実は仕事人なご隠居が、隠居してもまだ、仕事を頼まれるお話。
時は江戸時代。
気のいい旦那が、表の商売も裏の仕事も隠居をしたのだが……。
どうする、ご隠居…?
「だんなぁ!……じゃなかった、ご隠居!」
「はいよお、平さん」
「まあ〜ったく、隠居っちゅうには、まだ若すぎるよなあ!」
「いやいや、人生五十年と言われちゃあおりますが、手前はもう五十四。倅も一人前になった事ですし、とっとと店を譲ったってぇ訳です」
貫禄のある体、穏やかな笑顔。旦那、ないしご隠居、と呼ばれた男が、にこにこと話して頭を下げる。
「物心つくかつかないかでこの店に養子に入って、若い頃には随分とやんちゃだったのに!落ち着いたと思ったら、あっという間に立派な大店になって!!そんな男、なかなか居ねえよ?旦那!」
「隠居だ隠居!」
平さんと呼ばれた男は、昔から今までの旦那、ないしご隠居の話を、次々と思い出しては淀みなく語る。
「一時は貧乏店でどぉなるかと思ったけれど!ほんと、立派な店になったよねえ!」
うんうん、と感心する平さん。ご隠居は呆れ返りながら笑った。
「そんな褒めても、何も出ねえよ?…さって、俺はちょいと行ってくらあ」
「あー、また博打ですかあ?」
「これだけは、やめらんねぇのよ!」
「もう!何故かいつもツイてて、大負けしないで稼いで帰ってくるからいいものを。これさえなけりゃあねえ〜!」
「はは!んじゃ!」
そう言って出掛けた賭場で、一、二回軽く流すと。すぐに出てしまうご隠居。
寺を抜けて、境内の中、森の暗がり。
そこに、闇に潜んで数人が集まっていた。男女様々。その中の一人、目つきの強い壮年の女に声をかける。
「……待たせたかい」
「ああ。よく来てくれた、」
「言っとくが、俺は断りに来たんだ。…大店の主人も隠居した、こっちの仕事も、もう受けるつもりは無いよ」
「……今更、足を洗おうってのかい」
壮年の女が言う。周りの連中も俄かに沸きたつ。
「……俺ももう歳だ。体のあちこちにガタがきてる。
隠居だなんだと腑抜けた俺より、若い連中に任せたい。それだけだ。足を洗おうって今更、身綺麗になれるとも、思っちゃいねえよ」
少しは周りの気配が落ち着く。
「…下手な若いのよりも、あんたの腕は、よっぽど強いと思うがね」
壮年の女がため息を吐きながら言う。
「いやいや、若いのも随分と育ってきてるじゃねぇか。あとは、数こなすだけよ。もう、俺の出る幕はねぇだろ」
表情を崩して笑うご隠居。この穏やかな笑みで、表稼業の大店でも、裏の仕事でも。随分と人に慕われていた。
「それが。…あんたじゃないと、頼めない相手がいるんだ。頼むよ。」
言うなり、
その場の殺し屋全てが頭を下げた。
「あいつを殺して、……助けてやってくれ」
その男は、歳は二十も過ぎた頃で、倅と同じくらいか。
ガキの頃に捨てられ、やくざに拾われ、耐えかね斬り殺し逃げて、生き延びたのだという。
常に身につけるのは、黒い着物。腕のいい一匹狼の人斬り、として、少しは名の知れた男らしい。
腕がいい分、沢山殺した。殺し過ぎて…誰彼構わず、見境なく殺すようになってしまった。
このままじゃ、遠くない内に、こちらの仕事にも影響が出る。街の暮らしも悪くなる。
既に仲間内の何人かが止めにかかったが、太刀打ちできなかった。死人も出ている。
「あいつに、確実に落とし前付けさせる腕の持ち主は。あんたしかいないんだ。頼むよ」
*
「……まいったよなぁ………」
腕を組んで、家に戻ったご隠居。
「だん、…ご隠居、おかえりなさい!」
「「「おかえりなさい!!」」」
「おう、皆もご苦労さん」
番頭をはじめとする店の者達は威勢よく言って頭をさげる。
片手を上げて和やかにそれに応え、どんどんと奥へと引っ込んだご隠居は。
座敷で煙管をふかし、ひと息つく。
喧嘩に明け暮れた若い頃。おやじ、といっても養父が急死して店を継いだ時には、元々大きくはなかった店は貧乏で。
しょっちゅう金に困り、表向きは真面目に働き、博打だけはやめられない、という程で夜な夜な外へ出ては、ひとり裏稼業に精を出し、金を作っていた。
ようやく持ち直した、どころか大店にまでなり。
しくじって大事になる前に。
倅達に家督を譲り、余生を大人しく過ごす。殺した分だけ、仏に手を合わせて弔う。
そう、思っていたのだが。
「とうさん、帰られましたか」
「ああ」
「お父様、お茶お持ちしました」
「おみよさん、ありがとな」
倅とその妻、おみよがやってくる。
「またいつもの博打ですか」
「ああ、今日はついてなくてな、有り金無くなる前にやめて帰ってきた、ははは」
「もう、懲りないんだからあ。気をつけてくださいよ。近頃、物騒なんですから」
「そうなのか?」
「辻斬りだそうですよ。夜に現れては、黒衣に身を隠し、誰彼構わず、だそうで」
「へえ、そいつはまたぁ。物騒な話だねえ…」
素知らぬ顔で、腕を組み唸るご隠居に、倅は尚も言葉を重ねる。
「金目の物なんか持ってるとうさんなんか、いい的ですよ。気をつけてくださいよ、まったく」
「わあかった、わあかった」
「うちは商人であって、人斬りにあったら太刀打ちできませんよ!とうさんなんか、すぐ、ていっ!と、こうですよ」
「ははは、そうだなあ〜」
「お父様、笑い事じゃないですよぅ〜。優しいお父様が、皆心配なんです。うちの人も、素直にそういえばいいんだから」
「おみよ、それを言っちゃあ、うぅ……」
やり込められた倅は、頭を抱えて縮こまる。
「わかったよ。気持ちは、ありがたく頂戴して、気をつける事にするよ」
「「そうしてください」」
「ふふ、夫婦仲良きことはよきかな」
親子に嫁、三人の笑い声が広がった。
誰もが寝静まる深夜。
目立たぬ紺の着物を着たご隠居が、部屋を出ようとして。
「……また、お仕事ですか」
「…っ!…………おせいか」
妻のおせいが膝を揃えて座っていた。
「ご隠居なさったのですから、裏も隠居、そうおっしゃってたのでは」
「すまぬな、おせい………」
しばしの沈黙が二人に流れる。
先に口火を切ったのは、おせいであった。
「……まあ、長い事苦しい勘定事情を、支えてくれたのは旦那様です。危ない思いをして、急場を何度も超えたのも。持ち帰られたものを元手に、店を大きく出来たのも。全て、旦那様のお陰。ですから、私がなにを言える立場にはないことは、重々承知です」
そう言って、両手を突いて頭を下げるおせい。
「おせい……」
「ですが……」
頭を上げたおせいは、真っ直ぐとご隠居を見る。
「裏のお仕事へと見送る度。今日はご無事で、どうか、無事にお戻りになられますようにと、いつも、手を合わせている事、忘れないでくださいましよ」
敵わないな、とご隠居が口を開いた。
「……いつも、心配かけるな、おせい。すまない。だが……」
気持ちと共に、重くなるご隠居の口調。
「此度ばかりは、行かなければならないんだ」
「……例の、辻斬りですか」
「耳が早いな。……俺がもし、早くにしくじって、お前や倅が路頭に迷っていたら。もしくは、俺自身が喧嘩に明け暮れたまま、落ちぶれに落ちぶれてたら。そいつみたいな事に、なってたかもしれない。……そいつ、倅と同じくらいなんだそうだ」
黙って聞くおせい。
「自分でも歯止めが効かなくなったそいつが、これ以上業を深める前に。そして、街の者たちが安堵出来るように。……行ってくる」
「……わかりました」
頭を下げるおせい。
「ご無事のおかえりを、お待ちしてます。旦那様」
「ああ。わかった」
*
道の暗がりに。小柄な黒い着物の男がいた。
背を向けた背中が、まだ若い。
こちらに気づき、振り返る。剃刀みたいに鋭い目で、こちらを見た。
冷たく表情も無かった男の口元に、じわあと笑みが浮かんでくる。
「……オマエ、強いんだな」
「さあ、な。……ただ、おまえさんをやれ、と言われて、ここへ来た」
「へぇ…………」
まじまじと見る、男。やがて。
「……ククク、ヒャヒャヒャ、アヒャヒャヒャヒャ!」
笑い出した男。
勢いよく刀を抜き、叫ぶ。
「なら来い!楽しませてもらおうじゃねえか!」
対するご隠居も、ばっと刀を抜く。
駆け出し、振り下ろしかけた刀を、ご隠居は素早く返して横に薙ぐ。
ご隠居の力強い刀を、男は刀で受けた。
「キャハハハハハハ!イイじゃねえか!」
続けて、力一杯男が刀を振る。右、左と荒々しく振られる刀を、ご隠居が確実に落ち着き払って受ける。
ギン、ギン!と激しく刀が鳴り続ける攻防。
そして。
ご隠居が大きく男の胴を薙ぎ払う。
「ウワアアア!………ケケケ、ハハハハ!」
大きく斬られても尚、笑いながら刀を構え直す。目はぎろりと、大きく見開いていて。
その後も、度々ご隠居に大きく斬られるも、男は楽しそうに笑うばかり。
その間も、ご隠居は動揺することもなければ、躊躇うこともなく、落ち着いて受け流し、攻撃していく。
一撃。もう一撃と。
深く斬られた男は、よろけつつも笑いながら、刀を高く振り上げた所で。
急に、足元から崩れ、地面に仰向けで倒れる。
尚も起きあがろうと足や腕を動かすが、体が持ち上がらない。
「がはっ。はあ、はあ、はあ、」
じたばたと、もがく男の手にはまだ刀が握られていて。ご隠居はまだ気を抜けず。迂闊に近寄る事も出来ない。
やがて黒衣の男は、広げていた両腕が、もう上がらないとわかると。
ふいに、刀を持った手を動かし、手首だけ刀で刀を投げる。カラカラカラ、と刀が地面を転がった。
「はあ、………はあ、………」
黒衣の男は、斬り合っている間は熱く沸いていた頭が、徐々に冷めていくのを感じる。
もう、終わりだ、という事も。
自分が死ぬとしたら、とこれまでも考えてはいた。碌な死に方はしないとは思っていたが、その時が来たら、相手に何を思うだろうか、憎む、のだろうかと。
倒されてみれば、案外そんなことは思わなかった。十分に、強かったから、だろうか。
歳の功、なのか、こちらの激しい打ち合いに対しても、落ち着いた、まるで大きな巌のような相手だった。案外、それで、満足、したのだろうか。
男は倒れて、そのまま放っておかれると思ったのだが。
大の字に倒れた男の視界に、ご隠居が入って来た。男のすぐそばに、腰を下ろしたらしい。物好きなものだ。どうやらこのまま、しばらく付き合ってくれるらしい……男が、逝くまで。
付き合ってくれるらしいので、男が掠れ声で、ご隠居に問いかけた。
「…ナア……その腕になるまで。……どんだけ斬った……….?」
「さあなあ。……百人、は下らないかなぁ。……ああ。おまえさんで、百、八人目、だ」
「へぇ……そんだけ斬って、正気でいられるんだ………」
はは、とご隠居は少し笑って言う。
「必死だったからなあ。金の為と、家、立て直す為に……」
「そうか……」
男の荒い息。呟いた相槌に答えるように、ご隠居は話を続ける。
「……家族の為、なんて言っても。所詮、人を斬ってるには、違いねえけどなあ……何処が、違っちまったんだろうなぁ」
「ぁぁ……そうだなぁ…………もう、わかんねぇや……」
少しずつ、目に力が無くなっていく男に向かって。ご隠居は穏やかに、寝る子をあやすように優しく、声をかけた。
「そうかぁ。……ゆっくり、休め…。もう誰も、斬らなくて、いいんだ…」
「あぁ……そうだ、な………」
ふう、と静かに目を閉じた男に。
ご隠居は手を合わせる。
少しして、遠くから声がする。騒ぎに気づいた者が知らせたのかもしれない。
立ち上がったご隠居は、もう一度、黒衣の男の亡骸を見ると。
素早く、その場を後にした。
*
「ご隠居!」
「おう、どうした平さん、」
「例の辻斬りの噂、知ってるかい」
「ん〜、あぁ。少しだけ、聞いたことあるかな、」
「あの辻斬り、死んだんだってよお!」
「へぇ」
「誰がやったんだか知らないけど、ばったり倒れてたんだってさあ!」
「そうかい」
「きっと凄腕の……、はあ、ご隠居、ほんと興味ねえのな」
「ははは」
店先で平さんと、そんな話をした後。
ご隠居は家の中で、仏壇に手を合わせ目を閉じた。
……あの男を見たのは、半年程前であったか。
昼間の、街外れの道端で。近くの村のこども達に囲まれていた。
こどもが寄ってたかっているにしては、異様な黒い着物。ああ同業だ、と遠くからでもわかってしまう雰囲気を持つ男だったのだが。
屈託のない笑顔で座り、こどもの頭を撫でていた。
周りには、おやつを頬張るこどもが群がっている。
「ほらあ、腹が減ってるからって、あまり急ぐな、むせっぞ!」
「はあい」
「ねえねえ!おにーさん、わるいひとなの?」
「ぁあ?……あ〜?悪い人だよ?」
「えー」
「なんでー?」
「こんな人斬りが、悪くない訳ねえだろっ」
「そうなのー?」
「ほらー、悪い子は俺に斬られちまうぞー、わー」
「きゃあ!あはは!」
「ほらほら、おやつ食ったら帰んな、こんな大人になんなよー」
「えー」
「えーじゃねえんだよ。…あ、やっべ、役人だ、ほおらお前ら!解散だ解散!」
「「「えーーー」」」
「じゃ俺は行くからな、じゃあな!着いてくんじゃねえぞ!」
「おにいちゃん、じゃあねー」
「ごちそうさまー」
「余計なこと言うなよばあか!」
笑って、すたこらさっさと逃げていく男。
手を振るこども達。男の逃げ足が早く、追いつけない役人。
そんな様子を、まあいいかと、少し微笑ましく見ていたのに。
あの時、どうしていれば。
あの男を斬らずに、済んだだろうか。
せめて気にかけていれば、ああなる前に…と、思った所で終わってしまったことだ、考えても仕方ないこと。
それでも。
男が見境なく人を斬るようになってから。昼ではなく、夜、出歩くようになったのは。
こども達を手にかけない為の、男に僅かに残った、せめてもの正気、だったのだろうか。
今となっては、もう、わからないことだ。
それでも。
しばらく祈っていて。ふと目を開け横を見れば、妻のおせいも隣で手を合わせていた。
「おせい…」
「…ふふ、旦那様、」
おせいが顔を上げ、ご隠居を見て微笑む。
「……ありがとうな、おせい」
「いえいえ。…さ、お茶でも淹れますよ。いいお天気ですから、縁側ででも飲みましょうか」
「ああ。そうだなぁ」
促されて縁側へ出れば、突き抜けるような青い空。
見上げるご隠居は青空に、己が斬って、散った若い男を想った。
読んでいただき、ありがとうございました!