第56話「裏切りの火種」
工房の炉が、夜明けとともに息を吹き返す。
だがその火は、どこか落ち着かない揺らぎを見せていた。
灰狐商会による冤罪騒動は、表向きは沈静化した。
ギルド本部が一時的に調査を凍結し、トロワの助言もあって《火の牙》は存続を許された。
だが――それは、嵐の前の静けさにすぎなかった。
「……炭の量が合わない?」
リィナが朝の仕込みをしていたとき、違和感に気づいた。
記録簿に記された在庫よりも、明らかに霊炭の残量が少ない。
彼女は慌ててサーシャを呼んだ。
「これ、昨日の夜の分まで計算してもおかしいです。どこかで減ってる……」
「誰かが――持ち出した?」
サーシャの表情が険しくなった。
すぐにオリンへ報告が届く。彼は一言も言わず、炉の前にしゃがみ込み、灰を掬い上げた。
「……混じってるな。灰狐商会が使う“黒霊炭”だ」
「つまり、誰かがここで――」
「そうだ。内部に、“灰狐”がいる」
言葉の温度が一瞬で下がった。
弟子たちは顔を見合わせた。
誰かが裏切っている――その現実が、火よりも冷たく胸を刺した。
フェンが拳を握りしめる。
「そんなはずねぇ……。この工房の誰かが、灰狐と通じてるなんて!」
「だが現実だ」
オリンの声は低く、重い。
「証拠を突き止める。嘘は、火の前では燃える」
その夜、オリンは弟子たちに一つの提案をした。
「今夜、工房に泊まり込みだ。火を絶やすな。誰が何をしているか――火の目で見張る」
フェンも、ライラも、グリトも、サーシャも、無言で頷いた。
リィナだけが少し戸惑った顔をしたが、それでも炉の前から離れなかった。
静かな夜が始まった。
鉄が冷える音、木材のきしみ。
火の影が壁をゆらりと這う。
時折、フェンが斧を研ぐ音が響き、グリトの刻印板が淡く光る。
その中で、リィナは小さく震えていた。
――火が、さっきから落ち着かない。
風もないのに、炎が揺れる。
まるで何かを示すように。
「……親方」
リィナの小さな声が、闇の中で響いた。
オリンは無言で目を閉じ、偏温制御の感覚を広げる。
工房の中の温度の揺らぎ、空気の流れ、霊炭の熱――
その中で、一カ所だけ、異様に温度が“低い”場所があった。
「――そこだ」
オリンが叫ぶと同時に、フェンが跳ねた。
炉の裏の貯蔵箱が開き、黒い影が走り出す。
「待てッ!」
フェンの刃が火花を散らし、影を追う。
だが影は素早く、工房の裏口から逃げ出そうとした。
ライラが立ちふさがり、盾を構える。
「行かせない!」
火の光に照らされたその顔――
そこにいたのは、《火の牙》の補助職人の一人、かつてオリンが王都で雇った見習い・ヴァルドだった。
「……お前、まさか……!」
「悪く思うなよ、オリン。俺は“正しい火”を選んだだけだ」
ヴァルドの手には、盗まれた《火の牙》の刻印板が握られていた。
それは、偏温制御と見極眼の原理を応用した“炉制御術式”。
もし灰狐商会がこれを手に入れれば、《火の牙》の存在そのものが消える。
「それを、誰に渡すつもりだ」
「……あんたに拾われた時から決めてた。俺は出世したかった。あんたみたいに“無名で泥臭い職人”で終わりたくなかった」
フェンが歯を食いしばった。
「親方を裏切ってまで、出世したかったのか……!」
「火は、強いほうに靡くんだよ」
その瞬間、オリンの拳がヴァルドの胸倉を掴んだ。
「火は靡かねぇ。――お前が、目を逸らしただけだ」
オリンの目が、まるで溶鉱のように燃えていた。
ヴァルドの身体が一瞬怯み、その隙にフェンの刃が刻印板を弾き落とす。
リィナが飛び出して受け止めた。
――火の前では、嘘はつけない。
その言葉が、今ほど重く響いたことはなかった。
ヴァルドは膝をつき、吐き捨てるように言った。
「……あんたの“火”は、いずれ弟子を焼く。そんな理想、長くはもたねぇよ」
「焼けるなら、何度でも鍛ち直す。それが俺たちだ」
オリンの声が低く、しかし静かに響いた。
外では夜明けが始まり、炉の火が赤く強く燃え上がる。
それは、裏切りを呑み込みながらも消えない、確かな“生の光”だった。
◇ ◇ ◇
翌朝、ギルドへの報告が完了し、ヴァルドは拘束された。
工房は再び静けさを取り戻した――
だが、弟子たちの表情には、ひとつの影が残っていた。
「……親方。俺たちの中にも、いつかああなるやつが出るかもしれねぇな」
フェンの言葉に、オリンは静かに首を横に振った。
「違う。火は人を選ばねぇ。――選ぶのは、いつだって人間のほうだ」
そして、炉に手をかざす。
「燃える限り、俺たちは立ち上がる。裏切りも、痛みも、全部燃やして、次の火にする」
その言葉に、弟子たちの胸の奥でまた一つ、小さな火がともった。
――それは、“終焉”へ向けて燃え上がる予兆だった。




