第八章:新しい仲間、そして次元の彼方へ
ドォォォォォォォォォン……ッ!!
リリアナの小さな指先が実行キーを押し込んだ刹那。
白銀の床が悲鳴を上げるような、腹の底を直接揺さぶる重低音が円筒状の巨大空間を震わせた。
起動した銀色の装置――『次元跳躍試作零号機』の表面に刻まれた精緻な回路が、これまでとは比較にならないほど強烈な、純白の輝きを放ち始める。同時に、動力炉を包み込んでいた琥珀色の拘束界が、見えないハンマーで叩き割られたガラスのように空間に砕け散った。
解き放たれ、行き場を求めて荒れ狂う青白いエネルギーの龍たちが、飢えた獣のように『零号機』の中心部へと一気に吸い込まれていく。圧倒的なエネルギーの移動が、周囲の空気を飴細工のようにぐにゃりと歪ませていた。
『――次元跳躍シーケンス、最終段階へ移行。動力炉の全出力を、転移座標の固定およびゲート展開へ転換します』
無機質で、しかしどこか神聖さすら帯びたシステム音声が空間に響き渡る。
膨大なエネルギーを呑み込んだ『零号機』の傍らの空間に、ジジジ……と火花が散り、直径三エムほどの円筒状の「光の境界線」が、床から天井へ向かって滝のように立ち昇って出現した。
それは、この世界と、かつて彼女がいた世界とを繋ぐ、奇跡の扉――次元ゲートだった。
『――ゲート展開完了。有効維持限界時間、六十。……カウントダウンを開始します』
運命を分つ、冷酷な秒読みが始まった。
リリアナはゆっくりとコンソールから手を離し、立ち上がった。そして、ゆらゆらと陽炎のように揺らめき、眩い光の粒子を撒き散らすその光のエリアを、静かに見つめた。
(……私は、冒険者)
揺らめく光を前に、リリアナの胸の奥で、先ほど背後から投げかけられたチヅルの言葉が、温かなこだまとなって響いていた。
『リリアナちゃんは、もうあたしたちの仲間だよ』
三〇〇環という途方もない歳月の間、自律型管理ユニットとして「効率」と「生存」という冷徹なプログラムだけを絶対の指針としてきた彼女にとって、『信念』や『願望』という形のない曖昧な概念は、本来であれば処理不能なエラーコードに過ぎなかった。
だが、今の彼女には、その言葉の重みがはっきりと理解できていた。チヅルが屈託なく笑い、ユイが呆れながらも寄り添い、ラズベルが温かな食事で慈しんでくれた、あのかけがえのない三日間。それが、彼女の無機質なボディの奥底に、「心」という名の何よりも正確な羅針盤を形作っていたのだ。
かつての仲間たちとの「一緒に帰る」という約束。そして、三〇〇環の孤独の果てに自分を見つけ出してくれた、この新しい仲間たちとの奇跡のような出会い。それらすべてを、後悔のない最高の形で終わらせるために。
リリアナは深く、長く、自身のボディに蓄積された排熱を吐き出すように呼吸を整えた。
そして、己の運命を噛み締めるように、一歩、また一歩と、その眩い光のエリアの前へと踏みしめて歩み寄っていった。
そのわずかな歩みの中で、彼女の高性能な演算ユニットには、走馬灯のように数えきれないほどの色彩豊かな記憶が駆け巡っていた。
活気に溢れていたかつての『第三動力棟』の風景。ディラック所長の穏やかな話し声、休憩時間に快活に笑いかけてくれた親友ロロアの横顔。
あの大事故がもたらした、絶望的な爆音と、すべてを灰にする高熱。
それからの三〇〇環。隔離区画の外側にある、誰もいない冷たい管制室に一人籠もり、静まり返った闇の中で、ただ淡々と、機械的に動力炉の微調整を繰り返してきた、果てしないほどに続く空虚な日々。
炉の異常が地表へも致命的な影響を及ぼし始め、やむなく地上へと監視の拠点を移したあの日。石の塔の上で、孤独という名の分厚い鎧を纏い、侵入者を冷酷に拒絶し続けながら過ごした張り詰めた時間。
それらの灰色に沈んでいた途方もない記憶のすべてが、チヅルたちとの出会いによって、今、鮮やかに塗り替えられていく。
「かわいい!」と場違いな絶叫を浴びせられたあの滑稽な瞬間。
慣れない手付きで滋養強壮ジェルパウチを吸う自分を、微笑ましく見守ってくれた温かな眼差し。
マジック・ショーツのデザインやレースの話で、夜が更けるまで笑い転げた女子会の熱気。
長すぎた三三〇環という月日が、チヅルたちと過ごしたたった三日間という眩しい輝きに、跡形もなく塗りつぶされていく。
「……私の時間は、止まってなんか、いなかったのね」
リリアナは、光のエリアへと静かに足を踏み入れた。
眩い輝きの内側から、彼女はゆっくりと振り返り、自分をここまで導いてくれた三人の姿を、その青白色の瞳に永遠に刻み込むように真っ直ぐに見つめた。
『――五、四、三……』
カウントダウンが非情に刻まれる。臨界を迎え、すべてのエネルギーを使い果たそうとしている炉が、最期の断末魔のような輝きを放って激しく明滅する。
『――二、一、ゼロ。ゲート、閉鎖します』
重厚な金属音が空間に響き、世界の境界が完全に遮断された。直後、施設のスピーカーからは、これまでになく厳かで、神聖さすら帯びたアナウンスが流れた。
『――対象の次元跳躍を開始します。良き旅を』
その宣言と同時に、リリアナの足元から、眩い白銀の粒子が雪のように立ち昇り始めた。
彼女の爪先から、脛、膝へと、確かな実体を持っていたはずのボディが光へと解け、宙に吸い込まれていく。リリアナは自身の消えゆく体を見つめ、それからもう一度だけ、チヅルたちへと慈しむような、そして最高の冒険者としての視線を向けた。
「……ありがとう。さようなら、私の……新しい仲間たち………………!」
リリアナの唇が、ゆっくりと動く。その最後の一言は、転送の激しいノイズに掻き消されたのか、あるいは異なる世界の理に阻まれたのか、三人の耳には届かなかった。
刹那、心臓部の空間全体を灼き尽くすような、極大の閃光が奔った。
リリアナの姿は完全に光の粒子となって霧散し、次元の彼方へと消え去った。と同時に、チヅルたちの視界は、抗いようのない真っ白な虚無へと呑み込まれていった。
網膜を灼き尽くさんばかりの白銀の閃光が、ゆっくりと、しかし確実に引いていく。
だが、その後に訪れたのは安らぎではなく、すべてを拒絶するような完全なる「無」であった。
リリアナの姿は、もうどこにもなかった。
先ほどまで施設全体を淡く優しく照らしていた白銀の壁面の光も、動力炉が奏でていた青白い拍動も、すべてが物理的に消失していた。吸い込まれるような、濃密で重苦しい暗黒。チヅルたちは、自分たちの指先さえも見えない漆黒の深淵へと唐突に放り出されたのだ。
「……っ、リリアナちゃん!?」
チヅルは喉が張り裂けんばかりに叫んだが、返ってくるのは冷たいセラミックスの壁に無機質に跳ね返った、自分の声の乾いた残響だけだった。
その後、自分たちの心臓の鼓動さえ聞こえそうなほどの、死のような静寂が訪れた。
だが、その沈黙は長くは続かなかった。
機械的な摩擦音一つ立てず、極めて滑らかに、かつ冷酷に『非常用バックアップ電源』が起動する。頭上の天井スリットから、通常の照明とは明らかに波長の異なる、新鮮な血を連想させるような禍々しい真紅の非常灯がぼんやりと灯った。
電力消費を最小限に抑えたその不吉な赤い光は、白銀の回廊に長く歪な影を落とし、かつての機能美は不気味な景色へと変貌し、剥き出しの金属が冷酷に光る、主を失った死の迷宮だけが横たわっていた。
そこへ、これまで聞いたこともないような、鋭く、耳の奥を抉るような緊迫した警報音が鳴り響いた。
『――警告。メイン動力源の完全喪失を確認。非常用バックアップ電源を起動しました。システム維持限界まで残り三〇〇。未登録個体は直ちに避難経路を確保してください。』
天井の隠しスピーカーから流れる、無機質で切迫した女性の合成音声。
それは紛れもなくリリアナたちの世界の言葉だった。これまでの三日間、施設内で何度も耳にしてきたはずの言語だが、その正確な意味を解さないチヅルたちにとって、そのアナウンスはただの不可解な、死を暗示する呪文の連なりでしかなかった。
だが、不安を煽り立てるように鳴り続ける甲高いサイレンの音と、足元を這い回るように点滅する赤い光の奔流が、なにか致命的で恐ろしい事態が完遂されようとしていることを、彼女たちの生存本能に激しく訴えかけていた。
「……何を言ってるのかは全然分からないけど、これ、絶対にまずいやつだよね……!? この場所全体が、あたしたちを追い出そうとしてるみたいだわ!」
チヅルの切迫した言葉に、ユイが暗闇の中で鋭く頷いた。
「ああ。カウントダウンだろうな。この施設が完全に『死ぬ』までのな。……チヅル、あれを! あいつを置いていくな!」
ユイが指差したのは、リリアナが最期まで操作していた制御ターミナルの上だった。
そこには、リリアナが地下へ降りる際に大切に手にしていた、あの精緻な装飾の施された『魔道提灯』が、主を失ったまま、赤い光を浴びて静かに置かれていた。
「リリアナちゃん……。……うん、分かってる、置いていかないよ!」
チヅルは弾かれたように駆け寄り、提灯をひっ掴むようにしてマジックポーチの口へと放り込んだ。彼女の魂の奥底にある『幸運の羅針盤』は、この提灯がこれからの絶望的な脱出劇において、単なる形見以上の、命運を分ける鍵になることを強烈に予感していた。
「二人とも、走って! ここが動かなくなる前に地上へ出るよ!」
チヅルを先頭に、三人は全速力で走り出した。
全開のまま固定された『三位一体の調律扉(位相ハッチ)』を潜り抜ける。昨夜、四人で他愛ない下着の話で笑い合い、大きなベッドの上で並んで眠った『第一居住・休憩ユニット』を横目に通り過ぎる。幸せな記憶が宿る安らぎの場所は、今や赤く染まり、命の気配が消え入ろうとしている廃墟へと化していた。
施設を支えていた高度な数々の機能が、背後から順に眠りにつくように停止していくのを感じながら、三人はようやく昇降機の入り口に辿り着いた。
だが、そこで三人は、冷酷な現実に突き当たった。
「……嘘でしょ、開かない……っ!?」
チヅルが白銀の重厚な扉をバンバンと叩くが、継ぎ目のないセラミックスの板は微動だにしない。
リリアナと一緒に来たときは、彼女がその前に立つだけで、まるで招かれるように自動的に開いた扉だった。しかし今、そこには何の反応もなく、ただ拒絶を示すような冷たい沈黙だけが横たわっている。
「ボタンだ! どっかにこれを開ける物理的なスイッチがあるはずだろ!」
ユイが壁際を必死に手で探り、叩く。彼女の記憶にある「二〇三〇年のエレベーター」なら、必ず近くに操作盤や非常用の開閉ボタンがあるはずだった。しかし、このオーパーツとも呼べる施設には、物理的なスイッチも、突起も、一切存在しない。壁面はどこまでも滑らかなまま、非常灯の赤い光を虚しく反射しているだけだった。
「ユイちゃん、見当たらないよ! なにも、なにもない……どうすればいいの……っ!?」
サイレンの音は一段と高まり、不規則な赤い点滅がチヅルたちの焦燥を限界まで煽る。
閉じ込められた、途方もない地の底。
唯一の管理者であるリリアナを欠いたこの場所で、三人は、元の世界への唯一の出口を前にして、理解不能な超テクノロジーの壁に絶望的に阻まれていた。
「……くそっ、開け! 開けってんだよ!」
ユイが焦燥を剥き出しにして、継ぎ目のない白銀の壁を何度も叩いた。魔刀『白綱』の柄を握り、いっそ力ずくで斬り開こうかとさえ考えるが、この白銀の壁が、生半可な武力では傷一つ付かない代物であることは、これまでの経験で十分に理解していた。
ラズベルもまた、壁の隅々まで指先を走らせ、隠しレバーや物理的な突起を探していたが、非常灯の禍々しい赤に照らされたその表情には、絶望の色が濃くなっていた。
「ダメ、どこにも扉を動かす仕掛けがないわ。……ねえ、先程からどこからともなく聞こえる女性の声だけど、時間はまだあるの!? このままだと、私たち、生き埋めに……っ」
不規則に点滅する赤い光。高らかな警報音。耳を劈くサイレン。
管理者のいない地下施設。高度な文明がもたらした「利便性」は、部外者にとってはただの冷酷な「拒絶」へと成り果てていた。
その時、あたふたと動き回る二人とは対照的に、チヅルだけが一点を見つめたまま立ち尽くしていた。 彼女のワインレッドの瞳が、非常灯の赤に染まった壁面を凝視する。 彼女の脳裏に、2日前にここへ降りてきた時の、リリアナの何気ない仕草が鮮烈な映像としてフラッシュバックした。
(……思い出した。リリアナちゃん、あの時……)
あの時、昇降機を降りた後、リリアナの手元にはあの魔道提灯があった。
リリアナが提灯を掲げていた間だけ、確かに壁面には見たこともない不思議な光を帯びた記号が、いくつも浮かび上がっていたのだ。けれど、リリアナが提灯の光を消すと、それらの記号もまた、魔法が解けたように消え去ってしまった。
「二人とも、待って! 道はあるよ!」
チヅルは叫ぶと、マジックポーチに手を突っ込み、先ほど拾い上げたリリアナの『魔道提灯』をひったくるようにして取り出した。
そして、提灯の側面にあるあの小さな金属の突起を、祈るような想いを込めて強く押し込んだ。
カチリ。
指先に伝わる小さな、しかし確かな手応え。
直後、提灯の芯から純白の光が力強く解き放たれ、赤く染まっていた通路を清浄な輝きで塗り替えた。
その光が壁面を照らした瞬間、何もないはずの滑らかなセラミックスの表面に、陽炎のように幾何学的な記号が次々と浮き上がってきた。三角形、円形、それから見たこともない複雑な直線の組み合わせ。
「……これだ! ユイちゃん、あの一番上の三角形!」
「……っ、これか! 頼む、動いてくれっ!」
ユイはチヅルの指さす方向、壁の中ほどに浮かび上がった『上向きの三角形』の記号に、藁をも掴む思いで触れた。
次の瞬間、それまで頑として動かなかった扉が、吸い込まれるような静かさで、滑らかに左右へとスライドした。
「開いた! 走って!」
三人は急いで昇降機の箱の中へ飛び込んだ。
ユイは内部の壁面に浮かび上がった記号群を瞬時に走査した。彼女の記憶の片隅にある「エレベーター」の概念を総動員し、最も地上階を暗示していそうな記号と、ドアを閉じる意図を感じさせる記号を、叩くようにして連続して押した。
扉が音もなく閉鎖される。
だが、その安堵が三人の胸を通り過ぎる前に。
「……っ!? う、うわぁああっ!」
降りてくる時とは比較にならない、尋常ではない圧力が三人を襲った。
非常電源への切り替えに伴い、膨大な電力を消費する『慣性制御システム』が自動的にオフにされていたのだ。本来なら上昇していることさえ感じさせないはずの超高速昇降機は、今や剥き出しの「重力加速度」の塊となって、見えない巨大な力によって、彼女たちの肉体を床へと無慈悲に押さえつけようとしていた。
「おもっ……! なんだよ、このエレベーター……っ! G(重力)がかかりすぎだろ、これ……っ!」
ユイは『白綱』を杖のようにして床に突き立て、膝が折れるのを必死に堪えていた。異世界へ来てからも日々欠かさず足腰を鍛え上げてきた彼女の強靭な肉体をもってしても、その場に跪かぬよう踏ん張るのが精一杯だった。
「うぅ……っ。体が……床に吸い込まれるみたいだわ。……あたし、昨夜ジェルを食べ過ぎたかしら……っ」
ラズベルが苦悶の表情を浮かべ、自分の体を支えるのが精一杯という様子で呻く。
チヅルもまた、自慢の猫耳を頭にぴったりと伏せ、肺が押しつぶされそうな圧迫感の中で目を固く閉じていた。
体感時間は永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
やがて、肉体を締め付けていた凄まじい圧力が急激に抜け、ふわりとした浮遊感が訪れる。
プシュゥ……ッ。
聞き慣れた排気音と共に、扉が開いた。
そこには、冷たい夜風と、月明かりに照らされた古代遺跡が、影を落としていた。
「……は、はぁ……っ! で、出られた……!」
三人は一斉に昇降機から転がり出るようにして外へ飛び出すと、そのまま地面に力なくへたり込んだ。
背後で昇降機の扉が閉まり、すべての人工的な灯りが消えていく。
静寂が戻った地上。
頭上には、地下のホログラムではない、本物の、そしてどこまでも深い満天の星空が広がっていた。
三人は荒い呼吸を整えながら、しばらくの間、言葉もなくその夜空を見上げていた。
「……ねえ、二人とも」
チヅルが、まだ少し震える声で口を開いた。
「リリアナちゃん、最後に何か言ってたよね。……あたしには、彼女が一瞬だけ、すごく申し訳なさそうな表情をして、『おねがい』って言ってたように見えたんだけど……どう思う?」
「……ああ。あたしもそう見えた」
ユイは重い体を起こすと、夜風を深く吸い込んで静かに頷いた。
「転送のノイズで音は聞こえなかったが、唇の動きは確かにそう言っていた気がするぜ」
「私も……同じことを感じていたわ」
ラズベルも伏せっていた顔を上げ、寂しげな瞳で、今や完全に沈黙した地下へと続く扉を見つめた。
「ただの『さよなら』じゃない。何か……とても大切で、重いことを私たちに託そうとしていたような、そんな気がするの」
あの時、光の粒子となって消えていった彼女の、最後の一瞬。
聞き取れなかったその言葉の意味を、三人はそれぞれの胸の奥で、静かに反芻していた。
――第八章:完。




