企業説明会
6
年が明け、短かった冬休みも終わったが、まだまだ冬は衰えず、街には寒さから身を守るためにマフラーや帽子、手袋で肌の露出を最大限に控えた人達が行き交っていた。
キャンパス内の木は枯れ、風が吹いても揺れる葉はなく、学生たちが身震いをするだけだった。
ぬくっ。
講義室に入ると、冬ということを忘れそうなほどの温かさが大地を出迎えてくれた。たまらず巻いていたマフラーを取った。
「明けましておめでとう」
講義室にいた遼に新年の挨拶をした。
「おめでとう」
大地はダウンジャケットを脱いでから、隣に座った。
「正月どっか行った?」
「初詣とばあちゃん家。大地は?」
「俺は初詣だけ。それでさ、おみくじ引いた?」
「うん。中吉だった」
「ほんと? 俺、凶だった……幸先悪くない?」
大地は本当に嫌そうに顔をしかめた。
「そんなの気にするタイプだった?」
「これから就職するぞって時だから、嫌でも気になるだろ」
「百円で就職が駄目になるわけないじゃん」
大地は遼から冷笑を浴びせられ、神社で凶を引いた時と同じぐらい落ち込んだ。
休み明けの講義はついつい眠たくなってしまう。しかも、講義室が温いので、寝ろと言っているようなものだ。
何度も船を漕ぎながら大地は九十分、今にも沈みそうな船で何とか眠気の海を乗り切った。
「実際はどう?」
講義が終わってから遼が、講義が始まる前の続きを訊いてきた。
「大丈夫だと思う。エントリー数は目標にしてた百には届かなかったけど、それなりに数は増えたし、働きたいと思える会社も何社か見つけたから」
「そうなんだ。どこ?」
大地は、誰もが一度は名前を聞いたことがある食品メーカーの会社名をいくつか言った。
「どれが第一志望?」
大地は、今挙げた会社の中から、給与、福利厚生、将来性、その他、冬休み中に色々と吟味して決めた一社を言った。
「大手は人気だから厳しいんじゃないか?」
「そうかもしれないけど、……まあ、頑張ってみるよ」
大地は遼と一緒に行った合説の一週間後、同じ場所に一人でいた。前と違うのは、一人ということと、合説を主催している企業、それと期間。前は一日だけだったが、今回は土日の二日間開催された。
大地は両日とも参加し、計十六社の、色々な企業の説明を聞いていくうちに、ふらついていた気持ちが固まり、さっき遼に言った会社を選んだ。
「遼はどんな状況?」
「俺は、エントリー数でいうと百は越した。働きたい企業は変わらず銀行。そんな感じかな」
「百越したの! 凄いな」
「まあエントリーだけだし。選考に必ず進むってわけじゃないから、それほど凄くない」
嫌味でも謙遜でもなく、本当にそう思っている言い方だった。
「それでも百社もエントリーできるって凄いな。でもさ、銀行に決めてるのに、選考なんか受けるのめんどくさくない? それだったら銀行だけ選考受けた方が、効率よくない?」
「銀行以外は練習として受ける。ぶっつけ本番はリスク高すぎるだろ」
「練習……?」
大地は怪訝な顔になった。
「多いよ、そういう人。練習としてとりあえず受ける、みたいな人」
「練習って……それで、もし内定もらったら?」
恐る恐る訊いてみた。
「断ったらいいだけだろ」
遼はあっけらかんと言ってのけた。
練習で選考を受けるということは、企業が必死で有能な学生を確保しようとして、ようやく見つけた人材が、簡単に内定を辞退する事態が起こる。と言うことになるのか。
「それって向こうに凄い迷惑かけるんじゃない?」
「そんなの気にしなくていいだろ。向こうだって紙切れ一枚、メール一通で俺らの努力を踏みにじるだろ」
「お祈りメールか……。そう言われると、反論できないな」
企業からの不採用通知には、『今後のご活躍をお祈り致します』といった意味の文章が必ず添えられているため、そのような俗称が広まり、就活生の間では、落ちたと言わずに、祈られたと言うのが普通になってきている。大地も先輩が祈られた、と嘆いている姿を何度も見聞きしていた。
「だろ。だから、そうならないために、どうでもいい企業で練習して本命に備えておくんだよ。どうでもいいとこだったら、祈られても痛くも痒くもないからな」
「踏み台にするってこと?」
「悪く言えばそう。良く言えば経験を積む。かな」
爽やかな笑みを浮かべているが、言っていることは腹黒く、その笑みで中和されることはない。
「別に大地も同じようにすることはないよ。人にはそれぞれやり方があるし、俺のやり方が正解ってわけじゃないから」
「内定もらえたら正解……ってことか」
「そうそう。結果より過程が大事なこともあるけど、就活は何より結果だからな。最終面接で落とされるのも、エントリーシートで落とされるのもどっちも同じ」
そうだよな。エントリーシートで落とされたらそこでお終いだし、最終面接まで行っても、そこでミスったら今までの苦労が水の泡となるから、一度も失敗ができない。そのために練習するっていう遼の考えも、絶対に志望している企業に行きたいっていう意志の表れでもある。企業に迷惑がかかるなんて甘いこと言っていたら、この闘いの勝者になれない。
でも、だからと言って練習として受けるっていうのは、どうにも納得がいかなかった。
「なあ、大地は練習で受けることに対して納得いってないみたいだけど……選考、第一志望以外は受けないの?」
そんな大地を見て、遼が挑発的な態度で言ってきた。
「そんなわけないだろ。他にも色々受けるよ」
「じゃあ、その食品メーカー以外の企業から内定もらえたらどうする?」
大地は腕組みをして、少しの間考えた。
「第一志望から内定出てたら断る……かな」
「そうすると、第一志望以外は練習ってことになるよな」
遼の言いたいことがわかった。
自分のやり方が正解じゃないって言っておきながら、否定的な態度をされたのが勘に障ったのか、同じことをお前もやっていると言いたいんだ。
「俺はそんなつもりで選考を受けない。内定をもらうために必死で受ける。遼が言う、練習とは違う」
思いのほか声に力が籠もった。何事かと講義室にまだ残っていた何人かが、こちらを見ていた。
「結果は同じでも?」
大地は大きくうなずいた。
「ふーん。まあ、好きにしたら」
「そうするよ」
どこか上から目線で、まるで相手にしていないような言い方が気に食わなかったので、大地は口を尖らせた。
「じゃあ俺、帰るわ」
ちょっとした無言の間が空いてから遼が言った。
「おう、じゃあな」
次の三限がない遼はリュックを背負い、ラケットケースを肩にかけて講義室から出ていった。
「大地、飯行こう」
筆記用具を片付けていたら、上の方から声がした。
振り返ると、大地たちが座っていたところより遙か上の席から同じゼミ生の武田悠真がいた。神戸翔平と山下邦弘も傍にいた。
「わかった」
大地も悠真のところまで届くように、大きめの声で返事をした。
いつもは遼と食べている昼ご飯も、毎週この曜日は悠真たちと食べている。けれど、悠真がこの講義に来たのは久しぶりなので、翔平と山ちゃんと三人で食べることが多い。
悠真たちと来たのは八号館の三階にある、カフェレストランだった。ここはオムライスやハンバーグ、といった洋食のメニューが豊富なところだ。言うまでもなく安くて美味い。
八号館は他にも、全国展開しているラーメンやカレーの専門店、パン屋、コンビニがあって、昼頃になると、八号館全体が学生でごった返す。
「なあ、練習で面接受けるってどう思う?」
悠真と食券が出すところが同じだったので、料理が来るまでの間に訊いてみた。
「さっき遼と言い争っていたのはそのことか」
「言い争ってたっていうか……、まあ、そんな感じ」
悠真は同じ講義を受けていたから、二人のやりとりを知っている。言い争いはちょっと言い過ぎな気もするが、目撃者がそう証言しているので仕方ない。
「で、どう思う? 練習として働く気もない企業の面接を受けることは、本当に働きたい人にとっても企業にとっても迷惑だと思わない?」
「企業はわかるんじゃない? あっ、こいつうちで働く気ないなっていうのは。そのために何回も面接するんだろ」
「そんな簡単に見抜ける?」
「見抜けられなかったら、その面接官がしょぼいか、学生が凄いかのどっちかだな」
「……遼だったら練習でも内定もらえそうだな」
「そうだな。あいつだったらうまいことやりそう」
「はい、オムライスとハンバーグ定食」
カウンターの向こうから従業員が、二人が注文した料理を差し出した。
「言うなれば究極の内定対策なんじゃない」
「究極ねー」
それを受け取り、他の二人と合流した。
四人はしばらく料理が乗ったトレイを持って彷徨ったが、何とか席に座ることができた。
「悠真はさ、ここで働きたい! みたいなところある?」
「ない。とりあえずどこでもいいから内定もらう」
「そうやって割り切れるって凄いな」
「強いて言えば給料のいいところかな。あと、休みがちゃんとあるとこ」
「みんなは?」
大地は翔平と山ちゃんにも訊いた。
二人は学部が同じで、カラオケに行ったり、一緒にライブに行ったりする仲だ。
「俺はファッション業界一筋」
そう言い切っただけあって、翔平はいつも服装に気を使っている。今日はベージュのスエードの靴にオリーブ色のチノパン、淡い水色のシャツに、靴と同系色のモッズコートを着ている。
「僕は広告とか出版関係狙ってる。でも他の業種と違って、エントリーシートに作文があったりして大変だよ。まあでも、それが楽しかったりするんだけどね」
メガネの奥の目を細め、山ちゃんが言った。
「作文か……業界によってはエントリーシートから違いがあるんだ」
「もちろん自己PRとかも書くよ。だから、一般的なやつに作文を足したようなものかな」
「そういう大地はどこ狙ってる?」
悠真が訊いてきた。
「俺は大手の食品メーカー。それでさ、エントリーが六十って少ない?」
自分の第一志望を淡々と述べると、不安に思っていることを相談した。
「多い方じゃない」
「そう?」
悠真の答えに大地は首を傾げた。
「俺なんか三十ぐらいだぜ。お前らは?」
「俺は四十ぐらい」
「僕も大地と同じで六十ぐらいかな」
翔平、山ちゃんが順に答えた。
「みんなそのぐらいなんだ。やっぱり百社とかしてる奴って少ないのか」
「あいつらの言うこと真に受けてるのか? 百社とかガイダンスで言ってたけど、エントリー数が十社だろうが、百社だろうが、内定をもらえればいい。就活なんかそんなものだって。だいたい百社もエントリーしてる奴なんかおるか?」
悠真の言うあいつらとは、就活への心構えなど、就職活動をサポートしてくれるキャリアセンターの人達のことだ。就職ガイダンスは彼らが司会進行を務め、就活生に就職のイロハを教えてくれている。そんな彼らに対して悠真は悪態を吐いた。
「遼はしたって言ってた」
「遼か……あいつはしてそうだな。あと織戸もしてそう」
ゼミの中でも優秀な二人の名が出たところで、就活の話は終わり、そのあとは、翔平バイトしているアパレル店の正月セールの忙しさについての話や、悠真が、野郎だけで行った初詣が思いのほか、楽しかったという話で盛り上がった。
その日に履修していた講義を終え、家に帰った大地は自分の部屋の机に向かい、ダウンロードしておいたエントリーシートを広げた。
・志望動機
・自己PR
・長所と短所
・趣味特技
・学生時代に一番力を入れて取り組んだこと
示し合わせたかのように、エントリーしたどの企業にも同じ質問が書かれている。
エントリーシートの提出期限は、ほとんどの企業が一、二カ月ほど先なのに対して、今月に締め切りが迫っているものがあるので、それを今、必死で書いている。
その企業は、エントリーシートと、ウェブでの適性検査を通過した人だけが、二月に行われる説明会へと進むことができるが、正直、やめて欲しい。
説明を聞いた上で、そこで働きたいかを決めたいのに、説明もなしにいきなりふるいにかけるなんて……。もし選考を通過して、説明を聞いて違うなって思ったら、ただの時間の無駄遣いだ。説明会を開くのにも金と時間もかかるため、入社意志が高い学生を集めたいのはわかるが、エントリーシート提出は絶対、説明会のあとの方がいい。
不満を抱えながらも、大地はペンを動かした。
志望動機は各企業に違うことを書くが、自己PRや長所・短所といったものは、すでにテンプレがあるので、それを書く。というか写す。
最初はコピーした方にシャーペンで書いて、枠内に綺麗に収まっているか、誤字脱字はないか、伝えるべきことをちゃんと伝えられているかを確認してから、提出用の新しいやつに清書した。
書く行を一つ間違えたり、単純な漢字ミスをしたりと、淀みなく進まず、気が付けば時計の針は零時を回り、大地の身体はいつの間にかベッドに横たわっていた。
あー、このまま寝たい。
襲ってきた欲望と闘うこと数分。何とか勝った大地は、無理やり身体を起こし、もう一度机に向かった。
7
「おはよー」
大学へ行く道を歩いていたら聞き覚えのある元気な声が聞こえたので、振り返ると、案の定、そこには頭に思い描いていた人物がいた。
「おはよう」
優はマフラーを口元近くまで覆っていた。そのせいか、もともと小顔なのに余計に小さく見えた。
「この時間に会うなんて珍しいな、二限取ってた?」
「講義は取ってないんだけど、レポート書くために図書館で調べ物したいの」
「そうなんだ。もうすぐテストだからな」
「まあ、出せば単位はくれる緩いレポートだけどね」
「そういうの本当に助かるよな。全部そんなのだったら大学生活凄く楽なのに」
「ほんとだね。でもその分凄くアホになるけどね」
「いえてる」
二人は和気あいあいと話しながら、大学へと向かっていく。
「今日のガイダンス行く?」
大地が訊いた。
「うん、行くよ。最後だからね」
去年の五月から五回に渡って開かれてきた就職ガイダンスも今日が最後。
「ところで……、さすがにもうエントリーはしてるよな?」
「もちろん。そこまで暢気じゃないよ。ちゃんとエントリーもして、説明会の予約もしてる」
暢気。去年、まだエントリーしていなかった優に大地が言った言葉。根に持っていたのか、そこを強調して言われた。
優の顔は、どうだ、と言わんばかりのドヤ顔をしていたので、大地の疑念は確信に変わった。
特にリアクションをしなかった大地だが、言ってスッキリしたのか、言い終わったあと、優は上機嫌だった。
「優はどこ狙ってるの?」
大地は話を戻すことにした。
「英語を活かせる仕事に絞ってエントリーした」
「例えば?」
「海外に店舗がある専門店とか、ホテル。接客もできればしたいから。そんなところかな」
大学、そして高校の時も留学していたという優は、英語が堪能で、こっちに来ている留学生とも英語で会話している。
留学から帰ってきた時に、どうして学部を外国語にしなかったのかと訊くと、教科書で学ぶより現地に行く方が勉強になると、高校の時、気付いたらしい。
「英語が喋れるってやっぱりいいな」
「そうかな?」
優は軽く首を傾げたが、英語が喋れるって凄い。それに羨ましい。特に就活が始まってからは強く思う。それだけでありふれている学生の中から、一つ抜けたところにいる、ような気がする。
「ねえ、やっぱり大企業にはエントリーしていた方がいいのかな?」
「優はしてないの?」
「うん。そういう……ブランド? 私、興味ないの。でも友達はみんなしてるから、しないといけないような、強迫観念に囚われちゃって。……大地?」
優は無邪気な笑顔で、何気なく言ったことかもしれないが、大地が真っ先にエントリーしたのが大企業だから、そうはっきりと言われると胸に応える。
「ん? 私変なこと言った?」
顔に出ていたのか、優が不安げに大地の方を見ていた。
「ううん。変なことないよ。したくないならしないでいいと思う。みんなは大企業で働きたいからしてるだけで、周りに流されない方がいいよ」
「そうだね。そうする。相談してよかった」
優は柔らかな笑みを浮かべた。
大学に着くと大地は講義へ、優は図書館に向かった。
〈講義終わった。どこにいる?〉
遼からのLINEで大地は目覚めた。
三年生にもなると、学期毎に取れる単位の上限まで履修しなくても、卒業に必要な単位は足りる。なので、今日みたいに二限しか講義がない日がある。
いつもなら、講義を受けたらすぐに家に帰るが、ガイダンスが今日の五限目にあるので、それまでの時間を潰さなければならなかった。
そういう時は図書館がうってつけだ。
座れて、静かで、エアコンも効いていて、文句の付けようがない。
二限を終えて、昼ご飯を食べ終えた大地は、地上三階、地下二階建ての図書館へ向かった。入口のゲートで学生証をかざし、静まり返った館内に入り、適当な場所に座り、ガイダンスまでスマホのゲームで時間を潰していた。
身体を起こして柱に掛かっている時計を見ると、四時四十分だった。
充電がなくなりそうになったので、ゲームをやめて机に突っ伏したのが三時前だから、一時間以上も寝ていたことになる。
四限が終わるのは、正式には四十五分だから、早く終わったのか。五分くらい早く終わるのは大学ではそう珍しくない。
〈図書館〉
欠伸をしながら返事を返した。
〈じゃあ、川儀ホールの前に集合でいい?〉
〈いいよ〉
遼とは今日のガイダンスを一緒に行く約束をしている。この前の出来事で、疎遠になったり、今日の約束をすっぽかされたりはしない。
悠真は言い争いだと誇張していたが、ただの意見の食い違いで、大地が熱くなっただけのこと。それを言い争いと取るのかは個人の自由で、当の本人たちは全く気にしていない。
スマホをしまうと、大地は図書館から徒歩一分のところにある川儀ホールに向かった。
川儀ホールとは、バスの停留所を降りたところにある、四階建ての建物の名称で、一階から二階にかけて、今日のガイダンスが行われる多目的ホールがあり、三階と四階には小部屋がいくつもあり、セミナーや、面接・エントリーシート対策講座などはここで開かれた。
なぜ川儀と名付けられているかと言うと、大学の創設者の名前が川儀だから。単純なことだ。そんな単純なことを、入学時に配られたいくつかの冊子の一つに、その名前の由来になった創始者の白黒写真と共に、仰々しく書かれていたのを、大地は覚えていた。
早くしないと始まる……。
大地は、焦りながら待ち合わせ場所で待っていた。
腕時計を見ると、すでに開始五分前になっていた。そのため何人かの学生が、かけ足で中に入っていく。
「大地」
もう、一人で入ろうかと思った三分前。声のする方を向くと、遼と優が並んで歩きながら大地に手を振っていた。
「早くしないと始まる」
二人に聞こえるように大きめの声で言った。にもかかわらず歩くスピードは変わらない。
「そんな焦らなくても大丈夫でしょ」
ようやく普通の声で聞こえる距離に来た優が言った。
「わかったから早く入ろ」
どうして講義が早く終わったのに来るの遅い?
責める時間も惜しかったので、大地は言葉を飲み込み、二人を促してガラス張りのドアを開けてホールの中に入った。
ドアを開けた目の前に、ガイダンスが行われる会場の入口があり、その前に、長机が縦に二つずつ、通路を作るように並べられていた。その上にはガイダンスで使う資料が置かれている。
「一人一部ずつ受け取ってください」
スーツを着た係の人が、大地たちに言った。
資料を手にして会場に入ると、舞台上の大型スクリーンには、いつも通り、面接のマナー映像が流れていた。ガイダンスの度に目にする映像なので、一度目はじっくり見て、映像で紹介されているマナーをメモしていたが、もう見飽きた。
「どの辺りに座る?」
大地は横にいる二人に訊いた。
「前の方が空いてるから、前でいいんじゃない?」
「そうだな。それにいつも前の方に座れって言われてるし」
「優も前でいい?」
「うん」
ガイダンスでは、毎回始まる前に司会進行の人(就活支援センター専任のスタッフ)が「前の席が空いていますが、企業の説明会では前から座ることが当たり前です。後ろに座っているとその学生は意欲がないと思われます。ですので前の席に座るように」と決まり文句のように言っていた。そして今日も。
それでも学生は後ろの方から座る。ここは本当の説明会場じゃないから。
今回で最後となる就職ガイダンス。回を重ねる毎に参加人数が少しずつ減っている。参加しても、意味がないと思う学生が増えたということだ。
悠真もそのうちの一人だ。最初のガイダンスに出たきりで、それ以降は出席していない。
あんなもの聞いてるより、SPI(ほとんどの企業の選考で出される総合適性検査)やってる方がマシ、とまで言っていた。
そこまで言う必要はないと思ったが、確かに就活初心者の学生にとって、大学がこのような場を設けてくれることは心強いと最初は思っていたが、二回目ぐらいから、あれ? と思い始めた。と言うのも、就活の情報は色々なところから収集できる。就活サイト、本、ネットの掲示板、先輩。そういったところから集めた情報と同じようなことを言っていることに気付いたからだ。
悠真の言う通り、“あんなの”と揶揄されても仕方ない。
それでも大地は二回目以降も出席をして、そして今日もこの場に座っている。
最後のガイダンスでは、これまでの総括と、内定者を招いての模擬面接、そして質疑応答だった。
模擬面接では、センターの人が面接官に扮して内定者に質問をしていった。
志望動機、大学生活で力を入れたこと、入社してやりたいこと、といった捻りのない質問から、自分を人間以外の動物で例えるなら、といった、その答えで何がわかるのだろうと、疑問に思う質問もしていた。
質疑応答では、面接で訊かれて印象に残っていること、面接で心がけていたことなど、実際の面接を経験したからこそ答えられる質問がされていた。
最後に司会の人が、激励の言葉を述べたが、それによって奮い立った学生は果たしていただろうか。
ガイダンスが終わって、会場を出たところで、毎回、新聞や就職サイトのチラシが入った封筒を配っている、スーツ姿の人達と出会い、そのまま出口へと歩いていった。
「新聞はもう読んでるって」
大地は、中身がわかっている封筒を見ながら呟いた。
三人は駅へと向かっていた。大学のすぐ近くの道なので、両隣には学生寮や、アパートが屹立している。
「もらわなかったらいいのに」
言葉通り、遼の手にも、手に持っている透明のキャリングケース(巷では大学生カバンと呼ばれている)にも封筒はなかった。
「そうなんだけど、目の前に差し出されると、つい」
大地は手に持っている封筒を見て、苦笑した。
「やっぱり二人とも、新聞は読んでるの?」
優が二人に訊いてきた。
「優は読んでないの?」
大地の質問に優はなぜか微笑み、そして新聞に対して文句を言い出した。
「新聞って面白くないよね。小説みたいに物語はないし、漫画みたいに絵はない。何が楽しくてみんな読んでるんだろう?」
「社会に出たら必要になるからじゃない? 新聞に載っている情報が。それか、読んでないと馬鹿にされるから読んでるとか」
言いながら大地の表情は、前半は真面目だったが、後半は半笑いになっていた。
「馬鹿にはされないでしょ」
つられて優も笑いながら言う。
「馬鹿にされるは言い過ぎかもしれないけど、読んでおいた方がいいと思うよ。面接で最近気になったニュースは何ですか? って訊かれた時に、答えられるぐらいにはなっとかないと」
遼だけは終始真面目な顔つきだった。
「それだったらテレビのニュースでいいんじゃない?」
意地でも読まないつもりなのか、優が攻撃するように遼に言った。
「まあ、そうだけど……。新聞だったらいつでも読めるけど、テレビだとそうはいかないだろ。それに、新聞だと自分の気になる部分、興味のある部分を抜粋して読めるけど、テレビだと、全然興味ないやつでも飛ばせないだろ。って言うか興味なかったら消すだろ」
遼はまるで新聞の勧誘にみたいに、メリットを説明した。
「……確かに」
優はすぐに白旗を揚げた。
「院に進むっていうのは、どうだろう?」
芝居じみた言い方で大地が、二人に提案した。
「急にどうした?」
遼は怪訝な表情で大地を見た。
「いや、院に進んだら就活を先延ばしにできるから、そっちの方がいいかなーって、ちょっと思って。ほら、内部進学だったら有利だろ」
「紗絵みたいに?」
いつになく真面目な顔で、優が訊いてきた。
「そう、勉強してればいいだけだろ」
「勉強以外にも、志望理由とか研究計画書とか、院に入るのにも、しないといけないことはあるよ。それに大地、院に入ってやりたいことあるの?」
友達が院に進むのを間近で見ているせいか、輕はずみなことを言った大地を責めているようだった。
「……」
「ないんだったら就活頑張った方がいいと思うな」
返す言葉が見つからなかった。
「じゃあ私こっちだから、お疲れ」
駅に着くと、優はエスカレーターに乗り、地下に降りていった。
「いっつも思うんだけど、何で別れの挨拶がお疲れ? バイバイ、とか、じゃあね、でいいんじゃない?」
前々から納得がいっていない様子の大地。
「講義お疲れ様って意味じゃない?」
「働いてるんだったらわかるけど、たかが講義で疲れる?」
「まあ疲れはしないけど……。そう言われてみたらどうしてだろうな」
くだらない怒りにも、遼は真剣に答えを探してくれた。
「だろ。だからお疲れは間違ってると思う」
「間違ってるわけではないと思うけど……。じゃあ、俺はこっちだから、お疲れ」
けれど、すぐに探すのをやめ、わざとしか思えない別れの挨拶を言った。
だから疲れてないって。
心の中で嘆き、大地は遼とは反対側のホームへと続く階段を上った。二人は同じ路線の電車に乗るが、大地は上り、遼は下りの電車を待っているので、一緒に帰ると、線路を挟んで向かい合わせになる。喋るには遠すぎる。でもお互いの姿は見えている。この時間が妙に恥ずかしい。乗車位置を変えればいいだけの話だが、そうしてしまうと避けているように思われてしまう。
遼も同じ思いなのか、それとも気にしていないのかわからないが、今日もこうして相手の姿が視界に入る。
気恥ずかしいその時間を遼は小説、大地はスマホでゲームをしながら、いつも過ごしている。
今日もゲームをしようと、ポケットからスマホを取り出そうとしたら、電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてきた。
今日はガイダンスがあったので、五限目が終わる時間帯と同じ電車に乗るため、帰宅ラッシュに巻き込まれ、許容範囲を超えているとしか思えない電車に、乗るはめになった。
座ることはおろか、吊り革に掴むことすらできない車内で、ただ目的の駅に着くのをひたすら耐えた。
約二十分後、ようやく満員電車から解放された大地は、外の空気の新鮮さに、おもわず深呼吸をした。
8
土曜日。初めての企業説明会(大企業の飲料メーカー)に参加するため、大地はスーツ姿で自分の部屋にいた。
いくつもの企業が集う合説と違い、企業説明会は、一社の企業が、セミナーや講演会などが行われる会場を借りて行う説明会で、二時間もの時間をかけて、自社がどういった企業なのか、企業理念、戦略、目指しているビジョンを説明する。その説明を聞いて参加した学生は、選考に参加するかどうかを決める。
大地は就活カバンを開け、忘れ物はないか確認した。
筆記用具と、一番忘れてはいけない予約票。それだけカバンに入っていることを確かめた大地は、コートを羽織って、家を出た。
会場は、オフィス街に立ち並ぶビルの五階だった。
エレベーターに乗り、五階で降りると、ご丁寧に、説明会に来る学生のための案内板が立っていた。
矢印に従い、廊下を歩いて行くと『○○株式会社 説明会 会場』と書かれた看板と、長机で作られた即席の受付が、開け放たれた扉の横にあった。
株式会社と付いているだけで、いつもCMで耳にして、慣れ親しんだ企業名なのに、厳粛な雰囲気が漂っている。気がした。
「本日はよろしくお願いします」
面接の時や、説明を聞いている時だけ、優等生ぶっていてはいけない。受付から企業の採点は始まっている。
大地は予約票を渡した後、受付の人にしっかりとしたお辞儀をした。
会場内には演壇、スクリーン、そして会場内を埋め尽くさんばかりに置かれた椅子があり、あのガイダンスの人が言っていたように、学生は前から順に、空席を一つも作ることなく座っていて、講義の時のように後ろの方に座るバカはいなかった。
大地も前から詰めて座り、カバンから筆記用具を取り出し、膝の上に置き、カバンと、エレベーターに乗る前に脱いでいたコートを、椅子の下に置いた。
ピリピリと張り詰めた静寂が会場を包んでいる。ようやく就活が始まった。
もちろん、就活のスタートの合図はエントリーの解禁。けれども、企業説明会独特の空気を味わうと、いよいよだな、と身が引き締まる。
大地は緊張した面持ちで説明会の始まりを待った。
その間にも続々と会場に学生がひっきりなしに入ってくる。
やがて時間になると、スーツを着た社員が演壇に立ち、説明会が始まった。
何か特別なことを期待していたが、終わってみると、企業説明会も合説も、似たようなものだった。
合説の時より詳しい説明があっただけで、はっきりと違っていたのは、途中から社員の方が出てきて、演壇に立っていた司会進行の社員から、彼らへの質疑応答ぐらいだった。
身構えていたためか、拍子抜けした説明会だったが、それでもしっかりと説明をメモした大地は、帰ろうと、立ち上がって出口に向かうと、社員の方が、お疲れ様でした、と会場から出ていく学生に声をかけていた。そして、学生はみな、ありがとうございました、としっかりと優等生を演じ、頭を下げてから出ていく。
無論、大地も、同じように頭を下げてから会場を出た。
家に帰ってからは、説明会を聞いた企業のエントリーシートを書くことに専念した。説明を聞いてきた今だからこそ、いい志望動機が書けそうな気がしたからだ。
数時間後。
思惑通り、いいものが書けた。けど、これで必ず通過できるか、と訊かれれば答えは、わからない。
そもそもエントリーシートに、いや、就職活動におけるすべてに関して、正解はない。ならば、自分がいいと思ったことをやるだけだ。
大地は、書き上がったエントリーシートをもう一度見て、誤字脱字がないか入念にチェックしてから、提出先の企業の宛名を書いた封筒に入れた。
9
テストを来週に控えた講義室は、ノートやレジメを写させてもらったり、テスト範囲を教えてもらったりと、今まで遊んでいたやつが急に姿を見せて騒ぎ出していた。まるでアリとキリギリスのようだ。
キリギリスみたいに落ちぶれていない大地は、そんな奴らを悠然と見ていた。
「遼。お願いがあるんだけど」
大地の隣にいる遼に、悠真が声をかけてきた。
だいたい予想はついた。友達だけど、悠真はキリギリスだ。
「何?」
「ウェブテスト代わりにやってくれない? もちろんタダではとは言わない。引き受けてくれたら今日の昼飯おごるから」
えっ? 代わりにって……選考を?
てっきりテストのことだと思っていたが、違っていた。テストはテストでも、単位のためのものではなく、将来のものだった。
友達二人の会話の内容に驚く大地を置いてけぼりにして、どんどん話は進んでいく。
「何でもいいの?」
「おう」
「じゃあいいよ」
「サンキュー。今日、何限まで?」
「三限」
「一緒か。じゃあ終わったらLINEするわ」
「オッケー」
約五百円で交渉は成立したようだ。
「いいの?」
悠真が去ったあとで、そっと訊いてみた。
「何が?」
その時点で、悪いことをするという意識がないことは明らかだった。
大地が黙っていると、「あぁ替え玉のこと?」と普通に言われた。
「駄目だろ。悠真が受ける会社の選考なんだから」
咎めてみたが、次の言葉に大地は絶句した。
「バレなかったらいいんだよ」
遼は続けて言った。
「真面目。大地は真面目すぎる。練習のために選考を受けるって言った時と同じ顔。まるで犯罪者を見るみたいな、そんな顔してる」
真面目すぎるって何? 褒め言葉と思っていた、真面目。そのことで非難される日が来るとは夢にも思っていなかった。
「犯罪……とは言わないけど、実際、替え玉は駄目だろ」
「まあ、良い悪いで言ったら、悪いに入るけど、向こうもわかってるんじゃない? だからウェブテストは、そんな重要視はしてないと思う」
「じゃあ別に遼がやらなくても――」
「それでもふるいにかけられるわけだから、一番小さい石は真っ先に落とされる。落ちないように、悠真みたいに誰かに頼むのも手段の一つと、俺は思ってる」
言い終わらないうちに、遼が攻めてきた。それでも釈然としない大地の顔は渋い。
「まあ、自分でやるのが一番だけど……、それだけ必死ってことだろ」
この前みたいに、言っても無駄と諦めたのか、押し通さず大地の意見に寄り添った。
「必死になるのはわかるけど……」
わかる。わかるよ。大地も同じ就活生として、内定を勝ち取るためにはどんなことでもする覚悟があるが、どんなことの中に、不正行為は入っていない。
昼ご飯は、悠真が遼に替え玉のお礼をするため、悠真たちのグループと一緒に食べた。遼はハンバーグ定食(四百二十円)を奢ってもらい、それを美味そうに食べていた。
「今から行くの?」
三限の講義を終え、大地は隣にいた遼に訊いた。
「うん」
「ウェブテストって、三十分ぐらいだよな」
「テストによるけど、だいたいそのぐらい。でも性格テストも合わしたらもうちょっとかかる」
「でも、そこは悠真がやるだろ」
「うん」
「……俺も行っていい?」
大地は少し考えたあと、言った。
「いいけど……替え玉に反対なのに、犯行現場に居合わせていいのか? 共犯者になるよ」
犯行現場や共犯者などと、大袈裟な言葉を並べて喋っている遼は楽しそうだった。
「サークルまでの暇潰し」
サークルが始まるのが四時三十分。本当は、三限が終わったら行こうと思っていたが、遼が来なければ一人で行くことになる。もし誰もコートにいなかったら、サービス練習をするしかない。それも悪くないが、悲しいし、やっぱり人と打ちたい。
「わかった。じゃあ行こか」
「どこでやるの?」
「十二号館」
今いる場所は十号館の前。十二号館は歩いて三分ほどのところにある。
「あれ? 大地も来たの?」
十二号館の入口近くのベンチで待っていた悠真は、大地がいることに驚いていた。
「うん。サークルまでの暇潰し」
悠真に対しても同じ理由を言った。
「まあ、別にいいけど、暇つぶしにもならないと思うよ。大地はすることないから」
寂しいことを言われたが、悠真より少し頭がいいぐらいなので、役に立てないとわかっている。
十二号館に入ると、三人はエレベーターで三階に上がり、電子ロックされているドアの前に立った。パソコンがある部屋に通じる目の前のドアには、学生証がないと入れないようになっている。
先頭にいた悠真が、ドアの横に付いている端末に、学生証を縦にスライドさせた。
ピピッ、という電子音が鳴り、ロックが外れた。
ドアを開けると右側に長い廊下が続いている。廊下の左側にある、手前二部屋にパソコンが置いてある。
三人は一番手前にある部屋に入った。
机の上に並べられたデスクトップのパソコン。その間に置かれたプリンター。部屋から聞こえるのはキーボードを叩く音と、時折、私もいますと主張する、印刷の音ぐらいだった。
三人は空いている席を見つけ、悠真がパソコンの前に座った。遼と大地は悠真の後ろに立った。
悠真がパソコンを立ち上げ、あとはクリックをするだけでテストが受けられる画面までページを開いた。
「じゃあ頼む」
「オッケー」
悠真は遼に席を譲り、座った遼はすぐにテストを始めた。
ウェブテストには数種類あるが、基本的には言語、計数、英語、この三分野で構成されている能力検査と、性格検査を合わせたものが広く使われている。それを、それぞれの設問に対して、設けられた制限時間内で解いていく。
受けているのは遼だが、大地も画面に映し出された問題を頭の中で解いていた。途中、まだ考えているのに遼が答えた時、つい「あっ」と声が出てしまった。
「ん? 今の間違えてた?」
遼が首だけ振り返って訊いてきた。
「いや。気にしないで」
慌てて返事をした。
その後も遼はすらすらと解いていく。
「やっぱ遼に任せてよかった」
その様子を悠真は嬉しそうに見ていた。
三十分ほど経った時、遼が手を止めて悠真の方を振り返った。
「あとは性格判断だから、自分でやった方がいいよ」
「おう、サンキュー。助かった」
自分の仕事を終えた遼は席を立つと、すぐさま悠真が座り、性格検査を受け始めた。
「じゃあな」
その背中に向かって遼が声をかける。
「お疲れー」
悠真は椅子を回転させ、二人に向かって手を振った。
十二号館をあとにした二人はサークルに行くため、体育館の中の更衣室で着替え、コートへ向かった。
テニスコートは、体育館の隣のフェンスで囲まれたところに四面ある。サーフェスは人工芝と自然の砂で作られたオムニコート。中ではラリーをしていたり、審判台の横にあるベンチに座って喋っていたりと、自由な時間が流れていた。
二人が所属しているテニスサークルは、いくつかあるテニスサークルの中でも真面目に、そしてハードに練習をする方なので、メンバーの数は三十ほどで、他と比べると圧倒的に少ないが、その分しっかりと練習できるので、大地はこのサークルを選んだ。しかし、奈々が言っていたように、練習のあとに必ずと言っていいほど飲みに行くので、サークルとしての本分も忘れていない。
「こんちはー」
二人がコートの中に入ると後輩が挨拶をしてきたので、「よお」と軽く返した。
大地は準備運動をしてから、ラリーをしているコートに混じった。
遼は就活が始まってからも、何度か顔を出しているみたいだったが、大地はラケットを握るのは約一ヶ月ぶりだ。
就活が始まってからは、サークルに行くより、エントリー数を増やすことや、筆記試験対策に時間を費やしていた。冬休みに入ってからも同じように過ごし、年末年始はサークル自体が休みだった。
そのため、最初はネットにかけることが多かった。けれど、身体に染みついているものは簡単には忘れていなかった。すぐに感覚を取り戻して、ネットすれすれを飛び交う、いい打ち合いができ始めた。だてに高校からやっていない。
「じゃあそろそろ始めよか」
部員が続々とテニスコートに集まって来たので、部長の遼がコート全体に聞こえるように、大きな声で呼びかけた。コートで打っていた大地や部員は球拾いをして、一球も落ちてない状態にしてから、部長のもとへと集まった。
10
「どう就活は? 順調か?」
サークルが終わって、前部長の東原さんと現部長の遼、そして肩書きのない大地の三人は駅へと向かって歩いていた。
「今のところは」
「俺も」
「そっか。今はしんどいと思うけど、内定決まったら楽だぞー。卒論書けばいいだけで、あとは遊び放題だからな」
東原さんは四月に内定をもらい、卒業論文も終え、単位も足りている。つまり、合格が決まった高三と同じぐらい自由だ。いや、バイトしてお金がある分、今の方が自由度は高い。サークルに行けば必ずいるし、羨ましい限りだ。
「そうだ、東原さん。小島さんってどうなったか知ってます?」
就活の話になったことで、遼が思い出したようだ。
「わからん。最近は大学でも見かけないな……。電話しても電源切ってるみたいで繋がらないし。この前も新年会の連絡しようとしたんだけど、電源入ってないからどうしようもなかった」
小島さんの名前が出ると、東原さんの顔からは笑顔が消え、代わりに翳りが現れた。
「最後に話したのは去年の秋ぐらいだったかな。スーツで大学に来てて、声かけたけど元気なかったなあ……。たまにはサークル来いよ、って言って、それっきり」
「家には行ってみたんですか?」
遼が続けて訊く。
「一回だけな。卒論が終わった頃だから、十二月の頭ぐらいかな。行ってみたけど、いなかった。面接に行ってるって、お母さんに言われて会えずじまい。その時は、頑張ってるなあ、って思って帰ったけど、今も連絡つかないってことは駄目だったみたいだな」
「……そうですか」
駅までの道にはコンビニぐらいしか店がなく、街灯だけが三人の歩く道を照らしている。
「就活って怖いですね」
大地が独り言のように言った。
「まあでも、院に行かないんだったら避けれない道だからな。お前らは行かないんだろ?」
「はい。でもこいつは院に逃げようとしてました」
遼は大地を指差した。
「言ってみただけですよ」
大地は突然の暴露に焦り、必死で釈明した。
「院行くって言っても、試験あるからな。行くのも大変だぞ」
「同じことを友達にも言われました」
「そうか」
東原さんはハハッと笑っていた。
「東原さんは院に進もうとは考えなかったんですか?」
大地が訊いた。
「うーん。なかったなあ。そんな本格的に勉強する気なかったから、さっさと内定をもらうことしか頭になかった」
「それでちゃんと内定もらえるって凄いですね」
「そんなことないって。内定だけだったら、もらおうと思ったらもらえるもんだよ。ただ、どこからもらえるかが重要だけどな」
「どこでもいいって言ってる奴もいますよ」
「人それぞれだからな。そいつがいいって言うならそれでいい。大事なのは流されないこと。自分がこれでいいって思ったら、他人と違っていても、そのやり方でやった方がいいよ。就活に答えはないからな」
内定をもらっている東原さんも、自分と同じ考えを持っていることで、大地は自分が間違っていないんだと思えた。
「もし充を見かけたら、みんな心配してるから電話ぐらい出ろって言っといて」
駅で別れる時、東原さんはいつになく真面目な表情で、二人の目を見ながら言ってきた。本当に心配なんだ、と大地はその表情を見て改めて思った。
「わかりました」
「伝えときます」
「じゃあな。就活頑張れよ」
「はい」
二人は声を揃えて返事をした。
11
小島さんの現状がわかったのは、テストも終わり、春休みに入った二月の中旬、企業説明会の帰りの電車の中だった。
サークルのメンバーで構成されたLINEのグループ。そこに送られてきた東原さんからのメッセージ。
「えっ!」
思わず口から漏れて、隣に座っていたお客さんから視線を浴びてしまった。
『ドアが閉まります』
唖然として、そのまま画面を見つめていたので、あやうく乗り過ごすところだった。
慌てて降りると大地は改札に行かずに、ホームに備え付けられている長椅子に腰を下ろし、改めて、さっき来たメッセージを、ゆっくりと目で追って、そこに書かれている内容を理解しようとした。
〈充が自殺した。明日、通夜が行われるから来て欲しい〉
このメッセージに対する既読者の数は、すでに十人を超していたが、誰も返事を返していない。もちろん既読スルーではない。大地と同じように絶句したり、もしかしたら涙を流したりしている人もいるかもしれないが、大半は身内以外の死に対して、どうしたらいいのかわからないのだ。
駅のアナウンス。電車の走行音。乗り降りする乗客の話し声。どれも大地の耳には一切入ってこなかった。
五分ほど画面を見つめ、動かずにじっとしていたら、駅のホームであっても真冬の寒さは身を震え上がらせる。
その震えに同調するようにスマホが震えた。誰かが返事を返した。見てみると、遼だった。
〈わかりました。詳しい場所と時間を教えてください〉
するとすぐに、東原さんから場所と時間が書かれた返事が表示された。
その返事のあと、戸惑っていたメンバーからも、続々と参列することを伝えるメッセージが送られていた。
大地も、わかりました。と送った。
返事を返すと、大地はようやく立ち上がり、改札へと足を運んだ。
家に帰る途中も、帰ってからも、小島さんのことで頭が一杯だった。
どうして自殺なんかしたんだろ?
内定がもらえない。ただそれだけのことで死を選んだのだろうか。もしかしたら面接で、面接官から心ない言葉を浴びせられたのかもしれない。それとも周りの友達が内定をもらって遊び呆けているのに、自分だけは……、という自責の念に押し潰されてしまったのか。
考えても納得のいく答えなんて出ないのはわかっているが、他のことをする気になんてなれなかった。
着替えもせず、しばらくベッドに横になっていたが、スーツに皺が寄るな、と思ったので、とりあえず着替えて、スーツをハンガーにかけクローゼットにしまった。
黒いネクタイあったかな……。
クローゼットの扉の内側に付いているネクタイ掛けを確認してみると、入学式の時にスーツと一緒に買った青のネクタイが一本。それとライトブルーが一本と、グレーが一本の計三本。どれも通夜に相応しくない色ばかりだ。
父さんが持ってるだろ、きっと。
12
いつもと違うことが起きても、いつもと同じように太陽は昇り、朝は来る。
朝ご飯ができるまでの間に、父さんに黒いネクタイはあるかと訊いたら、何でそんなこと訊くんだ? と逆に訊き返されたので、先輩が亡くなったことと、今日の夜、通夜に参列することを告げた。
父さんと、キッチンで朝ご飯を作っていた母さんは沈痛な面持ちになったが、それも一瞬だけだった。
「母さん、ネクタイあったか?」
父さんがキッチンにいる母さんに訊いた。
「あるよ。それと数珠も忘れないで持っていきなさい」
「うん。ありがとう」
「そうだ、忘れないように、今のうちに持ってきておく」
そう言いながら、母さんは寝室に姿を消したかと思ったら、すぐに黒のネクタイと数珠袋を持って出てきた。
「はい」
それを大地に手渡した。
「ありがとう。でも、数珠なんて何で持ってるの?」
「何でって、使うことがあったからに決まってるでしょ」
それもそうか。
両親の父母が元気だからといって、悲しい出来事がなかったわけではないんだ。
しかし、大地の記憶には喪服に身を包んだ両親の姿はないので、幼い時、もしくは大地が生まれる前に経験したのだろう。
ご飯を食べ終え、部屋に戻った大地は、母さんから受け取ったネクタイはネクタイ掛けにかけ、数珠袋は机の上に置くと、スーツに着替え、説明会へと出掛けた。
今日は二社聞きにいく。一つは商社、もう一つは食品だ。
合説で聞いた説明で商社に少し興味を持ち、一度説明会でがっつりと聞いてみたくなったので、名前だけは聞いたことがあった会社の説明会を予約していた。選考に進むかどうかは、今日の説明次第だ。
食品の方は、エントリーシートを通過しての説明会なので、自然と力が入る。
二月に入ってから、企業説明会を行う企業が増え、スケジュール帳には空白がほとんどない状態だった。
九時。通勤ラッシュは過ぎていたが、空いている席がなかったので、大地は扉の近くに立ち、通り過ぎていく見慣れた街並みを眺めていた。
いつもならこういった時間はスマホでゲームをしているが、今はそんな娯楽に興じる気分ではなかった。
駅に着き、出口を出ると、すぐ目の前に説明会の会場になっている、地上三階、地下一階建のネオ・ルネッサンス様式の建築物が現れた。こういった建築物があるのは知っていたが、中に入るのは初めてだった。
その日本らしくない建物の前には、『○○株式会社説明会会場』の立て看板が置いてあった。
コートを脱ぎ、手にかけ、開け放たれた四つの扉から玄関ホール入ると、長机で作られた即席の受付があった。
大地は受付で名前、大学と学部名を告げると、受付係の社員が、机の上に置かれている参加者リストと照合し始めた。
「あちらからご入場下さい」
照合を終えた社員が、大地から向かって左にある、開け放たれているドアを手で示した。
「はい。本日はよろしくお願いします」
大地は丁寧に頭を下げ、示されたドアを抜けると、正面に舞台、そして千人ぐらい座れるんじゃないかと思うぐらいに備え付けの椅子があった。一階の天井は吹き抜けになっていて、周りに二階席があった。
その二階は今回使わないらしく、一人も学生はいなかったが、一階にある椅子は半分ほどが埋まっていた。
大体の説明会では安っぽい椅子に座らされるのだが、ここの椅子はしっかりとクッションが効いていて、長時間座っていても疲れないことは腰掛けるとすぐにわかった。
こんなところで説明会を聞くなんて。
驚きながらも大地はカバンからノートとペンを取り出し膝の上に、カバンとコートは椅子の下へと置く。
この一連の動作はすでに洗練されていて、一切の無駄はない。
準備を終えた大地は前方にある舞台に目をやった。舞台上には演壇の他に、数脚の椅子が用意されていた。きっと説明会の後半ぐらいに社員が呼ばれ、司会進行の人から、仕事のやりがいや職場の雰囲気など、社員にしかわからないことを訊かれたり、学生からの質疑応答に応えたりするのだろう。
もう何度も説明会に参加しているので、ある程度のことはわかっている。
予想していた通りの説明会が終って、会場を出た大地は、手に持っていたコートを羽織って、腕時計を見ると、十二時を少し回っていた。
次の説明会までは二時間も空いているので、どこかで昼ご飯を食べようと辺りを見渡したが、今いる場所は中州の上。ここには図書館や、市役所、そして、都会のオアシスとしてのバラが咲いている公園はあるが、飲食店がない。両側に流れている川の向こうにはビルが林立しているオフィス街があるので、そこで探そうと、大地は橋を渡った。
橋の向こうは昼休憩のせいか、サラリーマンやOLが歩道を行き交っていた。
特に食べたいものがなかったので、大地は最初に目についた牛丼屋に入った。
店内はスーツ姿の男性客しかいなかった。
首にかけた社員証を胸ポケットにしまっている中年。左手に丼を持ち、箸を持っている右手でスマホを弄っている若者。見た目が大地とあまり年が変わらないから入社二、三年といったところか。
牛丼屋は働く男性にとってのソウルフードなのだろうか。
カウンターに座った大地は、注文を取りに来た店員に、牛丼の並を注文した。
「牛丼、並。お待たせしましたー」
注文して、コートを脱いで、次の説明会に必要な受付票を確認しようと、カバンからクリアファイルを取り出すと、目の前に湯気が立ち昇った牛丼が置かれた。
さすが、うまい・早い・安い、の三拍子が揃っているだけある。
大地は、取り出したファイルを鞄にしまい、先に昼ご飯を済ませることにした。
紅ショウガをたっぷりと乗せ、丼を持って一気に口の中へとかきこんだ。
からっぽの胃に、肉と玉ねぎと紅ショウガ、そして白米が流れこむと、鳴いていた胃はおとなくしなったが、もっと寄こせと催促してきた。
大地は丼を一度も置くことなく牛丼を平らげた。
食後は熱いお茶を飲みながら、さっきしまったファイルを取り出し、受付票があること、説明会の会場、時間に間違いがないかを確認した。
次の会場はここから、電車で五分、徒歩だと三十分。
自分の腕時計を見て、歩いて行くことに決めた。革靴はもう足に馴染んで、身体の一部みたいになっているので、靴ずれなんて気にする必要はなかった。
店内を出た大地は、コートの襟を立てて、真冬の寒さから身体を護りながら、会場へと向かって歩き出した。
本日二度目となる説明会が行われるビルに着いたのは二十分前。少し早いと思ったが、構わず十階にある会場に入った。
会場には長机に椅子が三つ、このセットが縦に四列、ずらーっと並び、前方には演壇、その横にはスクリーンが垂れ下がっていた。
こういう場所が説明会の会場としては基本的に使われている。午前中の会場はこれから先、どんな説明会を受けに行っても巡り合うことはないだろう。
二十分前にもかかわらず、大地が座るべき席は、後ろから数えた方が早い場所だった。
いつもなら、この待ち時間は誰も口を利かずに、ただじっと椅子に座っている。それは大地だけでなく、他の学生も同じだ。カバンを開ける音、ペンを机に置く音、ノートを捲る音、この三つの和音だけが、この世界に存在する音と勘違いするぐらいに、ただじっと始まりを待っているだけだが、今日は不協和音が混ざっていた。
大地の一つ後ろの席に座った軽薄そうな声の主が、隣に座っていた人に話しかけているのが聞こえてきた。友達同士なのかと思ったが、話しかけられた方は、ただ返事を返しているだけだったので、たぶん初対面。話が弾まないからか、話し声は止んだが、またすぐに、軽薄な声が聞こえてきた。さっきは女性だったが、今度の話し相手は男性だと声でわかった。今度はしばらくの間、話しが弾んでいた。
説明会は始まっていないので、私語をするのが悪いとは言わない。小さい声だし、内容も就活に関することのようだ。けど、今この場で私語をするのは、企業側にいい印象を与えないのではないかと危惧してしまう。他人がどうなろうが知ったことではないが、もし話しかけられたらどうしよう。
会場内にはまだ企業の人は見当たらないが、それでも気を抜いてはならない。どこで目を光らせているかわからない。
話しかけてくるなよ。
大地は念じながら、受付で渡された企業案内のパンフレットを開いて、時間を潰すことにした。
ふと、俺の隣はどんなのか? 気になった大地は右隣に座っている学生を盗み見た。メガネをかけた、いかにも大人しそうな人で、背筋をピンと伸ばして膝に両手を置いていた。まるで、ガイダンスのマナー講習の映像に出てきそうな姿勢だった。さらに髪型、ネクタイ、腕時計、どれをとっても、就活生のお手本のような人だった。
安心した大地はパンフレットに視線を戻した。
説明会が終わって席を立って、会場を出ようとしたが、どうしても気になったので後ろを振り返った。
そこには、髪型は就活カットだが少し長め、黄色のネクタイ、時計盤がごつい腕時計をした、就活生の中では派手な部類に入る学生がいた。
本人にしたら、派手でも何でもない、ただの就活の格好なのだろうが、クローンのような就活生の中では、ほんの少しの個性でも突出して見えてしまう。
大地は気になっていたことを確認すると、迷いのない足取りで、エレベーターへと乗り、ビルから出た。
13
家に帰った大地は、ネクタイを黒に変えてから、駅に向かった。
大学に行く時と同じ電車に乗るが、今日は大学の最寄り駅から、さらに二駅先の駅で降りた。
集合時間より少し早く着いてしまったが、待ち合わせ場所にはすでに、喪服に身を包んだサークルのメンバーがいた。
駅の改札を抜けた先にある広場が待ち合わせ場所だった。
話し声の一つでも聞こえてきていいはずなのに、聞こえてくるのは、駅の喧騒と、テナントに入っているドーナツ屋の従業員が、百円セールを訴えかける声だった。
「東原さん」
「大地か……」
こっちを向いた東原さんの顔は憔悴しきっていた。
「悪いな、就活で忙しいのに」
「いえ……」
何て声をかければいいのかわからない。
それはここにいるみんなも同じ気持ちだった。重たく息苦しい空気が僕らを包んでいた。
それを破ったのは以外にも東原さんだった。
「お前らは充みたいになるなよ」
その言葉から一拍置いて、みんなが東原さんの方を見た。
「あんな死にかたする奴はアホだ。たかが内定もらえなかったからって人生終わりじゃないだろ。あのアホ」
それはみんなに聞かせるものではなく、独り言のように聞こえた。
「じゃあやっぱり、小島さんの自殺の原因って」
遼が徐に口を開いた。
「……そうだよ。他に何がある! 単位は足りてるし、卒論も出してる。あとは内定もらえれば、一つでももらえれば……あいつは……あいつは……」
初めは大声で怒鳴るような口調だったが、しだいに小さくなり、最後は嗚咽が混じっていた。
言葉が出なくなると、東原さんは手で目頭を押さえた。
「大丈夫ですか?」
遼がハンカチを差し出したが、東原さんは手でそれを制した。
「大丈夫」
そう言うと、ポケットから自分のハンカチを取り出して、目尻を拭った。
「いやー、らしくないところ見せてしまったな。悪い」
ハンカチをしまうと、見ているこちらが辛くなるような笑顔を作った。
「よし、ドーナツでも食うか」
東原さんは急に、突拍子もないことを勢いよく言い出した。
「ドーナツ……ですか?」
大地は戸惑いを隠せなかった。いくらセールでいつもより安いからといって、いやいや、そんなことが問題じゃなくて、これから死者を弔いに行くって時に、ドーナツなんて食べてる場合か?
「そう。ドーナツ。セールやってるみたいだから」
東原さんが、ドーナツ百円、と書かれたのぼりを指差した。
「……遠慮しときます」
そんな気分には到底なれなかった。
「……そうか。……そうだよな、食ってる場合じゃないよな。何言ってるんだろうな」
「行きましょう、食いに。ドーナツ」
「えっ?」
大地と東原さんが同時に声をあげた。
「食べましょう、ドーナツ。もちろん東原さんの奢りですよね」
遼がにんまりと笑みを浮かべている。
「も、もちろん。俺の奢りに決まってるだろ」
言葉に詰まりながらも、最後は先輩らしく堂々と宣言した。
「よし。じゃあ行きましょう」
「俺もいいですか?」
「じゃあ私も」
参加を申し込む声があちらこちらから聞こえてきた。
「おう、みんな来い」
東原さんは数人の仲間を連れて、ドーナツ屋に向かっていった。
「東原さん、えびグラタンもいいですか?」
「俺、晩飯まだなんで汁そばいいっすか?」
「駄目。セール対象のドーナツだけ。贅沢言うな」
「えー、ケチ」
さっきまでの空気はどこに行ったのかと思うぐらい、明るく、笑顔でお店に入っていく東原さん達。それを茫然と見守る残されたメンバー。気付けば三回生は大地以外、全員付いて行っていた。
「遼さんって気が利くね」
いつの間にか、大地の隣には奈々がいた。
「自分のせいで空気悪くなったから、なんとか盛り上げようとしたのに……。あそこは行きましょうって、言えばいいんだよ」
そしてなぜかダメ出しをくらった。
「でも、盛り上げようとしたからって、ドーナツ食いに行くってどうなの?」
「店員さんの声が聞こえたんじゃない? まあ何でもよかったんだと思うよ。あのまましんみりとしてるよりかは」
「そうなんかなー」
ガラス越しに見える東原さんは笑顔でみんなと喋っている。それを見たら、奈々の言う通りなのかもしれないと思わざるを得なかった。
みんながドーナツを食べている間に、続々と喪服姿のメンバーが改札を抜けてきた。全員揃ったので、この場に居る中で一番年上の大地が店内へと呼びに入った。
「東原さん。みんな揃いましたよ」
「おう。じゃあ行こか」
「はい」
東原さんの号令でみんなが席を立ち、ぞろぞろと店内から出ていく。
「ドーナツ食べてたんですか?」
今来たばかりの二回生の一人が、店内から出てきたメンバーを蔑視した。
「東原さんが奢ってくれるっていうから」
遼が代表として答えた。
「だからって、これから通夜に行くのにドーナツは……」
「まあまあ、そんな陰気臭い顔して行くより、ドーナツ食べてお腹も膨れてからいった方がいいって」
「そう……なんですか」
あまり納得がいっていないようだったが、それ以上は何も言わなかった。東原さんの涙を見ていないから、非常識のように映ったかもしれない。
「じゃあ全員揃ったし、行くか」
東原さんは元気を取り戻し、コート上にいる時のようにリーダーシップを執り始め、バス停に向かった。
「東原さん。他の先輩方は来ないんですか?」
大地はバスが発車して、しばらくしてから尋ねた。
そんなはずはないと思うが、このバスを逃したら通夜の時間に間に合わない。車内には東原さん以外に四回生は誰もいない。
「ああ、あいつらは車で行くって」
「車持ってるんですか?」
「うん、まあ中古だけどな」
「東原さんはみんなと行かなかったんですか?」
「一応お前らの引率。バス停から斎場まで少し歩くからな。遅れたら駄目だろ」
「そうだったんですか。ありがとうございます」
「そんな、お礼なんかいい。お礼は言うのはこっちの方」
「えっ?」
「忙しい時期なのに、こうやって時間作って参列してくれたんだから」
真っ直ぐに目を見て言われた。
「小島さんは俺らにとって尊敬できる先輩ですから、当然ですよ」
大地も倣って、真っ直ぐに目を見た。
「そうだな、真面目で、部長の俺がふざける度に叱ってくれたからな」
「そうでしたね」
二人は、握っている吊り革を眺め、そのシーンを思い出していた。
東原さんが漫画の技をマネすれば、現実と漫画をごっちゃにするな、と怒鳴られ、合宿先で買った木刀でラリーをすれば、木刀を取り上げ、コートの外に放り投げた。
そのシーンを思い出すと、笑みが零れると同時に悲しみが、ふっ、と顔を出す。
「でも、何で小島さんが部長じゃなかったんですか? こういったらなんですけど、部長としては小島さんが相応しかったと思うんです」
不躾な質問だったが、東原さんは声を荒げることなく、優しい目で自分が部長になった経緯を教えてくれた。
「本当はあいつが指名されたけど、部長が弱かったら示しがつかないって言って、辞退した。それで俺がなる羽目になった」
「弱いって言っても三番手でしたよね、小島さん」
「三番じゃ駄目だって。部長は一番強い奴がなるべきだって……ほんと、くそ真面目な奴だった」
昔を懐かしみ、哀愁を漂わす東原さんには、手を触れれば音を立てて崩れていきそうな危うさがあった。
どんどんとバスは斎場へと向かう。窓から見える風景は、僕たちから逃げる様に流れていく。
次の停留所がアナウンスされると、東原さんはバスのいたるところに付いているボタンの一つを押した。
「次降りるから」
引率らしく、みんなに聞こえるように、他の乗客の迷惑にならない程度のボリュームで言った。
停留所から歩くこと五分。大地たちは斎場へと到着した。
斎場の入口の近く、邪魔にならないところに東原さん以外の四年生が集まっていた。
合流して、サークルのメンバー全員で斎場へと入っていった。
受付では代表で東原さんがお悔やみの言葉を述べ、会葬者名簿に大学名とサークル名を書いた。そして袱紗に包んだ香典を渡した。
香典はメンバーが千円ずつ出し合った。
受付を済まし、会場に入り、四回生から順に席に着いた。
会場の中央には祭壇があり、そこには笑顔の小島さんの写真が花に囲まれていた。
それを見ると、本当に小島さんが亡くなったんだと嫌というほど思い知らされた
会場内には、大地たちと同じ若者が喪服姿で席に座っていた。初めて見る人もいたし、大学内で見たことがある人もいた。その誰もが悲しみを抱えている。
厳粛な雰囲気の中、僧侶の読経が始まった。
喪主である、小島さんの両親が初めにご焼香をして、順に親族、そして大地たちの参列者が焼香をした。
大地たちはご焼香が終わると、そのまま退席して斎場の外へ出た。
「みんな今日はありがとう。充も喜んでるだろ」
東原さんは頭を下げた。
「頭を上げて下さい。みんな強制されたわけじゃないんですから」
遼が言うと、その場にいる誰もがうなずいた。
「そうだよ、剛。みんな充のことが好きだから、こうやって冥福を祈りに来てるんだから。ほら、顔上げ」
「ありがとう」
先輩の一人が優しく声をかけると、東原さんはようやく顔を上げた。
「剛、車乗っていくか?」
「いや、俺はこいつらと帰るから」
東原さんは後輩たちの顔を見た。
「俺らは大丈夫です。バス停までの道はわかりますから、先輩たちと一緒に帰ってください」
「そうか、悪いな。じゃあ遼、頼む」
「はい」
東原さんは、先輩たちと駐車場へと歩いていった。
「じゃあ、俺らも帰るか」
部長としての使命感なのか、バス停まで遼が先頭に立って歩いた。
バスに乗り、駅に着いてからは自由解散となり、それぞれの帰路に着いた。
大地は奈々と一緒に電車に乗り、二人とも同じ駅で降りた。
大地の家の最寄り駅はここではない。けれど奈々が降ると、大地も降りた。奈々も何も言わなかったので、そのまま家まで送った。
「大地はあんなふうになったら駄目だよ」
駅から家までの帰り道、奈々が真剣な眼差しで大地を見てきた。
「あんなふうって……小島さんみたいにってこと?」
「うん。亡くなった人のことを悪く言うのは気が引けるけど……、いくら内定がもらえなかったからって、自殺を選ぶことは絶対にしたら駄目だと思う。ほら、小島さんの両親、泣いてたでしょ。親より早くに死ぬってことは親不孝の何物でもないと思うの。だから……大地はもし内定がもらえないからって、自分を殺すようなことだけはして欲しくない」
「大丈夫。ちゃんと内定もらって奈々を安心させるから、心配しなくていい」
「約束だよ」
「ああ」
二人は手を繋ぎ、お互いの温もりを感じながら家に着いた。
二階建てのアパート。ここで奈々は一人暮らしをしている。
「泊まっていく?」
奈々が家のドアを開けた時、大地の方を見ずに訊いてきた。
「いや、帰るよ」
「そうだよね。ごめん。何言ってんだろう、私」
先輩が亡くなった時に、そんなことをするのは失礼な気がする。奈々も言ってすぐに気付いたのか、自嘲の笑みを零した。
「じゃあ……おやすみ」
「おやすみ」
奈々はそれ以上何も言わず、ドアの向こうへと姿を消した。
大地は奈々の姿がドアで遮られるまで、その後ろ姿を見つめていた。
14
通夜から一夜明けた今日も大地は、午前中に説明会を聞きにいっていた。
ちゃんと説明を聞かなければいけないのに、終わってみると、どんなことを話していたかは記憶になかった。それでもメモだけはしていたらしく、膝の上に広げていたノートには、今日の説明会の内容らしきものが書かれていた。
会場を出る時に、作り慣れた笑顔を浮かべるのにも、努力が必要だった。それでも悪い印象を与えないように必死に作った。
殺人犯と遊んでいるような気分だった。
大地は外に出ると、会場になっていたビルを見上げた。
供養をしたことで、少しだけだが区切りがついてはいたが、先輩を死に追いやった就活に参加していることが、物凄く悪いことをしているように思えてしまう。それでも続けなければ、自分も同じ末路を辿ってしまうかもしれない。
やるせない気持ちを抱えたまま家に帰り、パソコンを開くと、企業からメールが届いていた。
『今後のご活躍をお祈り申し上げます』
初めて祈られた。
いつか来るものだと覚悟はしていたが、実際に来ると、想像以上のものがあった。
せっかく頑張ったのに……。
あんなに何回も書き直して、何時間もかけて作ったのに、どうして通過しないのか……。
大地は、もう一度メールの文面をよく見たが、さっきと変わらず、そこには喜ばしい知らせは書かれていなかった。
その祈りを境に、続々とお祈りメールが届いた。
免疫ができたからか、二通目からはすんなりと受け入れた。というか受け入れることしか、大地にはできなかった。
しばらくお祈りメールを開いたり閉じたりを繰り返していると、このまますべての企業から祈られたらどうしよう。
悲しみに暮れている暇なんてない。他のことに気を取られていたら、内定をもらうことなんてできやしない。そう教えられた気がした。
このままではいけない。
勝手に解釈した大地は、今、自分がどういった状況にいるのかを確認することにした。
現在、エントリーシートが通過しているのは十八社。結果待ちが九社。それと、今書いているものも合わせると、三十四になる。合計三十四社のうち、食品メーカーは、通過しているものと、結果待ちのものを合わせると二十三社と、九割近くを占めている。
エントリーした企業は六十社を超えていたが、実際に選考に参加したのは四十社ぐらいだった。今思えば、不安を和らげるためのエントリーだったのかもしれない
そして通過した十八社の中で、一番早いところで、来週から面接が始まる。
説明会の予定で埋まりそうなスケジュール帳。そこに面接の予定を書き込んだ。
春休みだというのに、全然休めない。
去年の今頃はスノーボードをしに行ったり、近場の温泉に日帰りで行ったりと、冬の寒さを楽しんでいたが、今年は雪を見ることも、温泉で癒されることもなく、ただひたすら説明会へと足を運び、家に帰っては、エントリーシートを書く日々だ。
そして、今日もまたエントリーシートを書き始める