第38話「灰狐の影」
その夜、工房の炉が静かに火を落とした頃――
一人の男が、闇に紛れて丘の上からハルド工房を見下ろしていた。
「ふん……ガキどもがギルドを名乗ってるのか。ふざけた茶番だな」
灰色のマントに、狐の面。
それはかつてフェンを拾った灰狐商会の一員――いや、幹部だった男、ジルドだった。
彼の横に控える屈強な男たちが、剣を抜いたまま地面に突き立てる。
「ボス、襲いますか?」
ジルドは鼻で笑った。
「いいや。いま壊すには惜しい。――育ちきるまで待つさ。
熟れた果実の方が甘い。潰しがいもあるってもんだ」
そう言い残し、闇の中に姿を消した。
工房の者たちは、その気配に誰一人として気づかなかった。
◆
翌朝、オリンはいつものように早く起き、炉に火を入れた。
まだ陽も昇らぬ時間、弟子たちはまだ眠っている。
ふと、工房の扉の前に置かれた木箱に目を留めた。
「……依頼か?」
中には一振りの斧。刃の部分に奇妙なひび割れが走っている。
だが、それ以上に目を引いたのは――その斧に彫られた、“灰狐”の刻印だった。
オリンの目が細くなる。
(挑発か……)
箱の中に、一枚の紙が入っていた。
「鍛冶師オリンへ
この斧の“本質”を見抜き、修復できるものならしてみろ。
……商会の旧友より」
無署名。それでも、誰からの挑戦状かは明らかだった。
「火は、試練を運んでくるな」
オリンは箱を抱え、静かに工房の中へ戻っていった。
◆
午前中、弟子たちが次々に顔を出すと、中央の作業台に置かれた斧に気づいた。
「うわ、なんだこのヒビ……って、灰狐の刻印!?」
フェンが思わず声を上げる。
「これは……俺、見たことある。灰狐商会が上層に出入りしてた頃、使ってた“呪鉄斧”だ。普通の手段じゃ直らないよ……」
「でも、これ……」
ライラが斧の刃に手を添え、目を伏せた。
「使ってた人、相当苦しんでたと思う。“怒り”とか“嘆き”が、金属に焼きついてる。これ、ただの道具じゃない」
「オリンさん、これ……どうしますか?」
グリトが不安げに問うと、オリンは短く答えた。
「俺がやる」
その声に、場が静まり返る。
「火に、問いかける。
“この刃を、再び持ち主の手に戻す意味があるのか”――とな」
オリンは誰にも指示をせず、一人で作業台に立った。
弟子たちはその背中を見守るだけだった。
炉が赤く燃える。
偏温制御の熱が、一点だけを鋭く照らし出す。
「呪いの残響……素材の歪み……いや、“刃の記憶”そのものか」
斧の表面が、焼けて黒ずんでいく。
それを、オリンは一切迷いなく削ぎ落とす。
まるで、誰かの怒りごと――悲しみごと、祓うかのように。
「重い……これは、持ち主が抱えてきたものすべてだ」
手に伝わる感触は、金属とは思えないほどに生々しかった。
それでも、オリンは一度も手を止めなかった。
まるで過去のすべてを“赦す”ように。
それが彼の鍛冶なのだ。
「……終わった」
彼が最後の焼き戻しを終えたとき、斧はまるで“浄化”されたかのように静かだった。
あの灰狐の刻印すら、炭化して跡形もなく消えていた。
「戻してやれ。この刃が――お前の元に帰ると願っている」
誰に向けた言葉かは、誰も尋ねなかった。
◆
その夜。
再び、工房の外に木箱が置かれていた。
だが今度は“送り返す”形で。
箱の中には修復された斧と、一枚の紙。
「刃は見抜かれた。呪いは消え、残ったのは“誇り”だった。
それをもう一度握るかどうかは、持ち主の選択だ。
火の中で、俺はそう見た」
――鍛冶師オリン
◆
遠く、王都の外れ。
その木箱を開いた男――ジルドの指が震えていた。
「……へぇ。あの斧、返してくるとはな」
その目は、かつてのような奢りではなく、どこか怯えすら含んでいた。
「火の中で、すべてを見抜くか。……なるほど、だから“恐れられてる”ってわけだ」
やがて彼は苦笑しながら斧を拾い上げた。
「……もう一度、握るさ。
次に火を見るときは――お前と、“正面”からだ」
灰狐の影が動き出す。
だが、それは恐れるものではなかった。
それは――オリンと弟子たちの“鍛えた信念”によって、打ち直される運命にある。




