は、これまで受けてきた面接と同じ感じだった。

けれど、面接官の射るような視線、就活生を襲うプレッシャー、部屋全体を取り巻く重苦しい雰囲気。そういったものはなかった。

それに、面接官の質問に答えると、その答えに対して、また質問される、と言った普段の面接ではよくされることもなく、一問一答形式で、まるでバイトの面接のような軽さがあった。

「それじゃあこれで面接は終わり。お疲れ様」

「ありがとうございます」

 大地は座ったまま頭を下げた。

「内定式が十月の一週目か二週目の土曜にあるから、空けておいて」

「えっ、……ってことは合格ですか?」

「そうだよ」

 当たり前のように言われた。

いくらコネでも、その日に内定をもらえるとは思っていなかった大地は驚きを隠せなかった。そのせいで、普段の言葉使いが出てしまった。

「正式な書類は後日、自宅に郵送されるから。……どうした?」

 放心状態のようになっていた大地を見て、福田は眉をひそめていた。

「いえ、何でもありません」

 待ち望んでいた内定をもらえたのに、大地の表情は冴えない。歓喜の雄叫びでもあげてもいいぐらいなのに、そんな気分には到底なれなかった。

「それじゃあ、私はこれで」

 福田は席を立ち、部屋から出ていこうとした。

「あの、すみません」

 その背中を追うように大地は立ち上がった。

「何?」

 福田は足を止め、顔だけを大地の方に向けた。

 大地は唾を飲み込み、息を一つ吐いてから、常識では考えられないような言葉を口にする。

「内定を辞退させてください」

 福田は目を(しばた)かせ、何を言われたか理解できていないようだった。

「どうした? 具合でも悪いの?」

 福田は、心配そうに大地を見てきた。

「いえ、気分は悪くありません」

 コネで面接をしてもらい、内定まで出してもらえたのに、それを辞退するなんて、熱でもあるのかと思われても仕方がない。

「あの、せっかく面接をしてくださって感謝していますが……すみません」

 大地は頭を地面に着くぐらいまで下げて、精一杯非礼を詫びた。

「君はバカなのか? 上がどうしてもと言うから、こうして面接をしてるんじゃないか。誰の紹介かは知らないけど、その人に泥を塗るようなことをしてもいいのか?」

「すみません」

「すみませんじゃないだろ!」

 怒号が大地の頭に降ってきた。ついに福田の堪忍袋の緒が切れた。

「君を採用することはすでに決まっているんだよ。それなのに今更辞退なんて……。嘗め(なめ)てる? 嘗めてるよね」

「そんなことは――」

「嘗めてるよ。嘗めてなきゃ、コネで紹介してもらった企業の内定を断るなんて、するはずないからね」

 弁解することさえさせてもらえなかった。

「これだから学生は嫌なんだよ。今年も何人か辞退を申し出た学生がいたよ。言わなくてもわかると思うがコネで勝ち取った奴じゃない。そいつら、面接では、ここが第一希望です。とか、他には内定をもらってません。なんて、平気で嘘吐きやがって。第一希望なら断るわけないよな。他に内定もらえてなかったら、うちに来るはずだよな。こっちは説明会や面接会場押さえるのに、金と時間を費やしてるんだよ。なのに電話一本で済ませやがって。菓子折りでも持って謝りに来いよ」

 腹の中に溜まっていた就活生の不満が一気に爆発して、その被害はすべて、きっかけを作ってしまった大地が被った。

「君、これからどうするの?」

「えっ、どうするって言われましても……」

 黙って怒りが静まるのを待っていた大地は、急に話しかけられて目が泳いだ。

「せっかくの内定を辞退なんかしてさ、どうするの? どこからも内定もらえてないんでしょ」

「……これから頑張ります」

 そう答えるしかなかった。

「そう、本当にうちに来る気はないんだ」

 そこで初めて、最後に救いの手を差し伸べてくれたのだと気付いた。けれど仮に、気付くのが早かったとしても、その手を掴もうとはしなかっただろう。

これからどうなるかはわからないが、コネ先の会社で働くよりかはいい未来が待っている。そう信じている。

「じゃあ、もう帰れ」

「……はい。失礼します」

 大地は深々と頭を下げてから部屋を出ていった。

 会社から出る時、あんな失礼なことをして、会社にも教授にも迷惑をかけたにもかかわらず、大地の表情は来た時より晴れやかだった。

 夏の日差しがアスファルトを照りつけ、陰から出るのを躊躇わす。

 内定を辞退した会社の前で、体裁を取り繕う必要はないが、大地はネクタイも緩めず、スーツも着たままだった。

 さっきまで、冷房の効いた部屋にいた名残で、まだ汗をかくまでには至っていないが、それも時間の問題。

 太陽を疎ましく思いながらも、大地はアスファルトに自分の影を落とした。


33


「すみませんでした」

 研究室に入るなり、大地はすぐに頭を下げた。 

 先日の面接の帰りに、事の次第を教授に報告し、謝罪しようと思って研究室を訪れたが、あいにく教授は留守だった。

 仕方ないので、家に帰ってから教授宛にメールを送ると、その日の夜に返信が来て、月曜日の十三時に約束を取り着けた。そして今、こうして頭を下げている。

「先方からも連絡がありました」

「それで、何て言ってましたか?」

 上目遣いで教授の顔を見て、恐る恐る尋ねた。

「まあ、嫌味を少々ね」

 そう言う教授は苦笑していた。

「本当にすみませんでした」

 また頭を下げた。

 明言は避けているが、きっと色々と言われたに違いない。そのぐらいのことをしてしまった。

「断ったということは、自分で頑張ると決めたのですね」

 いくら温厚な教授でも、福田のように怒鳴り散らされると思っていたが、意外にも穏やかな口調だった。

「はい。やっぱり自分で掴んだものじゃないと後味が悪いと言いますか……、その、教授に迷惑をかけるとわかっていても、どうしてもあそこの会社で働きたくなかったんです。いや、あの会社が悪いというわけではなくて……、コネを使ったことに対しての引け目を感じてしまって……、そんな自分が許せなくて……。だから、その……本当にすみませんでした」

 初めは顔を上げて、顔をちゃんと見て話していたが、話しているうちにだんだんと頭が下がっていって、最後の方は床に話しかけているみたいになっていた。

「沼田が納得しているならそれで構わないけれど、今回のことで先方にはもちろん、私、ひいては大学にも迷惑をかけたことは肝に銘じておきなさい」

 重厚な響きを持った言葉が下げている頭にのしかかり、さらに角度がついた。

「……はい」

「それでは、そろそろ顔を上げたらどうです?」

「……はい」

 大地はゆっくりと顔を上げた。

「正直に言うと、断るのではないかと思っていたのですよ」

 目が合うと、教授が言った。

「えっ?」

 思いがけない一言に、大地は目を丸くした。

「そんな驚くことではないでしょう。紹介した時の君の表情を見ていれば、誰だって想像できます」

「そうです……よね」

 あの時からもう心は決まっていたのかもしれない。それなのに、悩みに悩み、結果、双方に迷惑をかけてしまった。

「就活は大変だと思いますが、また何かあったら言いなさい」

「ありがとうございます」

 教授がそう言ってくれたことが救いだった。

「そうだ。卒業論文のテーマは決まりましたか?」

「いえ、まだです」

 卒論に関しては、何を書くか考えていた段階で最終面接に落ち、それ以来、書くどころか考えもしていない。

「就活も大切ですが、論文の方も頑張らないと卒業できませんよ」

「わかってます」

「ただ書くだけじゃ単位はあげませんよ」

 教授は悪戯染みた笑みを浮かべていた。

「わかっています。あの、参考に卒業生の卒論見せてもらってもいいですか?」

 その顔で緊張が解け、大地の心を覆っていた不安は吹き飛んだ。

「わかりました。去年の分でいいですか?」

「はい」

 教授はファイルの入っている棚から、一冊のファイルを取り出した。

「これが去年の分です」

「ありがとうございます」

 大地はそれを受け取り、どういったテーマで書かれたものがあるのか、ざっと目を通した。 

 コンコン。

 研究室にノックの音が響いた。

「どうぞ」

 椅子に座ってパソコンを眺めていた教授が、顔を上げて返事をした。

「失礼します。教授、先輩たちの卒論見せてもらっても……、あっ、大地」

「よお」

 研究室に入ってきた悠真に、大地は軽く手をあげた。

 就活中は本来の髪色をしていた悠真だったが、今は、明るい茶色に変わっている。

「大地も卒論の調べ物か?」

「うん、まあ、教授に用があって、それのついでに」

 話す必要がないと思ったので、ぼかした言い方をした。

「卒論ちょっと待ってな。もうすぐ終わるから」

「わかった」

 そう言うと、悠真は大地の向かいに腰を下ろした。

「ところで内定もらえたか?」

「まだ」

「そうなの?」

「うん」

「てっきり決まってると思った」

「何で?」

 大地はそこで初めて顔を上げた。

「何か顔つきがすっきりしてるから。てっきりもえたんだと」

「まあ、悩み事が解決したからかな」

「ふーん」

 何で悩んでいたかは興味がないようだった。

「そっかぁ~。もらえてたら一緒にフェス行こうと思ったのに」

「えっ! フェス!」

 フェスという言葉に大地は素早く反応した。

「うん。本当は翔平と山ちゃんと一緒に行く予定だったんだけど、翔平が無理になった。あいつ、まだ就職決まってなかったけど、フェスまでには決める。って、意気込んでたからチケット申し込んだけど、結局決まらなかった」

「そうなんだ」

「で、チケットが一枚余ってるから、どうかなって」

「行きたい……」

 大地は悠真たちと一緒に、毎年サンフェスに参戦していた。サンフェスとはSun festivalの略で、地元で開催される夏フェスだ。

特に今年は出演するアーティストが、自分の好きなバンドばかりで、出演者を見ただけで胸が熱くなった。

そのフェスに行ける。いや、でもまだ内定をもらえてないのに、夏フェスに行って騒いでいる場合じゃない。

「来る?」

 揺れる心を、悠真がさらに掻き乱す。

「……いや、内定もらえてないから……やめとく」

 遊んでいる場合じゃない。そう言い聞かせ、ざわめく心を静めた。

「行ってきたらどうです?」

 思いもよらぬところから甘言が聞こえ、また大地の心は揺れ始めた。

「でも、まだ就職先が決まってない状態で遊びに行くなんて……」

 誘惑が勝っているのか、さっきよりも否定する力がなくなっていた。

「私にはそれがよくわからないのです」

 教授はパソコンを操作していた手を止め、椅子から立ち上がると、机の前に来たので、二人は教授の顔を見上げる姿勢になった。

「大半の学生が、内定をもえていないと遊びにも行かず、サークル活動も自粛する傾向にあるのですが、毎日面接や説明会があるわけではないのに、どうして羽根を伸ばさないのでしょう?」

「それは、そんなことやってる場合じゃないからだと思います。それに、面接がない日でも準備で忙しいんです」

 教授は深くうなずいた。

「それも一理ありますが、根を詰め過ぎると身体を、時には心も壊してしまいますから、週に一度くらいは休んだ方が、成果は上がると思います。少なくとも私はそう思っています」

「教授もああ言ってるし、どう?」

 悠真がもう一度誘ってきた。

「でも……」

 大地は腕を組んで首を捻り、考え込んだ。

 気分転換には持ってこいだ。けれど、行ったとしてもこの状態で楽しむことができるのか?

 すでに行った時のことを考えている。オチるのも時間の問題だ。

「悩んでるなら行った方がいいですよ」

 その一言で心を決めた。

「行きます!」

 大地は立ち上がって、高々と宣言した。

「よし、決まり」

 結局、教授の後押しもあり、大地は今年もサンフェスに行くことを決めた。

 家に帰って晩ご飯を食べている時、フェスに行くことを両親に言うと渋い顔をされた。

「何で? 前は、就活から離れろって言ったのに」

「あの時は、抜け殻みたいになって、落ち込んでいたから気分転換のためだったけど、今度は遊びに行くんでしょ? そうなったら話は変わってくるわよ」

「でも一日だけだよ」

「でもねぇ」

 物憂げな表情を浮かべ、母さんは隣にいる父さんの方を見た。

「一日だけならいいんじゃないか? それでやる気が出るなら」

「お父さんがそう言うなら……。そうね。就活もちゃんと続けてるみたいだし……」

 両親の理解は得られたが、内心で大地は嘆息を漏らした。

大学生にもなって夏フェスに行くのに、親を説得しないといけないなんて……。なんてザマだ。

 夏フェスに行くことを悩んだことも、説得しなければならなかったことも、すべては内定をもらっていないことが原因。

 大地は、何度目かの恨みを、自分を落とした企業に抱いた。


34


夏の終わりが見える八月最後の日曜日。大地たち三人は悠真が運転する車に乗って、夏フェスの会場へと向かっていた。

「それだったら昼はどうする?」

 車内ではこのアーティストの、この曲が聴きたい。と言う話題で一通り盛り上がったあと、悠真が昼ご飯の時間を訊いてきた。

 夏フェスでは朝から晩まで音楽が鳴り止むことはないので、一日中、音の中に居続けることができる。そのため、どの時間帯にご飯を食べるかが問題になってくる。みんな聴きたいアーティストが違うから、共通の昼休みがない。

「去年と一緒で、各々(おのおの)でいいんじゃない?」

 助手席に座っている山ちゃんが言った。

「そうだな」

 車は少し飛ばし気味で幹線道路を走っていく。

 出発して一時間を過ぎた朝の八時頃、車窓から海が見えてきた。目的地まであと少し。この海の上に作られた、埋め立て地に会場はある。

「もうすぐ着くな」

 そう言った悠真の声は弾んでいた。

 ほどなくして、会場が見えてきた。

 二年生の時に、今日と同じように悠真が運転する車で来たら、駐車場に入るまでに時間がかかり、オープニングアクトのアーティストを聞き逃した苦い過去があるので、それ以来、開場する時間よりも早めに来ている。

 会場に着いてから待つことになるが、喋っていると時間なんてすぐに過ぎるから苦にならない。

 待つことなく駐車場に車を停め、すでに人混みができていた入場ゲートの前で開場するのを待った。

九時になり、入退場ゲートを抜けると、我先にステージやグッズ販売に行く人達をよそに、大地たちは出展している屋台に向かった。

「じゃあ、今年もサンフェスに来れたことを祝して、乾杯!」

「乾杯!」

 悠真が音頭を取ると、全員が持っていたビールを掲げた。

 フェスが始まる前に乾杯するのは、毎年の恒例行事となっていた。

「うまい」

「あー、最高」

「味気ねえー」

 全員が一気に飲み干し、口についた泡を手の甲で拭った。

朝から青空の下で飲むビールのうまさに笑顔が弾けていたが、悠真だけ、空になったコップを見ながら不満を口にした。

「仕方ないだろ、悠真は運転しないと駄目なんだから」

「半日もあったらアルコールなんか吹っ飛ぶって」

「そうかもしれないけど、もし今、捕まったら内定パアだぜ」

「あー、本物のビールが飲みたい」

 二人の説得で悠真の渇きは癒えるはずもなかった。

「そう言うなって。俺らも心苦しいんだよ。だから、せめてもの情けで奢ってやっただろ。山ちゃんが」

「じゃあもう一杯」

「仕方ないな」

 今度は大地が自分の財布からお金を出して、もう一杯、ノンアルコールビールを悠真に奢った。

「あー、味気ねえー」

 悠真は一杯目同様、すぐに飲み干すと同じセリフを吐いた。

「じゃあ、行くか」

 空になったコップを捨てた悠真が戻ってくると、二人に言った。

「おう」

会場にはメインステージと、その反対側に、注目の若手が出るネクストステージがある。

メインステージと、それを見るためのスペース(夏フェスに椅子なんてものない)が開場の半分以上を占めているため、必然的にネクストステージの規模は小さい。けれど、出演しているアーティストは、メインステージに立つにはまだ早いと言うだけで、テレビや雑誌にも出たことがあり、実力も知名度もそれなりにある。なので、メイン、ネクスト、どちらのステージを見にいっても損はない。

アルコールとノンアルコールでエネルギーを蓄えた三人は、両ステージ通じて最初に出演する、オープニングアクトのアーティストを見るため、揃ってメインステージに向かった。



 終わりを告げる花火が夏の夜空を彩った。

 花火大会のように何種類も何万発も打ち上がらなかったが、どんな花火よりも綺麗に見えた。

 夜が戻った空を見て、大地はセンチメンタルな気持ちに少し浸った。

 来てよかった。

 誘ってくれた悠真と、背中を押してくれた教授に感謝した。

 花火が散ったあとの空をまだ眺めているのは大地だけだった。周りのお客さんは続々と帰路についていた。

 大地も待ち合わせ場所にしている駐車場に、一人、ゆっくりと歩いていった。

 最初はみんなで固まっていたが、三番目に出てきたアーティストの時、暴れまくって、気が付けば、みんなどこかに行ってしまっていた。



「いやー楽しかったな」

「やっぱり夏フェス来ないと、夏は終われないな」

「ほんと、その通り」

 帰りの車の中、三人は余韻に浸っていた。

 フェスが終わった薄暗い会場では気付かなかったが、三人とも身体をぶつけ合い、サークルを作って騒いでいたせいか、Tシャツは汗と汚れで変な模様ができあがっていた。

「翔平も来れたらよかったのにな」

 残念そうに悠真が言った。

「就職決まってなかったら、来づらいものなんだよ」

「そういう大地は来てるじゃん」

「これでも迷ったんだから」

「確かに。凄い迷ってたな」

 その現場に居合わせていた悠真は、笑っていた。

「でも親に何か言われなかった? 翔平は行く気満々だったのに、父親にとめられたって言ってたけど」

 助手席に座っている山ちゃんが、後部座席に座っている大地の方を振り返って、訊いてきた。

「いい顔はされなかった」

「そういう時こその夏フェスなのにな」

 悠真が口を尖らせながら言った。

「よく言うよ。まだ内定もらえてなかった時は、このままだったら夏フェス行けないって、嘆いてたくせに」

「お前、バラすなって」

 山ちゃんに暴露され、悠真は決まりが悪そうだった。

「でも来てよかっただろ。好きな音楽を聴いて、騒いで、就活のことなんか忘れられただろ」

 バックミラー越しに悠真が言ってきた。

「今、思い出さされたけどな」

 その通りだと認めるのが癪だったので、皮肉で返した。

「そんなこと言うと、降ろすぞ」

「それだけは勘弁して。もう身体ボロボロ」

 笑い声が車内に響き渡った。

 夜の海は空と一体となり、大きな闇を作り出していた。

「ありがとう」

 山ちゃんは振り返り、悠真もバックミラー越しに大地を見た。

「どうした? 急にお礼なんて」

「暑さで頭やられた?」

「違うよ。本当に来てよかったと思って。誘ってくれてありがとう」

 酷い言われようだったが、大地が穏やかな声で返すと二人は顔を見合わせ、怪訝そうな顔をして、本当に大丈夫か? さあ? などと囁き合っていた。

 そんなことは気にも留めず、大地は後部座席のシートにもたれかかり、窓に目をやった。

そこにはちょうど月が浮かんでいた。満月と三日月しか名前を知らないので、少し欠けている今日の月がどんな名前を持っているのかわからなかったが、美しかった。


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