過去
透き通るような夜空に大きな月が浮かんでいる。ニアはバルコニーに向けて大きく開いた窓扉を豪奢な部屋の中から眺めていた。
バルコニーには細やかな刺繍の施された袖なしの上衣に月の光をそのまま編んだような紗のローブを纏った姫君が佇んでいる。
「これをあなたに」
姫君の右には脛まである革のブーツを履いた長身の男の姿があった。簡素だが質のいい木綿のシャツに革の胴着を着用している。面立ちはカーテンに隠れて見えないが、この部屋の主であろう姫君と明らかに身分が釣り合っていない装いだった。
「いってしまわれるのですか……」
「必ずあなたを迎えに参ります」
男の言葉には誠意がこもっていたが、姫君の瞳にはそれが叶わぬ願いであることを知っているかのような諦念が現れていた。
男が姫君のこぼれた髪を耳元にかき上げ、そっと頬に添えた。
顔を上げた姫君の瞳が男の瞳を捕らえる。
刻が止まったような瞬間が過ぎる。
が、すぐに廊下に人の気配がして男が再び動き出す。
「わたしは必ずこれを受け取りに戻ります」
そういって姫君の手を取り、その甲に唇を押し当てる。
カーテンの影から現れた男の髪はニアと同じ髪色をしていた。
頭を下げた男の首に掛けられた革紐の先で真鍮の鍵が揺れる。大粒のアメシストが月明かりに輝いていた。
『母様?待って、あなたが私の……』
ニアの声は二人には届かない。男はそのあと姫君に二、三語つぶやき、バルコニーにつながれた綱を伝って夜に消えていった。
「リヤーナ、その男のことは忘れなさい」
香油を使って丁寧に整えられた豊かな巻き髭を揺らして年配の男性が姫君に諭すように話しかけている。姫君の父親だろうか。その口調は叱責というより娘を案じる気持ちが込められていた。
ニアは先ほどとは別の部屋に立っていた。
時間も変わっていて、日中の日差しが窓の外に濃い影を作っている。
姫君は父親の言葉に応えず、手元に目を落として小箱を縁取る細やかな唐草模様を指でなぞるようにしていた。
父親はあきらめたように首を振る。
「とにかく、このままでは外聞が悪い。おまえは甥のところへ第二婦人として嫁がせる。よいな」
否定するでもなく、肯定するでもなくただ小箱を見つめる娘にため息を残して父親は部屋を退出していった。
「ようこそ……っていうのも変な感じね。いらっしゃい、リヤーナ。七年ぶりかしら?」
「サヤーナ様」
「そんな畏まった言い方は無しよ。小さい頃からの仲じゃない」
ここは知ってる。王都のお屋敷だわ。
目まぐるしく変わる場面を眺めながらニアがつぶやく。
ここでもニアは部屋の壁際から眺めるだけの存在だ。
母様とそっくりの亜麻色の髪をした女性が第一婦人のサヤーナ母上様だと分かった。二人ともニアの知っている姿から随分と若い。
「その体で長旅は大変だったでしょう。ゆっくり休んでね」
「お気遣いありがとうございます」
「だからぁ。私たちは姉妹同然で育った仲でしょう?こうして同じ夫に嫁いだのだから、これからは本当の姉と思って頼りなさい。大丈夫。なにがあっても、あなたを守るわ」
「サヤーナ……」
さらに場面が切り替わる。
「ハロウト家の分家筋にあたる伯爵家の子女が亡くなったそうだ」
「それはお労しいことです」
「その子には姫神様の訪れがあったらしい」
「なんということでしょう」
「噂が流れてからたったひと月のことだそうだ。病死ということだが、本当のところはどうだかわからぬ」
「暗殺……ということですか?」
「証拠はない。だが、ハロウト家に巫女が現れたとなると、王位継承争いにも少なからず影響があろう。噂が噂のうちに先手を打ったという見方もあながち否定できんな」
「恐ろしいことです」
「我がマロウト家も巻き込まれないとは限らん。あの子は王都から離したほうが良いかもしれん」
ぐらりと世界が揺れて空気が変わった。
「姫神様の巫女になる可能性を考えて養ってきたが、いつまでたってもその気配もないし、そろそろ見切り時だな」
「あの子がいると私の息子たちも暗殺に巻き込まれかねないわ。疫病神は追い出しましょう」
「ああ、騒動を起こす前に切り捨てよう」
『父上様、母上様……』
突然の豹変にニアが驚愕の声を上げる。
『役立たずは要らぬ』
父上様と呼んだ男がまるで虫けらを見るような目をニアに向ける。
『突然我が家に上がり込んできて、迷惑だったのよ』
母上様と呼んだ女が蛇蝎に向けるように嫌悪の言葉を吐く。
『そんな。私は、私は……』
思わず後ずさると、背後の誰かにぶつかった。
慌てて振り返る。
そこには母様が虚ろな目で立っていた。
『あなたを妊娠したから彼は去ったの。あなたを産むために異国の貴族に嫁いで、彼と二度と会えなくなったの。彼を返して』
『ひっ』
思わず母様と呼んだ女を突き飛ばす。
影の向こうからガシャリ、ガシャリと甲冑を鳴らして人影が現れる。それはルーナの貌でニアに言葉を投げつける。
『私は王族を守る騎士として厳しい修行を耐え抜いてきたのだ。こんな出自も定かならぬわがまま娘の子守をするためではない。おまえは私の期待を裏切り、私の経歴に泥を塗った』
恨みがましい視線を浴びて、ニアはついに崩れ落ちる。
『ごめんなさい、私……』
『謝るなら死んで詫びろ』
しゃがみ込んで両手顔を覆うニアの頭上でルーナが剣を引き抜く鞘ずれの音が響く。




