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泥濘のリュカ〜わたしを殺した彼のルーツ〜  作者: 31040
第二幕 ――第五章 聖地へ
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第十話 日陰の怪物

__ナスル王国トゥカ聖会特別保護地区トゥカ大聖殿内ヒューバート居室__555年9月4日



 ヒューバート教司の話によると、泥と血と唾液で分身を作るリーリナ神教の邪術を『泥魂術』、それによって生まれる分身を『泥魂人形』と呼ぶらしい。


 ロアナ王国でリーリナ神教が禁教とされたのはクローナ歴二四九年。今からおよそ三百年前のことだが、その当時ラァラ神殿はまだ存在しておらず、ロアナでもジチ正派が主流だった。リーリナ神教は人目を憚るように地下で広まり、いつ誰が主導して起こったものなのかは未だに謎に包まれている。


「リーリナ神教の基本は邪術の再現です。信徒が特に執着したのは不老不死術ですが、それ以外にも様々な邪術を研究していたようです。その中のひとつがこの泥魂術でした。この術については成功したという記述が残っています」


「本当に? あっ、でも成功してなきゃリュカはいなかったんだ」


 オトが少年の顔には不釣り合いな大人びた苦笑を浮かべる。


 わたしは少なからず動揺していた。ルーカスが人ならざるもの〝かもしれない〟から、〝やはりそうだった〟に変わった衝撃。しかし、思い当たることはいくらでもある。外に出ず借家に引きこもる深窓の令息。彼がわたしの前で口にしたのはわずかな水だけだった。きっと泥魂人形は飲食の必要がないのだろう。


 邪術の信徒たちは泥魂人形を作り、食い扶持を増やすことなく労働力を確保していたのかもしれない。キャスリンもきっとそうだったのだ。キャスリンの本体はウチヒスル奇病事件で死亡し、病に罹らなかった泥魂人形のキャスリンが赤ん坊のイヴォンを連れて村から逃れた。


「ライナス君はあまり驚いていないようですね」


 ヒューバート教司の声でわたしは思索から引き戻される。ライナスはわたしの隣で肩をすくめ、「事情通なもので」と冗談めかした。


「おれはエリオットそっくりの泥魂人形に実際に会ってるけど、あれを泥人形だと見破れる人間はいないはずだ。リュカの正体を知るのはフォルブスの直系だけ。クリフも直系だから当然その事実を知っていたし、泥人形を支えるのがフォルブスの使命だと教え込まれたはずだ」


「オールソン卿が? でも、彼は……」


 わたしは彼とのこれまでのやりとりを思い返し、再びクリフ・オールソンという人間がわからなくなった。混乱するわたしをライナスは同情するような目つきで見る。


「だからおれが言っただろう。クリフの口から出る言葉のほとんどは嘘っぱちだって。

 とはいえ、クリフはリュカの立場や彼の持つ権力をちゃんと理解しているわけじゃない。それは当主と後継者だけが知ればいいことだから。

 クリフは人目を憚って隠れて暮らさないといけない泥人形に同情すらしているようだった。その哀れな泥人形が残虐で傲慢な影の権力者だというのに」


「サザラン家の当主はリュカの正体を知らないの?」


 ふと頭に過った疑問を口にする。


「知らないはずだ。フォルブスが家門の秘密をサザランと共有するとは思えない」


「でも、リュカはヨスニルに引っ越して来る前にサザラン家の王都邸宅(タウンハウス)に滞在したと言っていたわ。それに、彼はヨスニルではルーカス・サザランと名乗ってた」


「サザラン邸に滞在したときは、たしかヴィンセントの友人ということにして偽名を使ったはずだ。王都の様子を見るために立ち寄っただけだから、サザラン家の人間とは軽い挨拶程度しかしていないだろう。あそこにはエリオットの肖像が飾られているから、じっくり顔を見られたら噂になる。

 それから、やつがソトラッカでルーカス・サザランを名乗っていたことは、フォルブス男爵もクリフからの報告を受けて初めて知ったらしい。たぶん、エイツ男爵令嬢の興味を引くためにサザランを名乗ったんじゃないかな。リュカ・サザランではなくルーカス・サザランにしたのは交霊対策だろう。サザラン伯爵は自分の息子がいつの間にか一人増えてたなんて、未だに知らないんじゃないか?

 サザラン伯爵家は霧の銀狼団に名を連ねてはいるが名前だけだ。フォルブスが神殿内での支配を強めるためにそう仕向けてきた」


 ライナスの話を聞きながら、わたしは不思議に思うことがあった。なぜエリオット・サザランはウチヒスル城とラァラ神殿をフォルブス男爵領として分離したのか。


「エリオットはサザラン伯爵家と邪術を切り離そうとしたのかしら? そのために領地を分けてフォルブス領を作った?」


「それはどうかな。エリオットが神殿と結びついている限り、サザランと神殿は無縁とは言えない」


 それなら何のためにと考えて、ふと『エリオットは実は妻を愛していたのではないか』というあり得ない考えが頭を過った。政略結婚で仕方なく嫁いできた妻アリシアは、自分エリオットが密かに邪教を利用(・・)していることに気づき恐れていた。ならば自分がサザラン伯爵邸から去れば、妻も平穏に暮らせるのではないか。そう考えてウチヒスル城に移り住んだ。そして、ウチヒスル城とラァラ神殿のある場所をサザラン領から分離した――。


 それはわたしの無為な想像に過ぎない。なぜそんな妄想をしたのか、自分でもよくわからなかった。


「ねえ、ライナス。エリオットはカラック村孤児院には関与してるの?」


「いや、あれはどうもリュカが始めたことのようだ。孤児院の存在を知っていたのはリュカとフォルブス、あとは当事者のイモゥトゥ。霧の銀狼団にも明かされていない」


「神殿は関与してないってこと?」


「いや。フォルブスはあそこで作られたオピウムを神殿に持ち込んでいた。オピウムはエリオットの時代から危険視されていたし、霧の銀狼団内で反対される可能性を考えて情報を共有しなかったんだろう。オピウム製造もおそらくリュカの指示だ」


「フォルブスはリュカの言う通りにしてるだけ?」


「フォルブスの人間はリュカをエリオットの生き神様のように神聖視してる。だが、リュカが禁術によって生まれたことも知っているからリュカの存在自体をひた隠しにしてきた。サザランに対してもだ。

 エリオットの光の側面をサザランが継ぎ、闇の側面をフォルブスが引き継いだと言ってもいい。その闇の中心にいるリュカこそがフォルブスの存在意義なんだ」


「光……」と、ヒューバート教司がつぶやいた。


 十歳の彼が偶然見つけてしまったのは、光の中に残された一滴の闇だったのかもしれない。それは闇の中にある闇よりもひときわ昏く不吉なものに映ったに違いない。


 老教司はライナスの話にうなずいていたが、たった数ヶ月とはいえリュカの恋人として過ごしたわたしにはまだ腑に落ちないところがあった。〝生き神様〟が使用人一人だけを連れて質素な借家で暮らすだろうか。


「わたしにはリュカがそれほど影響力を持っているようには思えないわ。フォルブスを通じて神殿を動かせるなら、どうして自らソトラッカまで行ったの? それに、イヴォンの捜索は神殿とは別で動いているようだった」


「ソトラッカに行ったのはイヴォンが研究所に向かうと考えたからだ。ソトラッカで新生させるつもりで家まで借りていた。でも、その予想は外れた。それで焦って神殿にイヴォンの捜索記事を出させたんだ。本当なら神殿にも知られずイヴォンを確保したかったはずだ」


「リュカはイヴォンをどうするつもりなの?」


「体を奪うつもりなんだよ」


「奪う?」


「ああ、自分があの少女になろうとしてる」


 オトとヒューバート教司が半信半疑の表情で顔を見合わせた。ライナスは構わず話を続ける。


「泥魂人形には人の血管のようにびっしりと根が張ってる。その根は動物の体に侵入して洗脳することができるんだ。リュカの体にあるすべての根がイヴォンの体に入り込めば、完全にリュカの記憶と知識を持った状態で体を乗っ取れる」


「……そのような内容はどこにも載っていなかったが」


 ヒューバート教司の言葉に「だろうね」とライナスが返した。


「リュカが発見したんだ。ある時、神殿内に入り込んだ野犬がリュカの手の甲をかじった。その犬は急に怯えだし、そのあと痙攣して死んだ。リュカはその事件をきっかけに泥根の実験を始め、そして他人を操れると知った。

 どうやって操るのかはよく知らないが、ロブやベリックがフォルブスに忠実なのは根を体に入れられたからだ。おれもそうなんだが、さっきも言ったようにおれはフォルブスに対する忠誠心なんかひと欠片もない。

 それから、普通の人間は根の侵入に耐えきれず二時間ほどで死亡してしまう。その死ぬまでの時間を洗脳状態にできるらしくて、神殿のまわりで起きてる不審な自殺はだいたいそれだ。馬車の前に飛び出して自殺した先々代タルコット侯爵も、ちょっと前にソトラッカで死んだセラフィア・エイツもリュカの仕業だろう。おそらく馬車に突っ込んで死にたくなるような暗示をかけられたんだ」


 オトが気遣うようにそっとわたしの手を握り、自分の手が震えていることに気づいた。わたしがセラフィアだと知らないからライナスは平然と続ける。


「ユーフェミア嬢はエイツ男爵令嬢の復讐をしたいようだが、やめたほうがいい。あんたはリュカにとってはイヴォンに次ぐ第二候補だ。

 リュカが新生間近のイモゥトゥを狙っているという話を以前しただろう?

 あれは体を奪った相手の意識を完全に乗っ取るためなんだ。自我が形成されたイモゥトゥだと多重人格のような症状が出る。だから、イヴォンが逃亡したり死んだりしたらあんたを代わりに使おうと考えてる」


「わたしは当分新生しないわ」


「リュカはそのことを知らない。それに、今は大丈夫でも数年以内には新生前症状が出るはずだ。あんた、少なくとも百四十年くらいは生きてるだろう?」


「まだ二十二年しか生きてないわ。新生したのは一ヶ月半前」


「は?」


 ライナスが間抜けな声を出した。


「どういうことだ?」


「ユーフェミア・アッシュフィールド――いえ、ディドリーの踊り子ダーシャがイス皇国で新生を迎えた夾竹桃祭の夜、ヨスニル共和国ではセラフィア・エイツがルーカス・サザランに殺されたの。その魂はなぜかセタの国に召されることなく、イス皇国にいたこの体の中で目覚めた。

 あの夜、ルーカスはわたしの耳に何かを押し込んで、体のすべての感覚が麻痺して意識を失ったわ。そのあとはライナスがさっき言った通り、自分で馬車の前に飛び出して死んだみたい」


 根――わたしはそれをはっきりと思い描くことができた。なぜなら、わたしはそれを見たのだ。イヴォンがウォーターピッチャーをひっくり返して「濡れちゃだめなの」と叫んだ時、あの夜に見たものをすべて思い出した。けれど、胸の奥に潜む恐怖心がその光景を再び頭の片隅に追いやっていたのだ。


「わたしはソトラッカ研究所から一キロほどのところにあるルーカスの借家にいたわ。彼は何も食べないけれど、ロブがわたしのためにロアナ料理を用意してくれた。いつもより多くお酒を飲んでしまって、わたしがうっかりグラスを倒したらワインがルーカスの手にかかった。ただの白ワインなのに、彼の手の皮膚が爛れたわ。痛がるわけでもなく「あ〜あ」って、うんざりしたように言って、そして、わたしを後ろから羽交い締めにした。そのあとロブに命じたの。根を出せ、って。

 わたしは意味がわからなかったけど、ロブはすぐにウォーターピッチャーの水をルーカスの人差し指にかけた。指は水と一緒に流れ落ちて、指があった場所には黒い髪の毛みたいなものが蠢いていたわ。ルーカスはそれをわたしの両耳に押し込んだの」


 わたしの左手はオトの右手を強く握っていたが、右隣に座っていたライナスが突然強い力でわたしの腕を掴んだ。見ると、先ほどと同じようにガタガタと震えている。


「生々しい話をするな。頬を一発叩いてくれ……! 早く!」


 オトがわたしを押しのけて思い切りライナスの頬をつねった。


「ダメだ! 殴れ!」


「ぼくは非力なんだよ!」


 そう言いながらオトは無理やりわたしを乗り越えてライナスの頬を叩く。そして、覆いかぶさるようにして彼を抱きしめた。ライナスは「叩け」「殴れ」と訴えたがオトは応じず、しばらくしてプツリと糸が切れたように無言になった。


「ライ……」


 名前を呼びかけ、わたしは息を飲んだ。顔はライナスのままなのに、これまで見たことのない怯えた目つきで部屋を見回し、ふとわたしに視線を止める。


「ええっと、ユーフェミアさん? エイツ男爵令嬢と言ったほうがいいのかな……。とにかく、あそこには行かないほうがいいです。あの根っこに殺されたんでしょう? 今度あの根っこに体を奪われたら、あなたは死ぬこともできないですよ。同じ体の中で、自分を殺した怪物と一緒に閉じ込められるんです。ああ、最悪だ。

 ぼくはまだマシなほうだよ。ライナスは、まあ、それほど嫌なやつじゃない」


「あなた、誰?」


「誰? ぼくに名前なんてあるはずないでしょう? ただの、ライナスの同居人です」


 不意にコッコッとノッカーを打つ音がし、全員がビクッと肩をすくめた。


「ヒューバート教司様、起きておられますか?」


 ナスル語だったが、おそらくそんな内容のようだった。ヒューバート教司は扉越しに短い会話をしたあと、


「治療院にいるケイ卿の意識が戻ったようです。個室なので連れの方が付き添われるならどうぞと言っていますが」と、わたしを見る。


「行ってきたらいい」


 ライナスの声だった。口調はいつも通りに戻っており、振り返るとその瞳から怯えは消え去っている。


「ライナス?」


「ああ。さっき話した多重人格ってやつだ。あいつは害のあるやつじゃないし、滅多に出てこないから心配しなくていい。それより、エイツ男爵令嬢。ケイ卿もあんたの正体を知ってるのか?」


「知ってるわ」


「そうか。おれはもう少しヒューバート教司と話したいことがあるし、こんな時間にぞろぞろ行くのも迷惑だろうからあんた一人で行ってくれ」


 会話を聞いていたオトが唐突にアッと声をあげ、わたしの手を引っ張ってソファーから立ち上がらせた。


「早く行きなよ。若い者同士、水入らずで話したいこともあるでしょ? ケイ卿もユフィに看病してもらいたいに決まってるんだから」


「ちょっと、若い者同士って……」


 反射的に言い返したが、この中で一番若いのはわたし。その次はヒューバート教司だ。


 オトはわたしを強引に部屋の外に押し出し、ヒラヒラと手を振って扉を閉めた。廊下で待っていた白衣の中年女性がわたしを見て面食らった顔をしたのは、もう少し大人の〝連れ〟を想像していたのかもしれない。急に子どもに向けるような柔和な笑みを浮かべ、「行きましょう」とナスル語で言って裏口の方へと歩き始めた。


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