第59話「火は、明日を照らす」
夜が明けた。
王都の空はまだ煙の匂いを残している。
だが、その朝焼けの中で、確かに新しい風が吹いていた。
灰狐商会の暴走炉は完全に鎮火し、街の損傷も最小限で済んだ。
ギルドの調査団が現場を確認し、《火の牙》の行動が王都を救ったと正式に報告した。
一夜にして“無名工房”から“王都の守火”へ――
それでも、オリンの顔はどこか静かだった。
「……終わったな」
サーシャがそっと隣に立つ。
灰にまみれた頬を拭いながら、小さく笑った。
「ええ。でも、“火”はまだ燃えています。あなたが灯した火は、きっとこれから――」
「俺の火は、もう充分だ」
オリンの声は穏やかだった。
その目は、工房の方角を見ている。
まだ誰も知らない場所で、新しい“火継ぎ”が始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
工房に戻ると、弟子たちが既に動き始めていた。
壊れた作業台の修理、割れた窓の補修、散らかった工具の整頓。
そして何より、炉の火を絶やさないよう、リィナがずっと見張っていた。
「おかえりなさい、親方」
振り向いた彼女の手には、昨夜の青い残火を灯した小さなランプが握られていた。
その火は、不思議なほど穏やかで、温かい。
「よく守ったな」
「みんなで、です。フェンさんが風を送って、グリトさんが温度を見て……。
ライラさんが灰をかき出してくれて。――“火を継ぐ”って、こういうことなんだなって思いました」
オリンはその言葉に、ただ頷くことしかできなかった。
胸の奥が、ゆっくりと熱を帯びる。
もう、弟子たちは“弟子”ではない。
自分の手を離れても燃え続ける“灯”になっている。
「フェン、今後の修理計画は?」
「北区の被害は軽微だ。俺らが炉を貸してやれば、鍛冶屋連中も再建を始められる」
「よし。ライラ、補助素材の在庫は?」
「霊炭は残り半分。……でも、リィナと一緒に新しい鉱脈を見つけたんだ。まだ小さいけど、純度が高い」
「グリト」
「刻印系統は安定してる。……それと、暴走炉の残骸から“熱転写刻印”の断片を拾いました。あれ、再利用できると思います」
「……上出来だ。お前ら、本当に成長したな」
サーシャが笑う。
「ねえ、親方。もう“卒業”でもいいんじゃない? この子たち、もう私たちの手を離れても――」
「――ああ、わかってる」
オリンは炉の火に背を向け、静かに腰を下ろした。
弟子たちの笑い声が、どこか遠くに聞こえる。
その音が心地よかった。
どんな立派な鍛造音よりも、ずっと温かい音だった。
(ああ……これでいい)
拳を握りしめた掌には、かつての師から渡された焼印が残っている。
“火を見ろ”――
それが自分のすべてだった。
今、その言葉を託す時が来たのだと、直感でわかっていた。
「お前たち」
オリンの声に、全員の動きが止まる。
その背中に、焔の影が揺れていた。
「この火は、もうお前らのもんだ。俺の手は、もう要らねぇ」
「親方、それって……!」
リィナが顔を上げる。
オリンは微笑んだ。
「俺は、新しい炉を探す。辺境でも、廃鉱でもいい。
――火を求める場所なら、どこへでも行くさ」
サーシャが小さく息を呑む。
「……また旅に出るのね」
「旅じゃない。俺の“仕事”だ。火を絶やさない、それが鍛冶師の務めだろ」
フェンが言った。
「行っちまうのか、親方。せっかく王都に“火の牙”が根付いたのに……」
「根付いたなら、それでいい。根があるから、俺はまたどこかに“種火”を運べる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
オリンの火は、誰よりもまっすぐだった。
だからこそ、弟子たちはその背を見て、次の火を灯す。
◇ ◇ ◇
夕暮れ、オリンは工房の炉に最後の火をくべた。
青い炎がゆっくりと立ち上がり、弟子たちの顔を照らす。
その光の中で、それぞれの表情が、確かな決意に変わっていく。
「……リィナ。火を見ろ」
「はい、親方」
「フェン。刃を見ろ」
「了解だ、親方」
「ライラ。守るものを間違えるな」
「うん、絶対に」
「グリト。刻むのは術じゃなく、想いだ」
「肝に銘じます」
そして、最後にサーシャへ。
「お前には、ずいぶん世話になった」
「あなたこそ。――ちゃんと帰ってきなさいね」
オリンは笑った。
「火が消えてなけりゃ、いつかまた」
そう言って、彼は工房をあとにした。
炉の火が、ぱちりと弾けた。
その音が、まるで「行ってこい」と送り出すように響いた。
◇ ◇ ◇
数日後。
王都の復興が進む中、《火の牙》の工房は新たな看板を掲げた。
──【継火工房】。
オリンが残した言葉をもとに、弟子たちがつけた名前だ。
“火を継ぎ、明日を鍛つ”――その誓いが、看板に刻まれている。
リィナが炉の火を見つめながら呟く。
「ねえ、フェン。親方、今どこにいると思う?」
フェンが斧を担いで笑う。
「さあな。たぶんまた、誰かの壊れた炉を直してるだろ」
ライラが頷いた。
「でも、親方の火はここにある。あたしたちが灯してる限り、ずっと消えない」
グリトが微笑みながら炉に霊炭をくべる。
「“火を見ろ”ってさ。今でも言われてる気がする」
サーシャが、少し遠くの空を見上げた。
「ええ。あの人の火は――もう、私たちの中にあるから」
その瞬間、工房の煙突から上がった白い煙が、光を受けて青く揺らめいた。
まるで、旅立った鍛冶師の魂が、空を渡って新しい地へ向かうかのように。
火は消えない。
誰かが見ている限り、誰かが願う限り。
それは、命と同じ。
受け継がれ、燃え続け、世界を少しずつあたためていく。
そして――今日もまた、新しい鍛ちが始まる。
──火は、明日を照らす。




