第七話 聖地からの帰還
__ロアナ王国フォルブス男爵領__555年9月14日
なぜこんなに焦っているのか、自分でもわからなかった。エンデブルッカ街道を馬で駆け抜けながら、その手綱を握るのが自分でないことが酷くもどかしい。
わたしはアカツキに抱かれるようにして、震える手で馬のたてがみを掴んでいた。ウチヒスル城のある山の峰には灰色の不穏な雲がかかりはじめ、朝よりもひときわ涼しい風が吹きつけてくる。
「やっぱり別々の馬にすれば良かった。二人だと馬がすぐ疲れてしまうわ」
「サザラン家の馬はそんなにやわじゃない。これくらいの速度が出れば十分だよ。ユフィ、この先はまだ真っすぐ?」
「ええ、神殿はもっと先よ」
すでにフォルブス領内に入っていた。先日ジュジュと一緒に来た時はそれほど遠いとは感じなかったのに、今は馬を駆っても駆っても前に進まない気がする。街道沿いにはイヴォンの捜索中らしいサザラン警察の姿もあったが、尋常でない速さで駆け抜ける馬を「何事だ」とでも言いたげに首をかしげて見ていた。
町を過ぎてしばらくすると上り坂になり、右手には幅二十メートルほどの川が現れる。フォルブス男爵を乗せた馬車が転落したのはこのあたりのはずだった。エンデブルッカ街道は山の斜面に沿って大きく湾曲し、左には緑の木々が生い茂る林、右は踏み外せば川原へ真っ逆さまに落ちてしまいそうな絶壁。
「アカツキ、あそこ」
右の先の崖の際に、こぼれ落ちそうなほどサルビアの花が供えられているのが目に入った。
「亡くなった男爵への献花のようだね。寄ってみる?」
「うん」
アカツキは歩速を緩め、山積みのサルビアに近づいていく。しなびた大量の赤い花。その奥には、目がくらみそうなほどの高い崖。転落した馬車は大破していたと聞いていたが、現場を見るとゾッと身震いがした。
「もういいわ」
振り返ると、アカツキはサザラン邸を出たときと変わらず、不安そうな、心配そうな顔をしている。
「わたしは大丈夫よ、アカツキ。もし城にリュカがいたとしても、わたしが体を乗っ取られることはないから。フィンが教えてくれたでしょう?」
「リュカはイモゥトゥの血で土に還るっていう、あの話だね。ねえ、ユフィ⋯⋯、いや、セラフィア。君はルーカス・サザランを土に還そうと考えてる?」
「⋯⋯わからないわ。そうすべきかもしれないけど、上手くいくとも限らない。
彼、わたしをダーシャだと思っていたときはウチヒスル城に来いって誘ったの。でも、セラフィアだとわかるとわたしから離れるようなことを言っていたわ」
「やつは、君がセラフィアだって信じたの?」
「たぶん、信じたと思う」
「じゃあ、君に復讐されるのを恐れているのかもしれないね」
それは違う。――そんな確信がわたしの胸にはあった。しかし、「ルーカスはわたしを愛しているから離れようとしているのかもしれない」なんて、口が裂けてもアカツキの前で言うことはできない。
「とにかく、急ぎましょう。ウチヒスル城で何が起きてるのかこの目で確かめないと」
山の中腹に差し掛かると左右には葡萄畑が広がり、赤茶けた煉瓦造のワイナリーを通り過ぎたところで、わたしは「もうじきよ」とアカツキに声をかけた。小さな集落を抜け、ようやく見えてきたラァラ神殿への曲がり角には人だかりができている。
「あそこを左に行くと神殿よ。でも、面倒なことになってるわね」
「そうみたいだね」
道の先では、防護服の上半身を脱いだ消防旅団員の男たちと、ラァラ派信徒とがもみ合っていた。
「危険だから、関係者以外は立ち入り禁止だ!」
「火事なんだろう? 神殿は大丈夫なのか!」
「燃えたのはウチヒスル城だ。神殿じゃない!」
「燃え移ってないかって聞いてるんだ! このわからずやが!」
「おい、おまえ! これ以上邪魔するなら牢にぶち込むぞ!」
男の胸ぐらを掴んだ一人の消防旅団員が、蹄の音に気づいたのかこちらに目をやった。それにつられ、人々は一斉にこちらに視線を向ける。
「どなたですか!」
言葉は丁寧だが、消防旅団員の声には苛立ちが滲んでいる。こっちが貴族らしい格好をしていなければ、もっと粗野な言葉が投げつけられていただろう。
「ユフィ。テンデ海軍基地からの遣いだと言えばいい。聖女の所在に関することで、神殿に用があって来たと」
アカツキがこそっと耳元で囁き、わたしはその助言に従うことにした。国防軍の軍人がサザラン邸を訪問したこと、サザラン卿も遅れて到着するだろうこともあわせてロアナ語で伝える。実際にオスカー卿が来るかどうかはわからないが、彼が屋敷で大人しく待っているとも思えなかった。
ひとまずこれだけ言えば道を開けるだろうと高を括っていたが、相手は思ったより融通が利かない。
「事情はわかりました。あなたの名前と素性を教えてください。後ろにいらっしゃる男性はロアナ人ではないようですし、女性のあなたは軍人ではない。はいそうですかと、簡単に通すわけにはいきません」
逸る気持ちが苛立ちに代わり、わたしは気持ちを落ち着かせるために息を吐く。
「わたしは、聖女イヴォンの友人でユーフェミア・アッシュフィールドと言います。彼女とはザッカルング共和国で知り合いました。わたしは彼女と同じくイモゥトゥです。そして、後ろの彼はわたしを保護することになっているソトラッカ研究所の研究員。
サザラン邸に来られた国防軍の方の所属をわたしが勝手に明かすことはできません。しかし、その方もサザラン卿と一緒にこちらに来られるでしょう。それまで足止めされるおつもりですか?
もしそうなら、あなたたちもどうなるかわかりませんよ。国防軍の遣いを妨害したことになるわけですから」
群衆がザワッっとどよめいた。
「イモゥトゥだと? 本当か?」
「ロアナ人じゃないなら部外者だろう?」
「でまかせじゃないのか」
人々がヒソヒソと囁やく中、一人の男が「国防軍は神殿をどうするつもりだ!」と顔を真っ赤にして叫んだ。先ほど消防旅団員に食ってかかっていた男だ。
「そんなこと、わたしが知るはずがありません。
あなたたちは北部の状況をご存知ないのですか?
オングル炭鉱跡地でのことを。今、ラァラ派は非常に危うい状況にあるのです。このような態度を――」
「オングルなど知らん!」
わたしの言葉を遮って男が声を張り上げた瞬間、「もういい」といきなり後ろから口を塞がれた。
「ユフィ、しっかり掴まれ」
アカツキは手綱を引いて馬を方向転換させる。
「どこへ行くのですか!」
消防旅団は国防軍に逆らうことになるのではと焦ったようだった。アカツキは何も答えず、人垣を避けて大回りすると、道の先の警備が手薄な場所を選んで強引にロープを飛び越え林に入る。そのまま五十メートルほど駆け上がり、神殿へと続く道に出た。
「最初からこうすれば良かった」
「本当ね。追って来る気はないみたい。消防旅団も信徒も」
坂の下では「おれたちも通せ」と叫ぶ声がしているが、状況は先ほどと何も変わっていなかった。
「あそこに集まってる人たちも状況が知りたいだけなんだろう。強引に神殿に向かっても捕まるだけだし、消火の手助けができるわけでもない」
「火の手は見えないわね。周辺の森に燃え広がらないといいけど」
「今のところそんな感じはないが、少し煙っぽい匂いがするようだ」
坂道の途中には行く手を塞ぐ者はいなかったが、神殿が近づくに連れて人々のざわめきが耳に届きはじめた。じきに坂の下と同じような人だかりが目に入り、二人でため息をつく。
しかし、さらに馬を進めると、信徒と消防旅団の衝突ではなさそうだと気づいた。言い合いをしているのはラァラ神殿の正門前ではなく、そこを過ぎて、正門右手に伸びるウチヒスル城への道を塞ぐように人が集まっている。信徒を押し留めているのも、王都治安維持隊の捜査員のようだった。
少し離れたところに一台の馬車が停まっていて、その傍では一人の御者が所在なげに右往左往しながら様子をうかがっている。わたしたちは馬を下りて近くの木に綱をくくり付けると、その御者に声をかけた。
「すいません。あなたは?」
背後から話しかけたからか、日焼けした痩せぎすの御者はヒェッと声をあげた。こっちが貴族らしいとわかると、帽子を脱いで深々と頭を下げる。
「わっ、わたしは頼まれてここまでお客様を乗せただけで、詳しいことは何も……」
「あなたが乗せてきた客というのは?」
「あの人だかりの中に……。どなたかは存じませんが、坂の下にいた消防の方がすぐ通してくださったので、それなりの身分のお方と思います。
あっ、お一人はひどい怪我をされているらしく、顔の半分と体に包帯を巻かれていて、右腕がありませんでした。もう一人は少年で、その子も左腕がありませんでしたが、古い傷なのか痛がる様子もなくて……」
わたしとアカツキは顔を見合わせ、御者を放って駆け出した。群衆をかき分けて進むと知った声が聞こえてくる。
「なんで疑うんだよ! この人はクリフ・オールソンだって言ってるだろ!」
オトだ。彼がこんなふうに怒りを露わにするところは初めて見たけれど、人垣の合間に見えたプラチナブロンドの髪も、八十のおじいちゃんを自称するわりに少し子どもっぽい口調も、間違いなくオトだった。
隣で彼に支えられて無言で立ち尽くしているのは、クリフ・オールソン。ジャケットを羽織っているせいで腕の状態はよくわからないが、頭には包帯が巻かれ、苦しげに肩で息をしている。
わたしはすぐ駆け寄ろうとしたが、「待って」とアカツキに止められた。
「少し様子を見よう」
「でも⋯⋯」
「二人の目的もわからないのに、下手に出て行って台なしにしたくない。ほんの少しだけでいいから――」
「おじさん! もしかしてクリフ・オールソンが誰か知らないの?」
わたしたちに気づく様子もなくオトが声を張り上げ、大人しくアカツキに従うことにした。
「ぼくが教えてあげるよ。彼はヴィンセント・フォルブスの双子の兄で、弟のヴィンセントに殺されかけてこんな怪我を負ったんだ。
クリフ・オールソンが死んだっていう噂くらい耳にしただろ?
あれは、これ以上クリフを危険に晒さないために大聖会がそうしてくれたんだよ。本当はまだまだ安静にしてないといけないのに。父親の訃報を聞いてこの体でここまで駆けつけたんだ。その重症患者を追い返すの? それでどこに行けっていうのさ!」
捜査員は少年の勢いに気圧されたように見えたが、それでも態度は頑なだった。オトから視線を外し、おまえでは相手にならないと言いたげにオールソン卿に向かって答える。
「申し訳ありませんが、ウチヒスル城は現在捜査中です。それに、火災のため中に入ることはできません。神殿に休める場所を用意させますので――」
「鎮火したって、さっきおじさんが自分で言ったよね!」
「まだ火災現場の検証中です。関係者が証拠隠滅を図る可能性もあるので、フォルブス家の関係者であれば余計にここを通すわけには――」
「クリフが証拠隠滅に加担するかもしれないってこと? この体で?」
捜査員はうんざりした様子でため息をつく。オールソン卿がまともに動けるとは思えないが、このあと聞こえてきたのは思いのほかしっかりした声だった。
「捜査員殿、出火したのはウチヒスル城の裏門に近い南棟の端ではありませんか?」
「なぜ、それを?」
「そこは、リュカの部屋があった場所ですから」
「その者をご存知なのですね」
周囲にいた数人の捜査員がうなずき合い、上官に報告するつもりなのか一人の若い捜査員が城の方へと駆けて行った。
「リュカという名前のイモゥトゥは、数日前に城から逃亡しました。現在捜索中です。ところで、彼が南棟に何を保管していたかご存知ですか?」
捜査員の目は鋭く、オールソン卿への疑いを強めたように見えた。彼がどんな顔をしているのかはわからないが、その声はどこか達観したように穏やかだ。
「さあ? わたしが南棟でリュカと遊んだのは五歳の頃のことです。積み木やボードゲームが置かれていたことくらいしか覚えていません。それ以外で南棟に立ち入ることはありませんでしたし、成人してから再び彼と交流を持ちましたが、その時わたしはすでにオールソン家の人間でした」
「五歳? 五歳のころにリュカと会ったのですか?」
「ええ。彼も五歳くらいでした。だから、神殿がイモゥトゥを保護しているという話を聞いても彼がイモゥトゥだとは思いませんでした。病弱で、屋外にも出られず、子どもながらに不憫に思った記憶があります」
林の奥からは煙が立ち昇り、それを見上げるオールソン卿の背はどこか寂しげだった。灰色の煙は風に吹かれ、ジワジワと広がりつつある鈍色の雲に溶けていく。
「捜査員殿、リュカはウチヒスル城にはいないのですね」
オールソン卿の問いかけに捜査員は一瞬答えを躊躇ったが、「ええ」とうなずく。
「おじさん、何か隠してるの?」
すかさずオトが追求すると、「子どもは黙ってろ」と吐き捨てる。貴族の従者のようだから仕方なく丁寧に接していたが、それも限界に達したというような口調だった。オトは捜査員に食ってかかろうとしたが、彼の耳元でオールソン卿が何か囁くと、パッと神殿の方に目をやる。それは、信徒たちからどよめきが起こったのとほぼ同時だった。
閉じられた正門の鉄柵の向こうを歩いてくるのは、ヴィンセント・フォルブス。手枷はされていないが両脇を捜査員に拘束され、不機嫌な表情で引き摺られるようにやってくる。その姿を見て、わたしのそばにいた年配の女性が「ウィヌンソルヌ」とか細い声で唱えた。




