52H
国際線の長距離便に乗るとき、隣の席が空いていることを祈るのは普遍的な真理だと、僕は昔から信じていた。閉ざされた空間で他人の気配や匂い、ささやかな不快感から身を守るための静かな緩衝地帯。すぐ隣にある誰もいないシートを見下ろすと、唇の端に自然と小さな笑みが浮かんだ。
「バンクーバー発成田行きJL017便は、出発がさらに一時間遅れております。ご不便をおかけしますことをお詫び申し上げます」
チャイムの音がバンクーバー国際空港の環境音の中に溶けて消え、一時間前にもコンコースに響いたノイズ混じりのアナウンスだけが残された。雨粒の滴る高いガラス窓の向こうには、暗い滑走路が淡い地平線へと広がっている。僕は持ち込みバッグのストラップをかけ直した。日本はまだ何千マイルも先だ。ここでの一時間の遅延は、見慣れた漂流の時間があと六十分延びたことを意味するだけだった。
通路の中央には、プラスチック製のルークやナイトが腰の高さまである巨大なチェスボードが置かれていた。黒いマス目の端に立ち、クイーンの滑らかな頂部に手を置いたまま行き交う旅客を眺めていると、オーバーサイズのネイビーのパーカーに黒のコンバースを履いた一人の女性が足を緩めた。耳の下で切り揃えられた短い髪。彼女は盤面を見下ろし、僕と目を合わせると、ごく小さく一度だけ頷いた。
僕たちは重く空洞のある音を絨毯に響かせながら、駒を動かした。初戦は慎重だった。開いたマス目を静かに進み、互いの癖や筋を探り合う。最初は指先にかすかな緊張があったが、駒が交換されていくうちに相手のキングへ続くラインが開いた。僕のルークが滑り込み、投了を余儀なくさせる。近くで立ち止まっていた数人の旅行者に視線を送ったが、挑戦しようと踏み出す者は誰もいなかった。
彼女は立ち去らなかった。代わりにしゃがみ込み、倒れていたビショップを拾い上げると、元の位置に戻した。
二局目になると、彼女の佇まいが変わった。突然、躊躇のない果敢なリズムで駒を進めてくる。いつの間にか僕たちの周りには観客の輪ができ、低い囁き声が漂っていた。僕のポーンが陣形を固める前に彼女のナイトが侵入し、防衛線を構築する間もなく、斜めから飛び込んできたクイーンがキングの逃げ道を塞ぐ。
「見事ですね」僕はこの詰んだキングを見下ろした。「無駄がない」
彼女は顔を上げ、口元に小さな笑みを浮かべた。「そんなことないです。お上手でしたよ」
取り囲む人々に手を向け、白い駒を譲ろうとしたが、ギャラリーはそれぞれの搭乗口へと散っていくだけだった。
「もう一局、やりますか」
「ぜひ」
三局目の途中、頭上の出発案内板の黄色い文字がチラつき、並び替わった。僕の最後のポーンが倒れる頃には、53番ゲートのデジタル時計が出発二十分前を示していた。
僕は持ち込みバッグを引いて、電源コンセントのある柱の近くの低いビニールチェアへ向かった。ゲート付近は静かで、東京へ向かう客が数人、ぽつんと座っているだけだ。少しして、床に影が落ちた。彼女が隣の席に腰を下ろし、ジーンズの中で膝を少し抱え込んだ。
再び、言葉のない会釈が交わされる。パックのジッパーを開け、ペーパーバックを取り出した。隣で彼女が開いた本には、海のような青い絹のブックカバーが掛けられており、背表紙まで綺麗に覆われてタイトルも著者名も隠されていた。
小さなチャイムが鳴り、スマホの通知を知らせる。画面をタップしてデジタル搭乗券を開くと、親指が座席番号で止まった。32E。数週間前に通路側を予約していたはずなのに、見知らぬ二人にはさまれた中央の席だった。
バッグを椅子に残したまま立ち上がり、ゲートの木製カウンターへ向かった。係員は画面をスキャンし、キーボードを軽快に叩くと、赤字で通路側の座席が印字された搭乗券を渡してくれた。希望通りの席ではなかったが、通路側であることに変わりはない。不満はなかった。
席に戻ると、彼女は動かずにいた。親指がページの間に挟まれている。
スピーカーから係員の声が響き、優先搭乗の案内が始まった。僕は席に留まり、列ができ、小さくなり、やがて消えていくのを眺めていた。ゲート前が完全に空くのを待ってから立ち上がり、チケットをスキャンさせる。
狭い機内の通路を進み、頭上のシート番号を数えて52Hにたどり着いた。隣の中央席に座っていたのは、ターミナルにいたあの女性だった。手元の控えを二度見して確認する。彼女は顔を上げると僕に気づき、柔らかく、心得たような頷きを返した。
荷物を上の棚に収め、シートベルトを締めると、彼女は僕のヘッドレストにある暗い画面を覗き込むように少し身を寄せた。
「それ、ちゃんと動いてます?」
「あ、まだ試していなくて」
ガラスの隅をタップすると、システムが青い光とともに立ち上がり、バンクーバーから東京への飛行ルートが表示された。
「あ、よかった。大丈夫そうですね」
控えめな笑みを浮かべる彼女の顔立ちは、うっすら暗い機内照明の下でどこか凛としていて、思わず目を奪われそうになった。
ゲート付近の混雑のわりには周囲の席は空いており、一列前で金髪の女性二人組が低く話し込んでいるくらいだった。ジェットエンジンが重い咆哮を上げ、機体が滑走路を加速するにつれて体がシートに押し付けられる。バンクーバーを飛び立つと、雪を戴いた遠くの山脈が、地平線の彼方で繊細なひだのように小さくなっていった。彼女は楕円形の窓に寄り添うように外の景色を眺め、僕が視界を共有できるよう、配慮するように肩を少し引いた。そしてスマホを掲げ、雲海の写真を一枚だけ撮った。
横顔の曲線越しに、消えゆく景色を見つめた。
「綺麗ですね」
「ね、ほんとに」
ヘッドレストに頭を預け、胸の鼓動を鎮めるように鼻から静かに息を吐き出した。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。出しゃばるな、と。気を紛らせるものが欲しくて、バッグから本を取り出した。
テーブルを倒し、パックから除菌シートを出してプラスチックの表面を拭く。
「よければ、そちらも拭きましょうか」
彼女は驚いたように少し眉を上げ、目を丸くした。
「えっ、すみません。助かります」
席の間の狭い空間に手を伸ばし、彼女のテーブルをすみずみまで拭いてから、自分のテーブルに取りかかった。
本を開くと、彼女がこちらに体を向けた。
「何読んでるんですか?」
「数学の専門書です」
カバーを見せると、彼女は唇をほころばせた。
「すごい……頭いいんですね」
「滅相もないです。むしろ逆で、自分の無知を補うために読んでいるようなもので」
彼女は小さく吹き出した。
「カナダには長くおられたんですか?」
「交換留学で半年くらいです」
「楽しめましたか?」
「はい、すごく。こっちの人ってすごく大らかで優しいですし、トレイル景色も本当に綺麗で……すっかり好きになっちゃいました」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「あなたは?」
「僕はアルバータでの二週間の短期プログラムでした」
「そうだったんだ」
「滞在中、ハイキングなどはされましたか?」
「少しだけ。キャンモアの近くのポカテラっていうところが、すごく印象に残ってて」
「本当ですか。僕も先週キャンモアにいました。山頂からの景色、最高でしたよね」
「えっ、嘘、本当ですか? 何曜日に行かれました?」
「金曜の夜に車を出して、土曜の朝から登り始めました」
「冗談でしょう……」
彼女は息を呑んだ。
「私、土曜に着いて日曜に登ったんです」
彼女はスマホを取り出し、ライブラリをスクロールしながら画面をこちらに傾けて、旅の写真をいくつか見せてくれた。僕も自分のスマホを取り出し、写真を見せ合った。似たようなアングル、同じ景色、そして土曜の朝と日曜の午後での光の微妙な移ろいについて語り合った。
しばらくすると、客室乗務員が日本の出入国書類と税関申告書を配り始めた。胸ポケットにはすでにペンを用意してある。彼女は書類を前に少し困惑した様子で、ペンを探してテーブルの上を見回していた。パックから予備のペンを取り出して差し出す。
「あ、ありがとうございます」
彼女は少し身を寄せた。
「ここって、どう書けばいいか分かりますか?」
「ええ、ここに便名を書いて、横のチェックボックスにチェックを入れるだけですよ」
パスポートを取り出し、記入を始めた。僕はすぐに書き終えたが、彼女は実に丁寧に記入を進めていた。彼女の名前や雰囲気を知りたくて、パスポートの表紙を盗み見ようとしたが、JALのエコノミークラスのゆったりとしたシート間隔が災いして、はっきりとは読み取れなかった。書き終えると、彼女は両手でペンを揃え、丁寧なお辞儀とともに返してくれた。
カートの小さながたつき音が響き、乗務員がやってくるまで、会話はカナダ以外の旅の思い出へと広がっていった。なぜか乗務員は、僕たちに一枚のメニューだけを渡した。彼女はそれを二人のテーブルの間の狭いスペースに置き、指を添えながら一緒に目を通した。
「チキンライスをお願いします」
彼女は乗務員に告げた。
「それと、キウイジュースで」
最初のドリンクサービスと同じ選択だった。
「僕もチキンライスで。温かいお茶をお願いします」
僕たちは静かな心地よさの中で食事を済ませた。予告もなく、前の席の客がシートを極限まで倒してきた。突然の傾斜が彼女の頭に軽く当たり、パーソナルスペースが削られる。彼女はくすっと小さな声を漏らすと、困ったように、けれど寛容な苦笑いを浮かべてこちらを見た。
胸の奥が、妙に締め付けられた。前の座席によって彼女の領域が十センチほど押し潰され、狭い角に身を縮める彼女の姿を見ると、二人の間のわずかな空間が急に切実なものに思えてきた。
「席、代わりましょうか? 向こうの席、丸ごと空いてますよ」
「ううん、大丈夫です」
彼女は囁いた。
「気にしないでください」
隣の席が空いているのを確認し、そのテーブルを倒して自分の空きトレーを移すと、彼女の手元へ手を伸ばしてトレーを引き取り、スペースを確保した。
「本当にありがとうございます」
「いえ。狭いですから、これくらいしかできません」
トレーを片付けると、途切れていた会話の糸を再び手繰り寄せた。
やがて消灯時間となり、機内の照明が落ち、会話は自然と途切れた。彼女はサイドパネルに頭を預け、楽な体勢を探している。その様子を見て、僕は間の肘掛けを跳ね上げ、足を外側へ寄せてスペースを作った。彼女は膝をこちらへ引き寄せ、薄い毛布にくるまりながら斜めの体勢で収まった。暗い機内に響く静かなエンジン音の中で、彼女の息遣いがゆっくりになっていく。僕は頭上の読書灯を点け、再び数学の定理が持つ硬質な確実性の中へと没頭した。
長年、証明と論理という自己完結の世界に思考を閉じこめてきた僕には分かっていた。自分はこの状況を過剰に分析しているのだと。近接性やホルモン、息を潜めていた人間的つながりへの欲求が引き起こした単なる生理反応に、勝手に意味を見出しているだけなのだと。
それでも、時折ページから目を離しては彼女の様子を伺った。時間が経つにつれ、彼女の姿勢が変わり、眉間に小さなシワが刻まれ、毛布の下で体を丸めるようになった。過剰分析だろうとなんだろうと、放っておくことはできなかった。頭上の呼び出しボタンを押し、客室乗務員に温かいお湯を頼んだ。
タイミングは完璧だった。乗務員が紙コップを運んできたまさにその瞬間、彼女の目がうっすらと開いた。
「どうぞ」
静かにコップを渡す。
「飲んだほうがいいですよ」
「あ……ありがとうございます」
彼女は手を伸ばし、両手で温かい紙コップを包み込んだ。
乗務員が立ち去る前に、彼女は軽く手を挙げた。
「すみません、お薬もいただくことってできますか?」
痛みを抱えていても、彼女の言葉遣いはどこまでも自然で、温かみがあった。大学で聞き慣れていた無骨なやり取りとは劇的に違っていたが、僕はすぐに自分の思考を戒めた。サンプルサイズバイアスだ、と自分に言い聞かせる。単に母集団の十分なサンプルに接していないだけだ。
彼女は再びサイドパネルに身を預け、斜めの姿勢に戻った。伸ばされた彼女の足、そのふくらはぎの側面が、僕の右のふくらはぎにそっと触れ、そのまま重ねられた。服の布地越しであっても、彼女の体温が静かに伝わってくるのが分かった。それが不快ではなかったので、僕は動かず、互いの足が触れ合ったままにした。彼女は空間を共有することに何の抵抗もないようだった。あるいは、単に気づいていないだけかもしれなかったが。
「体調、少しは落ち着きました?」
「ええ、温かいお湯のおかげで、だいぶ楽になりました」
彼女は一口すすると、僕の膝の上にある開かれた本に目を落とした。
「ずっとそれ、読まれてたんですか?」
「いえ。ページを繰るのと、音楽を聴くのを交互に」
「機内エンタメって何か見ました?」
「軽く目を通したくらいで、ピンとくるものがなくて。でも、そろそろ『ドライブ・マイ・カー』でも観ようかと思っています」
「ああ、村上春樹の。私観ましたよ、すごく良かったです」
「前のフライトのとき、途中で着陸してしまって最後まで観られなかったんです」
「今回はまだたっぷり時間ありますね」
彼女はかすかに微笑んだ。
「あなたは? 何を観るんですか?」
「『リメンバー・ミー』を」
画面をタップしながら彼女が答えた。
「ずっと観たいなって思ってたんです」
「見終わったら、お互い感想を言い合いませんか」
「楽しそう。ぜひ」
僕たちはそれぞれの小さな映画館へと閉じこもった。彼女は後ろの席が空いているのを確認してからシートを倒し、画面との距離を少し取った。前の席の女性はまだ眠っており、頭部から溢れた金髪が画面の隅を少し覆っていたが、彼女は気に留める風もなく再生ボタンを押した。
映画が始まって一、二時間した頃、暗い通路を乗務員が静かに行き交い、起きている乗客に水やジュースを配り始めた。
「温かいお茶をお願いします」
小さく告げる。
彼女が紙コップを返す横顔を盗み見た。またキウイジュースを頼むのだろうと踏んでいたのだが、その小さな習慣を思い浮かべるだけで、胸の奥にささやかな満足感が広がった。機内の淡い琥珀色の光を受け、暗がりの中に浮かび上がる彼女の頬のラインには、一点の翳りもなかった。ビタミンCの影響か、水分補給か、それとも冷えた機内空気のせいか。隣に座る彼女がなぜこれほど自然体に見えるのか、僕の頭は無意識にその理由を論理づけようとしていた。
「私も、温かいお茶をお願いします」
彼女も静かにそう言った。
暗い機内の中で時間が穏やかに流れ、それぞれの画面でエンドロールが流れ始めた。
やがて、頭上のムード照明がゆっくりと移ろい、深いインディゴから温かみのある朝焼けの琥珀色へと変わっていった。突然、前の席の客がシートを直角に戻した。その反動で彼女のテーブルが揺れ、コップが倒れそうになる。慌てて手を伸ばしたが、彼女の反射神経は驚くほど鋭く、倒れかけたコップを絶妙なタイミングで掴み取った。一滴も零さずに。
腰の強張りを感じ、脚を伸ばすために通路へ出た。
「少し立ち上がってストレッチでもします?」
見下ろしながら声をかける。
「私は大丈夫です。斜めに寝てたので結構楽でしたし。でも、朝食の前にちょっとお手洗い行ってこようかな」
身を引いてスペースを作ると、彼女は立ち上がり、パーカーを整え、短い髪を手ぐしで撫でつけた。狭い通路をすり抜けていく際、彼女の残したかすかな香りが空気に残った。再び脈が跳ね上がる。自分の分析癖をもってしても処理しきれない、苛立たしいほどの生理的反応。目を閉じ、呼吸のリズムを整えることに集中しながら、不躾な思考を振り払おうとした。きもい真似はするな、と自分に言い聞かせる。彼女はただ、礼儀正しく愛想よく接してくれているだけだ。
彼女が戻ってくると、その立ち姿はすっきりとして、表情も晴れやかだった。再び通路に出て道を譲る。
「気分、良くなりました?」
「はい、おかげさまで。ありがとうございます」
「映画、ちょうど同じタイミングで終わったみたいですね」
「本当ですね、ぴったり」
彼女は少し頭をこちらに寄せ、静かな目を向けた。
「『ドライブ・マイ・カー』、どうでした?」
「重かったですね」
暗い画面をスクロールする白い文字を見つめながら呟いた。
「赤のサーブに乗って何千マイルも走りながら、死んだ妻の声をテープで聴き続ける男の話です。本当のことを尋ねる機会を、失ってしまったから」
彼女の指が、パーカーの袖口をきゅっと握りしめた。
「『リメンバー・ミー』も似てるかも。死者の国まで行く話なんですけど、本当に消えちゃうのって、生きている世界に自分を覚えてる人が誰もいなくなった時なんだなって」
言葉の余韻が二人の間に漂う中、明かりの灯った通路を朝食のカートが運ばれてきた。僕たちは静かで手慣れたリズムで食事をとった。紙ナプキンを渡し合い、アルミの蓋を重ね、無言でスペースを片付けていく。彼女が小さなヨーグルトのカップを開けたとき、その無邪気で嬉しそうな表情があまりにも無防備で、僕の思考回路は一瞬麻痺してしまった。
視線に気づいた彼女は、僕が口を開く前に自分の分を食べ終えた。
「このヨーグルトも食べますか?」
差し出すと、彼女は目を丸くした。
「え、いらないんですか? すごく美味しいのに!」
「美味しそうに食べていたので。どうぞ」
「わ、ありがとうございます! じゃあフルーツと交換ですね」
彼女は自分の器をこちらへ渡した。そして二個目のカップにスプーンを入れ、一口分を贅沢に掬うと、それをこちらに差し出した。
「食べてみてください」
甘みと酸味のバランスが、完璧だった。
「本当だ、すごく美味しい」
「でしょう?」
彼女は嬉しそうに笑い、残りを味わっていた。
チャイムが鳴り、機長のアナウンスがスピーカーから流れ始めた。
「皆様、コックピットよりご案内申し上げます。当機は現在高度三万五千フィートを巡航中、成田空港まではあと約二時間となっております。成田の天候は晴れ、気温は十八度。予定通り到着する見込みです。引き続きごゆっくりお過ごしください」
あとの二時間は、静寂の中に溶けていった。やがて再びチャイムが響き、最終の降下体制に入ったことを知らせた。
「皆様、当機は成田空港への最終着陸態勢に入りました。あと十五分ほどで着陸いたします。客室乗務員は着陸態勢を整えてください」
乗務員が迅速に通路を往復し、シートベルトとテーブルを確認していく。シートが垂直に戻されると、二人の肩の間の距離が一瞬で広がった。窓の外には千葉のパッチワークのような田園風景が広がり、緑と灰色の四角い模様が、地面が近づくにつれて大きくなっていった。
着いたらどこへ行くんだろう。着陸した後の予定は。
問いが喉の奥まで出かかったが、指先はペーパーバックの背表紙を強く握りしめるだけだった。口を閉ざした。機翼のフラップが重い機械音を立てて広がり、成田の滑走路へと機体を導いていく間、僕たちは無言のままだった。
降りていく景色を記憶に焼き付けようと、何度も楕円の窓の外を見つめた。
機体が停止すると、混み合う通路へ立ち上がり、上の棚から先に彼女のバッグを取り出して手渡してから、自分のパックを引き寄せた。彼女は海色の絹のカバーがかかった本をバッグのサイドポケットに仕舞い込み、そのタイトルは永遠に隠されたままとなった。
薄暗い機内、乗客が肩を寄せ合うように重なり合い、列は完全に途切れていた。少し振り返ると、彼女の目が僕を捉え、視線が長い一瞬、絡み合った。彼女の唇がかすかに開き、顎が言葉を探すように緊張したが、やがて弛緩し、言葉は混雑した空気の中に溶けて消えた。僕たちはただ、短く静かに頷き合っただけだった。
前のつまりが解消されると、一列前の乗客が踏み出した。流れに身をまかせ、振り返ることなくボーディングブリッジを速足で進んだ。
これでいいんだ、と自分に言い聞かせる。空港の冷たい空気が頬を撫でるのを感じながら、肩のストラップをかけ直した。ただの過剰思考だ。
第二ターミナルへ出ると、新宿行きの成田エクスプレスの案内表示に従って歩いた。長く静かな通路を進むうち、ガラス窓の暗い反射の中に彼女の姿が映り込んでいるのに気づいた。数歩後ろで、リュックを胸に抱きかかえながら歩いている。僕が小刻みな速足でつくる臆病なペースに、彼女の歩幅がついてきていた。僕たちはそのまま入国審査の列へと流れていき、二つのレーンに隔てられ、それぞれの審査官に向き合った。
出口のドアの近くで、彼女の足取りが緩やかになった。ガラスの仕切りのそばに立ち、バッグを抱えたまま、人が引くのを待つようにコンコースを見つめている。三歩分だけ彼女のペースに合わせ、二人の間の距離を詰めた。彼女が顔を向け、目が合った。再び唇が開き、胸がかすかに息を吸い込むのが見えた。
ツバを呑み込み、短く丁寧なお辞儀をひとつだけ残して、僕はそのまま駅のホームへと歩き続けた。
十歩進んだところで、抗いがたい反射に動かされて足を止め、振り返った。彼女は眩しいコンコースの中央にぽつんと立ち、磨かれた白いタイルを見つめていたが、やがてバス乗り場の方へと向きを変えた。彼女のネイビーのパーカーが、行き交う人波の中にゆっくりと溶けていく。そのシルエットが群衆と区別できなくなるまで見届け、静かに息を吐くと、階段の方へ向き直った。
「お飲み物は何にいたしますか? お茶、コーヒー、コーラ……」
「キウイジュースをお願いします」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
いつの間にか、キウイジュースを選ぶのが当たり前になっていた。
隣の誰もいない席を見やった。52K。
かつては、誰もいない空間こそが普遍的な真理であり、他人の騒音や侵入から身を守る静かな緩衝地帯だと信じていた。あれから毎年、僕はこの便に乗っている。指定するのは決まって52Hの席だ。探すためなのか、それとも自分の記憶が本物だと確かめるためなのか、自分でももう分からない。そして、彼女の姿を二度と見ることはなかった。
ヘッドレストの何もない布地を見つめ、二人の間にある冷たい肘掛けに手を置いた。彼女が読んでいたのは、一体どんな本だったのだろう。
紙コップを持ち上げ、ゆっくりと一口含んだ。
やっぱり、キウイジュースは酸っぱかった。




