第九話 ウチヒスルの森
__ロアナ王国フォルブス男爵領ラァラ神殿前__555年9月14日
「雨に濡れたら、リュカは死ぬわよ」
わたしが言うと、少女は「そんな馬鹿な」と怪訝そうに眉をひそめた。どうやら、ロブがいなくなった後も、リュカは他のイモゥトゥに自分の正体を打ち明けていなかったようだ。
「思い当たることくらいあるでしょう?
彼は晴れた日しか外に出ない。彼のそばに水を置くときは慎重にならなかった?
食事をしたところを見たことがある? 水を飲むところは? 入浴は?」
「それは、全部ロブが⋯⋯」
少女の顔から血の気が引いていった。どこまで理解したかわからないが、彼女は今にも雨が落ちてきそうな曇天を見上げると、「行かなきゃ」と唐突に暴れはじめた。雨粒ひとつでも頬に触れたら、リュカの息が止まると思っているのかもしれない。油断していた捜査員たちが、慌てて少女を羽交い締めにする。
「放してよ! 早く行かなきゃ。みんな、そんなこと知らないんだから」
「みんなって?」
「仲間よ。全部喋るから早く放して!
城にあった本には三人で手分けして火を点けたの。リュカ様から必ず三人全員で行って確実に燃やすように言われたから!」
「サザラン邸に来てた三人ね。じゃあ、リュカは?」
「あんたの仲間と一緒にいるわよ。ウルクってやつが!」
ゾッと背筋に悪寒が走った。
リュカは、本気でウルクの体を奪うつもりなのかもしれない。考えてみれば、身近にいたイモゥトゥはみんなリュカではなく先々代フォルブスの根が入っているわけだし、わたしの知る彼ならそのリスクを甘受して護衛の体を奪うことはない。それに、ウルクを選べば護衛の人数が減ることもない。これまで通り三人とも従えることができるのだ。
「ユフィ、とりあえず行ってみようよ。リュカは街じゃなくて森の奥にいるってことだよね」
オトに言われ、思い出したのはウルクから聞いた話。
「フォルブス男爵は、イヴォンを城から連れ出して森の方へ連れて行こうとしていたらしいわ。その途中で黒豹がイヴォンを助けて、イヴォンは今テンデ海軍基地で保護してもらってる」
「海軍?」
オトが素っ頓狂な声をあげ、聞いていた捜査員たちも驚いた様子で顔を見合わせた。少女は絶句して口を半開きにしている。
「イヴォンの話は後よ。重要なのは、森の奥にイヴォンが隠れられるような場所があったってこと。たしか、湿地があって、フォルブス男爵はそこで馬車を停めたって聞いたけど……」
「モートン・フォルブスの小屋だそうよ」
少女が唇を震わせて言った。
「モートン・フォルブス?」
「先々代フォルブス男爵。湿地の少し先の、森の陰にあるわ。でも残念ね。そこにあった書物やなんかも、リュカ様に言われて全部燃やしちゃった」
「⋯⋯今、先々代って言った?」
「ええ」と、少女はわたしの問いかけに不審げに眉を寄せた。
先々代と言えば、歴代フォルブスの中で誰よりもリュカに忠実だったという人物。そして、目の前にいるこの少女の体内に入っているのは、その先々代フォルブスがつくった泥魂人形の根。その一切の事情を目の前の少女は知らないらしい。
「小屋の中に泥⋯⋯、いえ、乾いた土の塊が残ってなかった?」
「⋯⋯あったけど」
その小屋は、間違いなく先々代フォルブス男爵が泥魂人形を作っていた場所だ。そして、泥魂術に必要な泥はきっとその近くの湿地に――。
「オト。リュカは自分に関することが書かれているものを全部燃やそうとしたのよ。城の隠し部屋にあったのも、おそらくそれに関するものに違いないわ。
とにかく、ウルクの身が危ない。手遅れかもしれないけど、行かなきゃ」
「じゃあ、おじさん。馬を一頭貸してくれない?」
オトは林の奥に見えるウチヒスル城の裏門を指さした。先ほどから蹄の音が聞こえてくると思っていたら、騎馬が慌ただしく出入りしている。
「何かあったようだ」第二小隊長がボソッと口にした。
「わたしの仲間を追ってるのよ、きっと」
少女は生意気な口調で言い、なおも逃れようともがいていたが、鍛えられた男性二人が相手ではびくともしない。
城壁沿いの道を、一台の馬車が裏門の方へ向かうのが見えた。御者台に座っているのはオールソン卿を乗せてきたというあの御者。小さな窓からこちらを見ているのは、たぶんアカツキだ。わたしたちが乗ってきた馬は正門近くに置いてきたようだが、どのみち、サザラン邸から休みなく駆けさせたあの馬で森に入るのは心許ない。
「オト、城の馬を借りるわよ。行きましょう」
駆け出そうとするわたしの腕を、「待て」と第二小隊長が掴んだ。
「何やら事情を知っているようだから、我々の案内役を務めるなら馬を貸そう。しかし、その前に確認しておくことがある。
君は隠し部屋にあったものの見当がついているようだが、それは何だ?」
「⋯⋯それについて話すには、ロアナ王家の許可が必要です。わたしは第二王子殿下の命でハサに向かうことになっているので、その場で直接お話しようと思います」
第二王子のことを持ち出した効果はてきめんだった。捜査員たちの態度が急に丁寧になり、すぐさま城の裏門へと移動すると、第二小隊長は馬を連れた若い馬丁を掴まえる。
「その馬はどこに?」
「⋯⋯あっ、捜査隊の方に馬を用意するようにと言われて⋯⋯」
「何があったかわかるか?」
しどろもどろの馬丁に見切りをつけ、第二小隊長は彼の手から手綱を奪うと、今度は森から戻って来た騎馬を呼び止めた。馬上の男は手を縛られた少女にチラと目をやり、第二小隊長に視線を戻す。
「女は捕らえたみたいだな。こっちはさんざんだよ。一人は城内で確保したんだが、馬を盗んで森の奥へ逃げたやつがいるんだ。それで、少し前に十名ほどで追跡に向かった。
森は広いし埒が明かないから、増員した方がいいんじゃないかと思って、相談しに戻って来たところだ」
「湿地の奥よ。湿地の奥の小屋にリュカが身を潜めてるって、この少女が言ったわ」
わたしが口を挟むと、馬上の男は「なんだこいつは」と言いたげな顔をする。第二小隊長が「第二王子の命を受けているそうだ」と小声で囁くと、慌てて馬から降り姿勢を正した。
「その馬をお借りても?」
わたしの要請に捜査員二人は顔を見合わせ、「どうぞ」と手綱を差し出す。受け取ろうとしたその手綱を横から奪った犯人はアカツキだった。城壁のそばに停まった馬車は扉が開けっ放しにされ、オールソン卿が顔だけのぞかせている。
「ユフィ、そこにリュカが?」
「……たぶん」
「じゃあ、一度くらい顔を拝んでおかないと」
「ケイ卿! わたしもそこへ⋯⋯」
キャビンから声をあげたオールソン卿に視線が集まり、その痛々しい風貌に捜査員たちは驚いたようだった。馬車のそばに立っていた捜査員(オトとオールソン卿の行く手を阻んでいたあの捜査員)が、
「彼は、フォルブス男爵の実子のクリフ・オールソン殿です。入城許可が下りるのを待っているところです」
捜査員たちは困惑した表情でわたしを見、「さすがに同行は無理です」と首を振った。わたしも、オールソン卿を連れて行く気は毛頭ない。この先にいるのは逃亡中の護衛イモゥトゥと、リュカとウルク。リュカがあの姿のままで大人しく小屋に閉じ籠もっているのならいいが、すでにウルクの体を奪い、銃を手に待ち構えている可能性もないわけではないのだ。
「オールソン卿。ルーカスは、ルーカスの姿ではなくなっているかもしれません。あなたが彼の秘密をどこまで知っているのかわからないけど、一緒に行くのは危険です。その体では逃げることもできないのに」
「ユーフェミア嬢。わたしはルーカスのことは多少知っていますが、リュカについてはほとんど何も知りません。まったく、彼のことをわかっていなかったんです。わかった気になって、わたし自身の行動を正当化するのに彼を利用していた。
別に殺されたって構いません。わたしにはもう何も残っていないのですから」
その顔が包帯で巻かれていなければ、頬を思い切り叩いてやりたい気分だった。握りしめたこぶしが震えているのに気づいたのか、アカツキがなだめるようにわたしの背中を叩く。抑えきれない怒りはオールソン卿にも伝わったらしく、彼は「すいません」と力なくうなだれた。
「安易に死ぬだの殺すだのという言葉を、あなたの前で口にするべきではありませんでした。それでも、わたしはリュカに会わないといけないんです」
「オールソン卿。まさかルーカスを道連れに死のうなんて考えていませんよね」
「まさか」
「その言葉を信じることはできません。あなたは嘘つきだから。それに、彼に会いたいなら彼が捕まるのを大人しく待っていてください。じきに雨が降りだすでしょうし、無理をしては体に障ります。
オト、オールソン卿のことをお願いね」
オールソン卿は無念そうにわたしたちを見ていたが、オトがなだめると「わかりました」と、渋々ながら了承したのだった。
わたしとアカツキが馬に跨ると、さっそくポツリと雨粒が落ちてくる。
「降ってきたみたい」
「恵みの雨だね」
「どういう意味?」
「雨が降ればリュカは小屋から出られない。逃げようがないってことだ」
「それは違うわ。リュカはウルクを……」
「たしかにその可能性はゼロじゃない。でも、あの男はずっとイヴォンにこだわってきた。いくら切羽詰まった状況だからって、成り行きで一緒にいるだけのイモゥトゥを選ぶとは思えない。ウルクでなくても、ラァラ神殿にはいくらでもイモゥトゥがいたはずだろう?」
「そうだけど」
「おれは、本当は君をここに置いていきたいんだよ。これは、やつが君を狙って仕掛けた罠なんじゃないかって……」
裏門付近の混雑を抜けると、アカツキは背後を確認して馬を走らせはじめた。後ろには二頭の馬が着いてきている。第二小隊長とその部下一人。
城壁沿いの道はじきに木々のトンネルへと変わり、風の音と、三頭の馬が地面を蹴る音、そして自分の心臓の音が聞こえてくる。迷いようのない一本道の途中で、林の中に捜査員の姿が見えた。
道にはじきに雑草が目立ちはじめ、暗く鬱蒼とした森を、雨の匂いが混じった冷たい風が吹き抜けていく。かすかな水音に振り向くと、斜面を下った先の川原で、捜査員が一人の男を取り押さえている。
「逃げたイモゥトゥは捕まったらしいね」
アカツキがわたしの耳元で言う。背後の二人も気づいたようだが、止まることなくわたしたちについてきた。乾いた路面のところどころを雨粒が濡らし、遠雷が聞こえる。焦りが徐々に緊張へと変わり、たてがみを掴んだ手に嫌な汗がじっとりと滲んできた。
もし、ルーカスがルーカスのままだったら、わたしはこの体に流れるイモゥトゥの血で彼を滅ぼすべきだろうか。もし、ウルクの体がルーカスに奪われていたら、わたしはその心臓に二発の銃弾を撃ち込むべきだろうか。
いずれにせよ、決着をつけるべき時が来たのだ。憎しみの隙をついて未だにちらつく同情心。そんなものに惑わされて彼を見逃すわけにはいかない。
「ねえ、ユフィ。イヴォンはこの森で育ったのかな」
ルーカスのことばかり考えていたわたしは、アカツキの言葉にハッとした。夢から現実に引き戻されたような気分だった。
「イヴォンが育った、ウチヒスルの森⋯⋯」
「さっき、川が流れていただろう?
キャスリンが流されたのは、あの川かもしれないね。どうして水に近づいたのかはわからないけど、イヴォンを助けるためだったような気がしないかい?」
「⋯⋯そうね。キャスリンならきっとそうよ」
森は相変わらず薄暗いけれど、なにか、大きな存在に抱かれているような気分になった。それは、ただの神話に過ぎない聖女ラァラやセタ神の愛などではなく、この森に生きた泥人形キャスリンの愛。邪教の村で生まれた彼女がイヴォンに向けた愛は、セタの国に行くことなく未だにこの森に留まっている――そんなふうに思えた。
「湿地だ!」
後ろで第二小隊長が声をあげた。大きく曲がった道に先に、ところどころ雑草の生い茂る灰茶色の泥地が見えてくる。予想外だったのは、捜査員の姿がすでにそこにあったことだ。




