第十章:空に消えた異界の鼓動
数ヶ月にわたり古代遺跡を不気味に包み込んでいた禍々しい青白い閃光は、すっかり鳴りを潜めていた。そこにはただ、澄み切った朝日を浴びて静かな眠りにつく、巨大な石の塔だけが残されている。
遺跡から少し離れた林の縁に設営された野営地では、パチパチと小気味よくはぜる焚き火の上で、ラズベルが手際よく朝食の準備を進めていた。
「よし、スープができたわよ。チヅルちゃん、ユイちゃん、配膳をお願い」
「はーい! 今朝は一段とお腹が空いてるから、あたしのは限界までたっぷり盛っちゃうよ!」
チヅルが猫耳を元気に揺らしながら、木製のお椀に具沢山の熱々スープを注いでいく。ユイもまた、昨日までの殺伐とした空気を完全に脱ぎ捨てたかのような軽やかな手つきで、香ばしく焼けたライ麦パンと、軽く炙った干し肉を皿に並べていった。
「御者さんも、どうぞ。冷めないうちにあたたまってください」
「おお、すまねぇな、嬢ちゃんたち。……それにしても、昨夜のあの急な静まり返り方は一体何だったんだ? あんなに恐ろしく吠え猛っていた魔物たちの声が、一瞬にしてピタリと止んで……。あまりにも気味が悪くて、とてもじゃないが遺跡の方へ様子を見に行く気にはなれなかったぜ」
御者が不思議そうに首を傾げながら、スープを口に運ぶ。
その言葉を聞いたユイが、スプーンを置いて意地悪そうな笑みを浮かべ、御者の方へスッと身を乗り出した。
「……御者さん。その理由、詳しくききたいかい?」
低く、地を這うような声音。昨夜の凄惨な死闘を潜り抜けた者特有の生々しい凄みが、冗談めかした口調の裏側にわずかに透けて見えた。
御者は思わずスープを喉に詰まらせそうになり、顔を引きつらせて激しく首を横に振った。
「い、いや! 勘弁してくれ! 俺はただのしがない御者だ、首を突っ込みすぎて命を落としたかねぇ。聞かなかったことにするよ!」
その大げさな様子に、チヅルとラズベルは顔を見合わせて苦笑いした。
実際には、リリアナの安全装置――「生体ユニットの強制排除」によって首を撥ねられた夥しい数の魔物の死骸が、今もあの遺跡の周辺には無残に転がっているはずなのだ。しかし、それを今ここで正直に説明したところで、怯える御者をさらに震え上がらせるだけだろう。
「……まぁ、本当に色々あったんです。でも、もう絶対に安全ですから、安心してくださいね」
チヅルがパンを豪快に頬張りながら、ケロリと言ってのける。
三人と一人の朝食は、驚くほど穏やかに過ぎていった。地下施設で味わったあの「バニラ・ストロベリー味」の超科学パウチも悪くはなかったが、やはり朝日を浴び、風を感じながら食べるラズベルの手料理は、三人の心に何物にも代えがたい安心感を与えてくれた。
***
朝食を済ませ、手際よく荷物をまとめた一行を乗せた馬車は、港湾都市マーレンを目指して平原の街道を走り出した。
緊張に包まれていた行きとは打って変わって、車内にはのどかで気怠い時間が流れていた。ガタゴトと規則的に揺れる馬車の振動が心地よく、三人は時折、窓の外に広がる平和な荒野の景色を眺めては、あの地下施設での超常的な出来事が、まるで遠い夢の出来事だったかのような錯覚に陥っていた。
「……結局、リリアナは元の世界に帰れたのかな」
ユイがふと、膝の上に置いた『白綱』の蒔絵が施された鞘を優しく撫でながら呟いた。
「きっと大丈夫だよ。あの所長さんやロロアさん、たくさんのスタッフさんたちの思いが詰まった装置だよ。今頃は、元の世界で、大好きな人たちの記憶と一緒に頑張っていると思う。……それにさ、リリアナちゃん、最後はすごく希望に満ちた、きれいな笑顔だったし」
チヅルは、マジックポーチの奥底に大切に収められた、あの「白銀の箱」を取り出し、じっと見つめた。 あの時、転送の光の中で動いたリリアナの唇。 『後始末はしておくわ、あとはお願いね』 その言葉の意味を、今、彼女たちは文字通り物理的な意味で、そして精神的な意味でしっかりと受け止めようとしていた。
***
夕刻。
カルディアス内海から吹く潮風が、茜色に染まったマーレンの活気ある街並みに吹き抜けていた。
馬車がギルド『潮鳴りの鉄錨』の前に到着すると、三人は御者に多めのチップと共に丁寧にお礼を言い、数日ぶりの「我が家」とも言えるギルドの重いオーク扉を潜った。
広間には、相変わらず一日の仕事を終えた多くの冒険者たちが集まっていたが、彼女たちの姿を認めた瞬間、酒場にいた一部のベテランたちが驚愕の声を上げた。 「おい、嘘だろ……チヅルたちが戻ってきたぞ!」 「マジかよ、あの化け物屋敷になった古代遺跡から無傷で……!?」
三人は周囲から突き刺さる好奇の視線をいなすようにして、一直線に受付カウンターへと向かった。そこには、ガラムたちの悲惨な報告を受けて以来、ずっと心配で眉間に皺を寄せていたマリアが、彼女たちの姿を確認するなり、腰を浮かせて身を乗り出した。
「チヅルさん! ユイさん、ラズベルさん! よかった、本当に無事で……!?」
「ごきげんよう、マリアさん! ただいま戻りました!」
チヅルがいつもの、世界を明るくするような快活な挨拶を放つと、マリアは安堵のあまり、そのまま椅子に崩れ落ちそうになった。三人は事態の重大さを考慮し、そのままマリアを促して奥の遮音術式が施された会議室へと入り、今回の調査結果を一通り報告することにした。
魔物の異常な統制が、リリアナという異界の管理者による防衛システムであったこと。 地下に我々の常識を覆す広大な施設が存在し、現在はその中枢機能が完全に停止していること。 そして、リリアナの消失によって「安全装置」が作動し、遺跡内部や周辺に大量の魔物の死骸が転がっていること――。
「……なんですって? 死骸が、山のように?」
マリアが青ざめた顔で羽ペンを走らせる。
「ええ。そのまま放置しておけば深刻な疫病の元になりますし、何よりあの場所にはまだ、私たちの常識では測れない異世界の遺物がそのまま放置されています。明日、何組かのパーティを緊急招集して、大規模な死骸の清掃と、未知の遺物の調査および回収作業に向かわせる必要があると思います」
ラズベルが冷静に状況を分析して提言する。マリアは真剣な表情でコクリと頷いた。
「……分かりました。すぐにギルドマスターに直訴して、高ランクのパーティも含めて緊急招集をかけます。チヅルさんたちには、現地の案内役として同行をお願いすることになりますが、準備はよろしいですか?」
「もちろんです。あたしたちが言い出したことですから!」
チヅルが力強く頷く。 さて、深刻で事務的な報告が終わったところで、チヅルがニヤリと不敵な笑みを浮かべた。彼女は愛用のマジックポーチの中に奥深くまで手を突っ込むと、何やら重たげなものを次々と会議室のテーブルの上に並べ始めた。
「あと、マリアさん。これ、今回の『戦利品』です」
ドン、ドサッ。
最初に出されたのは、あの巨大なオーガの折れた太い角と、鋭く磨かれた禍々しい牙の数々だった。それだけでも、Cランク級の討伐証明として十分すぎる価値がある。
「さらに、こんなのも拾っちゃいました」
チヅルが更にマジックポーチから取り出したのは、掌の上で怪しく、かつ美しく脈打つように輝く巨大な『オーガの魔法石』だった。
「それから、これ。多分、これまでにあの古代遺跡に挑んで撤退していったパーティの人たちが、魔物たちに奪われたものだと思うんです。一階大ホールの端っこにまとめて戦利品みたいに置いてあったのを、全て回収してきました!」
テーブルの上に、ジャラジャラと無造作に並べられるアイテムたち。
精緻な細工が施された魔法の指輪、古の魔力が宿るネックレス、高価なミスリル製のブレスレット、および抜き身のままでも鋭い輝きを放つ魔法の短剣――。
マリアは口をパクパクとさせながら、それらの鑑定と査定額を脳内で弾き出そうとして、完全に思考が停止した。
その横で、ユイとラズベルもまた、石像のように固まっていた。
「……おい、チヅル」 ユイが、引きつった笑顔で相棒をゆっくりと振り返る。 「いつの間に……。あたしたち、あの死闘でオーガが死んだ後は、へたり込んでジェルパウチ吸って、その後は急いで林の縁まで向かったはずだよな? そんなもの物色して拾い集めてる余裕、一体どこにあったんだ?」
「あはは、チヅルちゃん……。あなた、あの極限状態で、指輪の一個一個までしっかり確認してたのね……」
ラズベルも呆れ半分、感服半分といった様子で、深々と溜息をついた。
「ええへ、だって勿体ないじゃない! リリアナちゃんに『お願いね』って言われたんだから、こういう大事な落とし物もちゃんと綺麗に回収してあげるのが、あたしたちの責任でしょ?」
チヅルは猫耳をこれ以上ないほど誇らしげに立て、夕日に輝く莫大な金貨(の幻影)を見つめるようなうっとりとした目をして、得意げに胸を張ったのだった。
***
翌朝からの大規模な遺跡調査に向け、ギルド『潮鳴りの鉄錨』の周辺は、深夜まで慌ただしい活気と熱気に包まれていた。 チヅル、ユイ、ラズベルの三人は、自宅へ戻る手間を惜しみ、今夜はギルドのすぐ裏手に位置する老舗の宿『海鳴りの安らぎ亭』に泊まることに決めた。ここなら、夜明け前の集合にも余裕を持って間に合う。
「……はぁ。やっぱり、この潮の香りがする街の空気は落ち着くねぇ」
宿の一階にある食堂。チヅルの前に運ばれてきたマーレン名物の「海鮮の盛り合わせ」を見て、彼女は鼻をひくつかせて顔をほころばせた。
大きな木皿には、獲れたての白身魚を柑橘で締めたカルパッチョ、ガーリックと香草を利かせた海老のソテー、および濃厚なチーズソースを纏った大ぶりの焼き牡蠣が所狭しと並んでいる。地下施設の無機質な空間とは対極にある、生命力に溢れた海の恵みだ。
「よし、まずはみんなの無事と、クエスト完遂を祝して……乾杯!」
チヅルの音頭に合わせ、三人はそれぞれのジョッキとグラスを高く掲げた。
チヅルとラズベルは、透き通った琥珀色の甘い「果実酒」。ユイは喉越しの良さを優先した黄金色の「エール酒」。
「乾杯!」
カチリ、と分厚いガラスがぶつかる心地よい音が響く。
地下施設の冷たい金属の感触も、オークやオーガとの絶望的な死闘も、美味しい食事と酒の前では、今は遠い武勇伝の出来事のように感じられた。三人は食事をたっぷりと堪能し、交互に温かな湯浴みを済ませると、清潔なシーツの感触に包まれながら、泥のように深い、深い眠りへと落ちていった。
***
翌朝。
水平線から太陽が顔を出すと同時に、ギルドの前には総勢二十名を超える『古代遺跡調査旅団』が集結していた。
現地の案内役を務めるチヅルたち三人を筆頭に、死骸の搬出や遺物の回収作業を担当する屈強なDランクパーティーが数組。さらに、万が一の不測の事態に備え、マリアがギルドマスターに掛け合って緊急招集したCランクの精鋭パーティーも二組同行している。
「出発だ! 日が暮れる前に現地に到着し、まずは周辺の状況を完全に把握するぞ!」
旅団を率いる白銀の鎧の騎士の号令と共に、物資を積んだ数台の大型馬車が、マーレンの石畳を蹴って平原へと繰り出した。
夕刻。
西日が平原の背の高い芒を長く赤く染める頃、一行の前に、沈黙する石の巨塔が見えてきた。だが、現場に到着した調査員たちは、馬車を降りるなり、その言葉を失うほどの凄惨な光景に息を呑んだ。
「……なんだ、これ。全滅……いや、これは戦闘の跡じゃない。処刑か?」
旅団長が、信じられないものを見る目で呟く。
平原には、逃げ惑うようにして絶命した夥しい数のコボルトの死体が、西日に照らされ赤黒く染まったまま放置されていた。遺跡の正面にある重厚な大扉の前には、チヅルたちが死闘を演じた五体のオークと、首を失ったオーガの巨躯が、無残に転がっている。
さらに内部に足を踏み入れた旅団の面々は、完全に絶句した。
一階の大ホールには、かつて鉄壁の門衛として君臨していたはずのトロールの死体も横たわっている。二階の居住区、三階の書庫と上がるにつれ、あちこちの回廊に整然と魔物たちの骸が点在していた。四階の儀式場では、チヅルたちが知恵と力で破壊した『鋼の守護者』が、冷たい鉄屑の山となって残っていた。
誰もが、この遺跡で起きた「見えない意志による一方的な殺戮」の痕跡に、背筋を凍らせていた。
そして、最上階の五階『展望台』。
そこには魔物の死体こそなかったが、チヅルたちが四日前に見た時とは、明らかに様子が違っていた。
リリアナが操作していた白銀の装置や円盤型のホログラム操作卓は、主を失ったことでその中枢機能を完全に停止しているかに見えた。だが、操作パネルの隅々では、役目を終えた残光のような淡い光が、ただ静かに、そして絶え間なく灯り続けているだけだった。
「……一通り、現状は確認できたな。魔物の脅威は完全に排除されているようだが、この死骸の搬出と未知の遺物の回収には、数日はかかるだろう。今日は一旦外へ出て、晩御飯を兼ねた会議を行おう」
旅団長の言葉に従い、一行は不気味な静けさを保つ遺跡から一旦距離を取り、平原で大規模な野営の準備を始めた。
完全に陽が落ち、周囲を冷たい夜の帳が包み込む。
いくつもの焚き火が焚かれ、温かいスープと保存食を口にしながら「これからの調査・回収方針」について、ベテラン冒険者たちの間で活発な議論が交わされる。
チヅルたちも火を囲みながら、ようやく肩の荷が下りたような気分でその議論を聞いていた。
だが、食事が進み、話が最も盛り上がってきた、その時だった。
ジジ……ジジジジッ!!
不意に、背後にある遺跡の巨塔そのものが、地鳴りのような重低音と共に激しく振動した。同時に、あの地下施設で聞いたのと同じ、鋭く耳を刺すような甲高い警報音が、遺跡全体から鳴り響いた。
「……っ!? なっ、この音……!」
チヅルが弾かれたように顔を上げ、背後の遺跡を見上げた。 五階の展望台付近、石壁のわずかな隙間から、警告を告げるような不吉な真紅の輝きが激しく漏れ出している。それは先ほど見た穏やかな残光などではない。遺物の最後の瞬間が迫っていることを周囲に叩きつけるような、速く、鋭い明滅を繰り返していた。
三人は信じられないという表情で、一瞬だけ顔を見合わせた。直後、その脳裏には地下施設で聞いたあの冷酷なカウントダウンのアナウンスと、リリアナが最後に言った「後始末」という言葉の真意が、ハッとするような戦慄とともに蘇る。
「団長さん! すぐにここを離れないと! 急いで! 早くっ!」
チヅルが血相を変えて悲鳴に近い進言を放つ。
百戦錬磨の旅団長は一瞬の迷いを見せたが、彼女のワインレッドの瞳に宿る真剣な恐怖と、遺跡から放たれる尋常ではない魔力の膨張を読み取り、即座に大音声で叫んだ。
「全員、食事を捨てて今すぐ退避だ!! 林の奥まで全速力で走れ! 急げ!!」
冒険者たちが訳も分からず、しかし生存本能に従って荷物を放り出し、林の奥深くを目指して必死に駆け出した。
背後で、真紅の光が限界まで膨れ上がっていくのが見えた。
林の奥深くへ向かって、冒険者たちが転がるようにして駆け込む。
その直後だった。
ズドォォォォォォン!!
空気を切り裂くような轟音と共に、古代遺跡の基底部から石材が砂のように崩れ出した。五階の展望台付近からは、太陽の光さえも掻き消さんばかりの眩い純白の閃光が噴き出し、夜の平原を昼間のような残酷な明るさで包み込んでいく。
数秒後。
王宮魔術師団が放つ戦略級攻撃魔法『エクスプロージョン』をも凌駕する、人知を超えたエネルギーの解放が巻き起こった。
爆炎は半径百エムにも達する巨大な球体となって膨れ上がり、周囲の平原を白銀の光で包み込む。誰もが鼓膜の破れるような爆音と、全てを焼き尽くす熱波を覚悟し、地面に這いつくばって頭を抱えた。
だが、その光の球が最大に達した、まさにその瞬間――。
シュン……ッ!
物理法則を完全に嘲笑うかのような、異様な「インプロージョン(爆縮)」が起きた。
熱も、風も、衝撃波も、一切発生しなかった。ただ、限界まで広がった光の球体が、まるで見えない巨大な神の手に握りつぶされるようにして、中心の一点へと急速に、そして音もなく収束していったのだ。
あとに残されたのは、耳鳴りがするほどの完全な静寂だった。
林から恐る恐る顔を出した旅団のメンバーたちは、自分の目を疑った。かつてそこに聳え立っていたはずの石の巨塔も、その周囲に散乱していた夥しい数の魔物の死骸も、全てが文字通り「空間ごと消滅」していたのだ。
そこにはただ、えぐり取られたような完璧な円を描く巨大なクレーターだけが静かに横たわっていた。遠く離れた林からでは、暗闇に阻まれてその底がどうなっているのかすら確認できない。
あまりの光景に、百戦錬磨の旅団のメンバーたちでさえ腰を抜かして座り込み、あっけにとられていた。何が起きたのか、魔法の概念ですら説明のつかない「無」への回帰。
その凄絶な光景を前に、チヅル、ユイ、ラズベルの三人は、糸が切れたようにその場に膝をついた。空っぽになったクレーターの方角から吹き上がってくる、湿った土の匂いを孕んだ虚無の風を受けながら、三人は力なく天を仰ぎ、誰からともなく声を合わせた。
その叫びは、震えるほど弱々しく、けれど静まり返った平原に妙に高く、澄んで響き渡った。
「「「……ここまでやるかぁー……」」」
それは、怒りでも悲しみでもなかった。
自分たちのいた世界の痕跡を、この世界に一欠片の塵すら残さない。リリアナが最後に言った『後始末はしておくわ』という言葉の、あまりにも徹底した、そして凄絶なまでの仕事ぶりに対する、脱帽と呆れが混じった、乾いたため息のような絶唱だった。
***
一夜にして、地上の脅威も遺産も、その全てが消滅した。
調査旅団は、なす術もなく翌朝早くに撤収を決定した。本来なら数日かけて行われるはずだった未知の遺物の回収作業が、対象物の完全な消失によって物理的に不可能になったからだ。
マーレンへの帰路。馬車の揺れに身を任せる三人の間には、行きとは違う重苦しい沈黙が流れていた。
激しい戦闘をしたわけではない。ただ、自分たちが目撃した「世界の消失」という現実と、その後に残されたあの虚無の光景が、底知れない疲労となって全身を支配していた。窓の外に広がる、昨日と何も変わらない平和な平原の景色が、かえって残酷に感じられるほどの深い虚脱感だった。
夕刻、マーレンの街に到着すると、ギルドの前で受付嬢のマリアが血相を変えて迎えてくれた。
「お疲れ様です……! 話の概略は、先駆けの早馬で旅団長から聞いています。遺跡が消えたなんて……。詳細は明日、公式の場で伺いますので、今夜はどうかゆっくり休んでください」
翌朝。三人はギルドの二階にある、重厚な扉で閉ざされた遮音術式が施された会議室へと呼び出された。 長テーブルの奥には、眉間に深い皺を刻んだギルド長をはじめ、遠征の旅団長、マーレン領主の側近、さらには王都から急派された青いローブの調査員の姿もあった。
会議は、旅団長による淡々とした事実説明から始まった。
魔物の死骸の確認、そして突如として発生した「爆縮」による対象物の完全消滅。チヅルたちは時折助言を求められ、地下で見た光景や、管理者の少女が最後に語った「後始末」という言葉の意味を補足した。
「……つまり、その『異界の管理者』である少女は、自身の世界へ帰還する際、意図的に地上の施設と魔物を全て消去した、と。信じがたい技術力だが、あの巨大なクレーターの跡を見れば、事実として認めざるを得んな」
領主の側近が、苦渋に満ちた表情で羊皮紙にメモを取る。魔法の及ばない超技術の存在は、国の根幹を揺るがしかねない事実だった。
朝から始まった息の詰まるような審議は昼過ぎまで続き、全ての証言を終えた三人は、ようやくその重圧から解放された。
「……疲れたねー」
「だなー……。オーク五体相手にする方がまだマシだぜ」
「そうだねぇ。偉い人たちの前だと、肩が凝っちゃうわ……」
ギルド併設の食堂。少し遅くなった昼食を前に、三人は揃って力なく呟いた。ユイはエールの木製ジョッキをぼんやりと眺め、ラズベルはスープに浮かぶ具材をスプーンで無意味にかき混ぜている。
「……あ! そうだ!」
ふと、チヅルが何かに雷を打たれたように顔を上げた。自慢の猫耳がピンと垂直に立つ。
「あたしたち、古代遺跡探索の公式報告は終わったけど、マリアさんとの報酬の手続きと、あの『戦利品』の買取交渉がまだだった!」
先ほどまでの疲労困憊はどこへやら。そのあまりにも現金で生命力に溢れた一言に、ユイとラズベルは顔を見合わせた。そして、この数日間で初めて「いつもの空気」を取り戻したような気がして、二人して小さく吹き出した。
「お前なぁ……本当にブレないよな。よし、行こうぜ。特別ボーナスをもぎ取ってやろうぜ」
三人はそのまま、一階のマリアのカウンターへと突撃した。
今回の調査は、結果的に地上の遺跡と遺物そのものが消滅したものの、事前情報にあった「未知の魔物の脅威」を完全に取り除いた功績が認められ、異例の「Cランク依頼完遂相当」として扱われることになっていた。
「まず、基本報酬として金貨一枚。そして、持ち帰られたオーガの角や牙などの素材買取が金貨三枚。さらに、パーティのアイテム回収報酬――他パーティの遺品の返還協力金が銀貨五十枚……」
マリアがカウンターの算盤を弾き、テキパキと数字を並べていく。
「最後に、あのオーガから入手した魔法石。これは非常に希少な大物であるため、金貨二枚で買い取ります。合計で、金貨六枚と銀貨五十枚になります」
チヅルたちは、金貨二枚ずつをそれぞれの個人的な報酬とし、残りの銀貨五十枚はパーティ活動資金としてラズベルの共有財布に収めた。 あの巨大なクレーターに遺物の痕跡が残されていないか、今後、領主直属の冒険者と王国の調査団が本格的な再調査を行うことになったという。
自分たちの役目は、これで本当に、すべて終わったのだ。
***
ギルドでの息の詰まるような公式報告と、莫大な報酬の受け取りを終え、数日ぶりに自分たちの拠点である「家」へと帰り着いた三人。
使い慣れた湯浴み場で遺跡の土埃と極度の緊張をすっかり洗い流すと、ようやく彼女たちの身体に本来の「日常」の感覚が戻ってくるのを感じた。
キッチンからは、ラズベルが手際よく包丁で野菜を刻む小気味よい音と、香草とお肉を炒める食欲をそそる匂いが漂ってくる。ユイもいつものように、不器用ながらも甲斐甲斐しく皿並べを手伝っていた。
チヅルはダイニングテーブルとセットになっている椅子に深く腰掛け、マジックポーチから、あの『白銀の箱』を取り出して眺めていた。 リリアナが最後に「いずれ分かる時が来る。今はただ、預かっておいてほしい」と託した、お弁当箱ほどの大きさの無垢な塊。 「……これ、どうやって開けるんだろう」 色んな角度から眺めたり、軽く叩いたり、滑らかな表面を指でなぞったりしてみるが、やはり開け口はおろか、継ぎ目すら見当たらない。
ふと、チヅルはもう一つの大切な形見である『魔道提灯』のことを思い出した。 ポーチから提灯を取り出し、まじまじと観察する。すると、提灯の基底部――普段は気にも留めない底の部分に、小さな四角い穴が開いているのを発見した。 「ん!? なんだろう、この四角い穴は」
そしてチヅルは、無意識のうちに提灯の側面にある金属の突起をカチリと押し込んだ。 純白の柔らかい光がリビングに広がり、テーブルの上に並べて置かれた白銀の箱を優しく照らし出す。 すると、光を浴びた箱の表面に、あの地下施設のエレベーターや調律扉で見たのと同じ、幾何学的な記号が陽炎のように浮かび上がった。チヅルがその記号の並びにそっと指を触れると、シュゥゥ……という微かな排気音がして、強固だった白銀の箱が、まるで花が開くように左右に滑らかに割れた。
「あ、ひらいた!」
チヅルの弾んだ声に、キッチンからユイとラズベルが慌てて駆け寄ってくる。
開いた箱の中央、柔らかい緩衝材に包まれるようにして収まっていたのは、細長い長方形の、黒く透き通った未知の素材でできた棒状の物体――あの心臓部で使った「記憶媒体」に酷似したものだった。
「あれ、この大きさ……それにこの形。ひょっとして」 チヅルはそれを指先でそっと摘み上げると、魔道提灯の基底部にある四角い穴へと、静かに差し込んだ。
カチッ。
完全な精度で噛み合う音。
刹那、提灯の純白の光がふっと収束し、リビングの中空に、光の粒子で構成された鮮明な立体映像が浮かび上がった。
そこに立っていたのは――あの桃色の髪を揺らす、リリアナの姿だった。
『――みんな、ごきげんよう』
空間に響いたのは、機械的な合成音声ではない。穏やかで、少しだけはにかんだような、温かい血の通った彼女本来の肉声だった。
驚きで息を呑む三人の前で、映像の中のリリアナは、静かな夜の『第一居住・休憩ユニット』のコンソール前に立っていた。
『この映像を見ているということは……私はもう、無事に元の世界へ帰還できたか、あるいは……この世界には、いないということね』
映像は、おそらくあの大勝負の直前、三人が大きなベッドで深い眠りに落ちていた夜に記録されたものだった。
『明日は、いよいよ大詰めの挑戦。次元跳躍という不確かな理論に命を預けるのは、システム管理者としては失格かもしれない。だから……実は、ちょっとだけ緊張しています。……それにしても、みんなの寝顔、本当にかわいいな』
映像が不意に切り替わり、チヅル、ラズベル、ユイの三人が、一つの大きなベッドに川の字になって、無防備な寝息を立てて眠る姿が映し出された。チヅルの猫耳が寝返りを打つたびにピクピクと動き、ユイが眉間にしわを寄せて毛布を抱き込み、ラズベルが安心しきった穏やかな顔をしている。
再びリリアナの顔が映り、彼女は慈しむような、そして今にも泣き出しそうなほど優しい瞳でこちらを見つめていた。
『どんなに高い壁があろうとも、私たちはもう、仲間だよね。三〇〇環という永い孤独の果てに、あなたたちに会えて、本当に良かった。私の止まっていた時間を動かしてくれて、いくら感謝してもしきれない。……ありがとう』
リリアナが、胸に手を当てて深く、美しいお辞儀をする。
『明日、何があっても、私は頑張れる。……チヅル、ラズベル、ユイ。私の、大切な仲間たち。みんな、大好きだよ。……ふふっ、柄でもないことを言っちゃったから、ちょっと恥ずかしいな』
頬をほんのりと染めてはにかむ、年相応の少女のような笑顔。
『よし、明日は頑張るぞ!』
その力強い宣言の後、映像は、四人で調律扉に挑んだ瞬間の輝きや、女子会でマジック・ショーツの話をして腹を抱えて笑い転げた夜の光景を、走馬灯のように紡ぎ出していった。
それは、最期の決断の直前までを記録した、チヅル一行とリリアナだけの、世界で一番温かく、愛おしい思い出の断片だった。
三人は、空中に流れるその静かな光の映像を見つめながら、言葉を発することさえできなかった。
ただ、チヅルの大きな瞳からポロリと雫がこぼれ落ち、ユイが堪えきれずに強く唇を噛み締め、ラズベルが両手で口元を覆い隠す。誰からともなく、彼女たちの頬を温かな涙がとめどなく伝い落ちていった。
窓の外、マーレンの夜空には、あの遺跡の展望台から四人で見上げたのと同じ、どこまでも深く、澄み切った満天の星々が広がっていた。
星の瞬きは、遠い次元の彼方へ旅立った少女の無事と帰還を祝福するように、いつまでも、いつまでも優しく輝き続けていた。
――第十章:完。




