第三話 ウチヒスル城潜入(二)
__ロアナ王国フォルブス男爵領ウチヒスル城内__555年9月13日
階段を降りた先の通路は、地図によるとまっすぐ南棟まで続いているようだった。ランタンの灯りに加え、小さな採光窓からもかすかな光りが差しているものの、前方は闇に包まれている。辛うじて数メートル先に扉がふたつあるのが確認できるくらいだ。
手前の扉がライナスが昔使っていた部屋、奥がネイサンの部屋。ライナスは三十四番の体に入ってから一度も足を踏み入れていないらしいが、ネイサンはサザラン邸に来たあの日も鍵を持っていて、ぐっしょり濡れた服から鍵を回収していた。この慌ただしかった数日で鍵を変えるのはフォルブスでも無理だろうというネイサンの言葉通り、ジュジュが鍵を回すとカチャと軽い音がする。木製の扉をそっと押し開け、彼女はフゥと息を吐いた。
「半地下の入り口には見張りもいなかったし、イヴォンがいなくなったこの城にわたしたちが忍び込むとは思ってなかったんでしょうね」
そう言いながらランタンを頭上にかざして部屋に足を踏み入れる。左の壁際にある書棚にはびっしりと本が並び、中央のテーブルには積み上げられた数冊の本。インク瓶とペンが無造作に投げ置かれていて、どことなく生活の匂いを感じさせた。
奥の壁に扉がふたつ。開けてみるとひとつは寝室、もうひとつはボードゲームなどの遊具が置かれた部屋。寝室で見つけた直径十五センチほどの穴は、ライナスとネイサンが壁越しに話をするために開けられたものだろう。壁はかなり厚く腕を入れても向こうの部屋には届かず、頼りないランタンの灯で様子をうかがうことはできなかった。
寝室には入ってきたのとは別に扉がふたつあり、片方は物置、もう片方は採光窓がある小さな部屋だった。窓と言ってもほとんど飾りのようなもので、外に生茂った雑草のせいか採光の役割を十分に果たしていない。
「ネイサンはこんな場所に一人でいたのね」
わたしがなんとなく口にすると、ジュジュが呆れたように笑い声を漏らした。
「ここにはほとんどいなかったんじゃない?
ソトラッカに同行してたわけだし、リュカのそばにいるのがネイサンの役割だったんでしょ?
ずっと一人で半地下で暮らしてたなんて本人は言っていたけど、同情を買うために大げさに言っただけだと思うわ。
それより、どうやらイヴォンも黒豹の子たちもここにはいないみたいね。捜査員に見つからないためにはここが一番だって、ネイサンが言ってたけど」
「やっぱりイヴォンは逃げたのかしら。ウチヒスル城が捜査範囲に入ってないからといって客室に監禁することはないだろうし、リュカが使ってるっていう南棟の端の円筒形の場所。あそこも怪しいには怪しいけど、この半地下みたいな隠し部屋はないようだし」
「ネイサンとライナスの言葉を信じるならね」
ジュジュは皮肉めいた口調で言うと、目的は終えたとばかりに出口に向かって歩き出した。
「ねえ、ジュジュ。南棟に隠し部屋があるかもしれないと思ってる?」
「その可能性はゼロじゃないわ。でも、だからって予定外の行動をする気はない。あなたを下手にリュカに近づけるわけにはいかないもの。もしあなたが体を乗っ取られたら、誰かがあなたの心臓に銃弾を撃ち込むかもしれない。それはもしかしたらわたしかも」
「油断しなければ根に体を乗っ取られることなんてないわ。それに、もし本当にそうなったら自分で撃つから」
ふいに何かにつまづいてゴッと鈍い音がした。先を歩いていたジュジュが「何?」と振り返ってランタンをかざす。よく見るとテーブルの下に木箱がいくつかしまってあり、はみ出したものに躓いたようだった。
「なんでこんなところに」
引っ張り出して蓋を開けると、書類や本が乱雑に突っ込まれていた。何気なく手に取った一冊に『イモゥトゥ妊婦実験』の文字が見えて息を飲む。
「ジュジュ、まったくの空振りだったわけではなさそうよ。妊婦実験の記録だわ。『妊婦予後調査記録』に、『イモゥトゥ成長記録』」
「見つかるとまずいものばかりね。捜査が入ると知って急いでここに移動したんだわ。でも、持ち帰らないほうがいい。サザラン伯爵邸からこんな資料が見つかったりしたら余計な疑いを招くだけだもの。合同捜査隊がこれを見つけてくれるのが一番なんだけど」
「二、三冊持ち出して、捜査員の目につくところに落とすのはどう?」
「神殿に潜入するつもり?」
「どうせイモゥトゥの居住区域は通るんだから、ついでだと思えばいいでしょ。そこで祭服を手に入れて、イモゥトゥ聖職者のフリをすればいいわ」
ジュジュが考え込んだのはほんのわずかな時間。「わかった」と、目ぼしいものを数冊選んで脇に抱え、そのあとはまっすぐ地上に戻った。茂みに隠していた洗濯籠に盗んだものを入れ、汚れたコックコートを上にかぶせる。再び城内に入り警備員に会釈して中庭の外廊に出ると、祈祷の声をかき消すほどの轟音で鐘が鳴り響いた。
神殿の鐘楼はフォルブス男爵の葬儀が行われる十八日まで、一日に二度鳴らされると聞いている。一度目は午前十時に、二度目は午後五時に。いつの間にか太陽はずいぶん高い位置まで到達したらしく、中庭に落ちたとんがり屋根の影が先ほどよりもずいぶん短くなっていた。
「ねえ、ジュジュ。イモゥトゥの宿所で祭服を手に入れたら祭殿まで行ってみない?
黒豹倶楽部の仲間が聖職者に混じって祈祷してるかもしれないでしょ」
「欲張りすぎよ。祭殿の聖職者は捜査隊が聴取することになってるから無理する必要はないわ。オスカー卿とライナスに任せておけばいい。わたしたちはわたしたちのことを考えましょう。外廊で南棟に戻るのはやめたほうがいいわね」
ジュジュの視線を追うと、東棟の外廊でメイドが三人立ち話をしているのが見えた。
「警備員はうまく誤魔化せたけど、メイドを騙すのは無理。中庭を横切ってイモゥトゥ居住区域に行きましょう。ユフィ、貴族のお嬢様みたいな歩き方をしちゃだめよ」
「本は洗濯籠に入れたまま?」
「今取り出したら怪しまれるわ。メイドだけじゃなくて見張りも見てるんだから。夾竹桃の陰まで行けば、外廊にいるメイドからはわたしたちが何をしてるかなんてわからないはず。籠は置き去りにして中身だけ持って塀を飛び越えればいい。その後は見張りが来るまでに急いで動くわよ」
わたしがうなずくと、ジュジュはやり慣れた仕事にうんざりしている顔で洗濯籠を抱えなおし、中庭の芝生に足を踏み入れた。彼女について行きながら、正面に見える南棟の端の円筒部分を見上げる。
神殿との連絡通路がある北棟端とは違い、リュカが暮らしているその場所には各階にベランダが設置されていた。リュカはだいたい三階で過ごしているとネイサンが言っていたが、その階の窓は閉じられ、重そうな緋色のカーテンがきっちりと引かれていた。一方、二階のベランダは両開きの窓の片側が開けられ、カーテンがゆらゆらと揺れている。
「ジュジュ、二階にリュカがいるかもしれない。見つかったらどうする?」
「ダッシュで木塀を乗り越えて、あとは予定通り脱出ルートを突き進むだけよ」
「ねえ、ジュジュ。リュカがもうイヴォンの体を乗っ取っていたらどうしよう。彼がイヴォンのフリをして、『考えが変わってラァラ神殿に残ることにした』って言ったら、泥魂術を知らない人はきっと信じてしまうわ。そうなったら邪術のことを世間に公にすべきだと思う?
それに、もしそんなことになったらイヴォンをどうしてあげるべきかわからない。リュカに利用される前に――」
殺してあげたほうが――。
そんな考えがここ数日のあいだ頭の中を渦巻いていた。考えうる中で最悪の結果だが、リュカの秘密を知る者ならみな一度くらいは考えたはずだ。しかし、これまで誰も口にしようとはしなかった。
「きっとユフィと同じよ。彼女も自分でどうにかしようとするわ」
ジュジュはわたしの肩に手をおき、長く生きたイモゥトゥならではの達観した笑みを向けた。その眉間に不意に皺が寄る。
「ユフィ、南棟の物見台にいた見張りがいなくなってる。他の場所の見張りは動いてないみたいだけど、気づかれた可能性があるわ」
「走る?」
「いえ、慎重にいきましょう。怪しまれないようについて来て」
ジュジュは「あれ見て」と何かに気づいたように夾竹桃の手前にある花壇を指さし、無邪気なメイドを演じて進行方向を変えた。小走りに中庭を横切り、サルビアの花壇が目の前というところまで来たとき、わたしの耳がかすかな物音を捉える。無意識に後ろを振り返り、足を止めた。
カーテンが揺れていた二階のベランダ。そこにヨスニル風の折り襟シャツを着たルーカスが一人で立っている。声を張り上げなくても会話できそうな距離で、彼がわたしを見つめていた。エリオットにそっくりの整った顔、喉仏のホクロすらはっきり見える。わたしより数秒遅れて、ジュジュは彼の存在に気づいたようだった。
「ユフィ、走るわよ」
低く潜めた声だったが、鋭い口調だった。踏み出そうとした足が止まったのはルーカスが声を発したから。
「セラフィア」
彼はバルコニーに手をかけ、わずかに身を乗り出していた。一見無表情に見えるけれど、そこからは悲哀、失望、諦念、後悔、孤独などあらゆる感情が滲み出しているようにも思える。不思議と憎しみも怒りも湧いてこないのは、胸の内をすべて彼にぶつけたからかもしれなかった。
こうしてフェイスベールのない状態で顔をあわせたのは夾竹桃祭りの日以来。憂いを帯びたその表情は、ソトラッカの借家で彼と過ごした時間を思い出させた。
「良かった。あなたがその姿でいるってことは、イヴォンは無事に逃げたのね」
「無事かどうかはわからないよ。ぼくが彼女を逃がしたわけじゃないから」
感情的になるわけでもなく、どこかからかうような、面白がるような澄んだ軽い声。口調だけはライナスに似ている。
「フォルブスはもう終わりよ。あなたも、もう終わりだわ。ライナスもネイサンも、オールソン卿もあなたから離れていった。もちろんイヴォンも。フォルブス男爵は死んでしまったし、あなたのそばに残るのはヴィンセントと根で洗脳したイモゥトゥだけ」
「そうだね」
彼は作り笑いのような微笑を浮かべた。
「セラフィアもぼくから離れていくんだろうね」
「別れ話をしたのはあなただった」
「そう。そうだったね。でも、君は知らないだろうけど、エリオット・サザランは妻のアリシアを愛していたんだ。愛していたからアリシアを遠ざけた」
「だから何?」
「セラフィアは愛が怖くない?」
そのとき扉の開く音がし、振り返ると北棟端の外廊でメイド二人がこちらを見て何か囁きあっていた。彼女たちが見ているのは二階のベランダにいる〝深窓の令息〟だ。
「セラフィア、その籠の中身は置いていった方がサザランのためだよ。それと、逃げるならイモゥトゥ居住区じゃなく裏庭からの方がいい」
そう言い残し、ルーカスはカーテンの奥に姿を消した。物見台の見張りはすでに持ち場に戻ってこちらを見下ろしていたが、わたしたちを捕まえる気はないようだった。リュカにそう指示されたのだろう。
「ユフィ、行くわよ」
「どっちに?」
「イモゥトゥ居住区に決まってるじゃない。行くなってことは何かあるってことだもの」
こうして話している間にも、メイドのはしゃいだ声が近づいていた。美青年と会話を交わした使用人仲間に話を聞こうとでも思っているのだろう。
「ユフィ、洗濯籠はあの子たちに渡しましょう。たぶん聴取が終わって戻ってきたところだから、この中に隠してあるものを見つけたら捜査員に知らせてくれるかもしれない。わたしたちは疑われるだろうけど、捕まる前に逃げればいいだけよ」
ジュジュの提案に従い、メイドに駆け寄って籠を押し付け、『さっきの彼に用事を頼まれたから』とその場を離れてイモゥトゥ居住区の入口へと走った。
「怪しまれてたみたい」
「関係ないわ。どうせもう会うこともないから」
イモゥトゥ居住区への木戸は当然ながら鍵が掛かっていた。周囲をうかがって木塀を飛び越え、サルビア花壇のそばの小道に着地する。右手に二階建ての宿舎が建っているが、人の気配はなさそうだった。晩夏の暑さを和らげるためか窓はすべて開けられ、白い祭服が掛かっているのが見える。
「ジュジュ、狙い通り祭服が手に入りそうね。やっぱり祭殿を確認しに行かない?」
「その必要はないわ」
ジュジュは安堵と歓喜の表情を浮かべて小道の先に目をやっていた。礼拝殿のある右方向への曲がり角。ガス灯の下で、庭師のような格好をした青年がこちらを振り返った。
「ウルクだわ」
ジュジュが呟いた名前は神殿に潜入した新月の黒豹倶楽部の一人だった。わたしたちを見つけたウルクはすぐさまこちらに向かって走り出し、ジュジュも駆け出そうとしたが、わたしは咄嗟に彼女の腕を掴んで止める。
「待って、ジュジュ。彼の表情が変だわ。あの時のロブみたい」




