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第一章:幸運の猫耳娘と黄金の革袋

ヴァノス王国北部において最大の規模を誇る港湾都市マーレン。

南側に広大なカルディアス内海を抱くこの街は、海から吹き上げる湿った潮風が常に石畳の路地を洗い流している。夕刻を迎え、空が燃えるような茜色から深い藍色へと移ろう頃、港には家路を急ぐ交易船の汽笛が幾重にも重なって響き、街全体が夜の静寂しじまを前にした独特の熱気に包まれていた。

潮の満ち引きと共に生活する人々は、この時間になると一斉に家路につき、路地に並ぶ街灯のランプには油脂の火が一つ、また一つと入り始める。家々の窓からは、港町特有の塩漬け魚が焼ける香ばしい匂いや、香草をふんだんに使った魚介スープの香りが漂い、一日の労働を終えた人々の鼻腔を遠慮なく刺激していた。

そんな活気ある街にあって、冒険者たちの心臓部とも言えるギルド『潮鳴りの鉄錨』だけは、今夜、異様な空気に支配されていた。

本来であれば一日の仕事を終え、死線を潜り抜けた猛者たちが安酒を煽り、大声で武勇伝を語り合う喧騒の場であるはずだ。しかし、今夜の空気はまるで湿った重い鉛が沈殿しているかのように停滞し、酒を注文する声さえもどこか怯えたように低い。カウンターで提供されるエールの泡も、心なしかいつもより早く消えていくように見えた。

原因は、つい先刻この場に届けられた一つの報告だった。かつて「新人たちのゆりかご」と呼ばれ、平和の象徴ですらあったマーレンの北西にある古代遺跡から、期待の若手であったガラムが半死半生の体で逃げ帰ってきたのだ。

彼が震える声で絞り出した「統制された魔物の軍勢」と「奥底に潜む未知の意志」、および「網膜を灼く死人のような閃光」という怪異。それは、経験豊富なベテランたちの間にも、目に見えない毒のように不安を伝染させていた。誰もが自分のジョッキの底に落ちる影を見つめ、未知の脅威がすぐそこまで迫っている事実を噛みしめていた。

そんな、息の詰まるような沈黙を、一陣の涼やかな潮風と共に、屈託のない明るい声が打ち破った。

「ごきげんよう、マリアさん! 夕焼けがとっても綺麗ですね!」

重いオーク材の扉を、それこそ物理的な重力など存在しないかのような軽やかさで勢いよく開けて現れたのは、猫耳をぴんと立てた少女、チヅルだった。

十九歳。ダークエルフと獣人の混血種である彼女は、薄紫の髪をポニーテールにまとめ、ワインレッドの瞳を爛々と輝かせている。彼女は周囲の陰鬱な空気など微塵も感じ取っていないかのような足取りでカウンターへ駆け寄る。腰には母の形見であるミスリル製の短刀が揺れ、魔法の力によってどれほどの荷を収めても羽毛のような軽さを保ち続けるマジックポーチが、彼女のステップに合わせて小気味よいリズムを刻んでいた。

「……あ、それと。すっごく、すっごくお腹が空きましたあ!」

その後ろからは、二十二歳のヒューマンとハイドワーフの混領種、ラズベルが、自身の背丈ほどもある重厚なバックパックを背負い直しながら、穏やかに微笑んで続く。チェインメイルの上から上品なワンピースを着込み、腰には「アダマンタイト製ではないか」と噂されるほど頑丈なフライパンを揺らす彼女の姿は、家庭的な温かさと、戦場を渡り歩く者特有の強かさを不思議と同居させていた。

最後尾を行くのは、十八歳のユイだ。この世界では異質極まる「セーラー服」という装いに西洋鎧を巧みに組み合わせた彼女は、黒髪のポニーテールを揺らし、周囲の冒険者たちが自分たちを「幸運だけで死地を掠めていく異端児」として注視していることに気づきながらも、魔刀『白綱しらつな』の柄に軽く手を添え、涼しい顔でその鋭い視線を遮るように歩みを進めていた。光の当たり具合によって、彼女の髪の黒色に青いヘアマニキュアの筋が混じり、独特の光彩を放っている。

受付カウンターで執務に当たっていたマリアは、チヅルたちのパーティーを専任で担当している。彼女はガラムの惨状を目の当たりにして以来引きつらせていた表情を、馴染みの顔ぶれを認めるや否やプロの微笑みで即座に応対した。

「チヅルさん、お帰りなさい。ローガン村の件、王国からも高く評価されていましたよ」

マリアの声には、形式的な事務対応を超えた、心の底からの安堵が混じっていた。

チヅルはカウンターに身を乗り出し、期待に満ちた表情で三角形の猫耳を左右に揺らす。

「えへへ、聞いてくれましたか! なんだか大騒ぎになっちゃいましたけど、みんな無事で本当に良かったです。……それはそうと報酬、少しは色をつけてくれるんですよね?」

十四歳の時に故郷を離れ、冒険者として五つのかんを過ごしてきた彼女にとって、一つの冒険の終わりを告げる報酬の確認と空腹の解消は、人生における至上の優先事項だった。たとえ王都の豪華な宮殿にいても、辺境の泥臭い村にいても、その優先順位が揺らぐことはない。それは彼女の生存本能と、プロとしての自負が結びついた結果でもあった。

「チヅルちゃん、まずはちゃんとマリアさんに挨拶をしてから、手続きしようね」

後ろからラズベルがたしなめるように言う。ユイも「こいつの胃袋と金銭欲だけは、この街のどの魔物よりも常識の外側だからな」と肩をすくめた。

「あらあら。でも、今回ばかりはチヅルさんのその現金な反応も、決して責められることではないわね」

マリアはくすくすと上品に笑いながら、カウンターの下へと手を伸ばした。そして、ずっしりと重厚な音がする無骨な革袋を取り出し、ゆっくりとカウンターの上へ置いた。

三人が当初請け負ったローガン村の依頼は、本来であればランク相応の『魔物発生状況の調査』であり、提示された対価は銀貨四十枚だった。それは決して安くはないが、命を賭けるにしては少々心もとない、Dランク冒険者にとっての「妥当な報酬」でしかない。

しかし、いざ蓋を開けてみれば、現地の実態は正規の騎士団を一個中隊規模で動員しなければ村の消滅すら免れないほど深刻な、異常発生スタンピードの一歩手前だったのだ。そんな絶望的な状況を、彼女たちはたった一日で、独自の「奇策」を用いて解決してしまったのである。

「手続き、始めましょうか。まずはローガン村の魔物調査クエストの成功報酬です」

マリアがカウンターにその袋を置いた瞬間、ジャラリ、という硬貨同士が擦れ合う音が響いた。それは銀貨の軽やかなチャリンという音とは明らかに異なる、深く、重く、および鈍い黄金の響きだった。

近くのテーブルで静かに飲んでいたベテラン冒険者たちが、その音の質感に思わず耳を震わせ、驚愕と疑念の入り混じった視線を一斉にカウンターへと向けた。

「当初の契約は銀貨四十枚でしたが、現地での英雄的な働き……特に、あなたたちが被害を最小限に食い止めたその『奇策』の価値を、ギルドは極めて重く見ました。よって、規定の報酬を大幅に増額し……金貨十五枚をお支払いします」

金貨、十五枚。

それはこの世界の一般的なレートである「一金貨=百銀貨」に換算すれば、実に千五百枚分に相当する。当初の提示額である銀貨四十枚からすれば、三十七倍以上という、ギルドの歴史を見渡しても類を見ない、常識外れの跳ね上がり方だった。

ヒュッ、と。

チヅルの喉が、空気を不自然に吸い込む奇妙な音を立てた。

「き、金貨……十五枚……!? マリアさん、これ、本当に『銀貨百五十枚』の数え間違いじゃないですよね!? 聞き間違いとか、台帳の書き損じとか……あたし、まだお昼寝から覚めてないとか、そういう夢オチじゃないですよね!?」

チヅルの喉がひきつり、ワインレッドの瞳がぐるぐると渦を巻くように回り始めた。

金貨十五枚。それはチヅルの脳内算盤を瞬時に火花を散らして焼き切るほどの暴挙だった。いくら気前の良い上乗せ(ボーナス)を想定しても、精々が銀貨百五十枚――つまり当初の四倍弱も貰えれば「今夜は豪華に分厚い肉を食おう」とはしゃいでいたはずなのだ。

これまで五つの環を歩み、王都や大都市での相場も見てきた彼女の経験からしても、これほど極端な報酬の増額は、ギルドの慣例を根底から覆すような、天文学的な出来事に思えた。その衝撃は、先ほどまで彼女の脳の大部分を支配していた「強烈な空腹」さえも、一瞬で忘却の彼方に追いやるほどだった。

「あら。驚くのはまだ早いですよ、チヅルさん」

しかし、マリアの驚異的な報告はそれだけでは終わらなかった。

彼女は悪戯っぽく、しかしどこか深い畏怖を込めた手つきで、カウンターの奥から新たな「影」を引き出した。

それは、ギルドで普段使われる粗末な革袋や麻袋とは対極にある、ヴァノス王宮の正式な刻印が金糸で精緻に縫い取られた、あまりにも重々しい深紅のベルベット袋だった。

その袋がカウンターに置かれた瞬間、それまでざわついていた『潮鳴りの鉄錨』のホール全体が、まるで巨大な氷に閉じ込められたかのように、水を打ったような静寂に包み込まれた。金貨がぶつかり合う音ですら、ここでは不敬にあたるのではないかと思わせるほどの、圧倒的な威圧感が空間を支配する。

マリアが恭しく結び目を解き、袋の口を開くと、そこから溢れ出したのは、一点の曇りもない正真正銘の金貨たちだった。その数は、見る者が数えるのを最初から諦めるほどの厚みを持ち、琥珀色の魔道街灯の下で眩いばかりの純金の光を放っている。

「……マリアさん。これ、あたしが知ってる『おまけ』の概念を、遥か彼方まで置き去りにしてる気がするんですけど……」

チヅルは、自分の愛用しているマジックポーチの中に、マーレンの立派な一軒家が丸ごと吸い込まれていくような恐ろしい錯覚に陥り、思わず息を止めた。一般的な四人家族であれば、金貨一枚で月巡り二巡(約二ヶ月)ほどは遊んで暮らせる価値がある。それが今、自分の目の前で小さな山を成しているのだ。

「ええ、チヅルさん。これはギルドの予算から出る追加報酬ではありません。ヴァノス王国から直々に届けられた『特別報奨』なのよ」

マリアは一つ一つの言葉を、その重みを確かめるように噛み締めて続けた。その声は、いつもの親しげな事務連絡を超え、目の前の三人の少女たちが成し遂げた事の重大さを物語っていた。

「ローガン村が消滅の危機に瀕していたという事実、そしてそれをあなたたちが未然に防いだという功績は、王宮騎士団や魔術師団にとっても決して無視できないほど大きなものだったの。村を救った多大なる功績を称え、王国から金貨三十枚。さらに、王国騎士団と魔術師団からの連名による感謝状も預かっています。……先ほどのギルドからの金貨十五枚と合わせて、今回の報酬は合計で金貨四十五枚となります」

「よんじゅう、ご……まい……」

チヅルの、先ほどまでピンと立っていた自慢の猫耳が、まるで水を被ったように力なくへにゃりと倒れた。一つのクエスト……それも最初は銀貨四十枚で受けたはずの「調査」が、ここまで膨れ上がるなど、もはや幸運という言葉を通り越して、気まぐれな神の悪戯ではないかと疑いたくなるレベルだ。

「……チヅル、呼吸をしろ。猫耳が完全に倒れてるぞ」

背後から、ユイが冷静に(というよりは、あまりの事態に半分呆れたように)声をかける。その隣ではラズベルが、胸元で手を合わせて穏やかに、しかし目はしっかりと金貨の山を見据えながら微笑んでいた。

「あらあら……これなら、当面の家賃や食費の心配もいらないし、三人の装備をワンランク上のものに新調したとしても、山のようなお釣りが来そうだね」

パーティーの財布を握るラズベルの、あまりに現実的かつ前向きな言葉に、チヅルはようやく「これは現実なのだ」と自覚し、ゴクリと唾を呑み込んだ。

だが、三人がその莫大な富の余韻に浸る間もなく、ギルドの空気が再び大きく震えた。

ホールの一番奥、一般の冒険者は決して立ち入ることのできない貴賓室。その重厚なオーク材の扉が、左右に大きく開かれたのだ。

カツ、カツ、と。

一切の乱れもない、規律正しい鉄靴の音がホールに響き渡る。

現れたのは、白銀に輝く精緻な全身鎧プレートアーマーに身を包んだ、歴戦の鋼のような体躯を持つ壮年の男だった。背には彼自身の背丈ほどもある無骨な大剣を背負い、日焼けした顔に刻まれた古傷が、彼がただの飾り物の騎士ではないことを雄弁に物語っている。

そして、その傍らには、深い紺色のローブを纏い、縁なし眼鏡の奥に理知的な光を宿した、気品溢れる女性が静かに従っていた。彼女の周囲だけ、大気中の魔力が澄んだ水を打ったように美しく整流されているのが、チヅルの敏感な肌にははっきりと感じ取れた。

二人の姿を認めた瞬間、それまでカウンター付近で固まっていたベテラン冒険者たちが、弾かれたように一斉に席を立ち、慌てて壁際へと退いて道を空けた。

「君たちが、チヅル一行か。実に、見事な働きであった」

壮年の騎士が、重低音の効いた声を響かせる。その一言だけで、ホールの空気が物理的に震え、肌にピリピリとした静電気が走るような錯覚を覚えるほどの凄まじい覇気だった。

チヅルは一瞬だけ、その圧倒的な威圧感にあっけにとられ、ワインレッドの瞳をパチクリとさせた。だが、次の瞬間には、彼女の冒険者として鍛え上げられた鋼のメンタルが、瞬時に「プロの表向き」のスイッチを入れる。

チヅルは即座に背筋をピンと伸ばし、足の踵を揃えると、ヴァノス王国の正式な礼儀作法に則った、深く、そして美しい完璧なお辞儀をして見せた。それにつられるように、背後のユイも魔刀の柄から手を離して姿勢を正し、ラズベルもスカートの裾を軽く摘んで優雅に頭を下げる。

「私はヴァノス王宮騎士団副団長、アーサー・グレイスだ」

「そして私が、王宮魔術師団代表のエレナ・ローレンスと申します」

二人の堂々たる名乗りに、周囲の冒険者たちから「副団長自ら……」「魔術師団のトップまで……」というどよめきがさざ波のように広がった。

チヅルはゆっくりと顔を上げると、先ほどまで「お腹が空いた」と喚いていたのが嘘のような、真摯で凛とした面持ちでそれに応じた。

「アーサー・グレイス様、そしてエレナ・ローレンス様。このような王国を支える高位の方々から直々にご挨拶をいただけるとは、身に余る光栄に存じます。私は、パーティーリーダーを務めております、チヅルと申します。こちらは頼れる仲間のラズベルと、ユイです」

チヅルが淀みなく、かつ堂々とした声で挨拶を述べると、アーサーの厳しい表情が僅かに和らいだ。背負った大剣をわずかに鳴らし、感心したように深く頷く。

「……受付のマリアから聞いていた通りだ。ただの運任せの若い娘かと思っていたが、これほどの重圧を前にしても声一つ震えぬとは。なるほど、ローガン村での一件は、決して奇跡などではなく、必然であったというわけか」

「騎士団一個中隊が数日かけて対応するはずであったあの魔物の大発生を、わずか一日……それも、周辺の地形と魔物の習性を利用した見事な奇策で解決したと聞き、正直、報告書を目にしたときは耳を疑いましたわ」

エレナ・ローレンスが、知的な笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。彼女の白い指先が空中で軽く動くと、空間からキラキラとした光の粒子が集まり、細やかな銀細工が施された小さな小箱が具現化した。

「グレイス副団長がおっしゃる通り、運も実力のうち。しかし、その運を引き寄せ、最大限に活かすのは確かな状況判断能力です。我ら魔術師団の者たちも、貴女たちの柔軟な発想には大いに感銘を受けました。これは、我らからの心からの感謝の印ですわ」

エレナから差し出された小箱を、チヅルは両手で恭しく受け取った。手のひらに伝わる微かな魔力の温もりが、それが一級品の魔法具であることを示している。

「ローレンス様、および魔術師団の皆様。身に余るご厚意、謹んでお受けいたします。この報奨に恥じぬよう、今後もより一層、精進して参ります」

そこまで完璧に言い切ったチヅルだったが、どうしても最後に「自分らしさ」を抑えきれなかったのか、ピンと立てた猫耳を少しだけ恥ずかしそうに揺らしながら、こう付け加えた。

「……あと、これからはもう少し、頂ける報酬に見合うくらいは、事前にお腹を空かせないように気をつけるつもりです」

その言葉は、厳格な王宮の使者に対するものとしてはあまりに不敬スレスレの、彼女の「遠慮をしない無邪気さ」が図らずも漏れ出てしまったものだった。

背後でユイが「バカ、何言ってんだこいつ……」と息を呑み、ラズベルが顔を青ざめさせる中、アーサーは一瞬きょとんとした顔になり――直後、腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声をギルドのホールに響き渡らせた。

「ははははっ! 言うではないか! これだけの莫大な金貨を手にし、我ら二人を前にしても、まだ自分の腹の心配を維持できるとは! チヅル、貴殿は実に面白い。……百の剣よりも、一つの機知とひらめきが窮地を救う。我々ヴァノスの守護者も、貴殿らのような頼もしい存在の出現を心から歓迎しよう!」

アーサーが大きな手でチヅルの華奢な肩をバンバンと叩く。その衝撃で猫耳がブルブルと震えたが、チヅルはそれを誇らしげに立て直し、にっこりと無敵の笑顔を返した。

その光景を、マリアや周囲の冒険者たちは、まるで神話の奇跡でも目撃しているかのような顔で見守っていた。王国の重鎮二人が、これほどまで一介の若手冒険者に歩み寄り、しかも大声で笑い合うことなど、マーレンの歴史上でも前例のないことだったからだ。

やがて、アーサー・グレイスとエレナ・ローレンスの二人が、再び規律正しい足音と共にギルドの扉の向こうへと去っていくと、ホールを分厚く支配していた緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。

代わって湧き上がったのは、それまで息を潜めていた冒険者たちの爆発的な喧騒だ。ただし、そこにあるのは先ほどまでの遺跡の凶報に対する陰鬱な不安ではない。目の前で繰り広げられた、ここ最近では類を見ない破格の凱旋劇に対する、羨望と驚愕、そして純粋な称賛が混じった熱気であった。

「……はぁあ、緊張したぁ……! あたしの猫耳、まだ真っ直ぐ立ってる?」

チヅルは、受け取ったばかりの報奨金が詰まった革袋と銀の小箱を大事そうに胸に抱えながら、足から力が抜けたように大きく息を吐き出した。ワインレッドの瞳には、まだ自分が大役を果たした現実感が戻りきっていない。

そんなリーダーの肩を、ラズベルが優しく叩いた。

「あはは、バッチリ立ってるよ、チヅルちゃん。挨拶、すごく堂々としてた。さすがはウチのリーダーだね」

二十二歳という、パーティー最年長らしい落ち着きを払ったラズベルが、微笑みながらチヅルの乱れたポニーテールを整えてやる。十八歳のユイもまた、もしもの事態に備えて無意識にかけていた魔刀『白綱』への魔力を解き、強張っていた肩の力を大きく抜いた。

「全くだ。あの副団長の威圧感の中で『お腹が空いた』なんて言えるのは、この街広しといえど、いや、世界中を探したってお前くらいなもんだぜ。寿命が縮むかと思ったよ。……さて、マリアさん。手続きの方はこれで大丈夫か?」

ユイの呆れ混じりの問いに、カウンターの中で胸を撫で下ろしていたマリアが、弾けるような笑い声を上げた。

「ええ、完璧です。本当にお疲れ様でした。……チヅルさん、さっきの『空腹宣言』、ギルドマスターにもしっかり伝わってましたよ。今日は解決の祝杯として、食事代はギルドの奢りにします。左側の酒場ホールに向かってください。係の者に、一番いいお肉と飲み物を急いで用意するよう、私から伝えておきますから」

「本当ですか!? やったぁ! マリアさん大好きー!」

チヅルの猫耳が「待ってました!」と言わんばかりに激しく前後した。十九歳という、成人してすでに三つの環を数える年齢になっても、彼女の食欲と報酬に対するこのどこまでも素直な反応は変わらない。

三人はマリアに深い会釈をすると、ざわめきと称賛の声が飛び交う中央ホールを抜け、左側に広がる食事処兼酒場へと意気揚々と向かっていった。

『潮鳴りの鉄錨』の左翼に広がる酒場エリアは、堅牢なオーク材の柱と梁がむき出しになった、活気あふれる巨大な吹き抜け空間だった。

三人がギルドの奢りという特等席に着くや否や、元気の良い給仕の青年が、まるで自分のことのように鼻を高くして注文を取りにやってきた。

「マリアさんから聞いてるぜ、ローガン村を救った英雄さんたち! 今日はギルドの奢りだ、遠慮なく一番いいものを注文してくれ!」

「それじゃあ、ワイバーンの尾肉煮込みシチューとジャイアントボアの厚切りステーキを三つずつ! それと……あたしとラズベルちゃんには、アンブロシア・ミードを。ユイちゃんには、ドラゴンスレイヤーズ・アンバーをお願いします!」

チヅルが迷いなく、酒場の最高級メニューを元気よくコールした。

ヴァノス王国では十六歳で成人となり、酒を嗜むことも許される。芳醇な香りととろけるような甘さが特徴の高級蜂蜜酒であるアンブロシア・ミード。そして、ユイが好む、喉を焼くような強烈な苦味と深いコクを持つ濃厚なエール。それが、大仕事を終えた後の『チヅル一行』の定番だった。

やがて、テーブルには湯気を立てる極上の料理が所狭しと並べられた。

運ばれてきた厚切り肉の芳醇な脂の香りに包まれ、三人は束の間の休息を楽しんでいた。ワイバーンの尾肉はスプーンでほぐれるほど柔らかく煮込まれ、スパイスの効いたジャイアントボアのステーキは噛むほどに野性味あふれる肉汁が口いっぱいに広がる。

「んん〜っ! 美味しいっ! 生きててよかったぁ!」

チヅルが両頬をリスのように膨らませて肉を頬張る横で、ラズベルは金色のミードを上品に傾けていた。彼女の傍らには、先ほど受け取ったばかりの金貨四十五枚が詰まった重厚な革袋が、圧倒的な存在感を放って置かれている。

銀貨にして四千五百枚。それは、死線を潜り抜け続けるベテランの冒険者でさえ、数年かけて必死に稼ぎ出す額だ。それをたった一度の依頼で手にした計算になる。ましてやDランクの彼女たちにとっては、文字通り桁違いの財であった。

「……ねえ、ラズベルちゃん。これだけあれば、防御魔法付与エンチャント付きの高級なお鍋、買えるんじゃない?」

「そうだねぇ。三人の装備も、今の使い古したものからずっと質の良いものに新調できるよ。ユイちゃんの刀も、しっかりメンテナンスに出せるしね」

ラズベルは手元の使い込まれた手帳に、これからのパーティー運営の予算を素早く書き込んでいく。その表情は、パーティーの命運を握る金庫番として真剣そのものだが、仲間たちに向ける眼差しはどこか楽しげだ。

一方でユイは、ジョッキに満たされた琥珀色のエールをゆっくりと煽りながら、ふと視線を中央ホールの壁にある依頼掲示板へと向けた。酒場の特等席からは、常に人だかりが絶えないその巨大な木の板の一部がよく見える。

「なぁ、チヅル。さっきマリアさんが言ってた『古代遺跡』の話、覚えてるか?」

ユイの低く静かな声に、チヅルのフォークを持つ手がピタリと止まった。

酒場の賑やかな喧騒の裏側で、先ほど救護院へと運び込まれたガラムたちの悲痛な報告の内容が、尾鰭おひれがついて広まり始めているのを、ユイの鋭い耳は捉えていた。

「……うん。新人さんの訓練場だった場所が、急に危ない魔物の巣窟になったって話でしょ?」

「ただの巣窟じゃない。……二組目は居住区の『迷宮化』で方向感覚を失って立ち往生。三組目のベテラン勢は最上階直前で、まるで軍隊のように統制された魔物の軍勢に阻まれた。そしてガラムたちは、姿も見えない『未知の意志』に一瞬で叩き出された……。明らかに、自然発生した異常じゃない」

ユイの言葉に、ラズベルも手帳を閉じて神妙な顔で頷いた。

「ガラムさんたちがそんな状態だもん。ギルドはCランク、あるいはそれ以上への格上げを検討しているようだけど……本当は、もっと根本的に危ない場所になっているのかもしれないわね」

チヅルは最後の一切れの肉を咀嚼し、それを静かに飲み込むと、ゆっくりと立ち上がった。

彼女の視線の先には、中央ホールの掲示板の端、真っ赤な警告線が引かれたまま放置されている、あの『古代遺跡:異変調査』の依頼書があった。周囲の冒険者たちが、まるで呪われた紙切れでも見るかのように距離を置いている中で、その羊皮紙だけが異様な存在感を放っている。

「……ねえ、二人とも。あたし、ちょっと見てくる」

チヅルはふらふらと、まるで見えない糸に吸い寄せられるように、酒場から中央ホールへと歩みを進めた。

掲示板の前に立つ。そこには、琥珀色の油脂ランプの光に照らされて、行商人のアルドが目撃したという追記が殴り書きされていた。

『……網膜を灼くような、死人のような青白い閃光』

その文字を目にした瞬間、チヅルの脳裏に、遠い昔、故郷の村の古老から聞いた古い民話の断片が、鮮烈なイメージとなってフラッシュバックした。

『天の船が地に落ちる時、冷たい雷が平原を焼き、石の巨人が意志を持つ』。

それが何を意味するのか、当時の彼女には全く分からなかった。ただのおとぎ話だと思っていた。だが、今、この依頼書から放たれている得体の知れない「引力」は、彼女の冒険者としての生存本能を凌駕し、その魂の奥底にある『幸運の羅針盤』を激しく揺さぶっていた。

「……マリアさん。この『青白い閃光』、あたし、なんとなく知ってる気がするんです」

いつの間にかカウンター越しにチヅルを見つめていたマリアに、チヅルが静かに語りかけた。

「それが何なのか、まだ上手く言えないけど……でも、誰かが行かなきゃいけないなら、あたしたちが行くべきだって気がするの」

「チヅルさん……。でも、ガラムさんたちの惨状は、もう聞いているでしょ? あそこには、今のギルドの常識では測れない何かが潜んでいるんです。無理に行く必要はありません。あなたたちは今、当分遊んで暮らせるだけの、十分すぎるほどの富を手に入れたんですから」

マリアの制止は、ギルド職員としての責任と、彼女たちを心から案じる正論だった。だが、チヅルはゆっくりと首を横に振った。

彼女のワインレッドの瞳には、先ほどの金貨への執着や、空腹を満たした無邪気さとは全く異なる、澄み渡った、そして揺るぎない覚悟の光が宿っていた。

「あたしの運命こころが、こっちだよって言ってるんです。……それにさ」

チヅルは振り返り、不安げに見守るユイとラズベル、そして驚きに目を見張る周囲の冒険者たちに向けて、いつもの太陽のような、屈託のない笑顔を見せた。

「誰も行かないなら、あたしたちがサクッと解決して、また美味しいお肉を食べればいいだけでしょ?」

そう言い放つと、チヅルは一切の躊躇なく、赤線が引かれたその危険な依頼書をベリッと剥ぎ取った。

「……やれやれ。こうなったら、もう誰が何を言っても止められねえな」

いつの間にかチヅルの背後に立っていたユイが、エールの余韻に苦笑しながら、腰に提げた魔刀『白綱』の柄をトンと叩いた。

「チヅルが決めたことなら、私たちは地の底までついていくまでだ。……さて、そうなると、装備の新調は明日一番で急いで行う必要があるな」

「ええ、市場での買い出しリストも作り直さなきゃ。ポーションは多めに持っていきましょう」

ラズベルもまた、既に次の遠征に必要な備蓄品を頭の中でリストアップし始めながら、頼もしげに微笑んでいた。仲間たちのその揺るぎない信頼に、チヅルは嬉しそうに猫耳を揺らした。

チヅルは手にした依頼書をぎゅっと握りしめ、カウンターの奥で呆然としているマリアにウインクしてみせた。

「マリアさん、手続きお願いします! この『異変の調査』、あたしたちが引き受けます!」

マリアは深くため息をつき、それから今日一番の真剣な表情でコクリと頷いた。

「……分かりました。ギルドマスターには私から報告しておきます。でも、約束してください。無理だと思ったら、絶対にすぐに帰ってくること。あなたのその『幸運』を、決して無駄遣いしないでくださいね」

「了解です! いつもありがとう、マリアさん!」

掲示板から、街を恐怖に陥れていた不吉な依頼が消えたその瞬間。

ギルドの窓の外、マーレンの夜空を切り裂くように、一筋の美しい流れ星が、北西の空――あの遺跡のある方角へと音もなく消えていった。

それは、後に王国中で語り継がれることになる『異界の遺産』を巡る大冒険の、静かな、しかし決定的な幕開けであった。


――第一章:完。


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