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敗軍之将

 星のない夜空をカラスに似た鳥が飛んでいく。黒い翼は闇に溶け、羽音だけが不気味に響く。その輪郭は奇妙にぼやけており、艶のある嘴だけがかろうじて形を保っている。やがて深い森の中に軍の野営地が見えてきた。赤く昏い明りを投げかける松明が野営地を囲むように置かれている。百人規模の軍隊だが、うらぶれた様子が上空からでもうかがえた。

 鴉に似た鳥は松明の明かりがかろうじて届く木の枝に舞い降りて不気味な声を上げた。

 カァァ

 夜警に立っていた兵士がビクリと身をすくめ、鴉を見つけて近づいていく。

 鴉は脚に括り付けられた筒を外されるまで身じろぎもせずじっと枝に止まっている。

 夜警の兵士が筒から小さく巻かれた通信文を取り出すと、鴉は再びカァァと一声上げて夜闇へと飛び去った。

 その鴉に似た鳥のかおには両眼がなかった。

 夜警の兵士は鴉の羽音が聞こえなくなるまで不安げに夜空を見上げて、それから野営地の中央にあるひと際大きな天幕へと向かった。


「カーヴィ閣下、通信文がきております」

 兵士が垂れ幕を押し開いた天幕の中は、隅々に置かれたランプの暖かい明りに照らされて昼間のように明るかった。色とりどりの絨毯が敷かれており、居心地がいい。だが、決して奢った雰囲気はなく、部屋の主も中央に置かれたテーブルで大きな体を丸めて執務についていた。

 広い肩幅と鎧と見紛うような筋肉をみっしりとつけた背中。巨木のような腕には越えてきた戦場の数だけ傷跡が刻まれている。立ち上がればドーム型の天井を支える梁に届きそうなくらいの偉丈夫だろう。頭部は漆黒の癖毛ともじゃもじゃの髭の覆われていて、荒々しく太い眉と相まって戦の神が巻き起こす嵐雲を想起させる。しかしその目は、驚くほど澄んでいた。兵の一人一人を見分け、公平に扱い、民の訴えにも静かに耳を傾ける姿勢からモルヴァーンの英雄と呼ばれ慕われている。だがその琥珀に光る瞳にも、徒労感からくる澱が確実に蓄積していた。

「閣下はやめろと言っているではないか。俺は平民の出だし、サダルンダーン子爵にいただいた一代限りの男爵位も、今となっては認められているのかどうかも怪しいものだ」

 生涯ただ一人の主と決めて仕えていた子爵様が失脚し、素性のはっきりしない山だしのナーワルド男爵が新領主に就任して以来、モルヴァーン郡は凋落の一途をたどっている。偏った論功行賞、理不尽な増税、公共基盤維持への出費抑制。カーヴィ将軍の諫言は届かず、冤罪をでっち上げられて将軍の任を解かれた。以来、反乱軍を率いてナーワルド男爵の悪政に対抗している。

「ではズルフィカール将軍」

 伝説の神剣になぞらえた名はもちろん本名ではない。部下の兵士たちが呼んでいた仇名がいつしか定着し、サダルンダーン子爵が面白がって本名にしろと付けてくださった名だ。借り物の服のようで落ち着かないが、サダルンダーン様の命を反故にはできない。

 その将軍という肩書も、『元』が付くのだがなと心の中でつぶやき苦笑する。

 兵士が進み出て小さく折られた通信文を渡す。

 カーヴィ元将軍が通信文を開くと、机の上にオレンジ色の花粉をびっしりとまとった花の雄しべがひとつこぼれ落ちた。甘い香りが立ち昇る。

(ムタクシ殿からか。この香りはどうにも苦手だな)

 彼からの通信文は差出人が書かれていない代わりに必ずこの花の雄しべが同封されている。甘く強い香りは直接嗅ぐと頭がくらくらするが、通信文を読むには顔に近づけるしかない。

「軍議を行う。上級士官を集めろ」

「はっ」

 ダール峠から侵入した公爵令嬢をかたる者の討伐か。女子供おんなこども相手に兵を差し向けるのは気が引けるが、邪術の徒を使役しているとなると捨ておけない。


 モルヴァーン郡は昔から霊的力が強く魔物が湧きやすい場所が多くある。領主はそういった場所の掃討を定期的に行うのが責務の一つであったが、現領主に代わってからはその労力が払われなくなった。在野に下った彼らサダルンダーン軍の生き残りが困窮する民衆の要請に応じて兵力を派遣しているがとても追いついておらず、むしろ戦力を減らすことになっているのが現状だ。いつか現領主を打倒し、サダルンダーン子爵の無念を晴らすという彼らの悲願は日に日に遠ざかっている。そのことをカーヴィ元将軍は誰よりも明確に感じていた。


 カーヴィ元将軍は、魔物の暴走が現領主ナーワルド男爵を利する形になっているのは、男爵が魔物を操っているからではないかと疑っている。

 サダルンダーン子爵が晩年、妻子を亡くした心労から交霊術や死者蘇生などの邪術に傾倒したというのもナーワルド男爵の暗躍があったに違いない。そうでなければ、異端審問官の疑いの目が向けられてからあれほど短期間に背教の証拠が次々と見つかるわけがない。きっとナーワルド男爵がサダルンダーン子爵の領地を狙って裏で手を回したのだ。

 カーヴィ元将軍は主君の名誉を地に落として命を奪った邪術を心の底から憎んでいた。邪術のことを考えると冷静でいられなくなるほどに。


 マロウト公爵令嬢を名乗る者がなぜ邪術の徒を従えているのか。

 公爵家の立場にある者が邪術とかかわるなど、およそ本物らしからぬ行為だ。自分が偽物と喧伝するようなものではないか。

 派手な行動には裏の意図があるのかもしれない。偽物に見せようにするための、あえての行動か?

 もしや公爵令嬢は本物では?

 だとするとマロウト公爵自身も邪術の徒に通じていることになる。

 サダルンダーン様を陥れたナーワルド男爵の背後にマロウト公爵がいたとすれば……。

 ナーワルド男爵ごとき小物にサダルンダーン様が後れを取ったことも、そう考えればすべて辻褄が合う。

 公爵令嬢はナーワルド男爵と合流してこのモルヴァーンの地で何か事を起こそうとしてるに違いない。

 おのれ、邪術使いども。決して逃がさぬ!


 ズルフィカール・カーヴィ元将軍の頭に沸いた疑心暗鬼が凝り固まって形を成していく間、天幕の室内には甘い花の香りがむせ返るほどに充満していた。


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