第十話 始まりの場所
__ロアナ王国フォルブス男爵領ウチヒスルの森__555年9月14日
湿地は想像していたよりも広く、回り込むように奥の森へと続く道がある。少女が言っていた小屋らしきものは見当たらないが、森のかかりに馬が二頭繋がれているのが見えた。
捜査員は、湿地の手前の森を抜けたところに馬を連れた男が一人。湿地にある大きな水たまりの向こうの、斜面の下に二人。二人の傍には縄で拘束された人影があり、その見覚えのある顔にわたしの心臓がドクンと音をたてた。
「⋯⋯ウルク」
捜査員に抗うように身を捩り、泥まみれでうめき声をあげているのは、果たしてウルクだろうか。それとも――。
「どういう状況だ?」
第二小隊長が、馬を連れた捜査員に話しかけた。
「放火犯ではなさそうだ。おそらく、前から捜していたイモゥトゥの仲間だとは思うが、金髪じゃないから本人ではないはずだ」
「放火犯はおそらく全員捕まった。ここに来る途中の川原で、取り押さえられているのを見かけたから」
「それならいいが……、こいつ、ちょっと頭がおかしくなってるみたいでさ、おれらが来たときからあの場所にいて、自分の腕を何度も切りつけていたんだ。とりあえず確保はしたが、話も通じないし、ずっとああやって抵抗してる。仕方ないから、ひとまずおれが城に報告に戻るつもりだったんだ」
捜査員はそう言うと、観察するような視線をわたしとアカツキに向けた。わたしは何か言われそうな気配を察し、先に口を開く。
「道の先の森の陰に小屋があるそうです。そこにリュカが隠れていると、放火犯が言っていました」
「お嬢さんの言う通り小屋はあった。でも中はもぬけの殻だ。外で何か燃やした跡があったが、燃えカスも風で飛ばされて何もない。もちろん、誰もいない」
わたしはアカツキと顔を見合わせる。この状況で、リュカがあの姿のまま森に逃げたはずはない。
それなら、拘束された彼はリュカ?
しかし、奪った体を自分で傷つける理由は?
もしかして、ウルクの意識が抵抗しようとしてそんなことをしているのだろうか。それとも、体を奪っておきながら、ウルクのフリをしてわたしたちを騙そうとしてる?
自分がどんな表情をしていたのかわからないが、アカツキは心配げにわたしの手を握った。
「ユフィ、彼は洗脳されてる可能性があるんだろう? ひとまず、行ってみよう」
考えがまとまらないまま、わたしは無言でうなずいた。アカツキに手を引かれて湿地に踏み入り、泥濘を避け、比較的足場のまともな場所を選んで進む。わたしたちの後ろを、第二小隊長の足音が追っていた。蹄の音が遠ざかっていったから、捜査員は城に向かったようだ。
「まるでリーリナの沼だな」
第二小隊長がぼそりとつぶやく。
湿った泥の生臭い匂いを、霧雨まじりの冷たい風が洗い流した。耳をかすめるサラサラという音は、斜面の際にあるひときわ大きな水たまりを打つ雨音。曇天を映した灰色の水面が雨粒にさざめき、その周辺の泥は暗く青みがかった鈍色をしている。
ウルクと捜査員二人がいるのも、その青鈍色の泥の上だった。靴は踝あたりまで泥に埋もれているが、歩けないほどではないらしい。ウルクは泥濘に膝をつけ、服は泥と血とで汚れてひどいありさまだ。
「担いでいくか?」
「転んだら一緒に泥まみれだぞ」
チラチラとこっちをうかがう捜査員の会話が聞こえてきた。第二小隊長と一緒に現れた場違いな少女を訝しんでいるようだが、わたしたちが水たまりを避けて遠回りをし、あと十数メートルほどの距離になったところで、「おーい、そのお客さんは何者だ?」と向こうから声をかけてきた。
「第二王子殿下の命令でここに来られたらしい」
「王子殿下?」
第二小隊長の言葉に、二人は信じがたいという様子で顔を見合わせた。一方、ウルクは振り返る素振りもない。もがき、うめき、時おり奇声をあげ、傷ついた左腕からは未だに血が流れていた。その傍らに不自然な泥の盛り上がりを見つけ、わたしは思わず足を止める。
「ユフィ?」
「ご令嬢、どうかしましたか?」
彼らのところまであと数メートルほど。わたしは、泥の中に埋もれた布のようなものにじっと目を凝らす。ウルクが暴れたせいなのか泥とほとんど同化しているが、それはシャツの襟のようだった。ロアナ風のフリル襟ではなく、中央クローナで主流となっている折り襟。その意味するものを考える。
その場に佇んだまま、わたしは恐る恐るウルクに目をやった。彼はこちらに背を向けたまま、――いや、その泥の盛り上がりに向き合ったまま、他のものには興味も示さずもがいていた。
「……ウルク」
わたしが声をかけると、彼の動きが止まった。
「この男はウルクというのですか?」
ウルクの背後で拘束縄を握っていた捜査員がわたしに尋ねる。
「ええ。ウルクは聖女を救うためにウチヒスル城に潜入したのですが、リュカに捕まって洗脳されたイモゥトゥです」
「なるほど、洗脳ですか。目の焦点は合っていないし、おかしいと思っていたんです。わたしたちが着いたとき、ここに立って自分の腕をナイフで刺してたんです」
「もう一人、いませんでしたか?」
「城の南棟にいたというリュカのことですよね。この男と関係があるとは思ったのですが、この状態ではまともに話を聞き出すこともできなくて。
ご令嬢の話を聞く限り、この男を囮にして逃げたのでしょう。見てください。そこの泥の山の中に服が埋もれているのですが、もし洗脳でこの男に証拠隠滅をさせようとしたなら、これは失敗でしょうね」
やはり、洗脳されているフリだろうか。でも、とてもそんなふうには見えなかった。
状況が示しているのは、そこにある泥の山が彼の体を形作っていたということ。そして、その泥のそばではイモゥトゥが血を流している。おそらく、リュカの洗脳によって。
「……ルーカス」
考えがまとまらないまま、わたしは彼の名を呼んだ。捜査員たちは首をかしげ、そして、ウルクはまったく反応を示さなかった。
「あなたはルーカスじゃないの?」
今度はヨスニル語で問いかけたが、やはり振り返らない。わたしは泥が服に跳ねるのも気にせず歩を進め、母国語で溢れ出る言葉をそのまま彼の背にぶつけた。
「ウルクに何をしたの?
彼の体を奪ったの?
なぜ無視するの?
もう逃げられないってわかってるでしょう?
洗脳されてるフリをしてるなら――」
肩を掴もうとしたそのとき、彼が不意にくるりと振り返った。その目はまったくわたしを見ておらず、忍び込んだウチヒスル城で見た、あの時のウルクの目そのものだ。
「ウルク……。でも、どうして?」
わたしはウルクの前にある泥の山に目をやった。埋もれたシャツはやはりヨスニル風の折り襟で、ズボンと靴のようなものも見える。
「ご令嬢、服が汚れますよ。これが気になるならわたしが代わりに」
捜査員が、わたしの目の前で泥に手を突っ込んでズルリと服を引っ張り出した。思わず後退り、バランスを崩して倒れそうになったところをアカツキが後ろで抱きとめる。
「これが見たかったんじゃないんですか?」
「あ……、ええ、その通りです」
「目撃したメイドの証言と一致してるみたいですね。中央クローナ風のシャツ。こっちはズボン……、おっと。なんか根っこみたいなのが絡んでる。何だこれ」
ビクッと肩を縮めたわたしの背後で、アカツキも体を強張らせたのが伝わってきた。泥まみれのズボンからズルリと垂れ下がった、無数に枝分かれした黒い根のようなもの。それは、わたしたちが見ている前でボロボロと崩れ落ちていく。
「何かの根が混じってたみたいですね。腐ってるみたいですけど。それから、これは何だ?
ああ、……スカーフかな?」
わたしが呆然と見守る中で、捜査員は泥を手で濾し取ってスカーフを広げてみせた。見覚えのある柄は、夾竹桃祭りの夜に彼が首に巻いていたもの。捜査員はシャツとズボンも調べはじめ、そして、ポケットの中から小さな布袋を見つけた。
「何だろう。持った感じ宝石やなんかではないみたいですが」
「……もしかして、サルビアの種じゃありませんか?」
「サルビアの種? ああ、本当だ。よく礼拝殿が配ってるあれ……」
アッと声をあげた捜査員の手から、種がこぼれ落ちた。青鈍色の泥の山は捜査員の手で崩されており、根だったのかもわからない黒い残骸と、黒い砂粒のようなサルビアの種は、降りしきる雨のせいもあってあっという間に判別がつかなくなった。
――ルーカス・サザランは、もういない。
そう判断するのには十分な状況だった。いや、本当は血を流すウルクの姿と、その傍らの泥の盛り上がりを目にした時点でわかっていたのだ。彼は、自らイモゥトゥの血で土に還ることを選んだ――と。
しかし、なぜ?
考えようとすると、思考を拒むように胸の奥から感情が込み上げてきた。
憎しみ?
悲しみ?
絶望?
安堵?
思い出したくないのに、彼の言葉が頭の中を渦巻いている。
『君は知らないだろうけど、エリオット・サザランは妻のアリシアを愛していたんだ。愛していたからアリシアを遠ざけた』
――だから何?
『セラフィアは愛が怖くない?』
理解したくなかった。理解できるとも思わない。ただ、何気ないふうを装ってわたしに残したその言葉が、内側から突き上げてくる感情をさらなる混沌へと向かわせる。
あれを、愛だったと言うのだろうか。愛だから、こんな形でわたしから離れることにした?
「ユフィ」
後ろから抱きしめられ、わたしは自分が涙を流していることに気づいた。悔しいのか、悲しいのか、もしかしたら嬉しいのかもわからないまま、溢れる涙もそのままに声をあげて泣いた。捜査員たちは困惑し、不審に思ったようだったが、遅れて駆けつけたスカルフ特務卿のおかげで、面倒な言い訳を考える必要もなくなった。
「回収した衣服は泥を落として、城から押収した証拠物とともに王都に持ち帰るように。その男の洗脳は数時間から数日で解けるという話だから、無理やりにでも城に連れ帰って、正気に戻るまでは拘束しておけばいい。洗脳が解けたら聴取する必要がありそうだ」
特務卿は身分証らしき札を捜査員たちに見せて指示を出した。そして、ウルクが捜査員に引きずられるようにして連れて行かれるのを見届けると、改めてわたしに向き直った。
「ユーフェミア・アッシュフィールド。君はこれと親しい仲だったのか?」
彼はそう言って足元の泥をブーツの先で触った。涙は止まったものの、まだ心臓のあたりがふわふわと頼りなく揺れている。
「ただの、同情です」
力なく答えると、特務卿は「そうか」とだけ答えて背を向けた。アカツキと二人で取り残されたその場所には、リュカの墓とも言えるいびつな泥の山があるだけで、降りしきる雨がそれをゆっくりと崩していく。
「ユフィ、風邪引くといけないからそろそろ戻ろう」
「わたしはひかないわ。でも、アカツキが風邪をひきそうね」
わたしはアカツキの手を引いて戻ろうとしたが、ふと思い立って「愛の気づきを」とルーカスの残骸に声をかけた。なぜその祈りを口にしたのかは自分でもよくわからなかったが、わたしに倣うようにアカツキも「ウィヌンソルヌ」と口にする。
「ねえ、アカツキ。サルビアは咲くと思う?」
「どうかな。水はけのいい場所を好むはずだし、発芽しても根腐れを起こすかもしれない」
「彼はセタを嫌っていたから、きっとその方がいいわ」
わたしは泥山から視線をそらし、彼の終わりの場所を後にしたのだった。
帰り道、わたしはアカツキに体を預けて馬に揺られながら、ルーカスが最後にあの場所を選んだ理由について考えた。
彼にとって、あの湿地は始まりの場所でもあったのかもしれない。あそこはきっと、ウチヒスル村の邪教徒が泥根術の泥を採取していた場所だ。だとすれば、彼らが残した資料をもとに泥根術の材料を探していたエリオットも、あの青みがかった鈍色の泥を使った可能性がある。
つまり、彼は生まれた場所に還ったのだ。まるでリーリナの沼のような、あの場所に。そして、そこはイヴォンを愛したキャスリンが生まれた場所でもある。
ウチヒスル城の城壁が見える頃には雨は止み、オトとオールソン卿だけでなく、オスカー卿とジュジュとライナスもわたしたちを出迎えた。放火犯はヴィンセントとともに王都へ移送されることが決まり、行方不明のイモゥトゥ聖職者リュカの捜索は、形ばかりのもので終わることになりそうだった。
わたしたちが海軍の所有する軍船でテンデ港を発ったのは、この三日後のことだ。




