こねこ
二つ並んだ布団にはそれぞれ私とキナコが横たわっている。
天井の室内灯からは紐が垂れ下がっていて、それを引っ張ると電気が点くし、もう一度引くとオレンジになる。三回目で電気は消えて、また引くと点く。
昨夜は窓を叩く雨の音にくるまれて寝た。
寝たのは午前二時だったと思う。
今は、午前五時だ。
スマホの目覚ましをかけておいたから。
仰臥した姿勢のまま、私は右に首を傾げた。
キナコが両ひざを同じ方向に崩して座っている。
めくられた布団からはキナコの白い足がのぞいていて、足の裏が良く見えた。
人の足の裏にはしわがいくつも伸びていて、手相のようにも思える。
枝分かれしたしわを目で追っていくと、光沢のあるキナコの指があった。
足の小指の関節が分かりにくくなっている。小さな指をしている。
キナコは手鏡とポーチを傍らに置いて、アイラインを完成させようとしている。
絶妙な力加減で黒い線が淡く輪郭を形成していく。
キナコの黒目だけが私に向けられる。
顔は鏡を向いたまま微動だにしない。
私は自分のかさついた頬に残る涙の跡を気づかれまいと願う。
床に伏した体勢で流れた涙は頬の上部を伝ったはずだから、ほとんど耳にかけて水平なラインになっているだろう。
涙なんて寝ている間にも流れるのだとしたら、ただの眼脂の延長だとキナコは思うかも知れない。
「おはよう」
私の言葉に気がついたキナコの黒目の焦点が合う。
キナコは鏡を見ていて、黒目だけがこちらへ向いていても、私にその視線が注がれているわけではなかった。
あ、起きてたんだ。くらいの反応をして、キナコはメイクの仕上げに差し掛かろうとしている。
窓の外では小鳥が囀る。
朝が早くても小鳥は元気いっぱいだ。
キナコの足の裏の感触は柔らかいけれど、頬も同じくらいの硬さだった。
しかし唇の硬度はうかがい知ることができない。
ぷるんとした唇は存外に硬い可能性がある。
それは卵焼きに殻が混じっているときと似ている。
急遽押しかけた旅館は泊まれたものの、すでに大浴場が閉まっていた。
閉ざされた浴場を客が使用することは禁じられている。
風呂に入らなくても極端に言えば死ぬことはない。だから問題ない、という考えは極端だ。
禁止されているかどうかは旅館の判断に拠るところだ。
それは私の意識が及ぶところではなくなる。
風呂に入れたかどうかはどうでもいいことであって、仮に入れたとしても禁止されているという事実は変わらないのであって、従業員だけは掃除することを許されている。
「そこはダメだよ」
立ち入り禁止の表示が申し訳程度に大浴場の扉に貼られていた。
コピー用紙に手書きで、それも筆でしっかりと記されているのだった。
事前に知る術があったなら、誰も困ることはないのに。
「なんでダメなの?」
「ダメなものはダメ」
扉に手をかけて、開けてしまえば湯が湧き出る浴槽のお目見えなのだ。
「少しだけならいいじゃん」
「ダメですよ」
「せっかくここまで来たのに」
「でもダメって知ってましたよね?」
チェックインのときに女将から大浴場は使えませんと言われた。キナコの言う通りだ。ダメだってことは私は気づいている。気づくことと何かを行うことはイコールにはならない。
ずっと木戸の前で立ちぼうける私の足元から血が遠のいて冷えてくる。
館内のクーラーが効きすぎている。夏の寒さは冬よりこたえる。
余りの冷たさに思わずキナコの手を握る。
キナコは握り返すこともなく力を抜きっぱなしにしている。
「やめましょうよ、ね?」
「このまま帰るってこと?」
「ダメなんです」
だから私は泣いたのだ。
布団に入って、隣でスヤスヤと寝息を立てるキナコの方すら見もしないで泣いた。
泣くのは久し振りだった。
前に泣いたのは飼い猫のプーの腎臓が悪くなって、日に日に元気がなくなって、学校に行っている間に親が病院に連れて行ってそれっきりだったときかも知れない。
でも涙の色は違う。
プーは黒かったから、プーを見て泣いたときの涙は黒い。
この涙はオレンジ色だ。
天井の電灯から注ぐ赤橙色の光が量両頬の涙を乾かしていく。
キナコはまるで何事もなかったかのように眠る。
眠り姫には口づけを交わすと目を覚ます。
でも深夜二時に起こす勇気はどんな王子にだってないだろう。
少なくとも私は王子にはなれない。
夢を見れてこそのファンタジーだ。
夢も希望もないならば、それは単なる現実だ。
現実には王子なんていない。
もし王子がいるんだとしたら、それは私にとっては架空の世界だろう。
架空の世界の住人からすれば、私の方こそ架空なのだが。
キナコのメイクは整っていた。
髪はさっと梳かしてオイルをなじませるだけ。
練り香水を耳元にわずかに塗る仕種をする。
これは何の匂いだっけな。
私はこの甘い匂いをどこかで嗅いだことがあるような気がしている。
(続)




