第三章:石の巨塔、静かなる侵入者
マーレンの堅牢な城門を夜明け前に出発した公用馬車は、土埃を巻き上げながら、乾いた平原の街道をひた走っていた。
車輪が大小の石を弾く規則的な振動と、二頭立ての馬が刻む力強い蹄の音だけが、人影の途絶えた静まり返った荒野に響き渡る。港湾都市から北西へ七十ケイエム。この距離を日暮れまでに踏破する一日の強行軍は、通常であればかなりの疲労を強いるものだ。だが、ギルドが手配したあの恰幅の良い熟練の御者は、馬の息遣いを聞き分けながら巧みに手綱を捌き、予定通りの速度と乗り心地を完璧に維持していた。
「……見えてきたな」
御者席からかかった低くしゃがれた声に、客車の中で最終的な作戦の詰めと装備の点検を行っていた三人が、一斉に顔を上げた。
地平線の向こう側。沈みゆく夕日の赤い残光を背に受けて、広大な平原に不釣り合いなほどの、巨大な黒い影が姿を現す。
それは、かつて「新人たちのゆりかご」と呼ばれ、冒険者たちの訓練場として親しまれていた遺跡の穏やかなイメージを根底から覆す、威容と呼ぶにふさわしい石の巨塔だった。
高さは約四十エム。現代の尺度で言えば十二階建てのビルに相当するその巨大な構造物は、平原のなだらかな起伏から空を衝くように聳え立つ四角柱の形状をしていた。だが、その巨大な壁面は上部に向かうにつれてわずかに内側へと傾斜しており、横から見れば極めて安定感のある台形を描いている。
数百年の風雪に晒されて風化し、所々に太い蔦が絡まり付く石材の隙間。そこからは、かつては存在しなかった不気味な光――行商人のアルドが恐怖とともに語った「青白い閃光」が、時折、呼吸をするように明滅しながら漏れ出し、夕闇が迫る静寂の中に、冷たく人工的な鋭さを放っていた。
「わあ……。遠くから見てもすごい迫力だね。あんなに大きくて、威圧感のある建物だったっけ?」
チヅルが馬車の小さな窓から身を乗り出し、頭頂部の猫耳をぴんと立てて、その威容を冷静に観察する。彼女の魂の奥底にある『幸運の羅針盤』は、すでにこの巨塔から放たれる、以前とは全く異なる異質で強大な魔力の波動を敏感に察知し、微かな警戒の震えを返してきていた。
「調査隊の護衛に随行した他のパーティーの記録を見たけど、『静かに眠っている』という印象だったわ。でも今は……まるで巨大な生き物が、薄く目を開けてこちらをじっと睨み据えているみたい」
ラズベルが、膝の上に抱えた新しい藍色のマジックバックパックのストラップをぎゅっと握りしめ、腰のポーチに収めたポーションの配置を指先で念入りに確認する。ユイもまた、丹念に研ぎ澄まされた魔刀『白綱』の鯉口を親指で軽く触れながら、視線を鋭くした。
馬車が遺跡から数百エムほど手前、身を隠すのにちょうどいい林の縁でゆっくりと停車した。
ここは遺跡の正面からは完全に死角となる場所だ。御者は振り返り、短く告げた。
「俺の仕事はここまでだ。ここで一晩休んでから、明日の朝、一度マーレンに戻るぜ。三日目の夜には、約束通りここへ戻ってきて焚き火を焚いて待ってる。……生きて戻れよ、ローガン村の英雄の嬢ちゃんたち」
「ありがとう、御者さん! 帰り道も気をつけてね!」
三人が馬車を降り、装備の最終確認を終える頃には、急速に深まる夕闇が平原を完全に支配し始めていた。
しばしの別れを告げたチヅル一行は、静かに古代遺跡へと近づいた。そして遺跡の正面入り口。そこには、鉄錆色の分厚い皮膚を持つ屈強なオークたちが、まるで訓練の行き届いた王国の精鋭部隊のように、一糸乱れぬ隊列を組んで整然と立ち並んでいた。彼らの手には、魔物特有の粗暴な骨や木の棒ではなく、手入れの行き届いた鋭い槍と、統一された規格の重厚な金属盾が握られている。
「……本当に、軍隊みたいだね。あそこから馬鹿正直に突っ込んでいくのは、やっぱり無謀だよ」
チヅルは、昨夜マーレンの拠点で地図にジャムをこぼしたことによって見つけ出した、あの『隠しルート』へと意識を切り替えた。
三人は気配を極限まで殺し、遺跡の正面を大きく迂回するようにして、高い草むらを縫って進んだ。目指すのは、遺跡の背面に位置する険しい断崖絶壁だ。
そこは、切り立った険しい岩肌が遺跡の石壁と完全に一体化しているような、人を寄せ付けない地形だった。崖の真下から見上げれば、四十エムの巨大な石造りの壁が、重力に逆らって覆いかぶさってくるかのような強烈な圧迫感で迫ってくる。
「……地図によれば、この崖の中腹、地上から約十七エムほどの高さのあたりに、かつての搬入口の隠し扉があるはずだよ。一階の大広間は天井高が十二エムもあるから、通常の建物の感覚よりずっと高い位置に感じると思うけど……ユイちゃん、先頭いける?」
「了解だ。私の後ろに続け。足場は脆いかもしれないから、三点支持を徹底しろよ」
ユイが先頭に立ち、岩の僅かな突起や壁面の凹凸を足がかりにして、軽やかな身のこなしで登り始める。ラズベルもハイドワーフの血を引く強靭な足腰と握力を活かしてそれに続き、最後尾をチヅルが、頭上の様子と後方の魔力反応に細心の注意を払いながら進む。
一階の天井高が十二エム、さらに各階を仕切る石造りのスラブ(床板)が一エムという常識外れの分厚さを誇っているため、構造上の「三階」の床面は、地上十七エムという高所に位置していた。実質的に六、七階建てのビルを、命綱なしで外壁から素手で登っているに等しい。その過酷な登攀は、新調した装備の軽さに助けられているとはいえ、一行に予想以上の体力と精神力の消耗を強いていた。
息を殺し、じわじわと高度を稼ぐ三人。
やがて、目標の高度十七エム付近に到達しようとした、まさにその時だった。
「……っ、うわわっ!」
最後尾を登っていたチヅルの右足のつま先から、数百年の風化で脆くなっていた古い石材がボロリと音を立てて崩れ落ちた。
十七エム。万が一にも落下が許されない絶対的な致死の高さから、彼女の小柄な体がバランスを崩し、虚空へと投げ出されそうになる。
「チヅルっ!!」
ユイが叫び、手を伸ばそうとしたその瞬間。
完全に宙を掻いたチヅルの右手が、落ちるまいと咄嗟に壁面へしがみついた。そしてその指先が、蔦と苔に巧妙に隠されていた壁の継ぎ目にある、奇妙な冷たさを持つ金属製の突起を、ピンポイントで鷲掴みにした。
「ふぎゅ……っ。た、助かったぁ……」
チヅルが全体重をかけてその突起にぶら下がると、ズ、ズズ……という、地鳴りのような不気味で重い駆動音が崖の内部から響き渡った。
彼女が命綱代わりに掴んだのは、ただの壁の突起などではない。それこそが、外部から三階の搬入口を開くための『隠し扉の開放レバー』だったのだ。彼女の理不尽なまでの『幸運』が、死の淵という極限状態において、完璧な正解のスイッチを強引に引き当てさせたのである。
石壁の一部が音もなく内側へとスライドし、大人三人が通れるほどの暗い空間がぽっかりと口を開けた。
「……見つけた。おいチヅル、お前、今度はわざと滑ったのか?」
「そんなわけないでしょ! 本当に心臓が止まるかと思ったわよ!」
チヅルは冷や汗で顔を濡らし、半泣きでそう叫ぶと、開いた隙間の縁を必死に掴み、涙目になりながらもジタバタとよじ登った。ユイとラズベルも、安堵の溜息をつきながらその開口部へと滑り込む。
「……あ、でも。ここが『当たり』なのは間違いないみたいね」
三人が内部に完全に入り込み、背後の重い石扉が再び自動的に閉じられると、外の世界の風の音は完全に遮断された。
遺跡の内部。そこは、一寸先も見えない完全なる暗闇に包まれていた。
チヅルは隠し扉の縁をよじ登った勢いのまま、しゃがんだ状態で右手を冷たい床についた。周囲の未知なる魔力を乱さないよう細心の注意を払いながら、自身の魔力探索の術式を静かに展開する。同時に左手を自分の胸に当て、まずは自身に視力強化魔法を掛けた。
彼女を中心に、目に見えない魔力の波動が全方位へと水紋のように広がっていく。波動は三階フロアの隅々まで行き渡り、チヅルの脳内に、幾何学的な棚の配置や通路の広がりを鮮明な立体図として描き出していく。同時に暗闇が、輪郭の際立ったモノクロームの世界として彼女の視界に開けた。
「一階や二階に密集していた魔物の生体反応は……ここにはいないみたい。でも、何か無機質なものが、目に見えない規律に従って蠢いている感じがするわ」
チヅルは二人にそう囁きながら、今度は右手をユイに、左手をラズベルへ向け、同じ術式を編み上げる。チヅルが指を鳴らすと、二人の瞳がワインレッドの魔力の色に一瞬だけ輝いた。
静止視力が飛躍的に向上し、さらに暗闇の中でも昼間のように周囲を見渡せる「暗視」の効果が二人に付与された。松明などの光源を必要としないこの魔法による隠密処置により、彼女たちは自分たちの位置を一切露呈することなく、静寂に包まれた書庫へと踏み出すことが可能になった。
「三階の書庫……。なんか不気味なほどに静かだね」
チヅルは低く澄んだ声で告げた。
強化された視界に映し出されたその光景は、もはや彼女たちが知る「遺跡」の姿ではなかった。
かつてここは、石造りの粗末な棚に埃を被った羊皮紙や木簡が乱雑に積み上げられた、ただの古びた物置のような空間だったはずだ。しかし、今彼女たちの目の前に広がっているのは、鈍い銀色の光沢を放つ金属製の棚が幾重にも並ぶ、冷たく幾何学的な迷宮だった。
「……天井高は三エム。外から見上げたあの巨塔のスケールや、一階のあの十二エムもある大ホールに比べれば、随分と押し込められたような、ひどく低い感覚ね」
ラズベルが小声で呟き、強固な床を一歩踏みしめる。
石造りのはずなのに、足音は吸い込まれるように静かだ。視界の上下が制限されたことで、頭上にのしかかる一エムもの分厚い石盤の圧倒的な質量が、目に見えない圧力となって三人を包み込んでいる。
棚に並んでいるのはかつてのような書物ではなく、複雑な溝が刻まれた黒い板のような、未知の素材でできた物体ばかりだった。
「静かに。……来るぞ」
ユイが低く鋭い声で警告を発し、二人を金属棚の深い陰へと引き寄せた。チヅルの魔力探索には、すでに規則正しく移動する複数の反応が捉えられていた。
直後、書庫の向こう側にある重厚な扉が音もなく開き、規則正しい足音が響いた。カツ、カツ、カツ……。それは生物の足音というより、精緻な時計の針が刻む無機質な音に近い。
三人は息を潜め、棚の隙間からその正体を覗き込んだ。
現れたのは、本来なら一階の入口付近に群生しているはずのコボルトたちだった。だが、彼らの様子はあまりに異様だ。首には青白く光る金属の首輪が深々と填められ、その瞳には獣特有の狡猾さも狂暴さも宿っていない。ただ虚空を見つめ、まるで訓練された兵士のように整列して書庫を巡回している。
「……あんなコボルト、見たことない。まるで、中身を別の何かに書き換えられてるみたい」
チヅルが身を縮めて囁く。彼女の『幸運の羅針盤』が、彼らから発せられる「無機質な殺意」を危険信号として弾き出し、警戒レベルを最高段階まで引き上げていた。
ユイが魔刀『白綱』の柄を固く握り、自らの気配を完全に遮断する。コボルトの小隊は、身を潜める彼女たちのすぐ側を通り過ぎ、機械的な動作のまま二階へと続く昇降口へと去っていった。
「正面からぶつかれば、あの統制された動きに包囲されるね。ラズベルちゃん、四階への道は?」
「……ええ、この書庫の中央を抜けた先に、上の階へ続く螺旋階段があるはずよ。そこを上がれば、天井高六エムの『儀式場』に出るわ」
チヅルの指示の下、三人はコボルトたちの巡回ルートを縫うように、慎重に移動を開始した。
書庫の空気は一定の温度に保たれ、微かに震えるような低周波が足の裏から絶えず伝わってくる。遺跡そのものが巨大な生き物のように、何らかの規律を持って機能している証拠だった。
ユイが先頭に立ち、周囲のわずかな変化を伺いながら中央通路に差し掛かったその時、彼女の足がピタリと止まった。
「……待て。二人とも、動くな」
ユイが両手を広げて後ろの二人を鋭く制す。彼女の視線の先、通路の両脇に並ぶ奇妙な円筒状の装置が、ジジ……と微かな音を立て、不気味な青白い光を帯び始めていた。
ユイは腰に提げた新しいマジックポーチに手を突っ込むと、予備の投擲用ナイフを一丁取り出した。そして、迷いのない動作でそれを前方へと投じる。
放たれたナイフが円筒の間を通過しようとした、その刹那。
バチリッ!!
耳をつんざくような激しい音と共に、装置から伸びた青白い稲妻線がナイフを直撃した。空中で激しい火花が散り、地面に落ちたナイフは、一瞬にして超高温に晒されたかのように、無残にも炭のように黒焦げになっていた。
「……ったく。こんなところに剥き出しのアーク放電とか、どんなブラック企業だよ、ここ」
ユイが苦々しく、しかしどこか確信を持ったように独り言を呟いた。彼女が時折漏らす異世界の単語は、今回もチヅルとラズベルにとっては意味の通じない未知の概念であった。だが、その響きに含まれる深い警戒感と、目の前の情景が物語る致命的な危険性は、二人の本能に十分な警鐘を鳴らしていた。
「……ユイちゃん、助かったわ。今の光……恐らくはガラムさんの鎧を溶かしたものと同じだよね。罠というより、侵入者を自動的に排除する防衛機構の一部みたいだわ」
チヅルが黒焦げになったナイフを見つめ、戦慄を覚えたように言った。光の奔流は一瞬で収まり、装置は再び沈黙に戻っている。
ユイは冷や汗を拭い、刀の柄を軽く叩いた。
「……不毛な検証だが、これで確信が持てた。魔法とは別の、もっと物理的で容赦のない理屈で動いてやがる。ラズベル、何か変わったことは無いか?」
「……私の新しい護符が、さっきからずっと嫌な熱を帯びているわ。魔力が別の何かと不協和音を立てて、静かに、それでいて激しく反発し合っているような……そんな、胸の奥がざわつく落ち着かない感覚なの。……不測の事態に備えて、ポーションはすぐに取り出せる位置へ移しておくね」
ラズベルは背中のマジックバックパックから即効性の高い回復の小瓶をいくつか取り出すと、手慣れた動作で自身の腰のポーチの、最も抜き出しやすいスロットへと差し替えた。
死と隣り合わせのトラップを間一髪で回避した三人は、これまで以上に息を殺し、一歩一歩慎重に踏みしめるようにして、四階へと続く重厚な螺旋階段へと辿り着いた。
三階『書庫』の重苦しい石の天井を抜け、三人が四階『儀式場』へと続く螺旋階段を登りきった瞬間、視界が劇的に開けた。
天井高は六エム。三階の強烈な圧迫感から解放されたその空間は、書庫の静寂とは打って変わり、巨大な魔方陣にも似た複雑な光の回路が床一面に張り巡らされていた。不気味な青白い輝きが、円形に整えられた広大な広間全体を、影一つない冷酷な明るさで照らし出している。
そして、その広間の中央。
三人の行く手を阻むように鎮座していたのは、かつての遺跡の記録には決して存在しなかった異形の存在だった。それは「石の衛兵」や「ゴーレム」とさえ呼べない、全身が鏡面のような装甲で覆われた『鋼の守護者』であった。
ガション、という重厚な駆動音と共に、その巨躯がゆっくりと鎌首をもたげた。
滑らかな鏡面装甲の頭部――眼球に相当するスリットに、侵入者を排除すべき対象と見做したかのように、青白い光が鋭く灯る。
体長は優に三エムを超えている。この世界において、Cランクの熟練冒険者が死闘を演じるオーガに匹敵する体躯。それが丸ごと、強固な鋼の鎧に包まれているとなれば、Dランクの彼女たちにとっては、本来なら見た瞬間に逃走を選ぶべき絶望的なまでの戦力差だった。
「……冗談だろ。あんな鉄の塊、私の刀でも簡単には斬り裂けないぞ」
ユイが『白綱』を正眼に構えながら、冷や汗を滲ませて呟く。
だが、パーティーの指揮を執るチヅルのワインレッドの瞳には、怯えではなく、確かな勝算の光が宿っていた。
彼女の脳裏には、かつて雨天の行軍中に目撃した、ある凄惨な光景が鮮明に焼き付いている。全身をフルプレートアーマーで覆った屈強な兵士が雷の直撃を受け、鎧の隙間から噴き出す白煙とともに、一瞬にして内側から「蒸し焼き」にされて絶命したあの日の記憶。
あの時、彼女は鋼鉄の鎧が持つ致命的な弱点――「熱伝導」と「密閉性」の恐ろしさを直感的に理解し、自身は決してあのような重装備を身につけないと誓ったのだ。
目の前の敵が、どれほど未知の技術で作られていようとも、全身をくまなく鏡面の鋼で包んでいるのなら、同じ理屈が通じるはずだ――。
「出し惜しみはなしよ、最初から全力で叩くわ!」
チヅルは凛とした声を広間に響かせると、両腕を左右に大きく広げた。手のひらから溢れ出した琥珀色の魔力が粒子となって広がり、ユイとラズベルの二人を同時に包み込む。
「身体強化魔法――『フォルト』!」
二人の筋力と骨格の強度が一時的に跳ね上がり、疲労を忘れさせる活力が全身にみなぎる。
「ラズベルちゃん、正面から奴の気を引いて、隙を見て大量の水をかけて!」
「任せて!」
短く応じたラズベルが、新調したミスリル合金のスケイルメイルを軽やかに鳴らして真正面から突き進む。
侵入者の動きを検知した守護者が、オーガに匹敵する鋼の剛腕を、空気を切り裂く轟音と共に振り下ろした。直撃すれば岩盤すら粉砕するであろう一撃。しかし、ラズベルは寸前で身を沈め、愛用のアダマンタイト級フライパンを絶妙な斜めの角度で構えた。
キィィィィンッ!! という、耳を刺すような甲高い金属音が円形の広間に反響する。
ラズベルは衝撃を極限まで逃がしながら受け流し、さらにミスリルのスケイルメイルが余剰な物理的衝撃を見事に吸収して分散させた。
「ユイちゃんは間合いを図って! 私の合図で、最大火力の雷系魔法を打ち込んで!」
「了解だ!」
ユイはチヅルの意図を瞬時に理解し、守護者の死角を縫うようにして背後へと回り込む。
一方、ラズベルは剛腕の連撃による衝撃で軋む腕の痛みを堪えながら、さらに守護者の懐へと潜り込んだ。そして、腰のポーチから引き抜いた革製の水筒の栓を親指で弾き飛ばし、守護者の顔面や胸部に向かって、中身の水を豪快にぶちまけた。
水を被った鏡面装甲の僅かな関節の隙間やスリットから、大量の水分が内部の駆動機構へと吸い込まれていく。
「ユイちゃん、今よ!!」
「いくぜ、最大奥義――『雷霆斬』!!」
ユイが『白綱』を鞘から引き抜いた瞬間、刀身に限界まで圧縮されていた雷魔法が、不可視の速度で奔る紫電の刃となって放たれた。
雷撃の斬撃が、水に濡れた守護者の胴体部を真っ向から貫く。
バチバチバチィィィッ!!
強烈な放電による閃光が広間を真っ白に染め上げ、耳を劈く轟音が鳴り響いた。ユイは魔法を強引に刀身へ閉じ込めた強烈な負荷に耐えかねて片膝を突く。
彼女の視線の先で、守護者の鋼の身体が、雷の直撃によって一瞬にして千数百度の超高温へと叩き上げられた。
(あ、これ、理科の授業で習ったやつだ……『ジュール熱』! チヅルの奴、まさか最初からこれを狙って……!?)
驚愕するユイの目の前で、事態は容赦のない物理法則に従って加速する。装甲内部に浸透していた大量の水が、超高温によって一瞬で沸騰し、気化して蒸気となり、その体積を爆発的に膨張させたのだ。
「やばっ、水蒸気爆発が来る! ラズベル、伏せろ!!」
ユイの警告とほぼ同時に、守護者の強固な装甲が、内側からの異常な圧力に耐えかねて悲鳴を上げた。
プシュゥゥゥッ!! という凄まじい音と共に、継ぎ目という継ぎ目から高圧の白煙が猛烈な勢いで噴き出し、守護者の巨躯がコントロールを失ってガタガタと激しく痙攣し始める。
「これでトドメだ! 銀貨二十枚の力、思い知れーーっ! 『ファイア・ランス』!!」
チヅルがマジックポーチから引き抜いた黄金のスクロールが、魔力を受けて眩く燃え上がる。
展開された魔法陣から放たれた極大の炎の槍が、痙攣して動けない守護者の胸部、装甲が内圧で歪んだその一点を正確に直撃した。
ズドォォォォォン!!
外殻の防御力を完全に失い、高熱と高圧で内部構造が崩壊していた守護者は、炎の槍の物理的な衝撃を支えきれず、後方へと大きく吹き飛ばされた。
そのまま白銀の壁面に激突した瞬間、限界を超えていた装甲が内側から弾け飛び、金属片と青白い火花を撒き散らしながら、ついに完全な爆散を遂げた。
静寂が戻った広間で、パラパラと金属の破片が床に落ちる音だけが響く。
ユイは膝を突いたまま、荒い息をついていた。『雷霆斬』は今の彼女には負担が重すぎ、魔力回路が一時的に焼き切れたような感覚と、激しい疲労が襲いかかっている。
「……ふぅ。二人とも、怪我はない?」
チヅルがすぐに駆け寄り、二人に回復魔法『ヒール』を施していく。さらにマジックポーチから、マーレンで買い込んだ滋養強壮アンプルを取り出し、手渡した。
「お疲れ様! 完璧な連携だったよ、二人とも!」
チヅルがいつもの屈託のない、しかしどこか誇らしげな笑顔を浮かべる。
「……なぁ、チヅル。お前、あのコンビネーションは狙ってやったのか? 水蒸気爆発まで起こるなんてさ」
「すいじょうき……ばくはつ? いやぁ、まさか。鎧があんなに綺麗に爆散するなんて思いもしなかったよ。でも、雷と水を合わせれば、分厚い鎧を着た相手には『いける』って思ったんだよね!」
ユイはアンプルの中身を一気に飲み干し、呆れたように、しかし心底頼もしげに苦笑しながら立ち上がった。
チヅルの天才的な直感による戦術眼と、ユイの圧倒的な高火力、そしてラズベルの決死の献身。三人の強固な絆と知恵が、格上の未知の強敵を、文字通り粉砕した瞬間であった。
静寂が戻った四階の広間で、チヅルが二人に回復と労いの言葉をかけ終わった、その時だった。
ズズズズ……ッ。
『鋼の守護者』が完全に沈黙したことをシステムが検知したのか、部屋の最奥にある白銀の壁面が重々しい地響きとともに左右へスライドし、上階へと続く隠された螺旋階段がその姿を現した。
「……道が、開いたね」
三人は顔を見合わせ、大きく深呼吸をしてから、一歩一歩、その冷たい石段を噛みしめるようにして登っていく。
分厚いスラブを突き抜け、たどり着いたその先は、地上から二十八エム。この巨大な石の塔の頂に位置する、五階『展望台』であった。
そこは、これまでの閉鎖的な階層とは全く異なる、天井高十二エムという圧倒的な大空間だった。
巨塔の頂上部は、壁面全体がガラスよりもはるかに透明度が高く、かつ強固な未知の素材によって覆われている。そこからは、冷たい夜風が吹きすさぶ果てしない平原と、吸い込まれるような満天の星空が、三百六十度のパノラマとなって広がっていた。
「……すご……。これ、王都の劇場にある書き割りの背景じゃないよな……? しらんけど」
ユイが思わず感嘆の声を漏らすが、その言葉は、星空のあまりの美しさと、空間の中央に存在する「異質」な光景に圧倒されたラズベルの耳には入らなかったが、チヅルは心の中で思った。「しらんのかい!」
展望室の最奥。
星明かりを背に受けるようにして、宙に浮かぶ複雑な光の板――ホログラムの操作卓に向き合っていたのは、桃色の長い髪を揺らす一人の少女だった。
「……また、来たのね。この場所を、ただの石積みだと勘違いしている、哀れで無知な略奪者たちが」
振り返ることなく放たれた少女――リリアナの声は、よく通る鈴の音のように澄んでいた。しかしそこには、何百年もの孤独を凍りつかせたような絶対零度の冷徹さと、侵入者を容赦なく拒絶する、鋭い刃のような意志が込められていた。
振り返った彼女の瞳は、透き通るような青白色。その肌は陶器のように滑らかで、身に纏う精緻な意匠のドレスは、この世界のどの王族の衣服よりも高度で美しい仕立てに見えた。
どこか儚げで、まるでお人形のように整った、あまりにも「かわいらしい」風貌の管理者。
だが、その手には恐るべき力が握られている。下の階のオークたちを操り、鋼の守護者を差し向けた、この異常な遺跡の真の主。
ユイが息を呑み、『白綱』の柄に手をかけようとした、その瞬間だった。
交渉のテーブルにつくべく、一歩前に出ようとしたチヅルの体が、不自然にビクンと硬直した。
彼女のワインレッドの瞳が、限界まで見開かれる。
次の瞬間、それまで遺跡探索の緊張感で張り詰めていたパーティーリーダーとしての威厳は、跡形もなく宇宙の彼方へ消え去った。
「きゃーーーっ!! なにこの子、めっちゃかわいいっ!!」
「……えっ?」
静寂と殺気を切り裂く、鼓膜を劈くようなチヅルの絶叫。
想定外すぎる、あまりにも場違いな第一声に、冷徹な管理者の仮面を被っていたリリアナの肩がビクッと跳ね、彼女はぽかーんとした表情で呆然と立ち尽くした。
「見てよ二人とも! この桃色の髪のフワフワ感、それにこのちっちゃなお手々! 反則だよ、お人形さんみたいでかわいすぎて死んじゃう!」
チヅルは先ほどまでの死闘や、自身の命が狙われていたことなど完全に忘却したかのように、両手で頬を押さえ、目をハートにして身悶えしている。ダークエルフと獣人の血を引く三角の猫耳も、「うれしい!」「かわいい!」という本能の赴くままに、頭頂部で激しく高速回転を始めていた。
「……おい、チヅル。お前なぁ、今はそういうタイミングじゃ……」
ユイが頭痛を堪えるように額を強く押さえて天を仰ぐ。ラズベルも「あはは……。チヅルちゃん、完全に『かわいいもの好き』のスイッチ入っちゃったね」と、どうしようもないという顔で苦笑いしながら、構えかけていたフライパンをゆっくりと背中に戻した。
星空を背に、冷酷無慈悲に侵入者を断罪するはずだった、オーバーテクノロジーを操る管理者の少女。
そして、その圧倒的な愛くるしさに本能で敗北し、敵意をゼロにして身悶えする冒険者の少女。
展望台を重く支配していた、あの凍てつくような殺気と緊張感は、チヅルのあまりに純粋で暴力的なまでの「かわいい」の絶叫によって、一瞬にしてどこかへ霧散してしまった。
――第三章:完。




