就活開始
1
「百とか無理だって」
就職サイトによる企業エントリーが一斉に解禁になった十二月。大学生にとって一番大変で大切な時期がやって来た。
「まだ始まったばかりだろ」
「そうかもしれないけど、予めエントリーしようとしてたとこ全部しても、半分の五十もいかなかったんだよ」
三年生の沼田大地と倉木遼は、講義が始まるまでの間、解禁したてのエントリーについて話していた。
「遼はどのぐらいした?」
「第一志望の銀行だけしかしてないから、そんなに数はない」
「おっはよー」
朝から元気な声が講義室に響いた。部屋にいた大半の人が、反射的に声の主の方へ視線を向けたが、当の本人、藤崎優は注目を浴びていることなど気にも留めず、手を振りながらこっちに来た。
「何の話してるの?」
優が来たので、二人は席を詰め、その空いた通路側の席に優は座った。
「就活。エントリーどのぐらいしたかって話」
「もうしたの?」
大地の答えに、優は驚いた。
「まだしてないの?」
今度は大地が驚く番だった。
「昨日からエントリーできるようになっただろ」
「知ってるよ。だから驚いてるの。まだ一日しか経ってないでしょ」
「一日経ってたら、普通しない?」
「そう?」
優は遼の方を見た。
「俺もしたよ」
「そうなんだ。二人はどこにエントリーしたの?」
「第一志望の食品メーカー。それに、大企業とか名前の知ってるところは一通りした」
「俺は今のところ銀行だけ」
「私も帰ったらしよかな」
「しよかなって……。暢気だなー。就活はもう始まってるっていうのに」
「わかってるよ。でも、急いでもいいことないって。それにエントリーは先着順じゃないでしょ?」
冷静沈着な優を見て大地は昨日、必死になってエントリーしていた自分がアホらしく思えた。
朝のやる気のない空気が漂う講義室に、目覚ましの代わりにチャイムが鳴り、大学は起床の時間を迎えた。
一限目は九時から始まる。そのため、始まって三十分ぐらいで学生は寝始める。さらにこの講義は、講師の准教授が書いた教科書に沿って進められるため、それを読んでいれば、黒板に書くことも話すことも、板書しなくてもテストは大丈夫、と去年受講していた先輩が豪語するほど、楽な講義なので、他の一限の講義よりも寝る学生が多いので、講義室なのか仮眠室かわからなくなる。
先輩の話を聞いた時から、大地はこの講義を受講することを決めていた。楽して単位が欲しいと思うのは大学生の性だから、致し方ない。
そういう講義なので、一限というみんなが最も嫌う時間帯にもかかわらず、学生が蟻のように群がったため、履修できるかは抽選になった。
そんな蟻の巣の中で准教授は、教科書に書かれていることについて、そこには書かれていない、より深いところまで記した資料を、パワーポイントで作ってきてスクリーンに映し出して説明しているが、寝ずに、そして真面目に聞いている学生はいるのか怪しいものだ。准教授もせっかく作ってきたのに、これじゃあ何のために作ってきたのかわからない。
出席も評価の一部になるため、人口密度だけは高い講義室の上の方に座って、ルーズリーフを広げているだけの大地は、視界に映る講義風景を見ていると、単純に、准教授の自己満足の講義なのではないか、講義が自分の研究成果を発表する場と化しているように思えてしまう。
早く終わらないかな……。そう思えば思うほど時間は遅く進むから不思議だ。
ふと右隣の遼を見ると、ペンを走らせていた。稀有な学生がここにいた……。
そのさらに右隣に座っている優は……寝ていた。それも堂々と机に突っ伏しながら。さっきまでの元気はどこに行った?
暇だから、とりあえず准教授の話に耳を傾けようと努力したが、興味もないことに関して、ずっと話を聞いていられるほど俺は出来た人間じゃない。
大地も他の学生同様、瞼を閉じ、夢の中へと入っていった。
トントン。肩を叩かれ現実へと帰ってきた大地は、まだ寝むそうに瞼を擦った。
「あれ? 講義終わった?」
寝起き独特の声で、起こした遼に訊いた。
「終わった。よく寝てたな、でも次はゼミだから寝れないよ」
「うーん、わかってる」
大地は洗うように顔を擦りながら答えた。できれば次も寝ていたいが、ゼミは普通の講義と違い、少人数なので寝ることは許されない。万が一寝ても、すぐに教授に起こされてしまう。大地は一度寝てしまったことがあるので、そのことは身に沁みてわかっている。「よし、じゃあ行こっか」
同じように寝ていたからか、朝以上に元気な優が先頭に立って、講義室を出た。
「あっ、コンビニ寄っていい?」
広大なキャンパス内にはコンビニが二店舗もある。そのうちの一つの前を通った時に、大地が思い出したように言った。
「いいよ」
買うものが決まっている大地は早足で陳列棚に向かい商品を手に取ると、四台もあるレジに並び、会計を済ませた。
2
ゼミが行われる演習室は五号館の三階にある。この部屋は他の講義室と違い、部屋の大きさは高校の教室よりも一回りほど狭く、黒板の代わりにホワイトボードがある。さらに、ゼミではディスカッションをすることに重点を置いているので、学生同士が向かい合えるように、机と椅子の配置はカタカナのロの形に並べられている。
部屋に入ると、高井戸博が『面接対策 本当に読むべき本はこれだ!』、と表紙を一杯に使った謳い文句が書かれていた本を読んでいた。こういった本は、書店に行けば腐るほどある。
「高井戸、それどう?」
大地がざっくりとした訊き方をした。
「まだ面接始まってないから何とも言えない。でも、読んでいて損はないと思ってる」
高井戸はこちらに顔を向けて答えたかたと思うと、すぐに本に視線を戻した。
「それもそうか」
読んでおいた方がいいのかなと思って訊いてみたが、判断できるような情報は得られなかった。
二人はいつも座っている、入口近くの椅子に並んで座り、大地はさっき買ったばかりの飲み物を袋から取り出した。優はすでに林紗絵の隣に座っていた。
「またそれか、飽きない?」
大地の隣に座っている遼が訊いてきた。
「えっ! 美味しくない?」
質問に質問で返した。
「美味しいけど、お前は飲み過ぎ」
そんなに飲んでるかな? と頭で考えながらも、手は飲み口を開け、ストローの袋を破っていた。
「やっぱりミルクティーだ! コンビニ寄っていい? って言った時、それかなーって思ってたんだ」
ちょうど真向かいの席に座っていた優が、なぜかテンション高めで大地のミルクティーを指差して言ってきたので、やっぱり飲み過ぎなんだと認めざるを得なかった。
ゼミの始まりを告げる鐘が鳴ると同時に、大地は緊張し始めた。落ち着くためにさっき買ったミルクティーを口に含んだ。
「みなさん、おはようございます」
「おはようございます」
柳教授は、いつも演習室に入ってくると必ずゼミ生に向けて挨拶をする。それはこのゼミが始まった、三年の春の第一回目からの習慣になっている。
教授は軽い自己紹介のあと、挨拶は人として、とても大事なことであり基本でもあるので、私のゼミでは必ず挨拶から始めます。そう言った。
初めは堅苦しい人なのかなと思ったが、真面目なだけで、ゼミ生の飲み会にも時間があれば来てくれるし、わからないことがあれば、丁寧でわかりやすく教えてくれ、さらには参考になる本まで教えてくれるので、ゼミ生からは慕われている。
いつものように教授は挨拶を済ますと、演習室に置いてある備えつけのパソコンの電源を入れ、部屋の隅に吊るされているスクリーンを降ろし、発表の準備を整えた。
ゼミでは、教授が専門にしている分野について、グループや個人で調べてきたことを発表し、その発表に対してゼミ生同士で質疑応答していく。たまに教授が課題を出したりするが、大体がこの流れで進められていく。
春学期はグループで発表することが多かったが、秋学期に入ってからは個人で発表することの方が多くなった。たぶん、ゼミ生同士の仲を深めるという意味もあったからだと思っている。
今日は織戸一郎、豊嶋薄荷、優、そして大地が個人で発表する番だった。
一人の持ち時間は十分。その時間内に収まっているか、自分の調べてきたことを丁寧にわかりやすくまとめられているか、ちゃんと自分の考えを述べられているか、が評価の対象になる。とイントロダクションの時に教授から言われたが、毎回ちゃんと出席して、それなりの発表をしていれば、単位はもらえる。これは、このゼミを履修している四回生の先輩からの情報だ。春に開かれた、このゼミでは毎年恒例らしい飲み会で教えてもらった。
大学は横の繋がりよりも、縦の繋がりの方が、有益な情報を仕入れることができる。
「じゃあ織戸、始めて」
教授は、スクリーンにパソコンの画面が映し出されているのを確認してから言った。
「はい」
織戸は立ち上がり、作ってきた資料をみんなに配り、それが終わると、備えつけのパソコンに、今配ったものと同じ資料のデータが入っているUSBメモリを差し込んだ。
ほとんどのゼミ生がこの方法で、調べてきたことを発表している。
織戸の発表は理路整然としていた。さらには話す速度や、間、トーンといった、発表の内容とは関係ない部分も素晴らしかった。人に聞いてもらうにはどうすればいいかを熟知しているかのような話し方だった上に、質疑応答にもすらすら答えていて、非の打ちどころがなかった。
発表が終わったあと、織戸は自分でも満足なのか、笑顔が零れていた。
「じゃあ次は豊島」
豊嶋薄荷。ゼミの初回、お決まりの自己紹介をする時に、豊嶋は不貞腐れたような言い方で、自分の名前を言っていたが、そんなふうになるのも納得がいく。
もし俺がそんな名前だったら一生親を怨む。彼女はその名前を二一年も、そしてこれからも背負って生きていかなければならない。そう思うと同情してしまう。
そんなキラキラネームを付けられ、嫌がっている豊嶋のことを考えてか、女子の間では“みどり”というあだ名で呼ばれている、なんでも「薄荷って緑でしょ? じゃあ緑でいいんじゃない?」という理由らしい。
その豊嶋の発表は、淡々と自分の調べてきたことをとりあえず話す。誰も聞いていようとなかろうと。そんな印象を受けた。なので、大地は一限の講義を受けているような既知感を覚えた。
「次、藤崎」
退屈な発表が終わった。次は優の番。
「はーい」
優は、間延びした返事をして立ち上がった。
そんな返事とは裏腹に優の発表は、織戸と同じようにしっかりと作り込まれていた。また、先の二人とは違い、ただ文字や表が映し出されるのではなく、アニメーションを使い、動きがついていた。それだけで堅いイメージがある発表が、いい意味でくだけて、聞いている方は退屈しなかった。
織戸も優も自信に溢れている。それに、発表を楽しんでいるようにも見えた。だからなのか、二人の発表の内容は頭に綺麗に入ってきて、しっかりと大地の記憶の一部になっていた。
人前に立つのが苦手な大地は、羨望の眼差しを二人に向けた。
「じゃあ最後。沼田」
いよいよ大地の番が来た。潤っていたはずの口から水分がなくなり、手が汗ばんできた。
ミルクティーがあることも忘れ、渇き切った喉で、大地は前の三人と同じように、みんなに資料を配り、自分のUSBをパソコンに差し込んだ。これで準備はできた。全員の視線が自分に集まる中、パサパサの口を開き、発表を始めた。
質疑応答の時に、予想外の質問が織戸からされた。答えに困っていると、教授が助け舟を出してくれたので何とか乗り切れたが、その時に味わった苦みは発表が終わった今でも残っている。
「お疲れ、よかったよ」
席に戻り、ミルクティーでさっきの苦みと渇きを癒していたら、遼が言ってくれた。
「ありがとう」
実際にはよくなかった。視線から逃げる様に下を向くことが多々あったし、言葉に詰まる場面も何回もあった。織戸とは比べものにならない。
気遣いは嬉しかったが、大地は肩を落とした。
全員の発表が終わると、教授が来週の発表者の名前を確認した。
「では、今日はこれで終わります」
「よし、ご飯食べに行こ!」
さっきまで失意の底にいたはずだった大地は立ち上がり、遼に元気よく言った。
「じゃあ十号館のところでいい? 今月あんまりお金ないから」
「いいよ」
キャンパス内にある食堂や店の中でも、一番安くて量が多いのが、十号館の一階にある食堂だ。人気があるから昼時はいつも混んでいて、座る場所を見つけるのも苦労する。そのため、外に持っていって、地べたに座って食べている学生もいたりする。
「座れるかな?」
券売機で食券を買い、先に料理を受け取った大地が、辺りを見渡して、空いているところがないか探したが中々見つからなかった。なので、探す対象を空席から、食べ終わりそうな人に変えた。
すると、床に置いていた鞄を手に取り、今にも立ち上がろうとする二人組がいたので、すぐさま近づき、射程圏内に入った。
狙いは当たった。
大地が近づくと、その気配を察知したとしか思えないタイミングで席を立った。
「遼! ここ、ここ!」
大地は手をあげて遼を呼んだ。
「よく席空いてたな」
遼は少し驚いていた。
大地は四百五十円の日替わり定食(今日はミックスフライ)、遼は金がないと言っていたので、二百五十円のうどんとかやくごはんのセット。
「さっきの織戸の発表、凄くわかりやすかったよな」
タルタルソースをたっぷりとつけたエビフライを齧り、大地が言った。
「わかりやすかったけど終わったあとの、あの自信たっぷりの笑みだけは余計だった」
「それは思った。あれなかったら百点だったのに」
「悪かったな、余計な笑みで」
ハッ、と後ろを向くと、その余計な笑みを見せていた織戸が、笑顔とは無縁の表情で立っていた。その手にはトレイが握られていて、湯気が立っている料理が乗っていた。
「織戸もここで食べてたんだ」
何か言われる前に手を打とうと思って出た言葉がこれだった。
「安くて美味いからな。お前ら、今食べ始めたとこ?」
「うん」
「そっか。じゃあ別のところ探さないと」
「でも空いてないよ。外で食べる?」
織戸の横にいた友達が食堂を見渡しながら、半ば諦めたように言った。
「そうするか。じゃあな」
そう言うと織戸は、トレイを持ったまま外に向かって歩いていった。
「ビックリしたー。急に現れるから……」
「ビビり過ぎだろ」
遼にバカにされたように笑われたので、大地は少しイラッとしたが、ビビっていたことは確かなので何も言い返せなかった。
少しの間、咀嚼の音と食堂の喧騒だけが二人の食事のBGMだった。
「遼は何で経営学部選んだの?」
そう言えば訊いたことがなかったと思い、大地は話題の切り口として選んだ。
「うーん。無難だったからかな、何するにしても。大地は?」
「俺は消去法。外国語、文化、法学、どれも行きたいと思わなかったから、最終的に経済か経営かで悩んだ。経済よりかは経営の方が興味あったから経営にした。だから、胸を張って言える理由なんて持ってない」
大地は両手を広げ、何も持っていないことをジェスチャーで示した。そのあと、また遼に訊いた。
「夢持って大学に来る奴なんているのかな?」
「いるとは思うけど、少ないだろうな。みんな、とにかくどこかに就職することしか考えてないんじゃない?」
「就職できたらいいけどなー」
就職サイトがオープンして、一気に現実味を帯びてきた就職。自分には関係ないことのように、気楽に大学生活を過ごせる日々はもう終わりを告げていた。早く就職を決めて残りの時間を楽しみたい。それが就活生の願いだ。けれど、内定は大学の単位のように簡単にはもらえない。それ相応の準備をしていなければ、就活戦争で負けてしまう。
大地はミックスフライを平らげ、最後に味噌汁を勢いよく飲み干した。遼はすでに食べ終えていた。
「なあ小島さんってどうなったか知ってる?」
大地はコップの水を一口含んだあと、就活の話題が出たついでに訊いてみた。
「いや、知らない」
「大丈夫かな? この前見かけた時、凄く思いつめた顔してたけど」
「ああ、確かに。あんなふうにはなりたくないな」
「あんなふうって……。まぁ、確かにそうだけど。けど、あんなにも就活は人を追い詰めるものなんだな」
小島さんは二人が所属しているテニスサークルの一つ上の先輩で、明るくて芯が強い人だったが、夏休みが終わった頃にキャンパス内で見かけた時は、スーツ姿で覇気がなく、足取りも重く、とても声をかけられる状態じゃなかった。
噂では、今もまだ内定をもらえていないらしい。
昼ご飯を食べ終えた二人は、次の講義が開かれる講義室へと向かった。
一限目の、どの学部でも履修できる一般教養科目とは違い、三限は学部の専門教育科目なので、部屋に入ると、階段状の講義室にはゼミ生の他にも知っている顔がそこいらにいた。
学生の習性なのか、部屋の中央にある横一文字の通路を基準として、教壇から遠い、上の方はいつも混んでいて、下に行くほど自由に席を選ぶことができる。
二人は混み合っているところを避け、下の方に座った。
この講義は今期履修している講義の内、数少ない、ちゃんとしているものだった。
出席はもちろん取る。それに、数回行われるレポート提出。さらには、講義に積極的に参加させるように、教授の質問に対して挙手をさせ、発言をさせる。例え間違っていてもそれは評価の対象になるため、質問を投げかけられると、講義室は卸売市場のような活気に満ちる。
大地も自信がある時は手をあげるが、それ以外は頭の中に答えを思い浮かべるだけで、静かに誰かが当てられるのを待っている。
「じゃあ俺、次あるから行くわ」
三限が終わると、すぐに大地は机の上のものを片付け、リュックを背負った。一方、四限目がない遼の目の前には、シャーペンやらルーズリーフやらが残っている。
「おう」
「明後日、駅に八時半集合、忘れてないよな」
「大丈夫だって」
「オッケー、じゃ」
明日の予定を確認した大地は、安心して講義室を出ていった。
3
合同説明会。通称合説。
就職サイトを運営している企業が主催になり、様々な業種の企業が一同に集まるこのイベントは、就活生にとって、将来自分が働くことになるかもしれない企業との大切な、出会いの場である。
大地は新品同様のスーツに身を包み、就活六点セットで買った就活カバンを手に取り、部屋を出た。そして革靴を履き、玄関にある姿鏡に映った、ネクタイにしか彩りがない自分自身を見た。
就職したら毎日これか……。大地は溜め息を一つ吐いてからドアを開けた。
遼と駅で落ち合い、電車に乗った。
同じ車両にスーツを着た若者がいた。一見、これから合説に向かう就活生なのか新入社員なのか区別がつかなかった。
余裕のある社会人はスーツにも気を使っているが、その他の、新入社員や就活生がスーツを着ると、アイデンティティが消えてしまい、どれも同じに見えてしまう。
「どれ見るか決めてる?」
隣に座っている遼が訊いてきた。
「ある程度は決めてる」
「そっか」
「遼は?」
「狙ってる銀行のやつ以外は決めてない」
「そっか」
大地は腕時計を見て、時間を確認した。
よし大丈夫。
待ち合わせ時間を決めたのは大地だった。
このままいけば、予定通り開場より少し前に着く。
二人は電車を降りて、地下鉄に乗り換えた。乗り換えるとさっきの電車よりも多くのスーツを着た若者が車内に見受けられた。
「やっぱりみんな行くんだな」
「そりゃそうだろ」
遼が当然のように言った。
「これみんなライバルか……」
「こいつら蹴散らしていかないと駄目ってことになるな」
独り言のような大地の呟きに遼が反応した。
「蹴散らすって物騒なこと言うなよ」
「そのぐらいの気持ちで、ってこと」
遼は笑っていたが、言葉の中には本当に蹴散らしていきそうな勢いがあった。
開場の最寄り駅で降りると、駅の構内はスーツ姿の若者で一杯だった。
会場に近づけば近づくほど、黒の勢力は増える一方だ。この中の誰かについて行けば、会場につけると思うが、大地はスマホのナビを起動させた。
「ナビいる? 会場そこだろ」
遼は会場があるであろう方向を指差した。
「そうだけど、……一応」
スマホ片手に、ビルや駐車場といった殺風景な雰囲気の道を十分ほど歩くと、右手に大きなガラス張りの建物が見えてきた。
説明会の会場となっているのは、ドーム状の屋根が特徴的な建物で、高さは三階建てほどだが、展示会やライブなど、様々なイベントの会場として使われるほど、広大な面積を擁している。
今日の説明会は、一階部分にある一から六号館の内の、一号館以外の全てが会場になっている。
時間は九時五十分。
説明会は十時から始まるが、受付はすでに始まっていたので、二人は入口に通じている三つある小さなドーム状の屋根が着いた通路の内の一つの下を歩き、入口にいた受付の人にダウンロードしてきた受付表を渡して中に入った。
中に入ると、目の前には広場があり、そこにはオーロラビジョンが設置されてあった。上を見上げると、二階部分が吹き抜けになっていたため、この建物の象徴でもあるドーム状の屋根が見えた。広場は奥の方まで広がっていたが、そちらには遮るものがないため、冬の日差しが地面を照らしていた。
大地は、受付でもらった就職サイトのロゴが入った袋の中から、会場の見取り図を取り出した。
手前の広場の左側にある五号館は理系のための会場、それと建物の一番奥にある、AとBに分けられた六号館のAの方には、地方から出てきた学生のためのブースが一部あるだけで、他の会場には理系文系、地方、関係なく企業が出展している。
見える範囲の会場の入口には、すでに入場待ちの学生で溢れ返り、長い長い列を作っていた。
「凄い人だな」
大地は驚きの声をあげた。
まるで、全国の就活生が集結したかのような人数だった。
「ほんとだ」
遼もそれに同意した。
二人は驚きながらも、五号館の向かいにある二号館の入場待ちの列に並んだ。
「セミナーは行く?」
待ち時間の間、大地は遼に訊いてみた。
「行かない」
五号館を除く会場には、他の企業のブースより大きめのブースが設けられ、そこでは特定の企業の説明会、面接マナーやエントリーシートの書き方についてのセミナーが開かれる。大地は、少し聞いてみたいと思っていたが、そういったことは大学のセミナーで教わったので、今日は企業を見ることに専念すると決めていた。
十時になり、各会場のドアが開くと、凄まじい勢いで学生が中に入っていった。それと同時に、後ろに並んでいた学生たちが、自分たちも中に入ろうとしたので、大地の身体は強く押され、強引に前へ前へと進まされた。
そんな急がなくてもいいのに、と思いながらも怪我をすることなく、何とか大地は、押し寄せる波と共に会場に足を踏み入れた。少し遅れて遼も入ってきた。
「大丈夫?」
「たかが合説で必死すぎる」
遼は吐き捨てるように言い、不機嫌な顔になっていた。
体育館のような会場に入ると、スーツの一団は蜘蛛の子を散らしたように、それぞれ目的の企業のブースへと駆け足で向かっていった。
会場内では各企業にブースが設けられていて、その近くを通る学生に、企業の人事担当者が見境なしに声をかけていた。
就活は学生もいい企業に就職するために必死だが、企業もいい学生を確保するために必死だ。同じように大地たちも担当者にとっては可能性を秘めている学生の一人として見られるので、目的のブースに行くまでに、会社のパンフレットを差し出されたり、説明聞いていきませんか、と声をかけられたりした。
パンフレットはもらい、声をかけられたなら丁重にお断りをしながら、大地たちは食品メーカーのブースへと歩いていった。
「同じところでいいの?」
もし他に説明を聞いてみたい企業があったら、自分に付き合すのは悪いと思ったので、遼に訊いてみた。
「予約してる銀行の説明会は一時からだから、それまでは付き合うよ」
すでに機嫌はもとに戻っていた。
「そうなんだ。俺は三時半からの百貨店のやつを予約したけど、あれ凄くない? 一瞬で満席になっただろ。あと二、三個は予約したかったのに」
「やっぱり。大手の説明会はみんな聞きたいんだろうな」
今日の合説では、誰もが知っている大手企業の説明会も、セミナーが行われる場所で開かれる。
大手の説明会は他の出展している企業とは違い、一度しか行われず、時間も他とは二倍以上も与えられている。さらにそれを聞くには予約をしていなければいけない。もし予約できなかった場合は、外の広場(屋根がある方)で配布される当日整理券をもらわなければならない。当然、その整理券をもらうのにも並ばなければならない。
大地は並んでまでは聞きたいとは思わなかった。そんな時間があれば一社でも多く、企業の説明を聞きにいった方がためになると思っている。
「大手は倍率高いだろな」
「会社名が知られてるから、どの会社にしようか考えた時に真っ先に浮かぶからな」
大手の強みについて喋りながら歩いていたが、目的のブースに近づくと、どちらからともなく黙った。
そんな二人にスーツ姿の男性がパンフレットを抱え、柔和な笑みを浮かべながら、どうぞ、と差し出してきたので、二人は会釈をしてそれを受け取った。
ブースには数脚のパイプ椅子が置かれていて、プロジェクターと、大学で使われているものより小さめのスクリーンが用意されていた。ブース内の壁には説明会のタイムテーブルが書かれた紙が貼ってあり、二十分の説明が全十一回行われることになっていた。
すでに満席だったので、二人は仕方なく立って聞くことにした。
ブースにいる学生は少しでも自分をよく見せようと、みな膝の上にノートやメモ帳を広げ、手には筆記具を持ち、背筋をビシッと伸ばし、大学の講義とは大違いの毅然とした態度を取って始まるのを待っていた。
スクリーンの横で、メガネをかけたスーツ姿の男性が、しきりに自分の腕時計を見て、時間を気にしていた。
それにつられて大地も腕時計を見ると、壁に貼ってあるタイムテーブルの一回目の時間が迫っていた。
「みなさんこんにちは。説明を始めさせていただく前に、お手元に弊社のパンフレットはございますか?」
メガネの男性は持っていたパンフレットを掲げた。そして、椅子に座っている学生を見渡した。大地たちの後ろには、先程パンフレットをくれた男性がいた。
「大丈夫そうですね。では説明に移りたいと思います。私は人事部の祭田と申します。後ろにいるのは柏木です。本日はよろしくお願いします」
相手の自己紹介に、学生たちはみな丁寧な会釈をした。もちろん大地も、その隣にいる遼も頭を下げた。
会社概要、事業内容、そして、これから目指すビジョンを話し、最後に採用スケジュールがスクリーンに映し出されると、二十分の説明会が終わった。
もう少し詳しく知りたいと思ったが、二十分じゃ仕方ないか……。
「本日、弊社に興味を持っていただいた方は、来年の一月に行われる弊社の説明会に是非お越しください。日程はこちらになっています」
大地の心を読み取ったかのようなタイミングで、祭田がスクリーンに説明会の日程を映し出した。それを必死で写す学生たち。無論、大地も凄まじいスピードで、自分にしかわからない文字で写した。
「以上で説明を終了いたします。もし質問等がありましたら、私か、後ろにいる柏木に声をかけていただければ、答えられる範囲でお答えします」
祭田は最後に、そう言って説明を締めくくった。
説明が終わると大地は祭田に、訪問カードを渡した。
訪問カードには、氏名、年齢、大学、学部名、メールアドレスが記載されていて、これを渡すだけでその企業にエントリーしたことになる。
説明が終わり、次の企業のブースへと行こうと会場に目を向けると、先程よりも密度が濃くなっている気がした。
改めて会場にいる就活生を見ると、着ているのはスーツ、髪型は就活カット、女子は後ろで一つに結んでいる。この中でウォーリーが同じ格好でいたら絶対に見つけられないほど、全員が同じに見えた。
これだけの人がいて、みんなが同じに見えるって凄いな。
「次、行かないの?」
立ち尽くしていた大地に遼が声をかけた。
「ああ、ごめん」
二人はそのあと、いくつかのブースを見て回った。
4
「うわぁ、やっぱり混んでる」
大地は店内を見て、嘆息を漏らした。
「まあ、当然だろな」
ある程度は覚悟していたが、店内が説明会の会場になっているのかと思うぐらいに、さっきいた場所と似ていた。違う点はポテトの揚がる音が聞こえてくるぐらいだ。
「コンビニ行く?」
ここに来るまでの通り道にコンビニがあったので、注文の列に並び始めてすぐに遼に訊いてみた。
「でも食べるところないだろ」
「そうだよな」
わかってはいたけど、この混雑っぷりを見ると、そう言いたくもなる。
「奥の方は空いてるかもしれないだろ。それにここ、二階もあるから大丈夫じゃない?」
「そう願うしかないか」
列に並び始めて十分ほどが過ぎて、ようやく注文することができた。
注文してから出来上がるまでは早く、二人はトレイを片手に二階へと上がった。
一階同様、二階も混んでいたが、満席ではなかったので、二人は空いていた席に座った。
「やっぱり、色んな企業の説明を聞けるのはいいよな」
大地がハンバーガーの包み紙を開けながら言った。
「そうだな」
店内からは、大地たちのように合説についての話し声が聞こえる一方で、全く関係ないバイト先の話や、サークルの話も聞こえてきた。
午前中は、最初に訪れた食品メーカーのブース以外に、総合商社と、不動産の二つのブースに訪れた。
一応、両方に訪問カードを提出したが、不動産の方にはあまり魅力を感じなかった。
「食品メーカー、商社、不動産。食品メーカーはわかるけど、あとの二つは何で?」
「業界とか企業を調べる時に、あまり研究してなかったところを回ろうって決めてたから」
「そっか。でも不動産は興味ないだろ? 全然メモしてなかったから」
「バレた?」
大地ははにかんだ。
「バレバレ。俺にバレてるってことは相手にもバレてるよ」
「あー、印象悪いだろな」
そう言ってポテトをひとつまみ。
「でもまあ、これで不動産はエントリー候補から外れたからよかったな」
「そういう遼は結構メモしてたよな、興味あったの?」
「いや。でも、どういう企業かはメモした。せっかく聞いたんだからもったいないだろ」
「さすがだな。興味もないのに真剣に話を聞いてられるって」
大地は食べ終えたハンバーガーの包み紙を丁寧に折り畳み、トレイの上に置いた。
遼のトレイの上には、グシャグシャになった包み紙が転がっていた。
「そろそろ行こ。説明会始まる」
「あっ、待って」
大地は残っていたジュースを飲み干した。
遼が説明を聞いている間に、大地は保険、そして家具専門店の企業ブースを訪れた。二つとも午前中と同じように、今まであまり企業研究してこなかったところだ。
保険会社は、不動産の時のように、メモを取らないということはなかったが、この会社で働きたいと思えるほどの魅力はまたもや感じられなかった。けれど、専門店の方はメモをちゃんと取り、社員の方の説明にも耳を傾けた。
家具専門店の説明会が終わったあと、腕時計を見ると、遼が予約していた説明会の終了時間を過ぎていた。
大地は、予め決めておいた待ち合わせ場所、屋根の下の広場にある、オーロラビジョンのもとへ行くと、すでに遼が待っていた。
「どうだった?」
「聞いてよかった。もし今日の説明会が微妙だったらやめとこうと思ってたところだったんだけど、選考受けてみようと思った」
「よかったじゃん」
「大地の方は?」
「保険と家具専門店に行って、保険はなんかいまいちだったけど、家具の方は興味湧いた」
「そうか。よかったな。それじゃあ、三時まで時間あるから他のところの説明聞きにいこか」
「ああ」
遅れるかもしれない不安から、大地が予約している百貨店の説明会が行われる、六号館のAの方に二人は入った。
始まるまでの時間に選んだ企業はコンビニだった。
「じゃあ行ってくる」
説明が終わると、遼に言った。
「うん」
大地は、予約していた百貨店の説明会へ向かった。
ブース内に入る時に係員に予約票を渡し、中に入ると、百脚以上のパイプ椅子や大型スクリーン、さらには演台があり、何もかもが他のブースとは大違いだった。
大地は椅子に座り、膝の上にノートを広げ、始まるのを待った。
時間になると、マイクを通して声が聞こえてきた。
「みなさんこんにちは。人事部の佐久と申します。それではさっそく説明の方に参りたいと思います」
挨拶もそこそこに、説明が始まった。
四十五分に渡る説明を終え、会場の外に出ると、大地は待ち合わせ場所に向かった。
屋根の下の広場に行くと、柱にもたれながらスマホを弄っている遼がいた。
「お待たせ。何してたの?」
「えっ! 説明聞いてたけど」
遼は思いもよらない質問だったのか、少し戸惑っていた。
「そうなんだ。いや、特に見たい企業ないって言ってたからどっか行ってたのかなーって思って」
「どっか行こうかと一瞬思ったけど、この辺何もないから。それだったら説明聞いてる方が有意義だろ」
「そうだな」
会場の周りにはマンジョンやビルが建っているだけで、時間を潰せそうなところは一つもない。あって、昼ご飯を食べたファストフード店かコンビニぐらいだ。
「もう帰る?」
その問いかけに対して、大地は腕時計を見た。
「あと一個ぐらいだったらいけるんじゃない? せっかく来たんだから時間一杯までいる」
現在の時刻は午後四時十分。合同説明会の終了時刻は午後五時。大地の言う通り、あと一つだけなら聞ける時間帯だった。
「じゃあどこのやつ行く?」
「三号館」
大地は即答した。どんなものか気になっていた企業がそこにあるのを事前に知っていた。今まで聞きにいかなかったのは、気にはなっていたが優先順位が低かったからだ。
「わかった」
大地たちが最後に訪れたのは、エネルギー関連の企業だった。
最後の説明の回だったが、用意されていた椅子には余裕があった。あまり人気のない企業なのかな。と空席を見て大地は思った。
「では、時間になりましたので、本日最後の説明をさせていただきます」
担当の人は、元気が取り柄としか思えない若い社員だった。
元気一杯の説明が終わったあと、二人は店仕舞いをしている社員たちを尻目に出口へと歩いていった。
「ふう。慣れない革靴だから足痛くなった」
帰りの電車に乗り、座席に座ると、足元に視線を落とした大地が言った。
大した距離は歩いていないが、スーツと同じで、磨きたてのような革靴は大地の足には馴染んでいない。
「俺もインターンの時になった」
「今は?」
「もう馴染んだ」
そう言うと遼は、リズムを取っているかのように、つま先を何度か上下させた。
「インターンに俺も行っておけばよかったかな」
「革靴を馴染ませるために?」
「違うって。企業をもっと知るため。行ってたらもっとエントリーの幅も増えたんじゃないかなって思って」
遼に一度誘われたが、全くと言っていいほど興味がわかなかったし、行ったところで内定をもらえるわけじゃないから断った。周りの友達からも、遼以外でインターンに行くという話を聞かなかったので、別に行かなくていいと思っていたが、今日の合説で色んな企業と出会い、その結果、エントリー数が増える。そんなふうに思っていたが、その通りにならなかった合説のあとでは、行っていた方がよかったんじゃないかと思い始めていたが……後悔先に立たず。
「行かなかっただけど、それなりに準備はしてるんだろ。だったら、そんな悔むことでもないだろ」
「それはそうだけど……」
大地はインターンには行かなかったが、筆記テストや、エントリーシートに書くエピソードなどはずっと考えていたので、準備は万端だと思っていたが、そういう準備はインターンに行っているやつも、っていうか就活生はみんなしている。なので、それなりの準備と言われても、今思えば、普通の準備しかしていない。
「まあ、来週にも合説あるし、大丈夫か。遼も行くだろ?」
後悔していても始まらない。来週に二日間開催される合説に向けて大地は気持ちを切り替えた。
「俺はもういい。どんなものかわかったから」
「もういいって……合説自体にもう行かないってこと?」
来週の合説に行でエントリーを増やそうと意気込んだ大地にとって、信じ難い言葉だった。
「そう。他の合説って言ったって出展してる企業が違うだけだからな」
「違うだけって、それが重要だろ。色んな業界、企業の話を聞いて、どこで自分が働きたいかを決めるためなんだから」
「俺決まってるから」
ちょっとだけ得意気に言われた。
「銀行」
「そう。正直、銀行以外に働きたくない。だから、合説に行く時間を内定もらえるように準備するために使う」
「俺もそんなふうに言えたらいいのになあ」
大地は遼みたいに強い意志は持っていない。
第一志望は食品メーカーだが、例えば、うちに来ませんか? と企業の人から声をかけられたら、そこが食品メーカーの企業じゃなくても喜んで首を縦に振るだろう。
「でも、こんなこと言って、銀行に就職できなかったら笑いもんだな」
遼は自嘲の笑みを漏らした。
5
大地は家に着くなり、仕事帰りのサラリーマンと同じようにネクタイを緩め、ベッドの上に座った。
ほんの少し休息したあと、部屋着に着替えると、こんなにも動きやすい服だったのか! とスーツの窮屈さを改めて実感した。
俊敏な動きが可能になった大地は机に向かい、今日訪問カードを提出した企業名をノートに記した。
自分がエントリーした企業が一目でわかるように、大地は就活ノートを作っていた。
ちゃんと管理しておかないと、説明会の予約やエントリーシートの提出期限を忘れてしまう。
「五十四か……」
大地はノートを見つめながら独りごちた。
今日の合説で説明を聞いた企業は八社。そのうちの半分以上、五社がハズレだった。
来週の合説は二日間あるから、今日と同じ結果なら六十になるわけか……。
頭の中で出した答えが、思っていたより少ないことに落ち込んだ。
大きな会場での合説は来週の二日を除けば、もう今年は開催されない。来年になれば本格的に選考が始まり忙しくなる。合説に行っている暇なんかないかもしれない。
そう考えると、今年中に目指すべき道を決めていた方が得策だろう。けれど焦って決めるのは、将来のことを考えるとよくない。
しばらく考えを巡らしていた大地だが、来週の合説に行ってからでも遅くはないんじゃないかと思い始めた。
新しい出会いがあるかもしれない。それから決めても遅くはないだろう。
大地はノートを閉じ、スマホを手に取ってLINEを送った。
翌日の昼過ぎ、大地は大学に行くための、いつもの電車に揺られ、いつもの駅に着いた。
けれど、今日は大学には行かない。改札を抜けると、そのまま歩き出さずに、後ろから来る人の邪魔にならないように壁にもたれた。
学校や会社から解放される休日、親子連れや家族、高校生ぐらいの女子が笑顔で改札を通って行く。
待ち合わせの時間が近づいてきたので、大地は時間を確認しようと、腕時計に目をやった。
「大地」
自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
大地は顔を上げると、冬空の下から、大地のもとへと彼女がこっちに歩いてきた。
「やっぱり大地の方が早いね」
待ち合わせ時間は十時半。今は五分前。
大地は人と待ち合わせる時はいつも、十分前には着くようにしている。それは就活が始まったからとかではなく、昔からの癖みたいなものだった。
「じゃあ行こか」
「うん」
大地と池川奈々(いけがわなな)の二人も、笑顔で改札を抜けた。
奈々はサークルの一つ下の後輩で、もう付き合い始めて一年になる、大地の彼女だ。
「就活大変?」
奈々は吊り革に掴まりながら、大地の顔を見上げた。
奈々の身長は大地より頭一つ小さいので、並んで喋ると、自然とこういう構図になる。
「まだエントリーとか合説が始まっただけだから、そんなに大変じゃない。でも来年になったらこうしてデートする回数も減るかもしれない」
「それは仕方ないって。就活は大事だから。それに大学で会おうと思ったら会えるから、私のことは心配しなくても大丈夫」
「それもそうだな」
年下なのにしっかりしている。そこが池川奈々という女性に惹かれた部分だ。
もちろん見た目も可愛い。けれどそこには疑問を抱く人もいた。
そんな人達をよそに大地は告白した。
「でも珍しいね」
奈々が神妙な顔つきで言った。
「何が?」
「デートに誘うのが前日だったでしょ。大地はだいたい一週間前ぐらいに誘うでしょ。遅くとも三日前とか、だから珍しいなぁーって」
奈々には見透かされていた。だてに一年も付き合っていない。
デートに限ったことではないが、大地は遊びに誘うのも、前もって約束をする。奈々の言う通り、前日に誘うなんてことは、滅多なことがない限りしたことがなかった。
「まあ、たまにはそういう時もあるって」
会いたかった。なんて恥ずかしくて言えないので、大地は誤魔化すことにした。
幸いなことに奈々はそれ以上追及してこずに、今日のバイトは嫌な先輩とシフトが一緒だからあんまり行きたくない、と言ったのを皮切りに、その先輩のことを愚痴り出した。
「私より一ヶ月前に入っただけなのに先輩面するなって。私より仕事できないくせに。何が、仕事なれた? わからないことがあったらいつでも聞いて、だよ。オーダーミスをするし、酔っ払いに絡まれてもろくな返しもできないのに」
「オーダーミスはわかるけど、酔っ払いは仕方ないんじゃない?」
奈々は駅前の居酒屋で働いているので、必然的に酔っ払いの相手をする機会が生じる。
「酔っ払いの相手も仕事の内なの。私はそれをわかって上で居酒屋を選んだのに、あいつは時給だけで選んだんだよ」
「バイトだからそこまで深く考えないでもいいんじゃない?」
イライラしている奈々を、宥めるように優しく言った。
「バイトだからって手を抜くのは間違ってると私は思うの。だってお金もらってるわけじゃない? それに私だけじゃなくて、先輩はみんなあしらい方が上手なの」
火に油を注いでしまう結果になってしまった。
「一人だけそんなんだったら、クビとかにはならないの」
仕方ないから、大地は見知らぬ奈々のバイト先の先輩を非難するかたちをとった。
「さすがにそこまでは店長もしないの。まあ、そいつを肴に飲むこともあるから、ある意味では役に立ってるの」
奈々は悪戯を企むように、意地の悪い笑みを浮かべていた。
「ところで、大地はバイト辞めてお金大丈夫? 就活ってお金かかるって聞くけど」
吐き出してすっきりしたのか、悪口を言うのをやめた。
「大丈夫。就活分はちゃんと貯めてる。それに、飲み会とかサークル行かなかったら金使わないから」
大地は一年の頃から働いていたコンビニを先月辞めた。もちろん就活が始まるからという理由で。
店長は、まだ大丈夫じゃない? と引き留めようとしてくれたが、その言葉にうなずいてしまうと、ずるずると働いてしまうような気がしたので、すみません、と断りを入れた。
「そうだよねー。サークル行ったら、終わると絶対飲み会誘われるよね。昨日も言われた。あれは何? 儀式かなんか?」
「儀式って……、ただみんなで楽しく酒飲みたいだけじゃない? それに奈々もその儀式に参加する時あるだろ」
奈々の言葉の選択に大地は苦笑いをしたが、あながち間違ってもいないような気がしたので、大地も同じ言葉を使った。
「たまにはね。飲み会は嫌いじゃないよ。ただ、行き過ぎなんじゃないかなって思うだけ」
喋っている間に、電車は目的の駅と僕らを運んでくれた。
ロータリーのある南口を抜けると、様々な外食チェーン店が軒を連ねているが、今日はそんなところに行く気はない。
駅から離れていくほどに店の数は減っていき、一軒家が増えてきた頃、目的のイタリアンの店に辿りついた。そのお店は、外からでもピザ窯が見えていた。
店内はカウンター六席、テーブル席が四つ。お昼時なので、テーブル席はすべて埋まっていた。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
店員が二人を出迎えた。
「はい」
「カウンターでもよろしいですか?」
「いい?」
大地は後ろに立っている奈々に訊くと、奈々はうなずいた。
「はい。大丈夫です」
「ではこちらにどうぞ」
二人は案内されたカウンター席に腰を下ろした。
「こんなお洒落な店、何で知ってたの?」
「ネットで見つけた」
いつもは奈々が行きたい店に行くことがほとんどなので、デートに使える店を探すのに苦労したが、なかなかいいところを見つけられた。奈々の反応も上々だった。
「なんだネットか……」
けれど、ネットと聞くと、輝く笑顔から一転して落胆の表情になった。
「そんなあからさまに落ち込まなくてもいいだろ」
「ごめん。でも、ネットで見つけるより、自分で見つけてくれてた方が嬉しかったなぁ」
奈々は茶目っ気たっぷりに言った。
「まあ、それは俺も思ったけど……、こんなお洒落な店、どうやって見つけれる?」
「雑誌とか、友達に訊くとか?」
「こちらがメニューになります」
店員がメニューを持ってきたので、話はそこで終わった。
大地は渡されたメニューを、二人で見られるように真ん中に置いた。
「ピザは半分ずつする?」
「そうだね」
「じゃあ、どれにする?」
「うーん、あっ、これ食べてみたい。クアトロフォルマッジってやつ」
初めて触れる言葉に、奈々は間違えないように一文字ずつ丁寧に読んだ。
「どんなのか知ってる?」
「ううん。でも、なんか美味しそうだから」
「すみません。これってどんなピザですか?」
得体のしれないピザにビビり、大地は店員に助けを求めた。
「そちらは四種類のチーズを使ったピザになります。クアトロはイタリア語で四、フォルマッジはチーズという意味です」
求めていた答えより、さらに上をいくものが返ってきた。
「四種類のチーズだって! これにしよう」
説明を聞いて余計に食べたくなったのか、奈々は興奮していた。
「お一つでよろしいか?」
「はい。それとアラビアータ。大地は?」
「俺はボンゴレビアンコ」
「お飲み物は何になさいますか?」
注文を伝票に書き終えた店員が、二人の方に視線を戻した。
「飲み物……」
二人は顔を見合わせた。
料理を決めるのに夢中で、飲み物を決めていなかった。
急いでメニューを捲り、一番後ろに書かれていたドリンクを選び始めた。
「じゃあコーラ」
「私はアイスティー」
一緒に選んでいた奈々もすぐに決めた。
「かしこまりました」
店員は会釈程度に頭を下げると、厨房へと消えていった。
「四種類のチーズを使ったピザだって。絶対美味しいって」
「ちょっとしつこそうじゃない?」
「そう?」
食べたことのない食べ物に、二人は対照的な意見だった。
「このあと、どうするか予定ある?」
注文を終え、お客としての使命を果たすと、奈々が訊いてきた。
「いや、決めてない。カラオケでも行く?」
「カラオケもいいけど、それより買い物行かない?」
「いいよ。駅のところ?」
駅の近くに、映画館も入っている大型ショッピングセンターがある。四階に映画館と飲食店、それ以外、一階から三階にはアパレルの店、それも差別と思えるほど女性物が犇めいている。たぶんそこのことを言っていると思って返事をしたが、一応、確認してみた。
「うん。新しいコート買おかなって思って」
「今着てるのは?」
大地は、背もたれにかかっている赤いダッフルコートを指差した。
「これは去年買ったやつ。今年はモッズコートを買う予定。できれば一万円ぐらいでいいのがあったら買う――」
「お待たせしました」
「キタッ」
「はやっ」
奈々は話を途中で止め、歓喜の声をあげ、大地は驚嘆の声をあげた。
噂のクワトロフォルマッジが来た。
四種類のチーズを使っているだけあって、一度嵌れば抜け出せない黄色と白のチーズの海が、生地の上でグツグツと煮えたぎっている。その上には彩りのためか、パセリが散りばめられていた。
六等分に切り分け、どこまでも伸びそうなチーズをなんとか振り切り、二人はピザを口へと運んだ。
「美味しいぃ~」
「ほんとだ、うまっ」
「頼んでよかったね」
そのあとに来たアラビアータとボンゴレビアンコも、また絶品だった。
ランチを食べ終えると、奈々のコートを探しに来た道を戻り、ショッピングセンターへ入った。
夫婦、カップル、たまに独り。中は休日だけあって人で溢れていた。
「この店入ってみよう。次はあっち。あっ! この靴可愛い」
コートが欲しいって言ってたのに……。靴を眺める奈々に言ってやりたかったが、ほんとだ、可愛いなぁ、としか言えなかった。
散々振り回した挙句、気に入ったものが見つからなかったらしく、奈々は残念そうに駅へと向かった。その数歩後ろを、疲れ切った大地が歩く。
「大地、就活頑張って」
別れ際、ホームに降りた奈々が振り向いて、目をしっかりと見て言われた。
「うん。ありがとう」
「じゃあね」
奈々は手を振った。
大地もそれに応え、同じように手を振った。
そんな二人の間に容赦なく電車の扉は割って入ってきた。
しばらく見つめ合っていたが、嫉妬深い電車は二人を引き離すように大地を次の駅へと運び始めた。
一人になった大地は、世界にたった一人だけ残されたような気持ちになった。
喋る相手がいなくなったので、大地はついさっき閉まったドアにもたれ、そこから見える夜景と呼べるほど綺麗ではない、灯りよりも暗闇が支配している街を眺めていると、言葉にならない不安が込み上がってきた。
就活頑張ろ。そう、心の中で固く決心した。