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桜の舞う季節に

作者: 雲崎朝成

久しぶりに投稿です。季節感、全く無視…リハビリということでご容赦ください。

「何年前になりますか、もう、あれから二十年になりますかね。本当に早いものです。私のしたことが法の裁きを受けることであるとしても、世間的には理解できないことであるにしても、私にとってはそうすることが幸福であり、そうすることを望んでいたと、今となってはそう思うのです」

 僕は真っ青に晴れ渡る空を見上げながら、あの頃の、先生の笑顔を必死に思い出そうとしていた。

 優しく僕を包み込む先生の笑顔。その笑顔に裏があったとは全く気付かなかった。漸く思い出したそれも、先生の告白を聞いてしまった今となっては、妙に空々しいものに思えてきた。

「それで、君はどうします?警察に通報しますか?」

 様子を窺うようにして覗き込む先生の顔は、僕が理想としていたものとは程遠く、疲れきったものでしかなかった。母親とも、人生の師であるとも仰いでいたその女性は、自分の人生に苦悩している一人に過ぎなかった。

「先生、僕は、僕は…」

「いえ、ごめんなさい。前途ある若者を、おばさんの戯言に付き合わせてしまって」

 先生はそう言ってあの空々しい笑みを浮かべた。それはもはや嫌悪の対象でしかならなかった。先生はそのことに気付いているのだろうか。気付いていたとしても、先生はそうするのだろう。そうすることしかできないのだから。

「私は、ただ逃げたかっただけなのかもしれませんね。自分は正しいことをやったんだと信じ込むようにしていましたから。君にこのことを話すのは、君が真実を明らかにしてくれることを望んだ、と自分に言い聞かせましたが、もしかするとそれすらも嘘で、あなたが通報しないことを見越して、ただ、この重責から楽になりたい、誰かに話したいためにこの話をしたのかもしれません。あなたの好意を踏みにじってね。私は卑怯です。ろくでもない人間です。でもね、あなたに話したことで漸く決心できましたよ。今日は来てくれてありがとう」

 先生は僕を置いていくように、「さ、行きましょう」と言いながら校舎の方へと向かっていった。

 一陣の風が吹く。まだこの季節になってもまだ肌寒い。そんな風だった。風は満開に咲き誇る桜の花びらを一斉にさらっていく。薄紅の花びらは先生を覆い隠してしまうように舞っていく。そしてそのまま、先生の体ごと、彼岸へと運んでしまうのではないか、むしろそうして欲しいとさえ僕は思った。




 東京の大学に進学が決まり、長年生まれ育った故郷を離れることになった。故郷というのは不思議なもので、つらいことや悲しいことにありふれたこの街も、いざ離れるとなると妙に愛おしく思えてくるのである。だから、東京へ行くまでのわずかの時間は、思い出を辿ることに費やした。

 祖母に連れられてよく行ったスーパーや、初めて出来た友達と通った駄菓子屋。放課後、寄り道した空き地に、みんな買っていた週刊誌が一日早く売られるということで、学年を超えて駆け込んだ本屋。

 どれもこれも小学生時代の記憶ばかりである。中、高の思い出だってたくさんあるのだが、小学生の頃の記憶の鮮明さには及ばない。中、高の記憶は思春期独特の、思い出を斜めに見る癖がある分、あの頃の物の見方というのは純粋である。だが、色鮮やかである分、楽しい思い出と同様につらい思い出も匂い立つ。

 そうした喜怒哀楽を全て内包した場所、それはなんといっても学校である。在学時代は幼すぎて分からなかったけれど、後になって思えば、人生に必要な何かを一番教えてくれたのは小学生時代の頃のようだ。

 そして小学生時代、僕に最も影響を与えたのは「先生」だった。「先生」が僕の人生を変えてくれたと言っても過言ではない。

 僕の学校では二年毎にクラス替えがあり、その度に担任も変わるのが普通である。しかし僕の場合、クラス替えがあっても担任は一度も変わらなかった。ずっと「先生」が担任だったのである。だから、他の先生はともかく、「先生」のことは〜先生と呼ぶことはせず、六年間を通じて先生としか呼ばなかった。

 先生は優しかった。いつもにこにこ笑っていた。ただ、怒ると恐かった。僕は、比較的、先生に怒られた部類に入るだろうが、怒られたときはほとんどの確率で泣いた。高学年になると回数自体減ったのであるが、怒られるときには歳も関係なく泣いてしまった。もちろん、先生が恐いのもあったのだが、いつも優しい先生を怒らせてしまった自分が情けなく、泣いてしまうこともあった。

 放課後、誰もいない教室に残されて怒られるのがほとんどだったが、僕が泣いてしまった後、いつも先生は家まで送ってくれた。そして夕闇に包まれる中、別れ際には決まって、先生はいつもの優しい顔で

「明日もちゃんと学校に来るんですよ」

 と言ってくれるのが決まりだった。そう言われると、怒られたというつらい気持ちもどこかに吹き飛んでしまって、力強く頷いてしまうのだった。

 



 そうして僕は、先生を信頼していったのだったが、ある日、その信頼を絶大なものとする出来事があった。それは小学四年生のとき、運動会が終わった後、どこか間の抜けた平日の、昼休みでのことだった。あるクラスメイトの一言が原因だった。

「おまえ、父ちゃんいないんだろう?」

 彼としてはからかい半分の一言だったのだろう。だが、僕にとっては触れられたくない、重大な言葉だった。確かに僕には物心付いたときから父親はいなかった。そのことを母に聞いても適当にはぐらかすばかりだし、一緒に暮らす祖母も父親の悪口を言うばかりで詳しいことは教えてくれない。ただ、父といることで母がつらい思いをしたということだけは子供心にも察せられた。だから、僕にとっても父のことはタブーとなっていたし、隠し通していたいことだった。

 そのときだって、「いない」と言えば事は簡単に済んだのだろうが、少年特有の自尊心というか、頑固さのようなものがそういうことを許さなかった。

 無視し続ける僕を、そいつはおもしろがるように囃し立てた。

「やっぱいないんだろう?カッコつけんなって。運動会のときも先生と食べてたし」

 運動会の当日、母は仕事で来ることが出来なかった。祖母も、足腰が弱くなっていて一日仕事となる運動会を見に行くことは出来なかった。事情が事情だけに、僕は先生に呼ばれて昼食をとったのだったが、そのときの様子をクラスメイトに目撃されていたことはショックだった。すでに、怒りと悲しさと恥ずかしさで自分を抑えるのが精一杯だったのに、クラスメイトの次の一言が致命的となった。

「かわいそうになあ」

 その後は、頭に血が上ってしまってあまり記憶にない。はっと我に返ると、先生に脇を抑えられ、他のクラスメイトが周りを取り囲んでいた。目の前には血まみれになったクラスメイトがぐったりとうなだれていた。僕の拳も血に染まっている。僕は瞬時に殺してしまった、と思った。先生は僕が我に返るのを見て取ると、僕の腕をぐいと引き上げた。

「誰か、山本君を保健室に連れて行ってもらえますか。保健委員は―松木さん、お願いします。男子も手伝ってあげてください。加藤君は、私と一緒に行きましょう」

 松木さんと周りの男子が慌てて、彼を担ぎ教室の外へと運び出す。僕はというと職員室の奥にある、休憩室のようなところに連れて行かれた。先生の後を付いていく間も警察に捕まるんじゃないかとビクビクしていた。

 椅子に座らされ、取調べを受ける容疑者のように僕はぐったり俯いていた。先生は紅茶を淹れてきてくれたが、とても飲む気にはなれなかった。

「少しは落ち着きましたか?私は山本君の様子を見に行ってきます。紅茶でも飲んでゆっくりしていてください。すぐに戻ってきますから」

 先生が怒っているのか、悲しんでいるのか表情からは分からなかった。先生の後ろ姿がすっかり見えなくなってしまうと、僕はわっと泣き出してしまった。




どれぐらいの時間が経っただろうか、いつの間にか僕は机にうつ伏せになって寝てしまっていた。顔を上げると、先生が隣に座っていた。

「目が覚めましたか。紅茶、冷めてしまいましたね」

 先生は笑顔だった。その顔を見るとまた涙がこみ上げてきた。それを抑え込むようにして口を開いた。

「ごめんなさい」

先生は、おやおやというような顔をした。

「謝るなら山本君に謝りなさい。私に謝るのは見当違いですよ」

 何も言い返せず、また俯いてしまった。零れ落ちた涙がぎゅっと握り締めた手の甲に暖かさを感じさせてくれる。そんな僕の気持ちを先生は察してくれたらしい。

「山本君は大丈夫です。鼻血が出ただけですし。山本君も反省してましたよ。加藤君を傷つけてしまったってね。もう帰ってしまいましたけど、明日になったら、謝らないといけませんね。もちろん、二人共です」

 僕は、喧嘩相手が無事だったことにほっとしつつも、今度は急に自分が惨めになってきてしまった。一時の怒りだったとはいえ、クラスメイトに拳を振るったことが情けなくなったのだ。

「先生、先生、僕は…」

 最後の方は声にならなくなってしまった。先生は優しく僕の背中をさする。

「分かっていますよ。かれこれ四年の付き合いですからね、君の事は分かっているつもりです。君は、簡単に人を傷つけるようなことはしない人です。まあ、たまに悪戯がすぎるときがありますが」

 先生は自分に淹れてきた紅茶に口を付け、満足するようにカップを置いた。

「君は、自分の一番触れられたくない部分を傷つけられたのでしょう。人は、自分の大事な部分を傷つけられたとき、必死に抵抗するものです。だからといって暴力に訴えるのは誉められたものではありませんよ」

先生の言葉は耳には入ってくるのだが、自分を抑えることができなくなってしまった。鼻の辺りがなんだかツンとする。涙を抑えたいのか、流したいのかよく分からなくなってきた。ただ、今の感情を爆発させたかった。

「山本君に、父親の事言われて、それで」

 先生はうんうん、と頷いている。

「僕は、話したくないのに、山本君が聞くから」

 先生は急に真面目な顔になって、僕の方をじっと見る。あの怒ったときの険しい顔だ。僕は怒られるんだと身構えた。

「加藤君は、お母さんのことが好きですか?」

 僕は力強く頷く。

「お母さんのことを尊敬していますか?」

 また、力強く頷く。そんな僕の様子を見て、先生は緊張を解きほぐすようにまた笑顔になった。

「だったら、お母さんのことをもっと誇りに思いなさい。お父さんがいないからってそのことを負い目に感じることはありません。お母さんは君を育ててくれている立派な人です。君がお母さんのことを大事に思えば、悲しい思いをしなくて済むはすです」

 僕は、最後にもう一度頷いた。

「ああ、それと、私と一つ約束してください。今日のところはあなたを怒りません。あなたの言い分も分かりましたし、あなたは感情の吐き出し方を知らなかっただけなのですから。でも、今後、感情に任せて暴力を振るってはいけません。友達だけではなく、誰にでもです。いいですか、約束できますか?」

 そう言って先生は小指を出した。僕も小指を出す。そして、何年かぶりに指きりげんまんをした。

「約束を破ったら、どうなるか分かっていますね。さ、そしたら今日はもう帰りましょう。もう冷めてしまいましたけど、せっかくですから紅茶飲んでいきませんか?おいしいですよ。私が厳選したんですから。冷めてもおいしいはずです。今度は暖かいのを飲んでもらいますね」

 そう促されて、カップの紅茶を一気に飲み干した。確かにすっかり冷めてしまって、人肌よりも冷たくなってしまっていたが、その紅茶は、僕の心に染み渡っていった。

 この出来事の後、僕は父親がいないことを恥じることはなくなったし、先生との約束も守り続けた。それは中、高となってからも変わらなかった。

 小学校を卒業してから先生と会うことはなかったが、年賀状のやりとりだけは続けていた。僕が卒業してから何年か後に、別の小学校へと移ったらしいのだが、教師を辞めたわけではないらしい。

 でも、東京に行ってしまえば、いつ再会できるのか分からない。多少の照れ恥ずかしさを感じながらも、年賀状に書いてある連絡先を頼りに、先生に電話してみた。

 出て欲しい気持ちと出て欲しくない気持ちがごちゃまぜになりながらも番号を押す。二回、三回とベルが鳴るが一向に出る気配がない。あともう一度だけ、と思い半ばあきらめながら待っていると、ガチャという音がした。

「もしもし」

 先生の声だ。なんとなく不意打ちを食らったような形になり、ドギマギしてしまう。

「あの、加藤亮輔ですけど、あの、六年前に卒業した。先生ですか?」

 電話口から、ああ、という声が聞こえてくる。

「加藤君ね。ご無沙汰してます。声がすっかり大人になっていましたからね、すぐには分かりませんでした。元気にしてますか?」

 優しい先生の顔を思い出すと、電話ごしに笑顔になってしまった。

「はい、元気にしてます」

「それは良かった。もう大学生になったんですかね?」

「あ、今年の春からです」

「早いものですね。あの悪ガキがもう立派に大学生になるんですね。こちらはすっかりおばさんになってしまいましたよ」

「それで、あの、僕、東京の大学に行くことになりまして、それで一度、先生にご挨拶したくて」

 なんだか気持ちばかりが先走っている。先生には今の僕の様子が分かるのか笑い声を上げている。

「そんな、挨拶だなんて。気軽に遊びに来てくれればいいんですよ。こちらもまだ春休みですし。どうでしょう、明後日なんか時間ありますか?君のことも聞きたいですし、思い出話にでも花を咲かせてみませんか?」

 僕にとっては願ってもみない話だった。「ええ、お願いします」と無意識の内に返事をしていた。

「では、明後日の一時に。場所は、そうですね、北小の門の前でどうでしょう?」

「あ、はい。分かりました。では、また明後日に」

「はい、楽しみにしてますよ」

 僕は、高鳴る心臓を抑えつつ受話器を置いた。ふう、とため息をつきながらも、自分のあまりの動揺ぶりを恥じた。

 何よりも、先生に僕の気持ちが気付かれていなかったかどうか不安だった。この六年間、僕はいつの間にか先生の影を追い続けていた。そうして生まれた感情が、先生への尊敬の念というものではなく、恋というものになっていることにも気付いていた。その感情が一時のものではないことに、先生と離れている六年間ではっきりと分かった。

 それが世間的に許されるものであるかどうかは別にして、この気持ちを伝えておきたかった。




 約束の日、僕は三十分も前に待ち合わせ場所に着いた。家に居ても落ち着かず、自然と足は学校の方へと向かっていた。グラウンドでは付近の野球チームが練習している。その様子をぼんやり見ながら、時間を潰した。いつもならあっという間に過ぎていく時計が、今日に限ってゆっくりな気がした。

 先生は、きっかり十分前に来た。僕の姿を見ると小走りになった。

「すいません、隣の公民館に車を止めてこようと思ったんですけど、昔となんだか変わっていまして。少し手間取ってしまいました。お待ちになりましたか?」

「いえ、僕も来たばかりです。えっと、それじゃあ、どうしましょうか。校内でも散歩しますか?」

 なんだか恋人同士のようなやり取りをしながら、六年ぶりに小学校の校門をくぐった。

 六年ぶりにあった先生は、昔と変わらず、僕の理想であり続けていた。六年という歳月はどこにも老いというものを感じさせなかった。あっさりとした服装でありながら凛とした空気を漂わせていて、それでいて優しさに包まれているような。

 先生の質問に答えながらも、僕は先生に見とれていた、

「それにしても大きくなりましたね。昔は並んでも前の方だったのに。何か部活をやっていたんですか?」

「ええ、野球部に。けっこう強かったんです、うちの野球部。まあ、甲子園とまではいきませんでしたけど」

「あそこは文武両道のとこですからね。良かったです、しっかり勉強もしてくれてたみたいですし」

 少し温かみの感じられる春先の日差しに照らされた先生の笑顔に僕は一礼する。

「先生には、ほんと感謝してます。あのとき、うちの親を説得してくれなかったら」

「いえいえ、君の才能を思えばこそです。こんな言い方は失礼ですけどね、公立に行くのはもったいなかったですよ。根も真面目でしたし、君の成績はずば抜けてましたからね。それに君も答えてくれましたから、私は満足です」

 僕は先生の説得もあって、私立の中高一貫の学校に進学することができた。確かに、私立であったから経済的には厳しかった。母も最初は渋っていた。でも、ある日、先生が自宅にやってきてくれたことで母の考えも変わっていった

「亮輔君ならきっと合格するはずです。それだけの実力があります。受験に対応した勉強を一年間続ければ大丈夫です。私がこんなことを言うのは差し出がましいと分かっています。でも、良輔君の成績を見ているともったいない気がしてなりません。是非、受験させてくれませんか」

 この言葉に母も折れた。受験は、一年間塾に通ったことで力を付けることができたし、学費は、祖父の残した財産と祖母の年金、生活費を切り詰めることでどうにかなった。確かに余裕はなかったけれど、ちゃんと六年間通うことができた。

「もし、あのとき受験しなかったらと思うと。大学にも進学できなかったかもしれませんね」

「それはお母さんがいてこそですよ。社会に出るようになったら恩返ししないといけませんね。そうしてこそ一人前です」

 そんな会話をしながら、校舎の周りを歩いていった。流石に春休みということもあって校舎は開いていなかったけれど、思い出を語るには十分だった。

 悪戯して怒られたこと、運動会で二人でご飯を食べたこと、山本君を殴って鼻血を出させたこと。その他色んなことを話しながら校舎をぐるりと一周した。その間、僕らは笑ってばかりいた。たくさんの思い出は時間の流れの中でいい具合に風化して、全てが素晴らしいものになっていた。ちょうど一周して下駄箱のある辺りに来たところで、先生はある提案をした。

「どうです、桜のところまで行ってみませんか?今年は例年よりも早いみたいで、今、ちょうど見頃なんですよ。新入生には少し可哀相ですけどね」

 先生はそう言うとさっさと先に行ってしまう。僕は遅れまいと付いていった。

 この学校には校庭のど真ん中に桜の木がある。邪魔といえばそうなのだが、この木は創立以来ずっとここにあるのだ。この木は学校の歴史を象徴するものであるから、そう簡単に切れないという訳だ。もともと、校庭の隅にあったこの木は、校庭が拡張していくにつれどんどん真ん中に立つことになり、いつの間にかまん真ん中に立つことになった。入学した当初は随分奇異に見えたものだったが、慣れてしまえばそれほど気にならない。

 先生の言う通り、桜は八分咲きといったところで、ちょうど見ごろだった。少しの風で舞い散る花びらが儚い。僕達はその木の全景を見渡すことが出来るところに、仲良く並んで立った。先生は舞い散る花びらを拾うように手を広げている。

「私が年老いても、君が大きくなっても、この木だけは変わりませんね」

「先生は昔と変わりませんよ」

 桜と一緒に先生の髪も風に踊る。

「お世辞でも嬉しいですよ。でも、昔のようにはいきません。なかなかね」

 そう言った先生の顔には、その日初めて、老いというか、疲れのようなものが浮かんでいた。

「お世辞じゃありません」

 僕と先生の視線がぶつかる。昔、見上げていた先生の顔が、今は下にある。

「今日、先生と会うことになって、僕はとても嬉しかったです。正直なことを言えば、下心がなかったとは言いきれません。僕は、先生のことが好きだったんです。あの頃から、先生と離れた六年間、僕はずっと先生のことを思っていました。この気持ちは本当です」

 流れと勢いでこれまで僕の思いを吐き出すことになってしまった。でも、後悔はなかった。この日が約束されたときからいつかは言おうと思っていたことだったのだ。こみ上げてくるものを押し殺して、先生の目をじっと見つめた。先生は困ったような笑顔でいる。

「うーん、君みたいな素敵な人に告白されるとは、私もまだまだ捨てたものじゃありませんね。でも」

「歳の差ですか、それとも僕が先生の教え子だからですか」

 先生は僕から視線を逸らすようにして俯き、桜の方へと歩み寄っていった。

「それもありますが、私にはもっと大きな理由があるんです。だから、申し訳ないのですけど、君の思いに答える訳にはいきません」

「じゃあ、その理由は何なんです?その理由を教えてもらえない限り、僕は納得できません!」

 先生は桜の木にそっと手を当てた。そして、何かを決心したかのようにその手を握り締めた。

「そう、ですね。少し昔話をしましょうか。あれは、私があなたぐらいの歳の頃です。それほど長いものではありません。聞いてもらえますか?」

 僕は先生の後ろ姿をじっと見つめながら、耳を傾けた。先生はそのまま、昔話とやらを語り始めた。




「その頃、私には好きな人がいました。ちょうど大学に入りたての頃で右も左も分からなかったんです。その人には妻子がいたというのに私の方が惚れ込んでしまって、遊ばれているだけかもしれないというのに本気になってしまって。その人が語る永遠なんてものを盲目的に信じてしまっていたんですよ。そんなもの存在しないのに。でも純粋だったんです、あの頃は。今の、君みたいに」

「私はその人に詰め寄りました。あなたはどうしたいんだってね。そう言うと決まって『君が一番だ』なんて言葉が返ってきました。もちろん信じていましたよ、その言葉を。でも段々、その言葉も重みを失ってきて、それに、私には教師という職業に未来を見るようになっていきました。そしていつか、教師という夢の方が、彼よりも大きくなっていたのです」

「ある日、彼は言いました。『妻と別れて君と一緒になる。だから明日、この桜の木の下に来てくれ』とね。でも、私は、彼の言葉を信じないようにしてました。それほどに彼の言葉は力を失っていたのです。だから、約束の時間、約束の場所には行きませんでした。でもね、その日の深夜、胸騒ぎがしたんです。第六感というか。そして、行ってみたんです。約束の場所に」

 そこまで言い終えて、先生は拳を下ろした。先生が何を思ってこの話をしているのか僕には分からなくなってきてしまっていた。最後まで聞きたくなかった。でも、その場から動けなくなっていた。

「彼は、首を吊って死んでいました。この桜の木の枝にロープを架けて。ちょうどこの辺りですかね。その後、私はどうしたと思います?埋めたんですよ、彼の死体を。この桜の木の下に。君も知っていると思いますが、この辺りはその当時、校庭の端の、森との境界でしたから。整地が行われたのはこの後です。女の力で、それも目撃者がいるかもしれないのにも関わらず、どうしてこんなことをしたのか分かりません。でも、私はそうしたのです。気が付くと、泥まみれで、スコップを手にしていました。それら全部を片付けてしまうと、後は世の中から隔絶するように家に引きこもりました。いつ、警察がやってくるのか怯えながら。でも結局、何事もありませんでした。詳しいことは分かりません。というより、知ろうとしませんでした。その後、何事もなく大学に通い、教師となるため勉強しました。なるべくそのことに触れないように」

「でも、結局、帰ってきてしまったんです。ここに。それが偶然なのか、必然なのか分かりません。私はここで教えることになったんです。いつ真実が分からないともしれない恐怖に怯えながらも、笑顔でそれを隠して、教師をやっていたんです」

 僕は、先生が振り返るのが恐かった。今の僕には先生の顔を直視することはできそうにもない。あの、内面を殺しきった仮面の笑みを。

「後で話を聞くとね、その人は失踪ということになっているそうです。私に連絡をくれる前にね、その人は奥さんから姿を消していたそうで。私のやったことは罪でしょう。法律に詳しいわけではありませんが、死体遺棄罪になるのでしょう。でも、その罪自体は私にとって大きな意味を持ちません。私の罪は彼を裏切ったことです」

「先生は、その人を、まだ愛しているんですか?」

 僕は、震える声でその質問をした。沈黙が訪れるのを嫌ったからかもしれないし、純粋にただ聞きたかったのかもしれない。どちらにしろ、無意識のものだった。先生はしばらく考え込むように全く動かなかった。先生の体だけがそこにあって、魂は抜け落ちてしまったみたいだった。

「ええ、今も愛しています。だから、君の思いには答えられません。ああ、それと」

先生はそう言いかけながら振り返った。

「蛇足かもしれませんが、その人はこの学校の教師で、私は生徒だったのです。そして、この桜の木の下で私は思いを伝えたのです。だからこそ余計に」

 続きの言葉は言わなくても分かった。振り返った先生は、やはり笑顔だった。でも、その笑顔を僕は知らない。僕が初めて見るものだった。




 僕は、あの日のことを振り切るようにして、というより逃げるようにして大学に進学した。あの日のことは忘れることができない。

大学での生活は、今とは比べ物にならない程、急速に、かつ淡白に過ぎ去っていく。そんなときふと、あの日のことが強烈に甦ってくる。

 冷静に考えてみると、先生の話には疑問点がいくつかある。校庭拡張に伴って整地が行われたというなら、死体が発見されないというのはあり得ないし、先生が死体を埋めたということ自体、信じ難い。もし仮にそれが真実だとして、先生が全く疑われなかったということがあり得るだろうか。

 しかし、先生がその人を愛し、死体を桜の木の下に埋めたと信じている以上、そうした疑問点を暴き立てることは意味をなさない。真実を知るのは先生だけであり、先生がそう信じているのならそれが真実なのであるから。

 そんなある日、小学生時代から唯一連絡を取り合っている友人から、電話がかかってきた。彼はひどく驚いているようだったが、彼の伝えることは僕にとって必然であると思われた。

「おい、広瀬先生知っとるやろ?広瀬先生、失踪したんやって、急に。まあ、今は学級崩壊ってのがあるけん、悩んでるっつう話はあったみたいやけど、あの広瀬先生がねえ。こっちじゃ大騒ぎよ。ん、なんだか、反応がドライやね?お前、大分お世話になっとったやろ?心配じゃなかと?」

「ああ、まあ」

「まあ、いいんやけど。でさ、春休みには帰ってくると?久しぶりに会わん?ほら、あいつ、山本も会いたがっとったよ。あいつ、いっつも『加藤には一発食らわさんと気が済まん』ってそればっかりなんよ。あいつ口ばっかりやから大丈夫やし、夏休みぐらいは帰ってこいよ」

 こちらでの生活にも落ち着いたし、故郷に帰るのもいい気がした。あの山本がどういう風に成長したかも少し楽しみだった。

 それに何より、先生のことが気になった。先生はきっと彼岸に行ったのだろう。その人を追いかけて。今、先生はあの桜の木の下にいるのだろうか。それとも何処でもない遠くに行ってしまったのだろうか。それを確認するために桜の木の下を掘り返すのもいいかもしれないな、そんなことを考えながら、一人、夢想していた。

 先生の甘美な夢と淡い思い出に浸りながら。


コブクロを聞いていたら何故か急に書きたくなってしまいました。昼ドラチックなのは筆者の完全な趣味です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 山上 雨路咲先生の奨めで読みました。 落ち着いた文面が更に話しを盛り上げていて後半になればなる程ドキドキしていました。 ただ、個人的にはラストが少し残念に思ってしまいました。主人公は六年もの…
[一言] こんにちは、読ませて頂きました。 まず一言、感動しました。 文体も落ち着いていて安心して読み進めることができましたし、個人的にかなり先生に感情移入してしまいました。魅力的な人物というだけでは…
[一言] おつかれさまでした。個人的な好みもありますが,感動しました…あまり私は自分が感動したことを言いませんが,ココでははっきり言えますね(笑) なんと言っても光っているのは素材でしょう。地の文もも…
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