逃避行
「ルーナ、もう少し速度を落として。きゃっ」
「アンソニア様、危ないですからしゃべらないでください。舌を噛みます」
夜明け前、まだ東の空の低い位置まで星が見えるころ、ニアを前に座らせてクリステルにまたがったルーナがクリステルを走らせていた。
下草が刈られた果樹園は薄暗がりの中でも夜目が効く馬にとっては走りやすい道のようだ。クリステルは迷うことなく木々の中を駆け抜けていく。クリステルの進行方向には白い鬼火のような仄かに明るい模様が同じく駆け足の速度で移動している。リーが安全な道を先導しているのだ。
森の中はリーフウルフの独壇場だ。戦馬の駆け足に負けない速度で俊敏に移動してく。
二頭と二人は、カーヴィ元将軍の兵に気づかれぬまま、包囲網を突破した。
◇◆◇
俺が起きたときにはもうニアたちの姿はなかった。グラニはもちろん二人の出立に気づいていたが、我関せずとだんまりを決め込んだらしい。俺も夜明けとともに出発するべく、旅の準備を始める。
「いっちまったか。まあ、俺としても馬車を捨てる案を提案するつもりだったから手間が省けたってもんだが……」
非正規とはいえ軍隊を相手にするのはさすがに多勢に無勢というものだ。組織立って追いかけられたらとてもじゃないが逃げられたものではない。これまではダエナがときどき繰り出すショートカットのおかげで包囲網の外へ逃れつつ先に進むことができた。しかしここまで包囲網が完成してしまうと単純に突破するだけでは逃げ切れるかどうか怪しくなってくる。荷物を捨てて一気に突っ切るか、あるいは別動隊の陽動で注目を集めておいて本命を逃がすか。
「命を狙われているのはニアのほうだし、俺は最悪捕まってもニアの情報を聞き出すまでは生かされるだろうしな」
ブフン、とグラニが吐息を吐く。
「ひとまず荷馬車を牽いて検問を避けつつ行けるところまで行こう。こちらに注目が集まればその分ニアたちが逃げ切れる確率が上がるってものだ」
グラニが首を上下に動かして蹄を鳴らす。
「貧乏くじだって?まあ、運が悪いのはいつものことさ。作戦自体は俺が選んだわけじゃないから何とかなるだろう。それに、おまえとしては旅の道連れがいないほうが暴れやすくて楽しいんじゃないのか?」
ヒヒンと歯を剥いて嗤うような威嚇するような表情を見せる。
「わかったって。できるだけ無茶はしないから。できるだけ、は出来ない言い訳っていうけどな。よし、行こう」
夜明けの道を荷馬車のガラガラという音が響く。
小麦や油といった嵩張る物は村に置いていったから密告を少しくらい遅らせる効果はあるだろう。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか……。姫神様、お手柔らかにお願いしますよ」
人の気配には気を配ってはいるが、兵士に出くわしたところで戦うつもりはない。逃げるか捕まるかの二択だ。一人と一頭に戻った行商人はどこか長閑な空気をまとって馬車を進めていった。
◆◇◆
「ルーナ、どうしてセオを置いて出かけちゃったの?」
ニアとルーナは夜明け前に一気に包囲網を抜けて十分な距離を稼いだところで小休止を取っていた。辺りはすっかり明るくなり、鳥のさえずりが騒がしいほどに響き合う。澄んだ小川が玉石に当たって小さな渦を作っている。
早駆けで息の荒くなったクリステルの体を草で拭いてやりながら、ルーナが答える。
「モルヴァーン郡を抜けるまであと二日ほどです。このまま荷馬車の速度で行くより、単騎で一気に距離を詰めるほうが安全です」
「でも、置いて行かれたセオは危険ではなくて?」
「彼なら大丈夫です。私たちがいないほうがむしろ安全でしょう」
「どうして?」
「もともと彼は部外者です。これまで私たちをかばいながら同行してくれていましたが、本来はかかわるべきではなかったのです」
「それはそうだけど……」
ニアが足元に目線を落とす。ニアは自分がセオを危険な状況に巻き込んだことを思い出してうつむいた。
ルーナは少しきつく言い過ぎたかとニアのほうをちらりとうかがう。だが仕方がないのだ。このままセオといっしょにいると、アンソニア様の身にきっとよくないことが起きる。直観に近い予感がルーナを動かしていた。
「でもでも、彼は攻撃が当たらないのよ?どうやって兵隊から逃げればいいっていうの?彼の力になってあげるべきだって思うの。これまでだってたくさんの悪運が彼を苦しめて来たわ。ルーナも見たでしょう?」
「これまでも彼は独力で切り抜けてきました。今回もひとりで何とかするでしょう」
「ひどいわ、ルーナ。私たちだけ安全なところに逃げて、セオは見棄てるっていうの?」
「アンソニア様……」
「アルーナ・アルベダール卿。主として命じます。セオを助けに戻りなさい」
「なりません、アンソニア様」
ルーナがニアに向き直っていった。
「どうして?あなたは守護騎士として私に従うと誓ったじゃない」
「守護騎士だからです」
ルーナがニアの足下にひざまずき、その手を取って語り掛ける。
「アンソニア様、あなた様が成人された暁には、ご命令とあらば死地に飛び込むことも厭いません。竜に単身で立ち向かいもいたしましょう。ですが、未成年のアンソニア様に対して負うべき私の第一の使命は御身の無事です。ご両親の庇護の元から離れ、守るべき兵もいない今、私の使命はあなた様を無事にご両親のもとに送り届けること。それがすべてに優先します。あなた様の望みを叶える力のない私をお赦しください。このご無礼の報いは州都に着きましてからいかなるものでもお受けいたします」
「……わがままを言ってごめんなさい、ルーナ。わかったわ。このまま州都を目指しましょう」
「姫様、ありがとうございます」
ルーナにはニアに告げていない理由がもう一つあった。
あの魔剣だ。
セオの記憶を覗いてルーナは恐怖した。
あれはただの魔剣ではない。
高位の悪神の力が宿った依り代であり、いつか近い未来に悪神そのものをこの世界に呼び込む媒介になるものだ。
そしてセオはその魔剣に半分取り込まれている。
セオの善性は信じられるものだったが、この先もずっとそのままとは限らない。魔剣の力が強まれば、いつかセオの人格すべてが取り込まれるかもしれない。
そうなる前に彼と協力して何とかすべきという思いと、主を危険から遠ざけるべきという使命感がルーナの中で渦巻いていた。
小休止を終えて再びクリステルにまたがる。
出発の前に一度だけニアが来た道を振り返りつぶやいた。
「セオ……せめてお別れの挨拶くらいはしたかったわ。無事でいてね……」




