セラフィアの空
__ロアナ王国王都ハサ__555年9月18日
テンデ海軍の所有する軍船に乗ってハサ港に到着したのは昨日の夜だった。同じ船にはイヴォンも乗っていたけれど、それ以外にもヴィンセント、リュカに仕えていた護衛イモゥトゥ三人、事情を知っていると思われるフォルブス家の警備員や神殿聖職者などが数人同乗しており、安全のためイヴォンとの面会はルヴィルナグ聖殿への引き渡し後にと言われてずっと会えずじまいだ。
仲間うちで一緒に王都に戻って来たのはアカツキとライナス、黒豹のフィン。オトはフォルブス男爵の葬儀の喪主を務めるオールソン卿に付き添っていて、その葬儀にはオスカー卿も参席するため、ジュジュがサザラン伯爵邸に残ってネイサンを見張っている。
リュカが泥に還ったと知ったネイサンは、ロブの意識に飲まれるように呆然と座り込み、一晩中誰の呼びかけにも答えようとしなかった。翌日あたりから少しずつ生意気な表情を取り戻しつつあったが、ネイサン自身も狼狽えているのだろう。一日の半分くらいはぼんやりしていて、とても外出できる状態ではなかった。ライナスは第二王子との接見が済み次第、とんぼ返りでサザラン伯爵邸に戻るつもりのようだ。
もう一人、サザラン伯爵領に残っているのはレナード。スカルフ特務卿から軍船への乗船を拒否されたレナードは、「ならぼくはあと数日ここに滞在して、適当にヨスニルに帰るよ」とわたしたちを笑顔で送り出した。
アカツキによると、レナードは本気でライナスをヨスニルに連れて行くつもりのようだ。そのライナスがネイサンをロアナに置き去りにすることはないから、先にネイサンを手懐けようとしているのだとか。
洗脳状態にあったウルクは、わたしたちがサザラン邸を出た時点ではまだ合同捜査隊の残留組とともにウチヒスル城にいた。とはいえ、無事に洗脳が解けたという報せは入っており、聴取が済み次第解放される予定になっている。スカルフ特務卿の話では、フォルブス男爵の葬儀終了後に、葬儀に参席しているオスカー卿に身柄を引き渡すことになるのではないかということだった。
完全に反逆への関与疑惑が払拭されていないフォルヴス男爵の葬儀は、ラァラ派が禁教とされたこともあり、急遽ジチ正派の様式で、ごく少数の近親者のみを集めて行われるという。
「残ってる捜査員たちに見張られながらの式になるだろうね」と、サザラン伯爵の代わりに弔問するオスカー卿は苦笑を浮かべていた。
わたしは何か色々とやり残したことがあるような気がして、ハサに着いてからもずっと意識はウチヒスル城に向いていた。
あの火事の日、湿地から戻ったあとに特務卿の計らいで城の南棟端にあるルーカスの居住区域に立ち入ることが許された。火災現場となった地下の隠し部屋にあったのは、煤だらけになった書棚の残骸。一階部分にも火の手が広がり半焼していたが、捜査時にほとんどのものが押収されていたため、火災で証拠隠滅されたのは隠し部屋にあったものだけだそうだ。
ライナスの告発文書とウチヒスル城半地下からの押収物により、イモゥトゥが生まれた経緯をある程度の人数が知ることになった。その一方で、泥魂術について書かれたものは大聖会にあるリーリナ教関連書物しかなくなってしまった。それは、紛れもなくルーカスの望んだことだ。
意外なのは、ヴィンセントがリュカの正体について「保護したイモゥトゥだ」と言い張り続けているらしいこと。
特務卿が湿地でのことをヴィンセントに話した際は動揺がみられたものの、泥魂術については知らぬ存ぜぬを通しているという。それは、尋問の場が王城に変わっても同じらしい。一方で、ラァラ神殿が妊婦に血液を投与してイモゥトゥを産ませたことや、カラック村孤児院でのイモゥトゥへの虐待、領内でのオピウム製造、薬物による強制的な交霊は認めているという。
ヴィンセントがリュカに関して黙秘を続けているのは、やはり彼もリュカに忠実なフォルブスだったということだろうか。ラァラ神聖帝国という大きな野望も、すべてリュカのためだったのかもしれない。オールソン卿も、きっと死ぬまで泥魂人形について口にすることはないだろう。
わたしは一連の事件に関するある程度の状況をスカルフ特務卿から聞いたが、イモゥトゥや邪教の情報を公開するかどうかは今後クローナ大聖会と慎重に議論を進めることになるため、口外はしないようにと念を押された。
過去にイモゥトゥ売買の罪を犯したタルコット候爵家と、一度イモゥトゥを買ったために反逆罪に加担させられることになったオールソン伯爵家について、まだ今後のことは決まっていないらしい。ただ、ラァラ神殿を告発しようとし、イモゥトゥを助けようとした現タルコット候爵を、王家が罰することはないだろうというのがスカルフ特務卿の考えだった。タルコット候爵も無事に領地邸宅に戻り、家族との再会を果たしたと聞く。
「お待たせしました。面会の準備ができましたのでどうぞ」
天井に描かれた宗教画をぼんやりながめていたわたしは、その声で視線を地上に戻した。左手に緋衣の指輪をはめた聖職者は、いかにもロアナらしい小柄な体つきをしていた。
わたしがベンチから立ち上がると、ロビーの壁面彫刻を見学していたアカツキが急ぎ足で戻って来る。
ここはルヴィルナグ聖殿の三連尖塔――別名セタの塔の、真ん中の塔の一階。歴史と芸術の都を象徴するハサ建築彫刻黄金期に建てられた歴史遺産でもあり、老朽化から改築の話が持ち上がっていた場所でもある。
三連尖塔の中央塔はルヴィルナグ聖殿の玄関。普段は数多くの信者が行き来しているそうだが、今は聖職者たちが慌ただしく行き来する姿だけがあった。そのほとんどがジチ正派への改宗手続きに訪れた聖職者たち。向かう先は敷地内にある礼拝殿だ。
これまでラァラ派が牛耳っていたロアナ聖会本部は、一応王都にあるものの、形ばかりの屋舎がハサ駅裏手にあるだけ。そこは現在国防軍特務隊の査察が入っており、ルヴィルナグ聖殿が一時的にロアナ聖会の機能を請け負っている。
行き来する聖職者はみな白い祭服を着ているが、元ラァラ派聖職者の祭服にはフードがついているか、もしくは慌ててフードだけを取り去った不格好な祭服を着ていた。
わたしとアカツキは足早に急ぐ聖職者たちを横目に、案内人の後について三連尖塔の裏手に出る。広々とした庭園の正面にあるのが臨時ロアナ聖会本部舎となっている礼拝殿。その左右に大小いくつかの建物があり、わたしたちが案内されたのはすぐ近くにある来賓用宿舎。イヴォンがいるのは二階の最奥にある貴賓向けの部屋だ。
扉の前まで来ると、興奮した子どもがあげるような、甲高い叫び声が聞こえてきた。
「機嫌がいいようですね」
聖職者は穏やかな笑みで振り返る。そして、ノックしてから扉を押し開けた。
「だーれー?」
大きなクマのぬいぐるみを抱いた金髪の少女が、わたしとアカツキを見て不思議そうに首をかしげた。イヴォンだ。一緒にいるのはおそらく新月の黒豹倶楽部のハンス。テンデ海軍基地に保護されてからずっとイヴォンと一緒にいるという。
フィンの話によると、彼女が新生したのはウチヒスル城から抜け出した十日の夕方あたり。成り行き上、男性のハンスが新生直後のイヴォンの世話をほぼ一人でやる羽目になったわけだが、様子を見る限り二人は仲良くやっているようだった。
新生十日目といえば、好奇心を爆発させる時期。イヴォンはまさにそんな目をして、わたしたちではなく開いたままの扉目がけて奇声をあげながら駆け出した。
「あっ、扉を閉めてください。また逃げ出されたら!」
ハンスに言われてアカツキが慌てて扉を閉め、突っ込んできたイヴォンを抱きとめる。すると、イヴォンは「うわぁぁあっ!」と叫びながら彼に怒りをぶつけた。
「ちょっと、痛いよ、イヴォン」
アカツキの慌てる姿がおかしくて、わたしはついアハッと笑い声をあげる。くるりとイヴォンが振り向き、大きな目でじいっとわたしを見た。
金色の髪はツヤツヤと輝いているわりにボサボサで、大きな黒目に以前のような憂いは微塵もない。それは、わたしの知るイヴォンではなかった。寂しさと同時に安堵が押し寄せたのは、目の前のイヴォンが幸せそうに見えたから。
「だーれー?」
「わたしはユフィ。はじめまして、イヴォン」
彼女は「ユフィ」とわたしを指さし、その次に「イヴォン」と自分を指した。弾けるような無邪気な笑顔を浮かべたかと思うと、ハンスのところに駆け戻って彼の背に隠れる。
「イヴォン、恥ずかしがってるの?」
「やーだー。きれいきれいするのー」
ソトラッカ研究所で新生した二人と比べてみても、新生十日目でこれだけの意思疎通ができるのは驚きの速さだった。やはり、最初のイモゥトゥであるイヴォンは他のイモゥトゥとは違うのかもしれない。
イヴォンはしばらくハンスの後ろでごそごそやって、ヒョコッと顔を出した。無理やりなでつけた髪の、生え際のちょうど真ん中あたりにサルビアの髪飾りをつけているが、逆さまになって額に張り付けたようになっている。周りにいた人たちが声をあげて笑うと、イヴォンは満面の笑みで楽しそうに飛び跳ねた。
「ユフィ、ユーフィィー!」
猪のように突進してきたイヴォンに押し倒され、それを支えようとしたアカツキも一緒に尻もちをついて、また笑い声があがった。そのときノックの音がして、イヴォンは扉の前に急ぐ。どうやら、ノックの音の後が部屋から抜け出すチャンスだと学習したようだ。
「イヴォン、部屋から出ちゃダメですよ」
わたしたちを案内した教司がイヴォンと手を繋ぎ、「どうぞ」と部屋の外に声をかける。扉の向こうには予想外の人物が立っていた。
「こちらにユフィとケイ卿がいると聞いて、わたしも聖女に会いたくなったものでね」
ヨスニル語でそう言ったのは、王城にいるはずの父。王都にいることは知っていたからいずれ会えると思っていたが、突然のことに言葉が出てこなかった。
「だーれー?」
イヴォンは突然現れた見慣れないおじさんを警戒し、聖職者の後ろに隠れるとわたしを振り返る。目があった途端に驚いたような顔をして、わたしの名前を呼びながら駆け寄ってきた。
「ユーフィ、いたいのー? いたいの、ないない」
それほど背の変わらないイヴォンは、そう言いながら両手でわたしの頬を拭った。ユフィの涙腺の緩さにはうんざりだ。
「大丈夫よ、イヴォン。どこも痛くないから」
「いたくない?」
「うん。痛くない」
アカツキが何か言いたげにポンと肩に手をおく。わたしは緊張しつつ、父に向かって頭を下げた。
「お久しぶりです、男爵様。色々とご配慮いただき、なんとお礼を言っていいか」
言葉が堅苦し過ぎたせいか、それともわたしに抱きついたイヴォンのせいだろうか。父は複雑な顔で「大したことではないよ」と言うと、隣にいるアカツキにちらと視線を向けた。
「二人で少し話してきたら?」
アカツキはそんなふうに言ってわたしの背を押す。イヴォンがわたしの腕を掴んで引き止めようとしたが、ハンスが「クッキー食べようかな〜」とわざとらしく声をあげると、彼の方に突進していった。
「行こうか」
父について部屋を出たわたしは、その半歩後ろを歩いた。セラフィアだった頃より背が縮んだせいで少し大きく感じられる父。それは、子どもに戻ったような不思議な気分だった。
「アカツキ君とはうまくやっているようだね」
「はい。ケイ卿を紹介していただき、ありがとうございました。彼には本当に色々と助けていただいています」
「彼のことは、いつもケイ卿と呼んでいるのかい?」
「……あ、いえ……」
言い淀むと、父は足を止めてわたしに向き直った。そして、じっと観察するように見つめてくる。
「あの、エイツ男爵様。わたしが何か……」
「君は、ユーフェミア・アッシュフィールドではないのだろう?」
言葉を失い、ただ呆然と父の顔を見つめ返した。父の顔がくしゃりと歪み、大きな手がわたしを抱きしめる。
「……セラフィアなんだろう?
君から送られて来た手紙はユフィの筆跡ではなかった。あれは、セラフィアのものだ。レッドロビンズホテルに残っているサインも確認したよ。それで、アカツキ君に確かめたんだ。
セラフィア、なぜ打ち明けてくれなかったんだ……」
父は声を震わせた。わたしは嗚咽を抑えきれず、ただ、父に抱きつき「お父様」とかすれた声で答えるしかできなかった。話ができるくらいに落ち着いたのは、五分近く経ってからのことだ。人の気配を感じて、父とふたりで談話スペースに向かった。
窓際のソファに並んで腰かけ、わたしはこれまでに起きたことと、その顛末を父に話した。口にしてみるとエイツ男爵家の人間が嫌う荒唐無稽で非現実なおとぎ話そのもので、それが自分の身に実際に起こったということが信じられなかった。でも、わたしはもうセラフィア・エイツではなく赤毛に小麦色の肌をしたイモゥトゥで、これからも大人になりかけの少女みたいな見た目は変わらないだろう。
「これから、どうするつもりなんだ?」
父は膝の上で手を組むと、のぞき込むようにわたしを見る。
「まだ、はっきりと決めたわけではありませんが、ひとまずイモゥトゥとして研究所に保護を求めるつもりです。もともとそのつもりでしたし」
「それでもいいが、もう一度わたしの娘に戻る気はないか? 養女という形にはなってしまうが」
「……それは」
戻りたいという気持ちはあった。しかし、あの家に戻り、普通に生活することができるだろうか?
最初は問題ないとしても、わたしがイモゥトゥだということはいずれ知られることになる。そんな心のうちを見透かすように、父は「イモゥトゥだと知られるのは嫌か?」と聞いた。
「セラフィアが望まないなら、同じ屋敷で暮らす必要はない。ただ、形だけでもエイツ男爵家の人間になっておけば、色々と役立つこともあるはずだ。研究所の保護だけでは、まだ銀行口座を持つことも、自分の名義で家を借りることもできない。
それに、アカツキ君と一緒になるのなら、ちゃんとした身分が必要だろう?
後ろ盾がただの男爵家では心許ないかもしれないが、男爵家は男爵家でも、うちはエイツ男爵家だ」
「アカツキと一緒にだなんて、そんなことは考えてません。わたしは、……イモゥトゥだから」
「セラフィアが結婚してあげなければ、彼は一生独身だと思うぞ」
……そうかもしれない。いや、きっとそうだろう。
彼は年をとってもずっと傍にいて欲しいとわたしに言ったし、わたしもそれに応えた。けれど、結婚となると話は別だ。いくら三男とは言え、ケイ公爵家の令息がイモゥトゥを妻にすることになるのだから。
「まあ、焦る必要はないから、ゆっくり考えなさい」
父はそう言ってわたしの頭をなでる。この姿になったせいか、どこか子どもをあやすような雰囲気があるのがくすぐったく感じられた。
背後から足音が近づいて振り返ると、階段のそばにいる聖職者と目が合った。彼はペコリと頭を下げたが、その視線がふいに左に向けられる。もう一度頭を下げたのは、通路を歩いてきたアカツキに対してのようだ。
「ちょうど良かったです。アカツキ・ケイ様とユーフェミア・アッシュフィールド様、王城からの迎えが到着しました」
「連れがまだ来ていないのですが」
わたしが問うと、「ライナス・ローナン様はすでに正面玄関でお待ちです」と言う。ダン・ヒチョンに会ってくると朝早く出かけていったが、どうやら約束の時刻は覚えていたらしい。
「じゃあ、行ってきます。お父様」
「ああ、気をつけて行っておいで」
ヨスニル語のやりとりを聞いて、アカツキはホッとしたようだった。
ルヴィルナグ聖殿正門前には、ロアナ王家の紋章がついた立派な馬車が停まっていた。通行人たちの物珍しそうな視線を浴びながら乗り込むと、ライナスが「遅かったですね」と寛いだ様子で言う。あの美術商で借りてきたのか、いつもの従者のような地味な服ではなく、いかにもロアナ貴族風の、ロマンティックなフリルシャツを着ていた。
馬車はすぐに走り出し、ルヴィルナグ聖殿前から台地の上にある王城へと続くウィラーヌ街道を行く。修復師の姿が目立つのは、先日の暴動のせいで破損した彫刻建築物が何箇所かあるからだ。とはいえ、道行く人々は思っていたより落ち着いた様子で、ロアナの体制がひっくり返ったという印象はなかった。
「キックグ通りまでその服を仕入れに行ったのか?」
アカツキがライナスの服を眺めながら聞いた。
アカツキはヨスニル風折り襟シャツに、上品な上着。わたしは第二王子の名で宿泊先のホテルに届いていた、ユフィの赤毛のような煉瓦色のロアナドレス。わたしとライナスがロアナスタイルで合わせたように見えるのが気に障ったようだ。
「違いますよ。仕入れに行ったのは情報で、この服は着せ替え人形扱いされて無理やり着せられただけです。まあでも、こういう服を着ればおれでもロアナ貴族に見えるでしょう?」
アカツキが肩をすくめると、ライナスは「冗談はこれくらいで」と、前のめりになって声を潜めた。
「どうせ第二王子に謁見したら教えてくれるでしょうけど、クリフ・オールソンはオールソン伯爵家から籍を抜き、クリフ・フォルブスに戻すんじゃないかということです」
「それ、ダン・ヒチョンに聞いたの?」
「いや、あの変な話し方の美術商」
「でも、フォルブスは滅門でしょう?」
「姓がフォルブスに戻るだけで、公式発表された通りフォルブス男爵家は取り潰しだ。サザラン領に吸収されるのはほぼ確定らしい。でも、フォルブス家の財産の一部をクリフが相続できるようにしたようだ。爵位はない、ただの平民」
オールソン卿は今後どうするのだろうと考えたが、雲を掴むようにこれからのことがあやふやなのはわたしも同じだった。崩れ去ったものがまだ心の大部分を占めていて、それを拾い集めたり、捨てようとしたりしながら、新たな風が吹きつけるのを、今はただ無心で感じるだけ。
「オールソン卿は、まずは体を回復させるのが先決だろう。ロアナに残るか、ヨスニルに戻るか、それとも別の場所を選ぶかは、彼自身が決めることだ。もう、彼に指図する者はいないんだから」
アカツキが言うと、ライナスも神妙な面持ちでうなずいた。
「二人はどうするんですか? もう、このままヨスニルに?」
「まだ未定だ。ロアナ王家があっさり帰してくれるかどうかもわからないのに」
「確かにそうですね。でも、おれたちにできることなんてもうありませんよ。ラァラ神殿は崩壊したし、これからのロアナを作っていくのは部外者のおれたちじゃないんですから」
「ロアナ生まれのくせに、愛国心はないのか?」
「ありませんよ。言いませんでしたか? おれが最もエリオットに似ているところは、国外を飛び回ってるのが性に合ってることです。ちなみに、おれもネイサンも研究所の実験台になる予定はありません」
「実験台だなんて、人聞きが悪いな」
「じゃあ、言い直します。研究に協力する気はありません。おれとネイサンはどう考えても他のイモゥトゥとは違う。それを示す証拠が出てくることは、ロアナ王家も大聖会も望まないはずです。これまで多くのイモゥトゥがそうだったように、身を潜めて生きていきますよ」
「レナードはおまえを連れて行く気満々だぞ」
「まあ、それも悪くないです。パトロンは必要ですから」
ライナスはニッと笑い、葉巻をふかすような仕草をした。
坂道を上っていた馬車はじきに門をくぐり、王城前に到着する。先に降りたアカツキが「どうぞ」とわたしに手を差し出し、いつか交霊で見た光景を思い出した。
去年、二人で出かけた夾竹桃祭り。アカツキはからかうような笑みを浮かべながら、こんなふうに手を差し出した。令嬢扱いされるのを嫌っていたあの頃のわたしはその手を素直に取ることができなかったけれど、アカツキに対する感情は、ユーフェミアになった今もあの頃とそれほど変わりないような気がした。
わたしはたぶん、あの時も、そのもっと前からアカツキを愛していたのだ。それに気づかないくらい自分の気持ちに鈍感で、愚かだった。
手を借りてステップに足をかけると、アカツキは去年と同じような笑みを浮かべながらこんなことを言う。
「実は、気になるご令嬢と自然に手を繋ぐ方法を最近知ったんだ。足場の悪い場所を歩けばいいって。ロアナ王城は歩きやすそうで残念だよ」
「じゃあ、エスコートしてくれないの?」
「ユーフェミア嬢がご希望なら喜んで、いつでも、どこでもこの手をお貸ししますよ」
わたしたちのやりとりを呆れ顔でながめていたライナスが、待ちくたびれたように背を向ける。ロアナ王城は遠くで見ていたよりも大きく、背をそらして赤褐色の建物を見上げると、その上には、吸い込まれそうなほど真っ青な空が広がっていた。つられて空を見上げたアカツキがポツリとつぶやく。
セラフィアの瞳の色だね――と。
〈泥濘のリュカ・完〉




