第九章:牙を剥く野生と非情なる後始末
地下のホログラムではない、本物の星々が残酷なまでに美しく、そして冷たく瞬いている深い藍色の夜空のもと、超高速昇降機による、物理法則を剥き出しにした暴力的な重力加速度。それを耐え抜いて地上へと生還した三人は、しばらくの間、白銀の『入口棟』を背後に、冷たい地面の上で大の字になって横たわったまま、久しぶりに味わう地上の空気を満喫していた。
全身を襲うのは、安堵感よりも先に、神経を逆撫でするような軋むような鈍い痛みと、鉛のように重い極限の疲労感だった。
「……ねえ。そういえばさ」
静寂の中、チヅルがまだ少し震える声で、夜空を見上げたまま不意に口を開いた。
「あの遺跡の中にいた魔物たちって……いつまで働いているんだろうね。リリアナちゃんっていう『ご主人様』がいなくなっちゃったのに」
その何気ない、純粋な疑問が冷えた空気に落ちた瞬間。
隣で目を閉じて休息を貪ろうとしていたユイの思考回路が、強制的に生存本能を呼び覚まし、最悪の可能性を瞬時に弾き出した。
「……っ、くそっ……!」
ユイは弾かれたように鋭く身を起こすと、傍らに置いていた魔刀『白綱』の柄を強く握りしめた。その顔からは、先ほどまでの安堵の色が完全に消え去り、戦慄の表情が浮かんでいる。
「ヤバいっ……! こんなところでへたってる場合じゃないぞ! 魔物たちの首輪に『命令』を送り、あの軍隊のような異常な規律を維持させていたのは、管理システムであるリリアナだったんだ。そのリリアナがいなくなって、地下の動力源ごとシステムが完全に落ちた今……あいつらはどうなる!?」
そのユイの懸念が現実となるのに、一秒の猶予もなかった。
ドゴォォォォォォ……ン!!
数十メートル先、沈黙していたはずの地上五階建ての巨大な遺跡本体。その一階正面にある重厚な石の大扉が、内側からの猛烈な、そして暴力的な圧力によって吹き飛ぶように開放された。
暗闇を貫いて平原に響き渡った咆哮は、二日前に彼女たちが見た、あの機械のように統制された軍隊のそれではない。飢えと、殺戮と、長い間抑えつけられていた怒りの本能に完全に塗り潰された、生々しい獣の叫びだった。
もうもうと舞い上がる土煙の向こうから、地響きを立てて現れたのは、五体の『オーク重装歩兵』だった。
体長二エム超。ヒューマンより一回りも二回りも大きく、太マッチョの筋肉が分厚い革と鉄の鎧を内側から押し返さんばかりに盛り上がった暴力の塊。かつて一糸乱れぬ隊列を組んでいた彼らは今、隊列など無視して互いにぶつかり合いながら、どす黒い赤い瞳をギラつかせ、獲物を求めて猛然と躍り出てきた。
「……距離はある。けど、まずいわ!」
ラズベルが顔を青ざめさせ、遺跡から死角になる林の縁を指差した。
そこには、三日目の夜である今日、彼女たちを迎えに来て待機している約束の御者が、馬車と共に潜んでいるはずなのだ。
「あそこにはただのヒューマンである御者さんがいるの! もしあいつらに見つかって、林に向かわれたら、ひとたまりもないわ……!」
気力と疲労の限界。 本来なら一目散に逃げ出すべき状況だ。だが、自分たちを信じて待ってくれている無力な一般人を、飢えた魔物の群れに差し出すような真似は、彼女たちの矜持が許さなかった。
「……逃げるわけにはいかないね。あたしたちに気を向けさせて、あいつらだけでもここで絶対に殲滅しなくちゃ!」
チヅルが凛とした声を上げると、痛む足に鞭打って立ち上がり、即座に両腕を大きく広げた。 気力を振り絞り術式を構築するために集中する。そして身体強化魔法をユイとラズベルに向けて放つ。
「身体強化魔法 ――『フォルト』!」
三人の全身を、淡い琥珀色の光が包み込む。極度の疲労状態の中、強制的に筋肉と骨格の強度を底上げし、戦うための活力を細胞の隅々まで無理やりに行き渡らせる。
間髪入れず、チヅルは、こちらに気付いて突進してくる五体のオークのうち、左右に展開して包囲陣を敷こうとしていた二体に向けて、両腕を鋭く突き出した。
「あなたたちは、そこでおすわり! ――『バインド』!」
チヅルの魔力に応じ、石の床を突き破って地中から生えた太い魔力の鎖が、二体のオークの丸太のような脚に強固に絡みつく。
予期せぬ拘束に、猛スピードで突進していた二体の巨躯は勢い余って派手に転倒し、凄まじい土煙を上げながら、鎖を力ずくでちぎろうと咆哮を上げて激しくもがき始めた。
「やるな、チヅル! 一体はあたしがもらう! ――剣技、『紫電一閃』!」
ユイの姿が、文字通り夜の平原を駆ける雷光となって掻き消えた。
彼女の神速の居合の抜刀術から放たれた青白い一撃が、先頭を走っていたオークの分厚い胴体の鎧を両断し、その下の肉を深く斬り裂く。
だが、本来の「野生」を取り戻したオークの生命力と闘争心は凄まじかった。致命傷には至らないと悟るや否や、オークは傷の痛みでさらに逆上し、血走った目でユイを睨みつけ、巨大な棍棒を天高く振りかぶったのだ。
満身創痍の三人と、解き放たれた野生の群れ。
月明かりの平原で、絶対に負けられない絶望的な死闘が幕を開ける。
空気を切り裂く轟音と共に、オークの丸太のような腕から巨大な棍棒が無慈悲に振り下ろされた。
だが、ユイはその凶悪な一撃を紙一重で躱すと、そのまま流れるような体捌きでオークの死角へと回り込む。彼女の身体は、チヅルの身体強化魔法『フォルト』によって筋力と骨格の強度が底上げされているとはいえ、超高速昇降機でのダメージは確実に彼女の筋肉と神経を深く蝕んでいた。
「ユイちゃんの元にはいかせない! あたしが相手よ!」
ユイの背後から別のオークが襲い掛かろうとした瞬間、ワンピースの下に着こんだスケイルメイルを鳴らしてラズベルがその前に立ちはだかる。
剛腕から繰り出される無慈悲な横薙ぎの棍棒。ラズベルは愛用のアダマンタイト級の巨大なフライパンを両手で斜めに構え、その強烈な衝撃を極限まで逃がしながら受け流した。
ギィィィンッ! という鼓膜を刺すような金属音が鳴り、激しい火花が散る。ラズベルの両腕の骨がミシリと悲鳴を上げたが、彼女はその激痛に耐え抜き、オークの体勢が崩れた一瞬の隙を見逃さなかった。
「特製スパイス、おあがりなさい!」
ラズベルは腰のマジックポーチから取り出していた小さな革袋を、オークの醜悪な顔面へと容赦なく叩きつけた。
袋が弾け、中から香辛料を極限まで濃縮した刺激臭のする赤い粉末が、オークの眼球と鼻腔を強烈に襲う。魔物にとっても致命的なその刺激に、オークは苦悶の叫びを上げて顔を覆い、振り回す棍棒の軌道が大きく乱れた。
二人の激しい攻防の隙を突き、フリーになっていた残る一体のオークがユイとラズベルの間を抜け、後衛のチヅルに向かって猛然と突撃してきた。
「これで仕留める! ……これが銀貨二十枚の力だ! スクロール展開、――『ファイア・ランス』!」
チヅルはマジックポーチから引き抜いた黄金色のスクロールを素早く目の前に掲げた。
すぐさま自身の魔力をトリガーとして流し込むと、スクロールが空中で燃え上がり、眩い魔法陣が展開される。放たれた極大の炎の槍が、夜の闇を切り裂き、迫りくるオークの分厚い胸部装甲を正確に直撃した。
ドォォォン! という爆発音と肉の焦げる嫌な匂いと共に、オークは大きくよろめき、重傷を負ってドスンと片膝を突いた。
「トドメだ! ――剣技、『不知火』!」
一方、死角に回り込んでいたユイは、自身の相手をしていた最初のオークに対し、魔刀『白綱』の切っ先を脇腹――防具の継ぎ目の僅かな隙間へと神速の突きで捻り込んだ。
鋼のような筋肉を貫通し、刀身に帯びた灼熱の魔力が切っ先の極小の一点に凝縮され、肉の内部へと直接解放される。刹那、オークの巨躯の内側で猛烈な熱膨張が爆発的に発生し、分厚い装甲を内側から引きちぎるようにして完全に絶命させた。
崩れ落ちる巨躯を尻目に、ユイは息つく間もなく地面を蹴り、すぐさまラズベルと交戦しているオークの元へと加勢に向かった。
その途中、チヅルによって重傷を負わされながらも、再びチヅルへと向かって立ち上がろうとするオークの姿が視界の端に映る。
「チヅル、そいつは頼む!」
「まかせて!」
ユイは背中を相棒に預け、そのままラズベルの援護に入る。
目潰しを喰らって盲滅法に棍棒を振り回すオークに対し、ラズベルが冷静に盾となってその連撃を耐え凌いでいる。その完璧な防御のタイミングを縫って、ユイの『白綱』がオークの隙だらけの首筋を深く切り裂き、確実に仕留めた。
それとほぼ同時。チヅルと交戦している重傷のオークが、チヅルの素早い牽制の動きに翻弄されて大きくバランスを崩した。その一瞬の隙を見逃さず、目の前のオークを倒したばかりのラズベルが地を蹴って駆け寄り、渾身の力でフライパンをフルスイングする。鈍い音とともにオークの側頭部を強打し、完全に沈黙させた。
残るは、チヅルの魔法の鎖に拘束されている二体。
オークたちは怒り狂い、いまにも力ずくで鎖を引きちぎろうと暴れ回っていた。
「ユイちゃん!」
「おうっ! ――剣技、『紅炎一閃』!」
ユイの刀が夜の闇に鮮やかな紅蓮の軌跡を描き、バインド状態のオークのうち、一体の太い首を正確に捉え、その重い頭部を宙へと撥ね飛ばした。
最後の一体。ついに鎖を引きちぎって自由になったオークに対し、チヅルはマジックポーチからスリンガーを取り出し素早く構え、小爆発を起こす『爆焔礫』を顔面へと放った。
パーン! と頭部に直撃し、オークが顔を覆ってよろめいたところへ、ラズベルがフライパンで強烈な足払いをかけるように下段を薙ぎ払い、巨躯のバランスを完全に崩させる。
そこへユイの追撃の刃が閃き、脇腹を深く切り裂く。五体目のオークも、ついに物言わぬ骸へと変わった。
「……はぁ、はぁ……っ。なんとか、倒せた……?」
月明かりの下、五体のオークの残骸と赤黒い血溜まりに囲まれ、三人は激しく肩を上下させた。
限界を超えた戦闘による極度の疲労が、一気に彼女たちの体を鉛のように重く沈ませる。ユイの握る刀の切っ先は微かに震え、ラズベルの呼吸もひどく荒い。
だが、安堵の息を吐き出すには、彼女たちの運命はあまりにも残酷だった。
ズゥゥゥゥ……ン。
先ほどオークたちが飛び出してきた遺跡の一階入口の暗闇から、先ほど死闘を演じた五体から放たれていたプレッシャーとは完全に次元の異なる、圧倒的で濃密な「死の威圧感」が溢れ出した。
地響きを立てて、ゆっくりと月明かりの下へ姿を現したその影。
それは、体長三エムにも迫る筋骨隆々の巨躯に、巨大な鉄柱のような棍棒を引きずり、どす黒く拍動する二つの赤い瞳を持つ強大な魔物――『オーガ』だった。
オーガの出現に呼応するように、周囲の草むらに潜み、彼女たちの隙を窺っていたコボルトたちは、真の王を恐れる家臣のように悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように林の方へと逃げ去っていく。
そして、その逃走の先には、無力な御者が待つ馬車があるのだ。
「……冗談、だろ」
ユイの口から、乾いた絶望が漏れた。 三人は、鉛のように重い腕を歯を食いしばって再び上げ、武器を構え直した。 満身創痍。気力が底を突きかけ、体力はとうに限界を超えている。目の前に立つのは、万全の状態のCランクパーティーでさえ油断できない脅威。
チヅル、ユイ、ラズベル。
荒い息を吐きながらも、三人は互いの視線を静かに交わした。そこにあるのは、圧倒的な死への恐怖を無理やりにねじ伏せた、言葉を超えた戦友としての確信だ。固く結ばれた絆が、折れかけていた心と震える足に、再び鋼のような力を宿していく。
「……この戦いに勝って、明日の夕方にはマーレンで一番美味しいお肉を、お腹いっぱい食べるんだから! デザートだって、絶対に山盛りにしてやるんだからね!」
極限の絶望を、あまりにも自分らしい「欲」の力で強引に塗り替えるチヅルの叫び。
「……チヅル。この土壇場で食い物の話かよ。全く……典型的な死亡フラグが立ちそうなセリフは勘弁してくれ」
ユイは呆れ果てたように吐き捨てたが、その口元にはどこか誇らしげで、不敵な苦笑いが浮かんでいた。相棒の理不尽なまでの前向きさに救われたかのように、魔刀を構え直すその指先から、一切の迷いが消え去る。
冷たく冴えわたる月光の下、筋骨隆々の山のようにそびえ立つオーガ。
その圧倒的な暴力を前に、少女たちの真の死闘が、今、絶望的な静寂を切り裂いて始まろうとしていた。
その絶望的な静寂を真っ先に切り裂いたのは、オーガの空気を震わせる巨大な咆哮だった。
刹那、体長三エムにも迫るその巨躯が、見かけの質量からは想像もつかない恐るべき瞬発力で大地を蹴る。
ズドォォォォン!!
爆発的な突進。オーガが振り下ろした丸太のような太い腕が、ユイが先ほどまでいた地面の石畳を無残に粉砕する。ユイは紙一重でその暴風のような一撃をかわし、すれ違いざまに脇腹を斬り裂くが、浅い。オーガの強靭な皮膚と分厚い筋肉は、限界に近いユイの刃を容易には受け入れなかった。
「かたっ……! 普通の斬撃じゃ、ただの掠り傷だ!」
ラズベルが正面から叫び声を上げてオーガの注意を引き、フライパンで風圧を受け流しながら翻弄しようとする。だが、オーガの一撃をまともに受ければ、盾代わりのフライパンごと肉体が砕かれかねない。チヅルはスリンガーで爆裂礫を放ち、少しでも動きを鈍らせようと足元や顔面を狙うが、オーガは鬱陶しい羽虫でも払うかのように意に介さず、ただ生々しい殺戮の本能のままに三人を追い詰めていく。
一進一退。いや、それは確実に彼女たちの残り少ない命の灯火を削っていく、死のダンスだった。
三人の動きは目に見えて鈍くなり、呼吸は火を吐くように熱く、重い。チヅルの身体強化魔法『フォルト』の琥珀色の輝きも、今は風前の灯火のように淡く明滅し、彼女たちの足元は痛々しいほどにおぼつかない。
そして、ついにその限界は、致命的な一瞬の隙となって表れた。
「……あ」
極度の疲労と、張り詰めていた気力の限界により、チヅルの膝がついにガクリと折れた。 そしてそれを見逃すオーガではなかった。 獲物の動きが完全に止まったのを悟った怪物は、残忍な笑みを浮かべるように口を歪め、数エムもの距離をひと跳びにする、豪快な『ジャンピングダイブ』を敢行した。
空を覆う巨大な影。冷たい月明かりが遮られ、圧倒的な死の質量がチヅルの頭上から降り注ぐ。
「まじかよ、こいつ……っ!! チヅル!!」
ユイが血を吐くような悲鳴を上げ、咄嗟に飛び込もうとする。ラズベルもフライパンを頭上にかざし、チヅルを庇うようにして全身を硬直させた。
「――『中級防御結界』!!」
チヅルがマジックポーチから、銀貨五十枚を投じて購入したもしもの時の防衛手段――銀色に輝く魔法スクロールを奪い取るように引き抜き、空中に展開した。
バチィィィィィィン!!
空中で展開された六角形の結晶状の壁が、落下してくるオーガの巨躯を真っ向から受け止めた。激しい火花と魔力の軋む音が平原に響き渡り、オーガのダイブを間一髪で後方へと弾き飛ばす。
ドスンと地面に叩きつけられたオーガは盛大にしりもちをつくが、すぐに野生の怒りを爆発させて咆哮し、再び立ち上がった。
だが、スクロールの魔力展開に最後の気力を絞り尽くしたチヅルはもう、一歩も動けなかった。
そして完全に床に崩れ落ち、ユイもラズベルも、武器を構える姿勢すら維持できずに膝を突いている。怒り狂うオーガを仕留める決定的な一打など、今の彼女たちは持ち合わせていなかった。
(……ここまで、なのかな)
意識が遠のき、迫り来る巨大な影を見上げながら、チヅルの脳裏に、一つの光景がフラッシュバックした。
それは、次元の彼方へと消えゆく間際に見せた、あのリリアナの優しく、けれどどこか申し訳なさそうな表情。
あの時、転送の光の中で音もなく動いた彼女の唇。その意味をチヅルは測りかねていたが、死の淵に立つ今、その残像が鮮明な音声を伴ってチヅルの耳の奥で再生された。
(――『後始末はしておくわ、あとはお願いね』)
チヅルがその言葉の意味を本能で理解した、まさにその時だった。
ジジ……ッ、ジジジジッ!
オーガの太い首に深々と填められた、あの鈍く光る金属の拘束具。
そこに埋め込まれた不気味な赤い石が、システムの最終宣告を告げるように、一瞬だけチリッ……と無機質な光を放った。
「……え?」
三人にトドメを刺そうと立ち上がっていたオーガが、不自然にピタリと動きを止めた。
直後、静寂の中に響いたのは、目に見えないほど細く鋭い「何か」が、一切の抵抗を許さず空間ごと物質を断ち切ったかのような、乾いた、およびあまりにも冷酷な音だった。
シュン……ッ。
オーガの首筋に、一筋の細い銀の線が走る。
次の瞬間、オーガの巨躯は岩のように硬直したまま動かなくなり――わずかに首が横にずれたかと思うと、その重い頭部が重力に従ってゴロリ、と地面へと落下した。
ドサリ。
主を失った巨大な胴体が、噴水のような血飛沫を上げる時間すら許されぬほどの精密さで、後方へと倒れ伏す。
そこにあるのは、死闘の余韻や勝利のカタルシスなどではない。何らかの自動処理が淡々と完遂されたかのような、ひどく事務的で非情な「処置」の結果だった。
「……なにが、起きたの……?」
ラズベルが震える声で呟いた。
目の前で、一瞬にして首を撥ねられた怪物の死体。そして、その首元から外れ、今や役目を終えてただの冷たい金属の輪に戻った拘束具。
リリアナという管理者の信号を失い、制御不能な「野生」へと戻った魔物たち。
彼らに対し、地上で魔物の制御を開始してからの数か月間、一度も作動することのなかった恐ろしい安全機構――システムによる生体ユニットの強制排除が、猶予時間を経てついにその牙を剥いたのだ。
三人は、その超科学の理屈を完全に理解することはできなかったが、ただ一つ、自分たちの命を絶望の淵から繋ぎ止めたのが、あの次元の彼方へ消え去った少女の「冷酷なまでの優しさ」であったことだけを、肌で悟っていた。
月明かりの下、首を失ったオーガの巨躯が、音もなく静かに横たわっている。 ほんの少し前まで平原を支配していた狂乱が嘘のような、不気味なほどの静寂。チヅルたちは、握りしめた武器を下ろすことさえ忘れ、リリアナが遺したあまりに非情で、かつ確実な「処置」の結果をただ呆然と見つめていた。
「……あ、そうだ」
その重苦しい沈黙を破ったのは、チヅルの拍子抜けするような、しかしどこか確信に満ちた一言だった。 チヅルはふらつく足取りで自身の腰のマジックポーチへ手を突っ込むと、中から銀色の平たいパウチを三つ、手品のように取り出した。
「じゃーん! これ、あの地下の休憩ユニットからこっそり貰ってきた『バニラ・ストロベリー味』の滋養強壮ジェル!……さぁ、みんな、これ飲んでエネルギーを充填しよう!」
「おっ、それは……! 例の『最強のやつ』じゃないか!」
ユイが、パウチを目にした瞬間に弾かれたように身を乗り出した。あの地下施設で、飲んだ瞬間に体力を全回復させた驚異の効き目。その味と効果を既に知っている彼女にとって、それは今、どんな高級ポーションよりも心強い「救済」だった。
「わぁ、助かるわ……。あの人工的な味、なんだかんだで癖になっちゃってたのよね」
ラズベルも力なく笑いながらパウチを受け取った。三人は慣れた手つきでキャップを捻ると、中身の栄養剤をチューチューと勢いよく吸い込んだ。
「……っ、これこれ! 喉を通った瞬間に、細胞が直接叩き起こされるこの感じ!」
ユイが驚愕と歓喜の入り混じった声を漏らす。パウチから流れ込んだ高濃度のエネルギーは、地下施設で味わったあの甘美な味わいと共に、強烈な活力を全身の隅々へと送り込む。重力加速度で軋んでいた骨格、死線の連続で焼き切れるようだった神経、そして極限の疲労。それらが、まるで高度な魔法の消去を掛けたかのように、一瞬にして霧散していった。
「本当……、お腹の底から、力が湧いてくるわ。……リリアナちゃんの世界の技術って、やっぱり冒険者ギルドの最高級ポーションよりも遥かに凄いわね」
ラズベルも頬に健康的な赤みを取り戻し、愛用のフライパンを力強く背負い直した。
全身に活力をみなぎらせるのを確認すると、ユイは不意に入口棟――あの白銀の扉があった場所を振り返り、夜空に向かって思い切り叫んだ。
「リリアナ! 所長さんやロロアさんのことを言えないぞ。あんたのサプライズ、マジでビビったじゃねーか!」
ユイの叫び声は冷たい夜風に乗って、遠い夜空へと吸い込まれていった。ラズベルはその横で、「全くだわ。あんなサプライズ、寿命が縮むわよ」と呆れたような、しかしどこか晴れやかな苦笑いを浮かべていた。
「さぁ、御者さんが待っている林の縁へ急ごう!」
チヅルの明るい号令に、二人は力強く頷いた。 三人は夜の平原の先にある、御者と申し合わせた場所を目指して歩き出す。だが、その道中で彼女たちが目にしたのは、二日前に見た「軍隊」として強固に機能していた群れが、ただの「物」へと成り果てた凄惨な光景だった。
「……うわっ。これ、全部かよ」
ユイが思わず息を呑み、歩みを止めた。
月明かりに照らされた背の高い草むらのあちこちに、首を失ったコボルトの死体が、折り重なるようにして点在していたのだ。抵抗した形跡も、逃げようともがいた痕跡さえない。
管理者の信号が途絶えたその瞬間に、全ての首輪で死へのカウントダウンが開始され、設定された猶予時間が尽きた刹那、一斉に、かつ精密にその「機能」――すなわち、生体ユニットの強制排除を完遂させたのである。
「リリアナ、マジ悪魔かよ……」
言い得て妙だった。愛らしい少女の皮を被った悪魔が下した、冷酷無慈悲な一斉審判。そのあまりに事務的で完璧な惨状を前に、ユイは引き攣った顔で呟く。かつては整然と規律を守っていた魔物たちが、今はただの物言わぬ肉の塊として、青白い月の光を冷たく反射していた。
「『後始末はしておくわ、あとはお願いね』……か」
チヅルは、今やはっきりとその意図が理解できるようになったリリアナの最期の言葉を、静かに噛み締めるようにつぶやいた。 それを聞いたユイは、「……ったく。あいつ、最期にそんな物騒なことを言ってたのかよ。サプライズの後のデザートにしちゃあ、ブラックすぎて度が過ぎるぜ」と毒づく。だが、その声には不思議とトゲはなく、どこか遠くへ行ってしまった不器用な親友への、呆れと絶対的な信頼が混じっていた。 ラズベルは周囲に広がる静かな惨状を見渡し、「私の『お掃除魂』をもってしても、この規模のお片付けはちょっと勘弁願いたいわね」と、ため息混じりに冗談を言ったが、その瞳は悲しげに揺れていた。
三人は、ただ力なく苦笑いするしかなかった。リリアナが遺した「後始末」という言葉。それは、制御を失った自らのしもべを、一分の狂いもなく完全に始末するという、彼女なりの合理的で、かつ凄絶なまでの「管理者の責任」だった。三人はその冷酷なまでの優しさの重みを、夜風と共に確かに肌で感じ取っていた。
やがて、林の縁に小さな、温かなオレンジ色の光が見えてきた。パチパチと爆ぜる焚き火の煙が、潮風に混じって鼻をくすぐる。
「……あ! 誰か来るな!」
太い幹の陰から、恰幅の良い御者が、自衛用の短槍を構えて恐る恐る顔を出した。だが、そこに立つ三人の姿を認めるや否や、彼は大きく目を見開き、短槍を下ろして深々と安堵の息を吐き出した。
「嬢ちゃんたち! 無事だったのか! あの遺跡のあたりで、聞いたこともないような恐ろしい咆哮と……それから、大勢のコボルトたちが狂ったように押し寄せてくるのを見て……。俺ァ、もうダメかと思ったぞ!」
「ごきげんよう、御者さん! お迎え、ありがとうございます。ちょっとだけ大変でしたけど、あたしたち、ちゃんと戻ってきましたよ!」
チヅルがいつもの、世界を明るく照らすような快活な声で挨拶した。その屈託のない無傷の笑顔に、御者はようやく強張っていた表情を崩し、「そうか、そうか。……よく頑張ったな」と、何度も深く頷いた。
遺跡から逃げてきた魔物たちの気配は、リリアナの安全装置によって完全に沈黙している。
マーレンへの出発は、明日の朝一番だ。
三人は御者の用意してくれた野営地で、焚き火の温もりに包まれながら、この三日間の「異世界での冒険」を静かに反芻し、夜を明かすことに決めた。
パチパチと薪の爆ぜる音と、遠くで鳴く虫の声。
古代の遺産が眠る石の巨塔を背に、彼女たちの物語は、ようやく本当の「凱旋」に向けて静かな幕引きの時間を迎えようとしていた。
――第九章:完。




