潮騒の哀歌
海辺にある小さな家に優しい両親と小さな少年の暖かい家庭がありました。
お父さんはバイオリンを弾くのがとても上手でした。
なので少年もお父さんと一緒にバイオリンを弾くのが大好きでした。
ある日お父さんとお母さんが出かけてしまい少年は家で留守番をしていました。
ひとりぼっちで寂しかったので、大好きなバイオリンの練習をしました。
お父さんとお母さんが帰ってきたらびっくりさせよう。
そう言って少年は部屋からバイオリンを持ち出し海がよく見えるテラスに出て、お気に入りの曲を演奏しました。
海の波の音にバイオリンの音が溶け込んで、それはそれは美しい音色でした。
少年は気づきました。
海が、歌ってる。
バイオリンに応えるように、優しく優しく歌っていました。
少年は海へ走りました。
声の主を探してバイオリンを持ったまま、海岸線を走りました。
どこ?
どこにいるの?
少年はざぶさぶと膝まで海に入り辺りを見回しましだが、歌の主はいません。
もう一歩踏み出そうとしたとき
少年は足を滑らせみるみるうちに海に吸い込まれていきました。
真っ青な空が海の表面に写って
沈みながら少年は、美しいと感じました。
歌が、聞こえる。
哀しく美しい声で、歌って、歌って、歌って……
泣いてるの?
誰なの?
少年は真っ白なベッドの上で目を覚ましました。
隣には潮水で壊れてしまったバイオリンが少年を見つめていました。
反対の窓から外を見るとそこにいつもの海はなく、鉄の森が広がっていました。
お母さんは泣いていました。
お父さんも泣いていました。
少年は海辺でずぶ濡れになって倒れていたところを
助けられたそうです。
ここではあの歌は聞こえません。
少年はあの家に帰りたいとお父さんとお母さんにお願いしました。
お母さんは海色の石が付いたペンダントを少年に渡しました。
「お守りよ、絶対持っていなさい。」
お母さんからもらったお守りを握りしめ家に帰ると、今日の海は歌っていませんでした。
ただ波が寄せては返し海岸の石ころを攫っていくだけでした。
幾日が経ち少年はテラスでバイオリンを弾いていました。
弾いても弾いても弾いても、海は歌ってくれませんでした。
あれは夢だったのかもしれないと部屋に入ろうとした瞬間、海風に乗って聴き覚えのある歌が少年を振り向かせました。
歌ってる。
海が歌ってるよ。
テラスから砂浜に降り聴こえてくる歌を頼りにバイオリンを抱きしめ海岸線をしばらく歩くと波が打ち寄せる岩陰から歌が聴こえてきているのが少年にも分かりました。
そっと覗くと、そこには黒く長い艶やかな髪に透き通るような白い肌の女の人が座っていました。
「だれ?」
少年が尋ねました。
気がついた女の人は深海の色をした瞳で少年を見つめました。
「海に住む魔女だ。」
女の人は悲しそうに答えました。
「ねぇ、どうして足がないの?」
少年は無邪気に言いました。
「なぜだろうな。」
そう、彼女には足はありませんでした。
あるのは、七色に光る鱗が美しい魚のような下半身。
「どうして哀しそうに歌うの?」
少年の問いに魔女は深海色の瞳をゆらゆらと揺らめかせ答えました。
「人間になりたかったから。」
魔女の声は波の音に共鳴してとても美しかった。
バイオリンを抱きしめていた腕に力が入ると、少年は魔女の隣に座り空を見上げました。
「ねえ、魔女さん。」
少年が魔女に話しかけると、そこに魔女はいませんでした。
周りを見ても誰もいません。
たしかにそこに誰かいたはずだったのに、残ったのは小波の音色だけでした。
遠くからお母さんが呼ぶ声が聞こえました。
少年の名前を何度も呼んでいます。
帰らなくては、と少年は走り出しました。
その少年の背中を、魔女は哀しそうに海から見つめていました。
それから少年は海から歌が聴こえる日は必ずあの岩陰に行きました。
魔女はいつも少年のために歌いました。
少年も応えるようにバイオリンを弾きました。
「ぼくね、魔女さん探して海に落ちたんだよ。」
少年は魔女と一緒に海に足を浸けながら言いました。
すると魔女は少年の頭を撫で深海の瞳が笑った。
「そうだな、ぶくぶくと沈んでいった。」
少年は頭を撫でてくれている魔女の冷たい手に触れ確かめた。
「助けてくれたの、魔女さんだったんだね。」
少年の一言に魔女は驚きました。
驚いた魔女の顔を見て少年は打ち寄せる波を足で返しながらこう応えました。
「沈んでいくとき海の中に歌が残ってた。魔女さんが歌う歌。綺麗なのに哀しい声。」
少年は立ち上がりバイオリンを弾きました。
青い海を赤く燃やす太陽が二人を暖かい光で優しく包んでいました。
その後も少年は何度も何度も魔女に会いに行きました。
そして少年は成長し、青年へとなりました。
大人になってもあの歌が恋しくなり岩陰に行きました。
ある日青年は言いました。
「どうして人間になりたいの?」
魔女は出会ったあの日と変わらない瞳で言いました。
「同じ時間を過ごしたかった。」
魔女はとても哀しそうでした。
哀しそうに青年を見つめました。
「先に行ってしまうお前がとても愛おしく、お前を攫っていく人間の時間がとても憎い。」
魔女の瞳は海の色を反射して深海から美しいマリンブルーに染まっていました。
「お前のあの音を初めて聞いたとき瞳を見たとき、いけないとは分かっていたのに、生きる時間が違うと知っていたのに、私はお前に……恋をした。」
魔女は泣きました。
美しい声を殺しながら泣いていました。
「なぜ、私は人間ではないのだ。」
魔女は自分の身を呪い海を見つめました。
青年はマリンブルーに染まる魔女の瞳から目が離せませんでした。
胸の奥にもやもやした気持ちがこみ上げて心がどきどきしました。
青年は優しく魔女の艶やかな黒髪に触れました。
「魔女さんをひとりぼっちにしてしまう自分が嫌いだよ。」
青年は瞳を揺らしながら魔女にそう言いました。
そして青年は理解しました。
魔女と人間である自分の命の長さが違うこと。
ひとりぼっちの魔女への恋心。
足を手に入れることも、泡になることすらも叶わないと魔女はぽろぽろと涙を流しました。
魔女の涙を見るたびに青年の心はずきずき痛みました。
青年は彼女の涙を拭いて哀しいぐらいに青い空を見上げ呟きました。
「こんな初恋……哀しすぎるよ。」
青年は優しく、冷たい魔女の手を握りました。
日が傾き青年が家に帰ると魔女は冷たい月光の中歌いました。
冷えた頬に伝う熱い涙を流しながら海風に乗せて哀しい歌を歌いました。
次の日から青年がどんなにバイオリンを弾いても、魔女の歌は聞こえてきませんでした。
来る日も来る日も青年は海辺でバイオリンを弾きましたが、返ってくるのは波の音だけでした。
そして季節はめぐり爽やかな初夏のある日、青年は魔女がいたはずの岩陰に行きました。
誰もいない静かな岩陰は波が音を立てて迫り、名残惜しそうに引いていった。
青年はいるはずのない魔女に向かってこう語りました。
「魔女さん、俺ね外国へ行くことになったんだ。音楽の勉強しに行くんだよ。だからもう会えないかもしれないけど、海はずっと続いてるから俺の音魔女さんにも届くといいな。」
青年は小さいときに渡されたお守りのペンダントを魔女がいつも歌っていた岩陰に置きました。
「さよなら、魔女さん。ずっと、好き……だった。」
青年は一人海を見つめました。
歌は聞こえてきません。
聞こえてくるのは美しく泣く声でした。
堪えきれず溢れ出す涙を拭い青年は海に背を向け歩いていきました。
遠くからかすかに聞こえるあの歌に背中を押され、自分の時間を歩み始めました。
何年もの時が流れ、青年は結婚し子どもができ世界中でバイオリンを弾きました。
そして年月を重ね彼の子どもも大人になり世界中を羽ばたいています。
白髪だらけの髪になり皺もどんどん増えていく彼はあの海辺の家に戻ってきました。
世界中を羽ばたく自分の子供の代わりに可愛い孫と優しい妻と暖かい暮らしを送っていました。
孫にはいつも海で出会った魔女の話を聞かせていました。
すると孫は彼を喜ばせようと画用紙いっぱいに青い海と魔女の絵を描きました。
「じいじにあげる!これでまじょさんといつもいっしょだね。」
孫は無邪気に絵を壁に貼り付けていました。
その姿は昔アルバムで見た幼い頃に自分にそっくりに育っていました。
しばらくすると「弟が出来た」ともう一人孫を連れて子どもが帰ってきました。
小さな弟にも魔女の話をしようとしましたが、弟は話より彼の持つ古びたバイオリンが大好きだったようです。
魔女と別れたあの初夏のようなある日に、彼は二人の小さな兄弟とテラスにいました。
兄のほうはちょうど魔女と出会った頃の彼と同じくらいの年になりました。
海を見ながらまた魔女の話を二人に話し、そして彼は小さな兄弟にこう言いました。
「私が灰になったら、この海へ還してほしい。」
二人は理解できませんでした。
灰になることがどういうことなのか、彼は言いませんでした。
ただ一言だけこう言いました。
「もう一度、魔女さんに会いたいんだ。」
それから数年。
彼は静かに灰になりました。
彼のためにたくさんの人が泣いていました。
悲しみに暮れるなか小さな兄は彼の言葉を思い出しました。
灰になったらあの海へ還す。
兄はお母さんにお願いし、小さくなった彼を胸に抱え魔女の海へ行きました。
海にざぶざぶと膝まで入ると兄は彼を手のひらに出してあげました。
小さな手からすり抜けていく彼は風に乗って海へ還っていきました。
「じいちゃん、魔女さんに会えたかな。」
旅立っていく彼を見送ると兄は家族の許へ戻ろうと海に背を向けました。
「にぃに!」
顔を上げるとまだ小さな弟がこちらに向かって走ってきました。
「しいちゃん、だめだよ。海に一人できたら危ないって。」
「にいに、じいじいなくなった。」
寂しそうに弟は兄を見上げました。
「じいじは海に還ったんだよ。」
「うみに?」
「きっと大好きだった人のところへ行ったんだ。」
兄が弟の手を握ると彼が愛した小さな海辺の家へ歩きました。
ゆっくりゆっくり砂浜を踏みしめ、少しずつ赤に染まる空を見上げました。
小さな兄弟が海から離れようとすると、遠くから波の音に混じって歌が聞こえてきました。
兄が振り返ると海が歌っていました。
「じいちゃん、聞こえるよ。」
遠くから聞こえる美しい歌を背に兄弟は家族の許へ帰っていきました。
その後、兄は何度か海辺の家を訪れましたが歌が聞こえることはありませんでした。
静かな海で、愛した彼と長い時間をすごしているのかもしれません。