第七章:臨界の心臓部と愛のクイズ
位相ハッチが複雑な幾何学模様を白銀の壁面に走らせながら、重厚な音を立てて左右へとスライドした。
ついに姿を現したのは、この巨大な施設の魂そのものであり、数週間にわたってマーレンの地を震撼させてきた全ての異変の根源――「心臓部」であった。
「……っ。ま、まぶしい……っ!」
チヅルが反射的に両腕で顔を覆い、敏感な猫耳を力なく伏せた。
ハッチの向こう側に広がっていたのは、これまでの居住区とは比較にならないほど広大な、直径百エムはあろうかという円筒状の垂直大空間だった。その中央には、床から天井の遥か彼方までを一直線に貫く、透明な「超硬質クリスタル」の巨大な円柱が鎮座している。
円柱の内部では、莫大なエネルギーの奔流が、まるで意思を持つ「銀の龍」のように激しくのたうち回り、内壁に衝突するたびに網膜を灼くような青白い火花を散らしていた。防護隔壁越しでも全身を震わせるような、腹の底を直接揺さぶる低周波の唸り。そして、空間全体に充満する濃厚な刺激臭が、ここが既に人の立ち入るべき領域を超えていることを物語っていた。
「あそこが、第三動力棟の心臓。『ヴォルテックス・エルゴ・リアクター』、通称『動力炉』よ」
リリアナの声は、先ほど位相ハッチを開ける際に見せた「一人の女の子」としての感傷を完全に削ぎ落とし、冷徹でプロフェッショナルな「管理者」のそれへと戻っていた。彼女はどこからか取り出した薄い黒の偏光バイザーを慣れた手つきで装着すると、眩い青の奔流を遮るように視線を無数に浮かぶホログラム・コンソールへと向けた。
バイザー越しに空間の歪みを読み取り、リリアナの指先は猛烈な速度で光の板を叩き始めた。
「リリアナ、状況はどうなんだ? さっきから空気のピリピリした感じが、ハンパないんだが……」
ユイが魔刀『白綱』の柄に手をかけたまま、周囲の異常な熱気に眉を潜めた。
「臨界点……つまり、エネルギーが完全に飽和して連鎖爆発を起こす最終的な破滅までは、まだ数日、あるいは数ヶ月の猶予があるわ。……適切な処置さえ誤らなければ。けれど、今の炉内の共鳴波形は見ての通り極めて不安定よ。……運が悪ければ、臨界を待たずにこの区画自体が空間ごとねじ切れて消失してしまうわ」
リリアナの指先が、バイザーの奥の瞳の動きと連動するように虚空を舞う。彼女がコンソールの物理キーをいくつか叩き、複雑な緊急コマンドを流し込むと、激しくのたうち回っていた青白いエネルギーの龍が、一瞬にしてオレンジ色の幾何学的な「拘束界」に包み込まれ、その荒々しい動きを弱めた。
「……応急処置完了。出力の逆流は一時的に遮断したわ。これで少なくとも、数日間はここが物理的に吹き飛ぶことはないはずよ」
空間を支配していた暴力的な唸りが消え、代わりに低く安定したハミング音が響き始める。リリアナがバイザーを外し、大きく肩を落として安堵の溜息を吐くのを合図に、三人はようやく周囲を観察する余裕を取り戻した。
***
「……すごい。魔法の理じゃないのに、こんなに大きな力が、こんなに静かに眠ってるなんて」
ラズベルが壁際にある未知の素材でできた計測機器に触れ、その滑らかな質感に驚きの声を漏らす。彼女の護符が帯びていた不快な熱は、リリアナの処置によってすっかり引き、今は穏やかな魔力の脈動だけを返していた。
「これ、全部が『リリアナちゃんの世界』の機械なんだね。……ユイちゃん、これってあなたのいた世界に近いのか?」
「いいや。……私のいた二〇三〇年の日本でも、これほど精緻で、かつ洗練された工業デザインは存在しなかった。……機能美っていうのか? これはもう、技術を超えた芸術の域だぜ」
ユイは、継ぎ目のない曲面で構成されたコンソールや、床を走る光の回路を眺め、その圧倒的な完成度に感嘆の溜息をついた。かつてのスタッフたちが、この場所でどれほどの誇りを持って働いていたか。それが、空間の隅々にまで宿る美しさから伝わってくるようだった。
だが、チヅルだけは、自分の魂の奥底にある『幸運の羅針盤』が、依然としてこの広い空間の「どこか一点」を指して、小さく、けれど激しく震え続けているのを感じていた。
危機は去ったはず。リリアナの処置も終わった。けれど、羅針盤はまだ「そこじゃない、真の正解はまだ先だ」と囁いている。
「ねえ、リリアナちゃん。あっちの……光る文字や不思議な模様が生き物みたいに絶えず動いている、あの大きな黒い板の下にある装置って、何をするもの?」
「あれは予備の制御ターミナルよ。……三〇〇環前(前回の事故)の損傷でメイン電源が落ちていて、今は完全に機能を停止しているはずだけど」
リリアナの返した言葉の意味は半分も理解できなかったが、チヅルは、何かに強く吸い寄せられるように、その沈黙している装置の元へとふらふらと歩み寄った。
だが、その足元――。
かつての事故の余波によるものか、わずかに盛り上がっていた床のセラミックスプレートに、チヅルのブーツの先が引っかかった。
「あだっ!」
期待を裏切らない、あまりに見事な転び方。
チヅルは制御ターミナルに手を突く暇もなく、白銀の床に派手な音を立てて突っ伏した。
「……チヅル。お前、せっかくのいい雰囲気を台無しにする天才だな」
「いったたた……。そんなこと言ったって、急に床が盛り上がってるんだもん、しょうがないでしょ……」
チヅルは、涙目で打ったばかりの膝をさすりながら、自分のつま先を引っかけた床板の歪みと、その先にある制御ターミナルの底板との間にできた、わずか数センチの暗い隙間に目を向けた。そこは、立ったままの視点では決して入り込まない、三〇〇環もの長い影が落ちる死角となっていた。
「……あれ?」
チヅルのワインレッドの瞳が、その暗がりの奥で、微かに異質な質感を放っている「何か」を捉えた。それは、長年の埃を被りながらも、周囲の合金とは明らかに異なる、鈍くも深い銀色の輝きを放っている。
「ねえ、リリアナちゃん……。この装置の下に、何か落ちてるよ?」
チヅルが隙間に細い指を伸ばし、その物体を拾い上げた。
それは、大人の小指ほどの長さがある、精緻な彫金が全面に施された重厚な金属製の長方形の物体だった。中央には、リリアナの服の紋章と同じ「動力棟」の記号が刻まれている。
それを見た瞬間、リリアナの顔から、全ての血の気が引いた。
「……嘘。……なぜ、それがそんな場所に……っ」
震える手でリリアナがそれを受け取る。それは単なる装飾品などではなかった。三〇〇環前、あの大事故が起きる直前まで、ディラック所長やロロアたちが心血を注いで研究し、完成させた「帰還の理論」を含む、全ての基礎資料と実験記録が収められた、この施設で最も重要な『マスター記憶媒体』だったのだ。
「あの大事故で……中枢の爆発と共に、跡形もなく消え去ったと思っていたのに……。三〇〇環、私はずっと、これを失った絶望の中で生きてきたのに……っ」
リリアナの膝が、白銀の床にがくりと折れた。
チヅルのあまりに無様で、かつあまりに幸運な「こけ方」が、歴史の闇に完全に埋もれ、リリアナがとうの昔に諦めかけていた「唯一の希望」を今、白日の下に引き摺り出したのだ。
リリアナが震える指先でマスター記憶媒体を制御ターミナルの認証スロットに差し込むと、三〇〇環もの沈黙を守っていた漆黒のパネルが、深い眠りから覚醒したかのような鋭い輝きを放った。
宙に投影されたのは、光の粒子が揺らめく、かつての『第三動力棟』の日常風景だった。そこには、リリアナが語っていたディラック所長の穏やかな微笑みや、桃色の髪をなびかせて快活に笑う若き技師、ロロアの姿が鮮明に映し出されていた。
彼女たちの背後には、白衣や作業服を纏った数十人のプロジェクトメンバーたちが集い、疲れを忘れたような晴れやかな表情で肩を組み、あるいはハイタッチを交わしている。その映像からは、一つの大きな山場を越えた者たちだけが共有できる、家族のような親密さと熱気が、時間と空間を超えて溢れ出していた。
「……あの日、全館に共有されるはずだった、完成報告の映像だわ……」
リリアナの声がかすれ、瞳の奥に蓄積された回路の雫が零れそうになる。映像の中で、ロロアたちは銀色の複雑な機械装置を囲み、カメラに向かって誇らしげに胸を張っていた。
『――本日、帰還の理論に基づいた「次元跳躍試作零号機」が、ついに完成しました! これを全関連チームに共有し、三日後の稼働試験へと移行します。皆さん、本当にお疲れ様でした!』
ロロアの明るく力強い声。だが、その歓喜の報告が他部署へ届けられる前に、あの大事故が全てを、彼らの輝かしい未来ごと一瞬にして呑み込んでしまったのだ。
「この子、リリアナちゃんにそっくりだね。すごく……幸せそう」
チヅルが、自分の失敗で引き摺り出した「失われた時間」の断片を、どこか祈るような目で見つめて呟いた。リリアナはバイザーを外し、手の甲で涙のように光る回路の雫をそっと拭った。
「ええ。……そして、この記憶媒体はディラック所長の最高権限を持つ電子ロックキーを兼ねているわ。これがあれば、別のプロジェクトチームが厳重に管理していた、あの『格納庫』へもアクセスできるはずよ」
***
動力炉のさらに奥、白銀の回廊を突き進んだ先に、鈍い鈍色の光沢を放つ、これまでの扉とは少し雰囲気の違う重厚な防護扉が立ちはだかった。リリアナが記憶媒体を認証ポートに差し込むと、これまで聞いたこともないような深い重低音の電子音が響き、三〇〇環もの間閉ざされていた複数のロックが次々と解除される重厚な振動が、足元の床板を通じて伝わってきた。
プシュゥゥゥ……。
内部の気圧が調整され、ゆっくりと開かれた先に広がっていたのは、悠久の時を止めていたかのような、塵一つない清浄な空間だった。
その中央。スポットライトに照らされるように鎮座していたのは、精緻な彫金のような回路が表面を覆う、大きな旅行鞄ほどの銀色の装置――。
「これが、『次元跳躍試作零号機』……。ロロアたちが最後に遺した、希望の結晶」
そしてその隣には、武骨な黒い金属で造られた、一回り大きな別の装置が置かれていた。リリアナがそのコンソールを確認し、短く、そして鋭く告げる。
「……こっちは『緊急停止ユニット』。炉心の連鎖反応を物理的に強制終了させるための、文字通り最後の安全装置よ。これを使えば、たとえ臨界寸前でも、動力炉の活動を完全に沈黙させることができる。……爆発を止めるための、唯一の現実的な手段になるわ」
「よし! それじゃあ、この二つをあそこの炉の隣まで運べばいいんだね!」
チヅルが意気揚々と歩み寄り、装置の取っ手に勢いよく手をかけた。
だが。
「……ぬ、ぬぐぐぐっ! ……えっ、嘘、おもっ!?」
チヅルの顔が一瞬で真っ赤になり、ワインレッドの瞳が飛び出しそうになる。自慢の猫耳も力なくへにゃりと倒れた。
装置はびくともしなかった。それは見かけのサイズからは想像もつかないほどの密度――まるで、巨大な鉄塊を何十個分も圧縮して詰め込んだような、この世のものとは思えない異様な質量を備えていた。
「チヅル、下がれ。……こいつはただの金属じゃないぞ」
ユイが『白綱』の鯉口に触れたあと、警戒するように装置に手を添えた。
「……っ。なんだよこれ……地面に根を張ってるみたいだ」
「物理的な密度が異常に高いのよ。炉に直結し、莫大な熱と圧力を封じ込めるための特殊な中性子遮蔽合金製だから。……生身の筋力だけで持ち上げるのは、この世界のどんな猛者でも無理ね」
リリアナの言葉通り、格納庫の隅には頑丈そうな金属製の台車が用意されていたが、装置をそこへ載せることすら叶わない。チヅルが「ふんぬっ!」と声を張り上げ、身体強化魔法を自分にかけても、装置が床から浮く気配は全く感じられなかった。
すると、天井を見上げていたユイが、等間隔に設置された堅牢な金属製のフックと、そこにぶら下がる二対の金属製滑車を見つけた。
「……なぁ、リリアナ。こんな超文明の真っ只中なのに、なんでこんな『ローテク』な道具が用意されてるんだ?」
「……万が一の全電源喪失時でも、人力で最低限の機材移動を行えるようにという、ディラック所長の強いこだわりよ。……最先端の技術が死んだとき、最後に信頼に足るのはアナログな物理法則だけである……と」
「へぇ、分かってるじゃないか、その所長。……理系ならぬ『漢』の設計思想だぜ。……みんな、これを使おう。定滑車と動滑車を組み合わせれば、あたしたちの力でも、こいつを台車に載せられるはずだ」
かくして、臨界直前の熱気が漂う動力炉の傍らまで、二つの超重量物を載せた台車を運ぶ、四人の決死の行軍が始まった。
台車に載せたとはいえ、動き出した瞬間の慣性は凄まじい。わずかな傾斜でも暴走しかねないその重量物を、ラズベルがハイドワーフの血を引く強靭な剛腕で必死に支え、ユイとリリアナが両脇から軌道を修正する。
チヅルは前方で進路の安全を確認しながら、身体強化魔法で底上げされた仲間の踏ん張りを精神的に支え、悲鳴を上げるように激しく軋む車輪の音にハラハラしながら、ゆっくりと、確実に歩みを進めた。
「……あと、少し。……頑張れ、みんな!」
「……はぁ、はぁ。……あたしたち、冒険者だもんね……これくらい、朝飯前……よ!」
一歩、また一歩と白銀の床を重々しく這うようにして台車は進む。
背後では、リリアナの応急処置によって一時的に抑え込まれたエネルギーが、琥珀色の拘束界の中で不気味な蠢きを見せていた。それは、いつ再び均衡が崩れて牙を剥くか分からない、嵐の前の静けさを孕んだ、あまりにも危うい沈黙だった。
琥珀色の穏やかな拘束界に包まれた『ヴォルテックス・エルゴ・リアクター』の基部。そして沈黙を守る動力炉の前へ、ようやく台車を押し進めることができた。
「台車は、このサークルの中央に止めて。」
リリアナの鋭い声に従い、ユイとラズベルが全身の筋肉を震わせて台車の慣性を殺し、床に描かれた精密なマーキング位置へと、吸い込まれるように停止させた。
チヅルとラズベルはすぐさま台車の両サイドに回り、側面に備え付けられた堅牢な金属製のハンドルに手をかけた。
「せーの、で回すよ。……よいしょ、よいしょ!」
二人が呼吸を合わせてハンドルを回転させると、台車の内部で重厚な歯車が噛み合う音が響き、四隅から頑丈な油圧式支柱がゆっくりと床へ向かって伸びていった。支柱の先端がセラミックスの床を捉え、凄まじい質量を持つ台車本体を数ミリほど浮かせて、その場へと完全に固定した。
「リリアナちゃん、固定完了だよ! びくともしないから安心して!」
「助かるわ。次は接続工程ね。動力炉の基部装甲にあるメンテナンスハッチを開けて。中に二本の高出力導力ラインが格納されているはずよ」
チヅルとユイが指示通り、炉の足元にあるパネルをスライドさせた。中には太いケーブル状のラインが、蛇がとぐろを巻くようにして収められていた。二人はそれを一本ずつ慎重に引き出し、台車の上に鎮座する銀色の『次元跳躍試作零号機』と、黒い『緊急停止ユニット』の接続ポートへと、確かな手応えと共に「カチリ」と接続した。
リリアナは再び偏光バイザーを深く装着し、指先を空中に躍らせてホログラム・コンソールを叩き始めた。
「……接続確認。全デバイスをシステムにマウント。まずは安全装置から……『緊急停止ユニット』、スタンバイモードへ移行。炉心の逆流抑制フィールドを同期させます」
リリアナの精密な操作に応じ、黒い筐体が腹に響くような低いハミングを鳴らし始め、待機状態を示す鮮やかな緑のランプが点灯した。
「よし、次は……『次元跳躍試作零号機』ね。……ブートシーケンス開始」
リリアナの厳かな宣言と共に、銀色の装置が微かな高周波を上げ、表面に刻まれた精緻な回路が呼吸をするように淡い光を宿し始めた。ホログラム上に表示された進捗ゲージは、七十、八十……と、これまで停滞していた時間が嘘のように順調な数字を刻んでいく。
「……よし、あと少し……!」
三人が固唾を呑んで見守る中、ゲージが九十九パーセントに達した、その瞬間だった。
ピロリロリーン! ピロピロ、ピポパポーン!
耳を疑うような、あまりにも間の抜けた、明るく陽気な電子音が心臓部の静寂を根底からぶち壊した。
「……えっ?」
リリアナのバイザーの奥の瞳が完全に点になった。
ホログラム上に踊っていた複雑な論理コードが一瞬にして霧散し、代わりに現れたのは、これまた下手くそな落書きのような「二頭身の猫の似顔絵」と、見たこともない奇妙なアイコンの羅列……そして、画面中央にデカデカと表示された、あまりにも場違いな一行のメッセージだった。
『――開発チームより愛を込めて:ここから先は、クイズに正解してね! 頑張れリリちゃん!』
「な……っ、なんですってぇぇぇぇ!」
管理者のプライドを粉々に砕かれたリリアナの絶叫が、円筒状の空間に木霊した。
「ディラック所長……ロロア……! あなたたち、三〇〇環経っても解けないような意地悪なプログラムを、こんな土壇場で発動させるなんて……!」
リリアナの脳裏には、当時の開発現場で、徹夜明けの妙なテンションのまま「これ、リリちゃんが試験運転を行おうとしたとき、最高に面白いよね」とニヤニヤしながらキーを叩いていた同僚たちの楽しげな顔が、鮮明に(そして腹立たしく)想像できた。
「ちょっと、リリアナちゃん! どうしたの、これ!? なんだか楽しそうな猫の絵が出てきて、装置の光が止まっちゃったよ!」
「……最悪だわ。いえ、最悪すぎて逆に彼ららしいわね……。……基幹データの一部が、あろうことか『アナログな謎解き』によって物理的にロックされているのよ。スタンバイモードへの移行が、このふざけたクイズのせいで完全に凍結されたわ……!」
リリアナがバイザーを跳ね上げ、真っ白な顔で天を仰いだ。かつての仲間たちが込めた「非論理的な悪ノリ」という名の最高機密セキュリティを突破する術は、どのマニュアルにも、どのログにも記されていなかった。
「チヅル、ユイ、ラズベル。……ごめんなさい。……あと一歩だったのに。まさか、あの大好きな同僚たちの『遊び心』に、三〇〇環越しに足を掬われるなんて……」
リリアナの小さな肩が、怒りと、それ以上の切ない絶望で小刻みに震える。それを見かねたユイが、呆れ顔ながらも、どこか穏やかな口調でリリアナの隣に立った。
「……リリアナ、そう熱くなるなよ。こいつは多分、平和な時のお披露目会か何かを盛り上げるための、サプライズ演出のつもりだったんだろ。所長さんたちだって、まさか三〇〇環後の滅亡寸前の緊急事態に、あんたがこんなに必死な思いでこれを使うなんて、夢にも思ってなかったはずだぜ」
ユイの言葉に、リリアナはバイザーを外したまま、縋るような潤んだ瞳で彼女を見上げた。確かに、彼らはいつだって笑いと驚きを忘れない、最高に愉快なチームだった。
その時だった。チヅルがふらふらと、ホログラムが映し出す「お遊び満載」の奇妙な記号たちの前に歩み寄った。
「……ねえ。これ、……文字を入れ替えて隠された意味を探す『並べ替え遊び』じゃない?」
「並べ替え遊び……? 文字の並べ替え(アナグラム)が、この状況で何の関係が……」
「ほら。ここにあるヘンテコな記号あるでしょ。これ、よく見て。……何かを表す象形文字に見えない? あたしの故郷にあった『雄羊の小言』っていうパズルにそっくりなんだ。バラバラな絵を、ある法則で正しく並べ替えて、隠されたメッセージを導き出すの」
チヅルは、ホログラム上に無秩序に散らばった数十個もの象形文字のアイコンを、迷いのない手つきで次々と動かし始めた。山、川、月、草――それら一見バラバラな断片が、彼女の指先で魔法のように整列していく。流れるような操作で全体の構図を整えた彼女は、仕上げと言わんばかりに残った三つのピースを慎重にスライドさせた。
『閉ざされた門』を右へ、『眠る羊』を中央へ、そして『沈む太陽』を左へ――。
「できた! 『……日は落ち、羊は牧舎へ、門を閉ざせ』。……あ、見て、記号たちが七色に光りだしたよ!」
「……!? 重ね合わせの表示モードが、強制的に最上位レイヤーに切り替わった? ……信じられない、チヅル。あなたが並べ替えたその象形文字列……これ、そのまま最終確認プロトコルの『実行承認コード』になっているわ!」
リリアナが震える手でその確定キーを強く叩くと、九十九パーセントで止まっていた進捗ゲージが、溜まりに溜まっていたエネルギーを解き放つようにして、一〇〇パーセントへと跳ね上がった。
銀色の装置がこれまで以上に澄んだ、それでいて力強い高周波を奏で始め、周囲を包み込んでいた赤色の警告灯が、一瞬にして清浄な輝きへと塗り替えられる。
『――次元跳躍試作零号機、スタンバイモードへの移行を確認。全論理回路、正常動作。次元共鳴率、安定。』
システムが無機質な完了報告を告げた直後、ホログラムの端で、チヅルが並べ替えたあの記号たちが再び淡く明滅し始めた。
リリアナは目を見開いた。単なる承認コードだと思っていたそのフレーズは、同時に、ロロアが仕組んでいた「隠しメッセージ」を呼び出すための視覚的なトリガーでもあったのだ。
論理演算では決して到達できなかった深層データが、記号の隙間から陽炎のようにホログラムの表面へと浮き上がり、一つの映像を形作っていく。
『――おめでとう! リリアナ! 私たちのリリちゃん!』
画面中央に、桃色の髪をなびかせたロロアの、弾けるような満開の笑顔が映し出された。背後にはディラック所長をはじめ、十数人のプロジェクトメンバーたちが誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに並んでいる。
『あなたは無事に、最終テストのオペレーションをやってのけたのね! 零号機の出力調整も完璧、ロジックも正常に動作してるってことよね。リリ、本当によく頑張ったわ! これでようやく、私たち動力棟のメンバーも、胸を張って元の世界へ帰れるわね!』
ロロアがカメラに向かって大きく親指を立てると、後ろのスタッフたちが一斉に歓声を上げ、割れんばかりの拍手を送った。所長が照れくさそうにリリアナの頭を撫でるような仕草をし、映像はそこで途絶えた。
本来なら、その後に続くはずだった最高に幸せな「帰還の日」への希望。
三〇〇環前に、あの大事故によって失われてしまった、あまりにも眩しく、残酷なまでに美しい未来の断片。
「……みんな……。あの日、本当は……こうなるはずだったのね……っ」
リリアナの瞳から、大粒の回路の雫――正真正銘の涙が溢れ出した。チヅルの「外側からの自由な視点」が引き出したのは、悲劇に塗りつぶされる前の、希望に満ちたマイルストーン。映像の中の彼らが夢見ていた未来とは全く違う、一人きりの三〇〇環を過ごしたリリアナだったが、彼らが自分を「共に帰る仲間」としてこれほどまでに深く愛していたという事実に、彼女はただ感極まって涙を流し続けた。
炉のハミング音に、二つの装置の駆動音が重なり、かつてないほど安定した共鳴の旋律を奏で始める。
『緊急停止ユニット』と『次元跳躍試作零号機』。両ユニットが動力炉と完全にリンクし、最終的な実行入力を待つ「スタンバイモード」が、三〇〇環の時を超えて確立された。
静寂が、再び空間を支配した。
リリアナは、自分の指先に委ねられた「二つの決定的な選択肢」を前に、今、魂を切り裂くような激しい葛藤に直面していた。
「……チヅル、ユイ、ラズベル。聞いて」
リリアナの声は、どこか遠くの深淵から響いているように虚ろだった。
彼女はホログラムのコンソールを見つめたまま、今、自分たちが置かれている冷酷な現実を、一つ一つ噛みしめるように語り始めた。
「今、私の指先には二つの実行キーがあるわ。一つは『緊急停止ユニット』。……これを使えば、動力炉は物理的に強制終了される。臨界の危機は一瞬で去り、あなたたちの安全も、一〇〇パーセント保証されるわ。……けれど、一度火を落としたこの炉を、今の私の技術で再起動させる術はない。それは、三〇〇環かけて繋ぎ止めてきた『元の世界へ帰る』という唯一の希望を、自らの手で永遠に断つことを意味する」
「もう一つは、『次元跳躍試作零号機』。……成功すれば、私は三〇〇環の孤独を超えて、ロロアたちの待つ……いいえ、彼女たちの記憶が眠る元の世界へ転移できるかもしれない。けれど、この装置は発動の瞬間に炉の全エネルギーを吸収する。試作ということもあり、恐らくは耐用回数一回。つまり二度目の試行は叶わない。それに、失敗すれば制御不能な爆発を引き起こす可能性も考えられる。……何より、あなたたちをこの危険な心臓部に巻き込んだまま、そんな不確かな賭けに出る権利は、私にはないわ」
帰還の夢か、現実の安全か。
論理的に考えれば、答えは明白だった。「管理者」として、確実な安全を捨てる選択肢など、本来存在してはならない。
けれど、リリアナの魂は、先ほどチヅルが開いた「ロロアたちの笑顔」に強く囚われていた。自分を仲間として愛し、共に帰ることを信じて疑わなかった、あの日々の眩しさ。
リリアナの指先は、未来を決める決定的なコンソールの前で、痛々しいほどに震えたまま動かなかった。
「……ねえ、リリアナちゃん」
重苦しい沈黙を破ったのは、背後にいたチヅルの、驚くほど穏やかで澄んだ声だった。
チヅルはゆっくりと歩み寄り、コンソールに向き合うリリアナの隣に立った。そして、小さな彼女の肩に、そっと、けれど確かな力強さを持って手を置いた。
「リリアナちゃんは、もうあたしたちの仲間だよ。……そう、あたしたちと同じ『冒険者』なんだ」
「……冒険者?」
リリアナが、バイザーを外した潤んだ瞳でチヅルを見上げる。
「そうだよ。冒険者はね、いつだって自分の信念を貫くものなんだ。……安全な道だけを選んでたら、あたしたちは最初からこの崖を登ったりしてない。……ねえ、リリアナちゃん。システムとか、管理者とか、そういう難しいことは全部忘れて教えてほしい」
チヅルのワインレッドの瞳が、リリアナの青白色の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「『リリアナという一人の女の子』が、心の底から一番望んでいることは、なあに?」
その問いは、リリアナの内部に構築されていた「効率」と「生存」を最優先する論理回路を、鮮やかに踏み越えていった。
理解不能なエラーなどではない。それは、チヅルが笑い、ユイが呆れ、ラズベルが慈しんでくれた三日間が、彼女の中にひっそりと形作っていた「心」という名の羅針盤への、最初で最後の問いかけだった。
「……私は」
リリアナの唇が、小さく戦慄く。
脳裏に浮かぶのは、騒がしい女子会の夜。
手に残るチヅルの温もり。
そして、三〇〇環前に自分へ向けられた、ロロアたちのあのサムズアップ。
「……私は、帰りたい。……ロロアたちの遺したこの光を、ただの残骸として終わらせたくない。たとえほんの僅かしかない可能性だったとしても、彼女たちの想いを、あるべき場所へ……私の故郷へ、届けたいの……っ!」
リリアナが、自身の存在意義の全てを懸けて叫んだ。
その瞬間、彼女の瞳から溢れ出した回路の雫。それは、三〇〇環の孤独を溶かし、自分の意思を勝ち取った少女の、誇り高き涙だった。
「よしっ、決まりだね! だったら迷うことなんて何もないよ。いけ、リリアナ!」
チヅルが満開の笑顔でリリアナの背中を力強く叩いた。
ユイは「……全く。最初からそう言えばいいんだよ。だけど、お前のその頑固なこだわりは嫌いじゃないぜ」と魔刀『白綱』の柄をトンと叩き、ラズベルは「リリアナさんなら、きっと大丈夫。私たちは最後まで、あなたのそばにいるわ」と優しく頷いた。
「……。……ありがとう、みんな」
リリアナは深く、深く息を吐いた。
震えていた指先からは、迷いも、逡巡も、もう消えていた。
彼女は一筋の光の意志を込めて、銀色の装置――『次元跳躍試作零号機』の、最も眩しく輝く実行キーを、その小さな手で強く押し込んだ。
――第七章:完。




