最終面接
21
答えが出ないまま最終面接の日を迎えた。
あれから検索ワードの最終面接だけは変えず、前後に色々と付け加えたり、最終面接 とだけ検索してみたり、大学のキャリアセンターにも足を運んでみたりもしたが、そこまでいったら自分の思いを素直に伝えればいい、と誰でも言えそうな励ましの言葉をいただいた。
最終面接に進んだ企業のどちらも、職種は食品メーカーだが、今日受けるところが第一志望だ。どうせなら、来週に第一志望がよかった。それなら、最終面接がどういったものかわかり、少しは対策も立てられたのに。
ああ違う。それだと今日の面接が練習ということになってしまう。
頭を振って、浮かんでしまって思いを必死に否定した。
洗面所で身だしなみが整っているか確認、そしてスーツにコロコロをして、靴も磨いた。これで、外から見える部分は完璧。
まだ家にいるというのに、すでに緊張しているのが自分でもわかったので、落ち着くために深呼吸をすることにした。
吸ってー吐いてー。吸ってー吐いてー。
それじゃあ行きますか。
すべての準備が整った大地は、玄関のドアを開け、春の日差しに包まれた外に出た。
最終面接は東京の本社で行われるので、大地は新幹線に乗って、上京した。
夜行バスの方が新幹線より安上がりだが、それまであまり使わずに済んでいた就活のための貯金が、結構な額残っていたので、これで終わりにしたいという願いも込めて、ここで使うことにした。
駅に着くと、人の多さに驚いた。大地の地元も、それなりの都会だと思っていたが、やはり首都は別格だった。右を見ても左を見ても人、人、人。それもどこか急いでいるように見えるのは、気のせいだろか。
迷わないために、どの駅の、どの路線に乗り、どこで降りるかをスマホにメモしていたので、本社の最寄りの駅までは何とか着けたが、一つの駅にいくつもの路線があり過ぎて、メモなしでは辿り着けなかった自信がある
面接の時間は二時。今は十一時半を少し回ったところ。大地は早めの昼食をとることにした。
右も左もわからない土地での昼食を、駅ナカにあったファストフードで済ました。
比較的空いていた店内は、大地が食べ終えた頃に混み始め、レジには行列ができていた。
店から出ると、大地は行き交う人達の邪魔にならないように、端っこに寄り、スマホが使えなくなった時のことを心配して、印刷していた地図を取り出し、記載されている本社の住所を打ち込んだ。
駅から真っ直ぐ歩いていけば着くな。
スマホに表示された順路を見て、迷う心配がなくなった大地は、どこか時間が潰せる場所はないかと、辺りをうろうろしていたら、コーヒーショップを見つけた。
刻一刻と迫る面会時間に怯えながらも、注文した季節のおすすめのフラペチーノ(入口にあった商品を紹介している看板の誘惑に負けて)を堪能した。
空になった容器を見て、腕時計を見た。
まだ一時間以上もある。
こんなことなら新幹線に乗る時間を遅らせればよかった。
新幹線の席を予約する時、初めての東京なので、何かあった時のためにと、昼前には着いておこうと思ったのが間違いだった。
仕方なく大地は、もう一度レジに並び、今度はもう一つのおすすめのフラペチーノを頼み、今度はゆっくりと時間をかけて飲んだ。
何とか時間を潰した大地は、本社の前までやって来た。
高層ビルほどの高さがあり、全面ガラス張りの壁の一番上に、会社のロゴが付けられていた。
これが全部会社のものか……。
ビルの大きさに、大企業の力というものをまざまざと見せつけられた。
こんなところで働くことができたら、大学に行った意味もあるし、友達にも自慢できる。それに、週に一回しか大学に行っていなくても、母さんはもう文句を言わないだろう。
入社後の自分を想像して、浮足立った気持ちを引き締めてから、大地は本社のドアをくぐった。
最終面接は一対一で、面接というよりかは会話のようなものだったが、最後ということもあって、これまでよりだいぶ緊張したが、思いの丈は伝えられたと思う。面接官の反応を見る限りでは好感触だった。
帰りの新幹線まで時間があるから、スカイツリーでも見にいこう。
面接が終わった途端に、すっかり観光気分になった大地はネクタイを外し、シャツの一番上のボタンを開け、意気揚々と駅に向かった。
22
今日で就活が終わる。
そう思っただけで、自然と笑みが零れた。
まだ先日受けた第一志望の企業からは何も届いていないので、終わったわけではないが、それでも心は軽かった。
今日は新幹線に乗る必要はなく、電車を乗り継いでいけば一時間もかからずに着く場所に、面接会場の本社があるので、いつもより遅くに起きた。
母さんは有名なホテルのランチを食べに行くと言って出ていった。なので、朝ご飯は卵かけご飯、昼はインスタントラーメンと、単純作業で食べられるもので済ませた。
家を出て、本社があるビル(こちらも負けず劣らずの見栄えだった)に着いたのは面接開始十五分前。いい時間だった。
この前のように無駄な時間を過ごすことがなく、スムーズに面接に臨めた。
今回の最終面接は、一対一の個人面接ではなく、面接官三人に対して、学生二人の集団面接だった。
先日の最終面接で手ごたえを感じていたからか、今日はいくぶん、リラックスして受け答えすることができた。
もしかしたら、どちらからではなく、両方から内定をもらえるんじゃないかと思ったぐらいの出来だった。
「沼田さんってどこかから内定もらってますか?」
会場となっていた七階から地上に降りるエレベーターの中、浮かれている大地に、一緒に面接を受けた光谷が話しかけてきた。
「いえ、まだです。光谷さんは?」
「やっぱり。私は一つもらってます」
「でも面接ではもらってないって……」
ん? やっぱり? その言葉が引っかかった。
やっぱり、を頭の中で反芻し、その意味を考えた。けれどその必要はない。やっぱりの意味なんて、考えなくてもわかる。考えなければいけないのは、なぜその言葉を言われたかだ。
「はい、そう言いました。それにここは、第一志望じゃありません」
またか……。最終面接でも嘘を吐くのか……。大地は就活が嘘吐き大会であることを思い出さされた。
そんな大地をよそに、光谷は淡々と嘘を暴露した。すると大地の思考は、新しい刺激へとスイッチした。
「沼田さんは正直すぎます。そんなやり方だと内定もらえないですよ」
「そんなのわからないじゃないですか」
面接のやり方を否定されると、自分自身を否定されたような気持ちになり、大地は語気が強くなった。
「就活はそんな甘いもんじゃありませんよ」
お前は何様だ。
その言葉は辛うじて飲み込んだが、光谷からは見えない右手は拳で震えていた。
「でも光谷さんは、一つしかもらえてないんですよね」
「そうですね。一つだけですが、イチとゼロは違います」
エレベーターが一階に着くと、光谷は何も言わずに降り、大地は一人残された。
仕返しのつもりで言った皮肉に、それ以上の、いや、もはやあれは悪口だ。
怒りのあまり、大地はエレベーターに人が乗りこんでくるまで、その場を動けなかった。
そんなに就活は甘いもんじゃありませんよ。だと。
家に帰った大地は、就活カバンをベッドに投げつけた。
内定もらってるからって調子に乗りやがって。
いつまで経っても怒りは治まらず、大地は投げ捨てられたカバンの横に勢いよく腰を下ろすと、ベッドのスプリングが軋む音がした。
絶対内定もらってやる。あんな奴に負けてたまるか。そうだ。あいつが嘘を吐いていることを会社に知らせれば、あいつは落選し、俺が受かる可能性が上がる。まさに一石二鳥。
初対面の人に馬鹿にされて、大地の中に沸き起こった黒い感情は、怒りによって促進され、理性が入る余地などなくなっていた。
大地はカバンにしまっていたスマホの電源を入れた。
「証拠はありますか?」
「えっ?」
大地は会社に電話をかけ、無理を言って、今日面接を担当してくれた古村に繋いでもらい、光谷が嘘を吐いていることをばらした。
すべてを話し終えたあとで、古村から返ってきた返事は意外なものだった。
「ですから、光谷さんが他社から内定をもらっているという証拠はどこにありますか?」
「光谷さんが自分から言ったのを私は聞いたんです」
「会社名は?」
「いえ、そこまでは……」
「そうですか。……話はそれだけですか? 私も忙しいのですが」
「待って下さい。第一志望も御社ではないと言っていました」
「それは沼田さんも同じでは?」
「……」
大地は言葉に詰まった。
今日の面接で古村から質問された時、大地は第一志望ではないとはっきり言っていた。
「確かに言いましたが、私は正直に伝えました。けれど彼女、光谷さんは嘘を吐いていました。正直に話した私と、嘘を吐いた光谷さん、どちらが悪いでしょうか」
溜め息が、電話口からでもはっきりと聞こえた。
「腹いせですか?」
「はい?」
思いがけない一言に、声が裏返えってしまった。
「本来なら後日メールでお知らせするはずだったのですが……。沼田さん、今回はあなたの採用を見合わせることになりました」
「えっ……」
大地は言葉を失った。
「勘違いしないでください。あなたが他の学生を陥れるような電話をかけてきたことは、社会人としてあるまじき行為ですが、それが理由ではありません。今日で、弊社が予定していた最終面接はすべて終わり、先程結果が出ました。沢村さんの希望に添えない結果となってしまい、誠に申し訳ありませんが、ご了承ください」
最後の一文には、何の感情も籠っていなかった。とりあえず、そう言っておかなければいけないから言っている。そこには謝罪の気持ちなんて、一カケラも見当たらなかった。
「そんな陥れるだなんて……。私の何がいけなかったのですか?」
大地は狼狽え、声が震えていた。
「申し訳ありませんが、それにお答えることはできません。それでは今後のご健闘をお祈り致します」
「ちょっと待ってください。あの、古村さん? もしもし、もしもし!」
プー、プー、プー。
相手がそこにいないことを知らせる音だけが聞こえてきた。
全身の力が抜け、だらりと垂れ下がった手からスマホが、フローリングの床に音を立てて落ちた。
茫然としている大地は、それを拾うことすらできなかった。
落ちた。俺が? 何で? 電話したことがいけなかったのか? でもそれは関係ないと言っていた。本当に関係ないのか? それとも第一志望じゃないと正直に言ったから? そんなことで落とされる?
頭の中が無数の疑問符で埋め尽くされていく。
「あぁーー!」
次の瞬間には大地は大声をあげていた。
母さんはまだ帰ってきていない。時刻は夕方で、とっくにランチは食べ終えているはずだが、買い物しているのか、どこかでお喋りをしているのかわからないが、家にいなくてよかった。いたら何事かと思われてしまう。内定をもらってくるといった手前、落とされたなんて言えるわけがない。
何がいけなかったんだろう。
大声を出して、冷静になった大地は、今日の面接を思い出してみた。
特に落とされるようなことは言った覚えはない。訊かれた質問にはすべて正直に答えた。第一志望ではないことも、現在の選考状況も、嘘偽りなく答えた。両社から内定をもらった場合はどうしますか? と言う質問だけ答えに詰まったが、あとは完璧だった……はずなのに。
ほら、もらえなかった。
光谷の声が聞こえた気がした。
そう言えば、古村さん、腹いせって言ってたよな。ってことは、光谷は内定をもらったってことか? ……そうだよ。そうじゃないとあの言葉は出てこない。
どうして嘘を吐いたあいつが内定をもらえて、正直に話した俺が内定をもらえないんだよ。普通逆だろ。
発散したはずの怒りがまた戻ってきた。
今度は声をあげることはなかったが、内に、内に溜まっていき、砕けそうなほどの力で奥歯を噛みしめ、身体は小刻みに震えていて、誰彼構わず殴りかかりそうな雰囲気を纏っていたが、あいにくサンドバッグのような都合のいいものは部屋にはなかったので、怒りは時間とともに霧散していった。
俺には、まだ第一志望の企業が残ってる。あんな企業こっちから願い下げだ。
そうつよがってみても、虚しいだけだった。
けれど、もとの状態に戻った大地ができることといったら、それぐらいしか思いつかなかった。
23
就活が終わった。
目の前が真っ暗になるってこういうことか。
最後の希望だった第一志望の企業からお祈りメール、じゃなくてお祈り書面が届いた。
しばらく封書とにらめっこが続いたが、意を決して開けると、中に入っていた書面のどこを探しても“内定”の二文字はなかった。
怒りも悲しみも、何の感情も湧いてこなかった。ただ、その書面と封筒はビリビリに破けて、フローリングに散乱していた。
「大地、ご飯できたって言ってるでしょ。……どうしたの?」
大地の部屋に入ってきた母は、すぐに息子の異変に気付いた。
椅子に座ってピクリとも動かない放心状態の息子。部屋に散乱している紙。そして今、息子は就活の真っ最中。そこから導き出される答えは一つだった。
「落ちたの?」
大地は声のした方に、ゼンマイが切れそうなおもちゃのように振り向いた。
「どうしたらいい?」
母の存在にようやく気付いた大地は、今にも泣き出しそうな声で助けを請うた。
「どうしたらって、そんなのまたやり直したらいいだけじゃない。まだ募集してるところ一杯あるでしょ」
「……でも、大企業とか、人気のあるところはもうやってない」
「じゃあ、中小企業でもいいじゃない」
「そんなところに就職しても将来がない」
「調べたの?」
母の質問に大地は首を振った。何社かエントリーはしたような気がするが、しただけで選考には進んでいない。
「ろくに調べもしないのに、よくそんなことが言えるわね。お父さんを見てみなさい。お父さんの職場は、誰もが知ってる企業じゃないけど、結婚して、家も、ローンだけどマイホームを持ってる。あんたを大学に行かせる貯えもあった。それでも将来がないなんて、お父さんに面と向かって言える?」
毎日スーツを着て働きに行く父さんの背中、大学生になるまで毎朝見送っていた。
父さんが働いている会社の名前は、テレビで一度たりとも見聞きしたことはないが、だからといって、自分の家が貧乏や不幸だとは思ったことはない。大学に入るまで、誕生日やクリスマスには買ってくれていたし、外食することも少なくなかった。
「ごめん」
「別に責めてるわけじゃないの。ただ、大企業だけがすべてじゃないって言ってるの」
先程と違い、母さんの口調は優しく語りかけるようなものへと変わっていた。
「でも、大企業の方が、母さんも嬉しいだろ」
大地の声は風前の灯のように、いつ消えてもおかしくなかった。
「母さんはね、あんたが就職して、しっかりと働いていればそれで充分なの。親っていうのはそういうものなの。でもまあ、大企業に勤めていたら近所の人に自慢できるけどね。だけど、それだけよ」
最後の方は、冗談っぽく笑っていた。
「気晴らしにどっか行ってきたら? 週に一回しか大学に行く必要ないんでしょ」
「そう……だけど」
そんな気力はどこを探しても見当たらなかった。
「海はどう? 落ち込んだ時って何だかよくわからないけど海行きたくならない?」
「海か……」
心配している母さんを無下にしたくなかったが、これが今の大地の精一杯の返事だった。
「海じゃなくてもいいけど、この時期だと桜を見にいくのもいいんじゃない。とりあえず、一回就活から離れなさい」
母さんはそう言うとリビングへと戻った。
「あっ、そうだ。ご飯に呼びにきたんだった。食べれる?」
かと思ったら、顔だけをドアから覗かせた。
「うん」
「そう」
母さんは満足そうにうなずくと、今度こそリビングに戻った。
24
ゼミに行かないと卒業すらできなくない。
仕方ないので、大地はまだ万全とは言えない重たい身体を引きずって大学へ向かった。
電車や街中でスーツを着ている人を見ると、前は、もうすぐこんなふうになるのか、と悲観的な思いに駆られていたが、今となってはこんなふうになりたい、と憧れを抱く。
「おはよう」
演習室に着いた大地は、誰に言うでもなく挨拶をした。
「よお。どうした? 元気なさ過ぎだろ」
大地の落ちぶれた姿を見て、悠真は驚いていた。
「ああ、ちょっとな」
恥ずべきことではないのに、素直に面接に落ちたとは言えなかった。そんな気持ちを踏みにじるように、悠真が平然と訊いてきた。
「落ちた?」
「うん。……ってかもうちょっと気を使えよ。こっちは落ち込んでるっていうのに」
「悪い。でも、そこまで怒らんでもいいのに」
なぜかちょっと逆ギレ気味なのが、余計に大地をイライラさせた。
「第一志望も落ちたし、もう面接の予定ないの!」
我慢しきれず声を荒げてしまい、ゼミ生全員に面接の失敗を暴露する羽目になってしまった。
「じゃあまた最初からやればいいだけだろ。それだけのことじゃん」
「それだけのことって……それがどんなに辛いかわかってるだろ」
大地は止まらない。散々苦労して辿りついた最終面接。それなのに、あと一歩のところで辿り着けなかった悔しさ、辛さ、二度と味わいたくないあの気持ちを、二度も味わってしまった。それだけじゃなく、嘘吐きにまで負けた大地にとって、もう一度、就活と闘うなんて……。
「わかってるよ。俺もそうだから」
「えっ?」
「俺も全滅。ほんと嫌になるわ」
悠真は溜め息をつき背もたれに身体を預けた。
「……」
言葉が出なかった。
自分だけが悲惨な目に遭っていると思っていた。どうしてこんなに頑張ったのに落とされるんだ。そう思っていた。けれど違った。落ちた奈落の底で、項垂れていた顔を上げて、辺りを見渡すと、暗闇の中で泣いている人は他にもいた。
「ごめん」
心配そうに見ていたゼミ生は、大地の謝罪を聞いて安心したようだった。
「まあ、まだまだこれからだって」
自分だって辛いはずなのに、悠真は明るく笑顔で言った。
そうだ、悠真の言う通りまだ就活は終わっていない。
ドアが開く音がして、条件反射のように二人は顔を向けた。そこには林と、たぶん、豊嶋と思わしき人物がいた。
一目でスッピンだとわかる顔。死んだ魚のような目は真っ赤に充血して、隈もできていた。髪だけはしっかりと梳いているようにも見えたが、いつもは綺麗に左から右にわけられている前髪がほったらかしだった。
明らかにいつもの豊嶋とは違ったので、大地は判断に迷った。
豊嶋は右足、左足、また右足、と一歩一歩ふらつきながら、入口から離れた窓側のいつもの席に座った。
「大地以上の落ち込み具合だな」
悠真が、豊嶋には聞こえないように大地に囁いた。
「なあ、林。どうしたの?」
本人に聞ける雰囲気ではなかったため、向かいの席に座っている林に大地が訊いた。一緒に来たということは、林の家に泊まっていた可能性が高いので、豊嶋があんなふうになった原因を知っていると思ったからだ。
「ほら、前に名前変えるって言ってたでしょ。それで家庭裁判所からの呼び出しに応じて、出向いたんだけど……」
「駄目だったんだ」
林はうなずいた。
名前を変えるには、豊嶋が言っていたように、必要な書類を裁判所に提出しなければならない。それともう一つ、家庭裁判所で審問を受けなければならない。書面審査だけで判断する場合もあるらしいが、ほとんどの場合は、豊嶋のように、裁判所から審問のための呼び出しがある。その審問で、名前を変更する理由が正当な事由と判断されなかったため、豊嶋はこんなふうになっている。
「私の人生終わった……。もうどこにも就職できない。終わった……」
椅子に座って俯きながら、ぼそぼそと呟く様子は、誰かに呪いをかけているような魔女と例えることができるほど、陰湿な雰囲気が漂っていた。
「ああもう、うざったい。豊嶋、このあと時間あるか?」
急に織戸が急に声をあげ、椅子から立ち上がると、呪文を唱えている豊嶋に言った。
「ナンパ?」
「そんなわけないだろ」
織戸は悠真の冷やかしをきっぱりと否定した。
「で、このあと時間ある? ない? どっち!」
織戸の口調はさっきよりも強くなっていた。なぜそんなにイライラしているのかここにいる全員がわからなかった。
「え、うん。今日はゼミだけだから、時間はある……けど……。私、何かした?」
状況が飲み込めない豊嶋は、織戸に怒られるのではないかと、ビクビクしているのが目に見えてわかった。豊嶋じゃなくても誰だってあんな強い口調で言われると、怒られるのではないかと思ってしまう。
「何かした? じゃない。お前のその態度が気に入らないんだ。だいたい名前を変えたぐらいで内定もらえるんだったら、就活生全員名前変えるわ。それを名前のせい、親のせいにして……、そんなこと言う前にまずエントリーシート見直せ。次に進めないのは名前でも親のせいでもない、お前が書いたエントリーシートが悪いからなんだよ」
プチン。
あっ、切れた。
はっきりとわかるぐらい、豊嶋の顔色は一瞬で変化した。
「うるさいなー。お前に私の気持ちがわかるのか? 一郎っていうありふれた名前のお前に、ミントっていうわけもわからないアホみたいな名前を付けられた気持ちがお前にわかるんかー!」
豊嶋も立ち上がり、咆哮をあげた。
さっきまで怯えていた豊嶋はどこにいったのかと思うぐらいの、豹変っぷりだった。前にも一度名前のことで教授と言い合いになったが、優しく諭すような教授と、はなっからケンカ腰の織戸では、言い方も立場も全く違うので、前回のように丸く収まらず、結果、激しい罵り合いのゴングが鳴り響いた。
「わかるか、ボケ」
「わからないんだったら私の問題に口出すな。お前には関係ないだろ」
豊嶋は今にも飛びかかりそうな気迫で、織戸を睨みつけている。さながら敵と相対する獣のようだった。
「関係ないけど、お前がグチグチ不満を言うのが耳障りなんだよ。だから、俺がお前の何が悪いか見てやる」
「は?」
始まったと思った戦争は急展開を見せた。お互いに一発ずつ撃ち合ったと思ったら、宣戦布告をした相手から同盟を結ぶ申し出があった。戦況の変化についていけない豊嶋の口からは、すっとんきょうな声が出た。
「だから、俺がお前のエントリーシート見て、どこが悪いかチェックするって言ったの。人に見てもらうと、自分では気付かないところに気付いてもらえたりするからな。内定もらえたら名前を変える必要もなくなる。そしたらお前が不満を言うのをやめるだろ」
「それは……、そう……だけど」
豊嶋は、突然のことで戸惑いを隠せない。
「エントリーシート持ってるか?」
そんな豊嶋を置いてけぼりにして、織戸は勝手に話を進めていく
「ちょっと待って。この前出したやつのコピーがあるかもしれない」
いつもの喋り方に戻った豊嶋は織戸の言うことを素直に聞き、トートバッグの中を探し始めた。
「あった。……はい。でも、キャリアセンターの人とか、学外で開かれたセミナーでも見てもらったけど、どこも悪いところないって言われたよ」
席の近くまで来ていた織戸に手渡した。
「けど、俺には見せてないだろ」
「当たり前でしょ。そこまで仲良くないのに見せるわけないじゃない」
穏やかになった豊嶋だったが、まだ少し織戸に対する怒りは鎮まっていなかった。
「まあ、それもそうだけど」
軽く受け流すと、織戸は受け取ったエントリーシートをチェックし始めた。
俺には見せてないだろ、は俺に見せれば通過する。そう言い変えることもできる。その自信はどっから来るのか訊いてみたいものだ。
「まずは、自己PRのところだけど――」
織戸は豊嶋の隣に座わっていた中村をどかして席を奪うと、マンツーマンの塾の先生みたいにエントリーシートの添削をし始めた。
「初めから見てやるつもりなら、あんな言い方しなくてもよかったのに。こっちの身にもなれよ」
悠真がカップルのように見える二人の内、彼氏の方にクレームを入れた。
「悪いな。ついイラッとして」
豊嶋がキッと睨んだ。また、争いが始まるのかと思ったが、ここなんだけど、と織戸が指摘すると、えっ、どこ? と言ってエントリーシートに視線を戻した。
「みなさん、おはようございます。織戸、ゼミを始めるからあとにしてくれるか」
突如、部屋に教授の声が広がった。その声が部屋に染み込んだあと、所々から挨拶が返ってきた。
「わかりました」
織戸は自分の鞄を置いている席に戻った。
「教授。いたんですか?」
教授は入口のドアの開閉部分に立っていた。
「すでにチャイムは鳴り終わっていますよ」
「えっ」
壁にかかっている時計を見ると、二限の開始時間を五分過ぎていた。三年の時、火曜の二限だったゼミは、演習室と時間はそのままに木曜へと移り、それに伴い、科目名も演習から卒業研究になっている。
チャイムが鳴ったのが五分前ということは、罵り合いのゴングが鳴り響いた時だろう。と言うことはあのゴングは、チャイムの音だったのか。
「だったらどうして止めないんですか? 普通、止めませんか?」
「どちらかが手を出せば、止めに入ろうと思っていましたよ。それに、みなさんも止めようとはしなかったじゃないですか」
さらりと痛いところを突いてきた。
教授の言う通り、ここにいるゼミ生の誰もが固唾を呑んで見守っていた。
「それはそうですけど……、教授なら止めに入ってもいいんじゃないですか」
「学生の問題は極力、学生同士で解決させた方がいいと私は思っています。変に大人が出しゃばると、いつまで経っても大人に頼ってしまう、子どものような大人になってしまいますからね」
教授として素晴らしい人だが、校長先生になっても素晴らしい手腕を発揮しそうなお言葉をいただいた。
教授ぐらいになると、成人していても学生は子どものように見えて仕方がないのだろう。
「それじゃあ、始めましょうか」
演習室が落ち着きを取り戻し、ゼミを始める準備が整ったところで、大地が気付いた。
「なあ、遼は?」
大地は悠真に訊いた。ゼミが始まる時間になっても、一人だけ姿を見せていない。
「面接なんじゃない?」
悠真は鞄から筆記用具を出しながら、大して考えもせずに答えた。
「そっか」
面接なら、ゼミを休んでも仕方ないか。
悠真の答えに納得した大地はそれ以上、遼について考えを巡らすことはなかった。
家に帰っても特にすることがない。
大地はただ椅子に座って、呆けていた。
その大地の目に、机の棚に置かれた就活関連の本、SPI、面接対策、業界研究。それらが嫌でも視界に入ってくるが、まだ捨てるわけにもいかないその本から逃げるため、目を閉じた。
すぐにでも就活を再開しなければならない。それはわかっているが、どうしても身体が動かない。
母さんの言う通り、一度就活から離れた方がいいのかもしれない。
振り返ってみれば、就活が始まってからは、ほとんどサークルにも遊びにも行かず、ただひたすら就活一筋で頑張ってきた。そうしないといけないと思っていたから必死でやって来たけど、それもすべて水の泡となった。
大地はゆっくりと目を開けた。
明日にでもどこかへ出掛けよう。
気分転換が目的だが、この空間に居たくないという思いもあった。
自分の部屋がこんなにも息苦しく感じたのは初めてだった。
25
朝一番に、大地は悠真に電話をかけていた。
「はい」
「あっ、悠真。今日、暇?」
「悪い、これから説明会なんだ」
「そっか。わかった」
「おう、じゃあな」
凄いな、悠真は。俺と違ってすぐに説明会に参加して。
同じ傷を負った者同士で傷心旅行でも行こうと思ったが、大地ほど悠真は傷ついていないらしい。いや、傷ついてはいるが、それに負けないほど心が強いのかもしれない。
仕方ないので、一人で出掛けることにした。どこへ出掛けるかまでは決めていない。
新歓以来、一度も行っていないサークルに行くことも考えたが、就活のことを色々と訊かれると思うと、余計に疲れそうなのでやめた。
出掛けることを母さんに言うと、本当に海行くんだ、と行き先は告げていないのに、勝手に決められた上に、自分が提案したのに驚かれた。
けれど、いってらっしゃい、と見送ってくれた時は笑顔だった。
電車に揺られること二時間、大地は海へとやって来た。
目的もなく旅をするのは案外難しく、どこへ行こうかと、最寄り駅で路線図と五分間睨み合った結果、母さんの言う通り、海に行くことを決めた。
海開きもしていないので、眼前に広がる砂浜も海も閑散としている。乗る波もないので、サーファーもいない。
孤独な春の海は穏やかで、小波が寄せては返してを繰り返す。
単調なリズムは路線図を見るより早くに飽きた。
母さんが言っていた、落ち込んだ時に海に行きたくなるという心情には、個人差があるようだ。
大地は早々に腰を上げ、波音をBGMにして、海岸通りを歩き始めた。
海が近いだけあって、観光ホテルや民宿が辺りにはたくさんあった。それ以外には、古い民家が立ち並んでいるだけなので、静かな時間が流れていた。
俺は何をしているんだろうという思いはあったが、それ以上になぜか気持ちがよかった。
そのあとも、せっかくだからチェーン店以外の店でご飯を食べようと、何となく選んだ店で、ランチが千円以上もしたり、君主も知らないお城を見学したりした。
そんな旅だったので、気分転換になったのかはわからないが、家に帰ってみると、出掛ける前よりかはいくぶん居心地がよく、勉強机の棚に並べられた就活の文字からも目を逸らすことはなかった。
大地は椅子に座り、パソコンを立ち上げると、就活サイトへと飛んだ。
どこを受けよう。
調べてみると、まだ採用活動をしているところはたくさんあったが、そのどれもが名前を聞いたことがない企業ばかりだった。
やっぱり、食品メーカーか……。
選りすぐれる状況じゃないとはわかっているが、望んだ会社で働けないなら、せめて業種だけでも自分が望むところで働きたい。
大地は片っ端から食品メーカーの企業をエントリーして、そこから先は就活の準備期間でやっていた、企業研究を始めた。
初めて名前を知ったところ、商品は知っていたが企業名は知らなかったところ、必ず“知らない”がある企業についてノートに書き込んでいった。
大企業でも、調べてみると知らないことがたくさんあったのに、中小企業になると、前人未到の地に足を踏み入れているような気分にもなった。
それでも一歩ずつ進んで、どういった企業なのかを把握しないといけない。
こうして大地は就活、いや、嘘吐き大会の第二回大会へと参加した。
26
「同棲?」
「次言ったら手出すぞ」
織戸と豊嶋が一緒に演習室に入ってきたので、悠真が再び冷やかした。
豊嶋の身だしなみは、今日はちゃんとしていた。少しは元気になったみたいだ。
織戸は、いつも座っている席には座らず、今日は豊嶋たちの群れの中に入り、豊嶋の隣に座った。
あの一件以来、キャンパス内でも二人で一緒にいるところを何度か見た。
二人のことを知らない学生から見ると、付き合っているように見えないこともないが、実際はそんな甘酸っぱい関係ではなく、弟子と師匠のような関係だ。
それにしても……。まだ織戸の手腕が本物かわからないのに、豊嶋はすっかりと飼いならされていた。
「そこまで自分の名前を言うのが嫌なら、面接では名前を言う時に、変な名前ですけど私自身は真っ当な人間です、とか一言付け加えた方がいいかもな」
どうやらエントリーシートの添削・指導は終わったみたいで、次のステップに入っていた。
「そんなことして大丈夫?」
名前にコンプレックスがある豊嶋は、不安を隠せない。
「大丈夫って何が?」
そんなことはお構いなしに、織戸は毅然としている。
「変な奴だって思われない?」
「思われるかもしないな」
「だったら――」
「逆に、面白い奴と思われるかもしれない」
織戸は豊嶋の反論を遮った。
「キラキラネームを利用したらいいんだよ。教授が言っていたように、お前の名前はインパクトだけはあるんだから、他の学生より覚えてもらえる確率が高い。それを利用する」
教えに対して豊嶋は半信半疑だが、織戸はそのまま続けた。
「いいか、キラキラネームを恥ずかしがってることがお前の駄目なところなんだよ。大概の人はキラキラネームの人に対して、どういった反応をしたらいいのか、迷う。何か言った方がいいのか、触れない方がいいのか、どっちなんだろう、って。だから自分から言う。そうすると相手も楽になる。恥ずかしそうに言うと、こっちは曖昧な笑みを浮かべるしかできないからな」
「……そうすれば内定もらえる?」
身に覚えがある豊嶋はいたたまれなくなり、逃げるように顔を背けたが、やがて縋るように織戸の目を見つめて言った。
「断言はできないけど、今のやり方よりかはいい結果が出るはず」
「じゃあやってみる」
そう言うと、豊嶋は微笑んだ。
「でも、まだエントリーシートの結果がわかっていないのに、もう面接のこと考えていいの?」
「大丈夫、エントリーシートは通るから」
「何であいつあんな自信あるの?」
二人の会話を聞いていた大地は、隣にいる悠真に小声で訊いてみた。
「織戸が出したエントリーシートが、全部選考を通過したからじゃない」
「うそっ、全部!」
驚かざるを得なかった。
エントリーシートが全部通過するなんてこと、あり得るのだろうか。都市伝説、いや、就活伝説みたいな話だ。
「本人から聞いた話じゃないから、嘘か本当かはわからないけどな」
悠真はそう言っているが、もしそれが本当なら、あの確固たる自信もうなずける。
「じゃあ内定も一杯もらったのかな」
エントリーシートが通過したからといって、面接もうまくいくとは限らないが、他人の面倒を見られるぐらいだから、それなりにもらってはいるだろう。
「七社だって」
「七? それはいくらなんでも嘘だろ」
一つもらうだけでも苦しい時代なのに、それを七つも……。考えられない。
「それがこっちは本当なんだな。直接聞いたから」
七社もらったのは織戸のはずなのに、悠真はなぜか得意気だった。
「本当に?」
それまで冗談だと笑い飛ばしていた大地は真顔に戻った。
「ああ」
「どうなってるの?」
「そう思うよな。あいつみたいなんがおるから、俺らみたいなのに回って来ないんだろうな」
「俺も織戸に教えてもらおっかなー」
大地は半分冗談、半分本気で言ってみた。
「豊嶋に続いて、大地も織戸塾に入学か」
「何それ」
「今思いついたから言ってみた」
悠真のネーミングセンスを判定するチャイムが、タイミングよく鳴り響いた。いつも一定の時間なるはずが、心なしか今回だけは短く感じた。
それとほぼ同時に、教授が部屋に入ってきた。
「遼は今日も休み?」
今日も遼の姿はなかった。
「珍しいな。いくら遼でも、来なかったら単位もらえないのに」
「電話してみる」
大地はスマホを取り出して、遼に電話をかけた。けれど電源が切られているようで繋がらなかった。
「繋がらない?」
「うん。また面接かな?」
「教授、遼って今日面接ですか?」
悠真が訊いた。
面接がある時は事前に言っておけば、出席に関しては大目に見てもらえるのは就活生の数少ない特権だ。
「いえ、聞いていません。倉木は先週も休んでいましたね。誰か、倉木の欠席理由を知っている人」
教授がゼミ生に聞いたが、返事は返ってこず、みんな小首を傾げたり、隣にいる友達に訊いたりしていた。
「少し心配ですね。この時期は内定をもらう学生が一気に増えますから、もし自分がもらえてないと神経質になる人が出てきますからね」
「それは大丈夫ですよ。あいつ、内定もらったみたいですから。まあ断ったって言ってましたけど」
教授の不安を軽い調子で悠真が否定した。
「それならいいですけどね……」
それでもまだ教授は不安そうだった。
その心配は見事に的中することとなる。
その日の夜。晩ご飯を食べていたら、垂れ流しになっていたテレビから、自分が通っている大学名と友達の名前、さらには容疑者という言葉が聞こえてきた。
結びつくはずのない言葉が結びつくと、外国語のように聞こえて、それが何を意味するかがすぐには理解ができなかった。
混乱している頭のまま、大地はアナウンサーの言葉に耳を澄ました。
『逮捕された倉木遼容疑者は昨日午後十時過ぎに、人を殺したと自ら警察に連絡をして、駆けつけた警察官によって現行犯で逮捕されました。殺害されたのは銀行員の西澤俊彦さんと川原勉さんの二人で、身体には複数の刺し傷があったということです。警察は動機について調べる方針です』
テレビでは、スタジオにいるコメンテーター達が色々と意見を言い合っていたが、雑談をしているようにしか見えなかった。
遼が人を殺した?
初めは同姓同名の人じゃないかと思った。顔も出てないし、何より遼が人を殺すなんて……。
何度も頭の中で否定を続けたが、同じ漢字、同じ大学、ゼミを欠席、繋がらない電話。
今、告げられた事実と、これまでの事実を照らし合わせると、自分が知っている倉木遼が殺人を起こしたことになる。
「あんたの友達にも、似たような名前の子がいなかった?」
母さんが訊いてきたが、放心状態の大地の耳には届いていなかった。
「大地、大丈夫か?」
隣に座っていた父さんが心配して、大地の肩をゆすった。
「え? ああ、大丈夫」
大丈夫じゃなかった。
連日のように起こる殺人、強盗、痴漢に窃盗。それらすべてが別の世界で起こっている事件で、自分とは関係ないと思っていた。
だからこそ、いまだに現実を受け止めきれずにいる。
晩ご飯を残し、部屋に戻ると、何件か着信があった。もちろん遼からではない。けどきっと遼のことだろう。
その時、また電話がかかってきた。優からだ。
「もしもし」
すぐに電話に出た。
「もしもし。ニュース見た?」
「うん」
「あれ、やっぱり遼……なのかな」
優も信じたくはないのだろう。
同じゼミで、一緒に酒を飲んだりするほど仲がよかった友達が、人を殺したなんて、そんな悲しい現実。
「……そうだと思う」
しばらく言葉が返ってこなかった。
大地も違うと言いたいが、そんな嘘を吐いても遼が犯した罪は消えないし、優だって、子ども騙しのような嘘は望んでいないはず。
「一緒にいて何か気付かなかった?」
「ごめん。俺も今、初めて知ったんだ」
大地は大学にいる時、ほとんどと言っていいほど一緒にいたが、遼がこんな事件を起こすなんて思いもよらなかった。
最後に話したのは四年になって初めてのゼミの時だ。その時は、いつもと変わりない遼だった。
「そっか」
また沈黙。
「大丈夫?」
ショックを受けているのは電話口からも伝わってきた。
「うん。きっと何か事情があるん……だよね」
「そうだよ、そうじゃないと遼が人を殺したりしないだろ」
明るく言ったつもりだったが、ちゃんと言えたかどうかわからない。
「そうだね。うん、ありがと」
「ああ、じゃあ」
「うん」
どんな事情でも人を殺してはいけないのは優だってわかっている。それでも、理由を付けないと、優も、そして大地も平静を保つことができなかった。
大義名分を探すため、大地は頭の中で、アナウンサーがニュース原稿を読んでいる場面を、何度も何度も再生した。
殺害されたのは銀行員。
何度目かの再生の時、映像が被害者の身元を言う場面に差しかかると、急にアナウンサーの口元がアップになり、その部分だけゆっくりと、まるで何かを伝えるように喋った。
その不思議な映像を最後に、頭の中を流れていたニュース報道は電源を切ったようにプツリと消えた。
消えたと同時に、大地にある考えが浮かんだ。けれど、そんなことで殺人という罪を犯すのか。
しかし、一度浮かんだものは沈むことはなく、ずっと頭の中をぷかぷかと居座り続けた。
27
大学にも、マスコミや警察は来たりするのだろうか。
もし来ていたら、一番初めに取材に行くところは遼が所属していたゼミかサークルのはずだ。ニュースによれば遼は容疑を認めているから、警察は来たとしてもすぐに帰ると思うが、好奇心旺盛なマスコミは、記事になるようなネタを見つけ出すまでは通い詰めそうだな。
そんなことを考えながら大地は電車に揺られていた。説明会へと参加するためだ。
中小企業の食品メーカーが、運よく説明会を開いていため、すぐに予約した。大企業と違い、難なく予約できた。
エントリーシートは説明会のあとに提出、との記載があったので、調べられるだけ調べて、大急ぎで完成させたので通るかどうかわからない。けれど、時間がないからと諦めることはしたくなかった。
会場の入口に作られた受付で、いつも通り、大学名、学部、氏名を告げると、受付の社員の人が、珍しいものを見るような目で見てきた。
少し気になったが、構わず会場に入った。
説明会の会場は、説明会でよく使われる会議室のようなところで、長机と椅子、そして正面にはホワイトボードが置いてあった。
中小ということだけで、狭くてみすぼらしいところを想像していた自分が馬鹿だった。本当に中小企業のことは何も知らなかった。
やや空席が目立つのが気になったが、椅子に座ると、説明を聞く準備を始めた。準備と言っても筆記具とノートを出すだけなので、すぐに手持ちぶさたになる。
ふと、受付の出来事を思い出した。その時は、顔に何か付いているのかな? と可愛いことを思ったが、考えればすぐに答えに辿り着いた。
遼と同じ大学だからだ。
さっきの人は、遼が起こした事件のことを知っているんだ。
事件はテレビで報道されていたし、今の時代スマホがあれば、いつでもどこでも、どんなことでも掌の中で知ることができる。
これから大学名を言う度に、好奇の目に晒されるかと思うと、遼の犯した罪の重さと愚かさを憎まずにはいられなかった。
どうしてあんなことで人を殺したんだ……。
遼が人を殺した動機は、就活にあった。
被害にあった銀行員はいずれも最終面接で遼の面接官だった。自分の人生がその人達に狂わされたので、同じように人生を狂わせた。
新聞にはそう書いてあった。
初め読んだ時は、そんなことで罪を犯したのかと思ったが、最終面接で落とされる辛さ、悔しさ、悲しさ、そして憎しみ。それらすべてを大地も経験していたので、無論、殺人を肯定することわけではないが、面接官を恨む気持ちは痛いほど理解できた。
テレビのコメンテーター達は、許されないこと、異常な精神の持ち主、浅はかで幼稚、などと批判しているが、あの感情は経験したものにしかわからない。
大地はすでに友達が殺人犯になったことについて、心の整理がついていたので、事件のニュースを読んだり、聞いたりしても取り乱すことはなかった。
犯人が遼だと認めてしまえば意外と、心を乱していたものはどこかに消えていった。
「それでは説明を開始します」
その声で大地は、我に返った。
軽く首を振り、今から始まる説明に集中した。
説明会の内容は、特筆すべきことはなかった。いつも通り、会社概要、事業内容、質疑応答。
説明会が終わり、席を立つと、後ろの方の席には学生は座っていなかった。
やっぱり。
説明会をすんなりと予約できた時点で、こういった光景が見えてしまうんじゃないかと思っていた。
中小ということもあると思うが、すでに内定をもらっている学生がいるので、尚のこと説明を聞きに来る学生は限られてくる。
俺も内定もらっていたら、こんなところにいなかったのに。
頑張ろうと決めたのに、悔やんでも悔やみ切れない思いが、また胸を苦しめに来た。
この苦しみはきっと、周期的に俺のところへノックしに来るだろう。
けれど、その苦しみを迎え入れてはならない。飲み込まれてしまうから。
内定をもらえれば、訪れる頻度は少なくなってくれると信じて、選考を受ける他、この苦痛を和らげることはできない。
大地は視線をドアに向け、その音から逃げるように、早足で向かったが、エントリーシートを出さないといけないことを思い出し、説明会の進行を任されていた社員の人に渡しにいった。
28
大地は、事件が起こってから初めて大学の門を潜った。
キャンパス内はいつもと変わっていなかった。
警察やマスコミで、ごった返しになっているんじゃないかと思ったりもしていたが、そんなことはなかった。
友達と笑顔で話していたり、ベンチで本を読んでいたりと、まるで、事件などなかったかのような、穏やかな時間が流れていた。
大学の構内で起こった事件なら、一週間経った今でも、騒ぎになって、それこそ警察やマスコミがそこかしこにいるかもしれないが、東京で起こった事件だからか、表立って見える変化はなかったが、大学にとって、今回の事件のせいでイメージは落ちる。来年の受験に影響が出るかもしれない。そのことで、大学の収入が減るのはあまり学生には関係ないが、ただ、先日の説明会の時のように、同じ大学というだけで白い目で見られるということが起こってしまう。
自分が起こした事件じゃないのに、自分の人生にほんの少しスパイスのように影響する。まだ就活を続けている大地や、他の四年生にとっては迷惑極まりない。
そんなことを考えていたせいか、いつもは十分前に着くはずなのに、演習室のドアを開けると同時にチャイムが鳴った。
「あっ、大地。お前のところにも週刊誌の人来た?」
部屋に入るなり、悠真が訊いてきた。
好奇心が見え隠れするその表情からは、あまりショックを受けていないように見えた。
時間が経った今だからそんな顔をしているだけで、事件を知った時は悲しんでいて欲しかった。
「いや、来てないけど……。来たの?」
大地は悠真の隣に座り、質問を返した。
「ああ。同じゼミ生ってことで、遼のこと訊かれた。他にも訊かれた奴もいるよ」
大地は部屋全体を見渡した。部屋には遼以外のゼミ生が勢揃いしていた。
悠真は誰とは言わなかったが、あからさまに視線を逸らした奴らがいたので、すぐにわかった。
取材を受けることが悪いとはまでは言わない。けど、そうやってやましいことをしたような態度を取るぐらいなら、断れよ。悠真みたいに堂々としていればいいじゃないか。
「どんなこと訊かれた?」
苛立ち(いらだち)を抑え、大地は悠真の方に向き直った。
「別に、大したことは訊かれなかった。どういった人だったとか、そんな感じ。けど色んな人に訊きまくってるみたい。無理もないよな、あんな事件起こしたんじゃ、週刊誌が飛びつかないわけがない」
「そっか」
「だから、大地のところにも来てるんじゃないかと思って」
「事件が起こってから大学に来たのが、今日が初めてだからじゃないかな。さすがに家まで押しかけては来ないだろ」
「そうか。でもまさか、あの遼が人を殺すなんてな」
「人は見かけによらないってことだろ」
その言葉に大地が反応した。
「織戸、そんな言い方しなくてもいいだろ」
「人殺しに気を使うのか?」
「お前、それでも友達か」
「友達? 友達だった、の間違いじゃないか」
「お前――」
我慢ならなかった。
大地は椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がった。
「何だよ。こっちは同じ大学ってだけで、バイト先で好奇心丸出しの馬鹿みたいな奴に、色々詮索されていい迷惑なんだよ」
織戸は立ち上がった大地を見上げ、挑発的な目で捉え、冷気を帯びた声で遼の罪を糾弾した。
言い返したかったができなかった。受付の人の、あの顔、あの目。思い出したくもない。
大地はその場で固まってしまった。
「みなさん、おはようございます。遅れてすみません。話が長引いてしまって」
ドアが開く音がして、教授が入ってきた。
ほんの二、三分だが、いつも時間通りに来る教授にしては珍しいことだった。
「どうしました?」
不穏な空気を察知した教授が訊いてきた。
「いえ、何でもありません」
すっかり萎えた大地が答え、緩慢とした動きで倒れていた椅子を起き上がらせて座った。
「話って、もしかしてマスコミの取材ですか? それとも警察?」
悠真が訊いた。
「違います。事務員の方です」
「そうですか」
教授は席に着くと、ゆっくりと口を開いた。
「みなさんも事件のことは知っていますね」
どんよりとした空気が演習室に立ちこめた。誰も返事はしなかった。
それを肯定と判断した教授は、辛辣な、でも避けようのないことを告げた。
「倉木は自首退学というかたちになりました」
それだけを伝えると、ゼミは始まった。
誰も、何も言わなかった。
29
「沼田大地くん、だよね」
ゼミが終わり、演習室から出て階段を降りようとしたところで、突然自分の名前を呼ばれた。
声の主は大きなガラス張りになっている壁に背中を預けていたが、大地を見つけると、壁から身体を起こして、こちらに近づいて来た。
「そうですけど、あなたは?」
ジャケットにチノパン、大きめのショルダーバックを提げた、三十歳は過ぎていると思われる男性だった。
見たところ学生ではない。大学には様々な人間がいる、それこそ三十を過ぎた人も。けれど、目の前にいる人は明らかに違うと断言できた。
そうなると、必然的に答えは導かれる。
「水木さん」
本人が名乗る前に、一緒にいた悠真が相手の名前を言った。
「やあ」
水木と呼ばれた男性は、友達のように応えた。
「じゃあ悠真のところに来た記者って……」
「うん」
「改めまして、水木です」
そう言って差し出された名刺には、大手出版社の名前があった。
大地は、どうも、とだけ言ってそれを受け取った。
「倉木遼と友達だったんだよね。サークルもゼミも一緒で、大学内ではいつも一緒にいるほどの仲だったとか」
「友達だった、じゃないです。今も友達です」
その言葉に水木は驚いているように見えた。
「それは本心で言ってる?」
「はい」
躊躇わず答えた。
遼がやったことは許されることじゃないし、事件のせいで他人から白い目で見られることもあるが、遼が友達ということに今も変わりはない。
「もういいですか? 次の講義があるので」
嘘だった。今期はゼミ以外何も取っていない。けれど、これ以上何を訊かれても答える気はないので、早々に話を切り上げた。
「嘘はいけないな、沼田くん。君がさっきのゼミ以外に講義を取っていないことは知っているんだから」
水木は勝ち誇った表情で大地を見た。
水木がこの時間、この場所にいたことは偶然でも何でもない。俺の履修状況を知っていたから、待ち伏せをしていたんだ。
そこまで考えつくと、反射的に悠真の顔を見た。
悠真は首を振っていた。
「誰から聞いたっていいじゃないか。それより倉木遼について話を聞かせて欲しいんだ。君なら彼のことをよく知っているだろ」
水木が二人のやりとりに割り込んできた。
「取材はお断りします」
大地は水木に背を向けて、階段を降り始めた。
水木は追ってこなかった。記者という人種はどこまで付き纏ってくるイメージがあったので、大地は少し拍子抜けした。
「大地」
二階まで下りた時、後ろから声がした。
「話しぐらいしてもいいんじゃないか?」
悠真が階段の踊り場から下りてきた。
「話したって遼にとって何もいいことはない。面白おかしく書かれるだけだ」
「そうかもしれないけど……」
大地の剣幕に押されてか、悠真はそれ以上何も言わなかった。
二人は黙ったまま、階段を下りていった。
五号館の一階の入口近くには、ラウンジのようなスペースがあり、椅子とテーブル、それに数台の自動販売機がある。そこでは学生がお喋りに興じていたり、必死に何かをノートに写していたりしていた。
俺もよくここでくだらない話をしていたなあ。
大地は立ち止り、ラウンジの賑わいを眺めていた。
サークルが始まるまでの時間や、急に講義が休みになった時、そういった空き時間には、大抵ここに座って雑談を交わしていた。
けど、四年になってからは、そういった時間もなくなり、挙句には相手も一人、いなくなってしまった。
「じゃあ、俺、次あるから行くわ」
「ああ」
大地と違い、本当に次の講義がある悠真は、早足に五号館を出ていった。
悠真を見送ったあと、大地は自動販売機の横にあるゴミ箱に、さっきもらった名刺を捨ててから外に出た。