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第六章:異世界生活と女子会トーク

一回目の挑戦で手痛い洗礼を受け、白銀の床に勢いよく尻もちをついた直後。痺れる腕をさすりながら立ち上がった三人が、リリアナの指導の下で即座に臨んだ二回目の調律作業は、一瞬の爆発力ではなく、精神的な持久力を試される過酷な「持久戦」へと変貌していた。

青白く明滅する『三位一体の調律扉』の前に立ち、四人がクリスタルに手をかざす。リリアナが中心となって生成する静かな基準波形に、チヅルたちが自身の意識の波を少しずつ、慎重に寄せていく。

「……適合率、五パーセント。……波形がまだ荒いわ。チヅル、呼吸をもっと深く。ユイ、思考を無にして、刃の鋭さを隠して。ラズベル、過剰な守護意識はここではノイズになるわ」

リリアナの冷静な、しかしどこか焦りを含んだ声が響く。

バチッ、バチッ……という小さな静電気のような衝撃が、合わない波形を無慈悲に弾き返す。弾かれるたびに、チヅルたちの頭の芯には鈍い痛みが蓄積していく。それでも、昨夜の十分な休息を経て気力を蓄えていた彼女たちは、一歩も引かなかった。

「……もう一回! 次は、あの雲のようなベッドの心地いい揺れを思い出す感じで、みんなの呼吸を合わせてみよう!」

チヅルの前向きな提案に、ユイとラズベルが無言で頷き、再び意識を水面のように平らにしていく。

地上では太陽が沈み、深い夜へと差し掛かろうとしている頃。白銀の回廊の空気にわずかな疲れの色が漂い始めたところで、リリアナが静かに手を止めた。

「……適合率、二十八パーセント。……上昇を確認。位相の歪みが、目に見えて減衰しているわ」

リリアナの報告に、チヅルたちは大きく息を吐き出して顔を見合わせた。

目標の一〇〇パーセントにはまだ遠いが、開始直後の「二パーセント」という絶望的な数字に比べれば、目覚ましい進歩だ。扉を構成する光の粒子が、彼女たちの波長を少しずつ、だが確実に受け入れ始めている。

「よし、今日はここまでにしましょう。……これ以上の強行は、あなたたちの精神的な過負荷オーバーロードを招くわ。まずは、エネルギーの補給と休息を優先して」

リリアナの的確な判断で、一日目の長く苦しい挑戦は幕を閉じた。

***

暖色系の柔らかな光に包まれた『第一居住・休憩ユニット』へと戻った四人は、ラズベルが手際よく用意した温かいスープと、すっかりお馴染みとなった滋養強壮ジェルを囲んでいた。  温かな湯気と香草の香りが、極限まで張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。そんな和やかな空気の中、リリアナは自分の分のジェルを静かに吸いながら、ある一つの「管理上の深刻な懸念事項」をずっと抱え込んでいた。

「……みんな。あなたたちがここに到着してからの経過時間、および今日一日の活動を観察していて、どうしても解せないことが一つあるの」

リリアナがパウチをテーブルに置き、極めて真剣な表情で三人を凝視した。

「ここに来てから、既にかなりの時間が経過しているわ。あなたたちは十分な食事を摂り、水分も定期的に補給している。……それなのに、なぜ『排出作業』を行わないの?」

「……はい? はいしゅつ、さぎょう……?」

チヅルがスープを飲み込む手を止め、小首を傾げた。

「生物学的な有機個体であるあなたたちは、不要な老廃物を体外へ出す生理現象があるはず。……私は、あなたたちにこの施設のトイレの場所を教えていないし、使い方のレクチャーもしていない。実際、あなたたちがこのユニットの衛生設備サニタリーへ向かった形跡もないわ。……まさか、人体に悪影響が出るほど、限界まで我慢しているというの?」

リリアナの純粋、かつ切実な疑問。施設管理者として、スタッフの健康と環境の清潔さを維持するのは彼女の絶対的な任務であり、それは生命の危機に関わる重大なインシデント(事象)だった。

だが、そのあまりに真面目すぎる問いに、チヅルは不思議そうな顔をして首を横に振った。

「あぁ、なんだ。リリアナちゃん、そんなこと気にしてたの? 大丈夫だよ、あたしたち、ちゃんと『マジック・ショーツ』を履いてるもん」

「……マジック・ショーツ? 衣類に魔法的な付与エンチャントがされている、ということかしら。それが有機物の排出とどう関係するの?」

リリアナの困惑に、ユイが呆れたように苦笑いしながら説明を引き継いだ。

「リリアナ、驚くなよ。この世界の冒険者にとって、それは常識中の常識なんだ。……このショーツはな、下り物や排泄物を、魔法の力で極微細なレベルまで自動的に分解・吸収して、完全に『消去』しちまうマジックアイテムなんだよ。三日から四日くらいなら、履き替える必要もなく、肌を完璧に清潔な状態に保てるんだ」

「……な、んですって?」

リリアナの高度な思考回路が、一瞬だけ深刻なバグを起こしてスパークしたような衝撃を受けた。青白色の瞳が限界まで見開かれている。  高度な科学文明を誇った彼女の元の世界でも、自動洗浄式のトイレや、ナノマシンによる皮膚洗浄技術は存在した。だが、衣類そのものが老廃物をリアルタイムで「次元の彼方へ消去」し、数日間も脱ぐことなく清潔さを維持するという発想は、あまりにも非効率……いえ、物理法則を完全に無視した非科学的極まりないものであり、同時に「究極の解決策」でもあった。

「あたしも、この世界に来て初めて知ったときは腰が抜けるほど驚いたぜ。二〇三〇年の科学なんて、この下着一枚の便利さに負けてるんじゃないかってな」

「そうなの。私もマーレンの街で初めて知ったときは半信半疑だったわ。でも、一度使っちゃうともう絶対に手放せないのよね。荷物も減るし、匂いも気にならないし」

ラズベルが深く頷く。冒険者という、過酷な野営や長期間のダンジョン潜行を余儀なくされ、水さえ貴重な職業にとって、衛生管理は文字通り死活問題だ。そこで高位の付与術師たちによって開発されたのが、この『マジック・ショーツ』なのだという。

「……非合理的だわ。そんな、生理現象のプロセスを完全にすっ飛ばした魔法なんて。……賞賛すべきか、困惑すべきか……。でも、確かにあなたたちの周囲の清潔度指数は、私のセンサーでも非常に高い数値を維持している。……それで、その衣類はどうやって洗浄するの? 自浄作用も無限ではないのでしょう?」

「あ、これね、普通のお水で洗濯はできないの。魔法の充填が切れたら、マーレンにある『リズレット』っていう下着専門店に持っていくのよ。そこで専門の業者がリサイクル処理と魔力の再充填をして、また使えるようにしてくれるんだ」

チヅルの説明に、リリアナはさらに目を丸くした。

「リサイクル……? 洗浄ではなく、魔力の再処理が必要なのね。運用コストがひどく高そうだけど……」

「まぁ、下着としてはすごく高価だとは思うんだけど、背に腹は代えられない。クエストに出るときは必ず予備を持ち歩いてるんだよ。あたしは十枚」

チヅルが自分のマジックポーチをポンと叩いて胸を張ると、ユイも横から補足した。

「あたしは八枚。……で、ラズベルは?」

「あたしはね、二人の予備のことも考えて、マジックバックパックの中に三十枚は入れてあるわ。何かあってもこれで安心でしょ?」

ラズベルが自信満々に答えると、リリアナは自分の内部スキャナーの結果を再確認し、信じられないものを見るような目で、三人の腰あたりをじっと見つめた。

「……三十枚。……私の世界では、そんな便利な……いえ、そんな恐ろしい発想はなかったわ。デザインは? 機能優先の味気ないものなの?」

「それがね、リズレットのはすごく可愛いの! 繊細なレースも選べるし、エンチャントの光り方も色々とあって……」

その後、話題はいつしか「マジック・ショーツのデザイン」や「最新のエンチャント事情」、さらには「リリアナちゃんの世界の女の子の身だしなみ」へと移り変わっていった。  地下の深淵。悠久の孤独を経て、初めて交わされる女子だけの他愛ない、けれど切実な生活の会話。  夜が更けるまで続いたその「女子会」の熱気は、無機質だった休憩ユニットを、確実に人間的な温度へと書き換えていった。

もっとも、その楽しげな声の重なりこそが、翌日の適合率を劇的に引き上げる「真の同期」へと繋がっていくことに、彼女たちはまだ気づいていなかった。

***

二日目の朝。

チヅルたちは、すっかりお気に入りとなった温度・体圧自動調整機能付きのウォーターベッドから、かつてないほど軽やかな気分で跳ね起きた。

朝食の「モーニング・シリアル味」の滋養強壮ジェルも、今では「これがなきゃ一日が始まらない」と(主にチヅルが)思えるほど舌に馴染んでいる。何より、昨夜の他愛ない……けれど、この世界の女性冒険者にとっては極めて切実な「マジック・ショーツ」の話題で大いに盛り上がった余韻が、四人の間に見えない、けれど確かな柔らかな一体感を生み出していた。

「よしっ! 今日こそは、あの頑固な扉をデレさせてやるんだから!」

チヅルが猫耳をぴんと立てて気合の入った拳を握ると、それを見ていたリリアナの口元に、プログラムには存在しないはずの微かな綻びが浮かんだ。

「……『デレさせる』という表現が、この状況において適当なメタファーであるかは不明だけれど。でも、チヅル。あなたたちの生体バイオリズムと精神波形は、今、極めて高い調和ハーモニーを示しているわ。……いきましょう」

二日目の調律作業は、四人自身が驚くほどに順調な滑り出しを見せた。

『三位一体の調律扉』の前に立ち、四人が青く明滅するクリスタルに手をかざす。リリアナのパルスが静かに発せられた瞬間、昨日まであれほど激しい静電気のスパークを散らして弾き返されていた精神波形が、まるで最初から一つになる運命だったかのように、吸い込まれるようにして一つの大きなうねりとなって重なり合った。

「適合率、四十二パーセント……六十八パーセント……。……嘘、すごいわ。位相のゆらぎによるピントのズレが合い始めている!」

リリアナの驚きと歓喜に満ちた声が白銀の回廊に響く。

チヅルの意識の奥底に流れ込んでくる仲間の想いは、昨日のようなチクチクとした不協和音ではなく、互いの欠けた部分を自然に補い合うような、ひどく心地よい旋律メロディへと変化していた。

昼食に、ラズベルが大切に持っていた干し果実を全員で分け合い、短い休憩を挟んで再開した午後。

「……適合率、九十五パーセント! あと、わずか五パーセントよ!」

リリアナが叫んだ瞬間、扉の向こう側から、封印されていた巨大なエネルギーの鼓動が、熱を帯びた風となって四人の頬を撫でた。

だが、リリアナはそこで敢えて同期の操作を止めた。

「……今日は、ここまでにしましょう」

リリアナがクリスタルから手を離し、小さく息をつく。

「あと一歩……本当にあと一歩だけど、今のあなたたちの精神的疲労は、目には見えないけど限界に近いはずよ。この最後の五パーセントは、本当の意味で『一分の嘘も、澱みもない心』を求められる。……明日、万全の状態で一気に突破するわ」

***

その日の夜。

夕食とシャワーを済ませた四人は、休憩ユニットの柔らかな暖色系の光の中にいた。

明日、あの扉が開けば、そこには暴走する動力炉……そして、リリアナが命懸けで守り続けてきた「職場の心臓部」が待っている。

チヅルの魂にある『幸運の羅針盤』は、扉の向こうに成功の予感と大いなる達成感を感じ取っていたが、それと同時に、胸をぎゅっと締め付けるような切ない予感も捉えていた。

(……きっと、明日扉を開けて、全部が終わっちゃったら。リリアナちゃんとは、お別れになっちゃうんだ)

そんな名残惜しさから、チヅルは就寝の準備をしていたリリアナの服の裾を、不意にぎゅっと掴んだ。

「ねえ、リリアナちゃん。……今夜は、みんなで一緒に寝たいな」

「……一緒に? 各員に割り当てられたパーソナルなベッドがあるはずだけれど。体温や寝返りの振動が干渉すると、睡眠効率が低下するわ」

「ダメだよ! あの一番大きなウォーターベッドなら、四人並んでも全然余裕でしょ? 効率とかそういうのじゃなくて……ね、お願い」

チヅルの、どこか潤んだ真剣な瞳に押され、様子を見ていたユイも「……まぁ、明日が最後の大勝負なら、そういう願掛けみたいなのも悪くないか」と苦笑し、ラズベルも「ふふ、なんだか家族旅行みたいで楽しそうね」と優しく賛成した。

***

かくして、四人の少女が横一列に並んで、ゆらゆらと心地よく揺れる不思議なベッドに横たわった。

室内照明が落とされ、天井にはホログラムの満天の星空が淡く映し出されている。静かで、どこか神聖さすら感じる夜だった。

「リリアナちゃん」

暗闇の中で、チヅルが天井の星を見つめたまま、静かに問いかけた。

「リリアナちゃんは……元の世界に、帰りたい?」

その直球の問いに、隣で横になっていたユイの体がピクリと震えた。自分もまた、はるか未来の別の世界からこのファンタジーの世界へ「飛ばされてきた」身だ。リリアナが抱える故郷への「孤独な執着」と、自分がかつて夜空を見上げて抱いていた「帰りたい」というヒリつくような想いが重なり、ユイは複雑な心境で二人の会話に耳を澄ませた。

「……わからないわ」

リリアナの声は、どこか遠くの宇宙を見つめているように虚ろだった。

「……三〇〇環を優に超える……いえ、果てしない孤独の中で、私はただ、ロロアたちとの『みんなで一緒に帰ろう』という約束を守ることだけを考えてきた。……帰還することが、システムとしての私の、唯一の存在意義だったから」

「もし……もし帰れなかったら。その時は、あたしたちと一緒に暮らそう!」

チヅルが身を乗り出し、リリアナの小さな手を暗闇の中で探し当てて、その両手で力強く握りしめた。

「マーレンのあたしたちの家は、この施設みたいにピカピカじゃないし、全自動のシャワーもないけど……でも、ラズベルちゃんの美味しいスープが毎日飲めるよ! ユイちゃんの不器用な優しさも、あたしの最高のラッキーも、全部リリアナちゃんのものにしていいから。……絶対に一人ぼっちにはさせない......だから」

「チヅル、お前……。……まぁ、そうだな。リリアナ、あんたがこちらの世界で路頭に迷うってんなら、あたしが剣の稽古くらいつけてやるよ。あんた、結構いい筋してそうだしな」

ユイが照れ隠しのようにぶっきらぼうに付け加えると、ラズベルもリリアナの反対側の手を優しく包み込んだ。

「……リリアナさん。私たちの泥臭い世界も、案外悪くないものよ。歓迎するわ」

リリアナは、左右の手から絶え間なく伝わってくる「体温」という圧倒的な情報の洪水に、自身の演算ユニットが一時的な飽和状態になるのを感じていた。

三〇〇環を超える、氷のような悠久の孤独。

冷たい金属と無機質な光にだけ囲まれていた彼女の心に、今、チヅルのあまりに真っ直ぐで、理不尽なほどに強引な「未来の約束」が、消えることのない熱い火を灯していく。

「……。……おやすみなさい。チヅル、ユイ、ラズベル」

リリアナは答えの代わりに、そっと目を閉じ、暗闇の中で無言のまま小さく頷いた。

その反応に満足したのか、チヅルは「えへへ、約束だよ……」と呟きながら、あっという間に深い眠りへと落ちていった。

やがて、ユイとラズベルも、穏やかで規則正しい寝息を立て始める。

最後に一人、目を開けていたリリアナは、チヅルとラズベルにしっかりと握られたままの自分の手を、ホログラムの星明かりの中で静かに見つめた。

静寂に包まれた動力棟の底。明日への希望と、胸を締め付けるような名残惜しさが入り混じる夜が、ゆっくりと更けていった。

***

三日目の朝。

四人が並んで眠ったウォーターベッドの微かな揺らぎが静かに収まり、第一居住・休憩ユニットに穏やかな照明の光が満ちた。

朝食の光景は、昨日までと変わらない。ラズベルが淹れた香草茶の温かな湯気が立ち上り、リリアナが提供する銀色の滋養強壮ジェルパウチがテーブルに並ぶ。

だが、そこに流れる空気は、初日のような張り詰めた緊張とも、昨夜の女子会のような浮ついた賑やかさとも違っていた。

いよいよ、最終工程に挑むのだという静かで重い覚悟が、四人の間に確かな結びつきとして共有されていた。誰も口には出さないが、食事を進める手つきや、時折交わされる視線の中に、互いへの深い信頼と、この穏やかな時間がもうすぐ終わってしまうことへの微かな寂寥感が滲んでいた。

「……チヅル。これを持っていて」

食事が終わる頃。リリアナが静かに立ち上がり、テーブル越しに一つの物体をチヅルの前へ差し出した。

それは、お弁当箱ほどのサイズをした、継ぎ目のない白銀の箱だった。リリアナの肌や施設の壁面と同じような『複合セラミックス』に似た質感を持ち、開け口の隙間も、鍵穴はおろか、模様一つ見当たらない。光を均一に反射するその表面は、滑らかすぎて不気味なほど「何もない」無垢な塊のように見えた。

「リリアナちゃん、これ……?」

「……今はまだ、詮索しないで。でも、いずれ分かる時が来る。今はただ、あなたに預かっておいてほしいの」

促されるまま、チヅルが両手でその箱を受け取る。

それは見た目の硬質さに反して羽毛のように軽く、手のひらにじわりと不思議な温もりが伝わってきた。金属の冷徹さは微塵もなく、かといって生き物の生々しい体温とも異なる、淡い鼓動のような熱。

チヅルは、自身の魂の奥底にある『幸運の羅針盤』に意識を向けた。危険な魔道具や呪いのアイテムであれば、羅針盤は即座に激しい警鐘を鳴らすはずだ。だが、羅針盤は警告を発するどころか、その箱から放たれる「持ち主を慈しむような、穏やかで切実な想い」に同調し、静かに凪いでいた。

「……よくわからないけど。わかった! 大事に、一番大事に預かっておくね、リリアナちゃん!」

チヅルはいつもの屈託のない、花が咲くような笑顔で応じると、その不思議な白銀の箱を、マジックポーチの最も安全な奥底へと大切に仕舞い込んだ。

それを見届けたリリアナは、どこか肩の荷が下りたような、それでいて少しだけ泣きそうな、複雑な微笑みを浮かべた。

***

白銀の回廊を抜け、四人はみたび『三位一体の調律扉』の前へと立った。

青白く揺らめく位相の壁は、今日というこの日を待ち侘びていたかのように、これまで以上に力強く、そして澄んだ光で脈動している。

「いくわよ。……これが最後。私たちの『心』を、一つに」

リリアナの静かな宣言と共に、四人の手が、それぞれの位置にある菱形のクリスタルへと添えられた。

一回目の挑戦で味わった、あの強烈な拒絶の痛みはもうない。

昨夜、暗闇の中で同じベッドに横たわり、体温を分け合いながら未来の約束を交わした。あの温かな記憶が、四人の精神波形をかつてないほど鮮やかに、および美しく整えていく。

「……同期、開始。パルスを送信します」

リリアナの声が響いた瞬間、チヅルの意識の中に流れ込む景色は、もはや他者の境界を感じさせないほどに透き通っていた。

ユイの、「この世界を、この新しい仲間たちを、もう二度と失いたくない」という切実で力強い願い。

ラズベルの、「みんなを無事に地上の家に帰して、また温かいスープを飲ませてあげたい」という、果てしなく深い母性的な献身。

そして、リリアナの、「自分の存在意義を懸けて、この愛すべき人々を必ず守り抜く」という、三〇〇環の孤独を溶かした純粋な決意。

四つの異なる波長が、まるで最初から一つの音楽であったかのように完璧に重なり合い、位相の壁へと注ぎ込まれていく。

「適合率、七十パーセント……八十五……九十……!」

リリアナの報告の声が、隠しきれない歓喜で微かに震えている。

位相空間の歪みが急速に減衰し、青白い幽霊のようだった扉が、確かな質量を持った「実体」として白銀の回廊にその姿を現し始める。

「九十五……九十八……九十九パーセント!」

あと一歩。

あとわずか一パーセントの波形が重なれば、目の前の扉は開き、地下施設の心臓部へと至る道が拓かれる。

成功は目前だった。誰もが、その達成を疑わなかった。

だが。

その最後の最後、適合率の目盛りは『九十九』の数字を表示したまま、まるで目に見えない強固な壁にぶつかったかのように、ピタリと止まってしまった。

「……っ、どうして!? あと少しなのに、波形が……後ろに引っ張られているわ!」

リリアナの悲鳴に近い困惑の声が、白銀の回廊に虚しく響いた。

九十九パーセント。コンソールに表示されたその数字は、完成まであと一歩のところで、まるで目に見えない強力な磁場に捕まったかのように、全く動こうとしなかった。

チヅルは、自分の心の奥底に不意に生じた、小さくも重い「よどみ」の正体に気づいていた。

この扉を開けば、暴走する動力炉を制御する道が開ける。それはマーレンの人々を救い、この世界の危機を解決する「正解」だ。けれど、それは同時に、リリアナが三〇〇環もの間、孤独に背負い続けてきた「管理者の使命」が果たされてしまうことを意味していた。

任務が完遂されれば、彼女との時間は終わってしまう。

昨日マジック・ショーツの話で笑い合い、昨夜同じベッドで体温を分け合った、この奇跡のような「日常」が、永遠に失われてしまうことを、彼女たちの魂が本能的に予感し、拒んでいたのだ。

ユイの波形には、二度と故郷へ戻れないかもしれないという、異邦人特有の鋭い孤独と共鳴する痛みが混じっていた。

ラズベルの波形には、守るべき対象であるリリアナを、再び冷たいシステムの世界へ返したくないという、深い母性的な愛着が揺れていた。

この最後のわずか一パーセントの壁。それは、皮肉にも彼女たちがリリアナを単なる管理ユニットではなく、代わりのきかない「本当の仲間」だと思い始めたゆえの、愛おしくも切ない拒絶反応だった。

「……みんな、聞こえる?」

その逡巡を感じ取ったリリアナが、目を閉じたまま、心の中に直接語りかけてきた。

四人の精神がリンクしているこの空間では、もはや言葉を介する必要さえなかった。リリアナの想いは、純粋な光の奔流となって、三人の深層意識へと直接流れ込んでくる。

「私は、ただの自律型管理ユニット。……あの大事故でロロアたちが遺した、三〇〇環を一人で彷徨うだけの、孤独な壊れかけの人形に過ぎなかったわ。……あなたたちが、この崖を登って、私の前に現れるまでは」

リリアナの脳裏に、この三日間の記憶が眩しいほどの輝きを伴って蘇る。

「かわいい!」と叫びながら自分を抱きしめようとしたチヅルの無邪気さ。

プロの剣士として自分を対等に扱い、労働の理不尽さを笑い飛ばしてくれたユイの強さ。

泥臭い世界の温かなスープとチーズで、無機質なボディに「味」という喜びを教えてくれたラズベルの慈しみ。

「……あんなに他愛ない、下着の話で笑い合って……。昨夜、暗闇の中であなたの温かい手に触れたとき。……私の中で三〇〇環もの間凍りついていた時間は、確かに、もう一度動き出したのよ」

リリアナの滑らかな、陶器のような肌を、一筋の透き通った光の雫が伝い落ちた。それは回路から漏れ出したエネルギーの結露ではなく、彼女の魂が初めて生成した、本物の「涙」だった。

「管理者としてではなく……私を『リリアナという一人の女の子』として扱ってくれて……本当に、ありがとう。……私は、あなたたちに出会えて、幸せだったわ。……だから、信じて。私たちの絆は、この扉が開いても、決して消えたりしない」

リリアナが、自分を縛り付けていた最後の「管理プロトコル」を自らの意思で解き放ち、ただ「一人の友」として心を曝け出した瞬間。

四人の波形は、完全なる共鳴を引き起こし、純白の閃光となって炸裂した。

『――適合率、一〇〇パーセント。バイオ・シンクロニシティの同期を確認。……精神調和型多角的位相制御開閉扉を開放します』

無機質なシステム音声が、まるで新しい時代の到来を告げる祝福の鐘のように、迷宮の底に高らかに響き渡った。

次の瞬間、目の前の巨大な円形隔壁が、複雑な幾何学模様を光り輝かせ、重厚な質感を湛えたまま、それは毅然とした動作で左右へとスライドを開始した。わずかな作動音が空間を震わせ、三枚の回転板が完全に噛み合って左右へと消えていく。

開かれた扉の向こう側から、臨界間近の動力炉が放つ、網膜を灼くような強烈な青白い輝きが、白銀の回廊へと濁流のように溢れ出した。

それは、全ての謎の答えであり、同時に残酷な別れの始まりを予感させる、あまりにも美しく恐ろしい光だった。

ついに開かれた心臓部への道。

だが、その入り口に立つ四人の間には、達成感と同じくらい深い、言葉にできないほど重く温かな絆が、確かな重みを持って横たわっていた。


――第六章:完。


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