第七話 ウィヌンソルヌ(愛の気づきを)
__ナスル王国トゥカ聖会特別保護地区トゥカ大聖殿前__555年9月4日
ジチ教大聖会本部のある大聖殿の前は巡礼者で溢れていた。彼らはわたしたちに憐れみの表情を向け、そして両手の指を絡めて「愛の気づきを」とナスル語で唱える。
――ウィヌンソルヌ。
母語に関係なく年嵩の敬虔なジチ教徒がよく使う言葉だ。病気の人や怪我をした人、何かしらの不幸があって塞いでいる人など、他者の痛みに寄り添う言葉として使われるが、わたしも父もその言葉が嫌いだった。実際に看病したり、怪我の手当をしたり、悩みの解決を手助けする人は「ウィヌンソルヌ」という言葉を使う機会がない。その言葉をかけるのは助けることを諦めたとき。自分には何もできないことに罪悪感を覚え、「ウィヌンソルヌ」と声をかけるのだ。
「愛に気づきたかったら、勝手に気づけばいいわ。彼はまだ、セタのところには行かないから」
わたしがロアナ語で巡礼者に向かって言い返すと、オトとライナスが苦笑した。前を行く衛兵も意味は聞き取れたはずだが、冒涜ともとれるわたしの言葉は無視することにしたようだ。中央クローナからと思われる巡礼者たちはわたしが感謝の言葉を口にしたと勘違いしたらしく、励ますように「ウィヌンソルヌ」と繰り返すばかりだった。もちろん、彼らがロアナ語を理解できないとわかっていてロアナ語で言ったのだけど。
ふと、いつか聞いたルーカスの言葉が脳裏に蘇る。
『ジチ教では愛は神から与えられるものではなく自分で見出すことが大事で、それが愛の国に行く唯一の方法だとされているよね。だから、セタの世界に行けるのは他人を愛することができる者だけで、それが愛の国と呼ばれている理由。でも、ずるいと思わない? セタは自分が愛されたいから、そういう人間しか自分の国に迎えないんだ』
もし本当にそうなら、「――わたしは愛に気づけなかったからセタに追い返された」
「あんたがそういうの信じるタイプだとは思わなかったが、それを言うならおれも同じようなものだ。オトも、マルクもオラフもベリックも」
ライナスから返事があって、考えが口に出ていたのだと気づいた。彼はわたしがイモゥトゥだからセタの元に行けないと言ったと勘違いしているようだが、わたしが一度死んだことを知らないのだから仕方ない。訂正する気力もなく、わたしは「そうね」と返した。
衛兵に連れて行かれたのは大聖殿裏手にある立ち入り制限区域。アカツキだけがセタ治療院に運ばれ、わたしたちは修行者用の宿舎に部屋を与えられてそっちに案内してもらうことになった。
大聖殿の西側(正面向かって左)にはトゥカ衛兵隊聖会本部屯所があるが、治療院は大聖殿の裏、修行者用宿舎は屯所の裏手にある。宿舎と治療院は隣り合っているわけではなく、ふたつの建物の間には治療院で処置の終わった患者のための療養所が設けられていた。建物同士は密接しておらず、医療者や療養患者が庇や木々の下で思い思いに過ごしている。
宿舎を案内してくれたのは若い説話師で、ザッカルングからの修行者だった。宿舎の外観は大聖殿に見劣りしないが、内部の造りは修行者の住居らしく質素なものだ。中央の通路を挟んで一人部屋がずらりと並び、個室に扉はなく中の様子が筒抜け。あるのは綺麗に整えられたベッドと机とクローゼット、書棚くらいで、どの部屋も聖典が並んでいる。ジチ教関連の本以外は部屋によって背表紙の言語が違っていた。
この宿舎で暮らしているのはクローナ大陸各地から集まってきた聖職者。各国ジチ教聖会所属の下位聖職者たちは大聖会本部で修行を詰むことで教司、祭司のふたつの上位聖職位のどちらかに就くことができる。その後は故国に戻って聖会本部やそれに準じる規模の聖殿や礼拝殿で奉仕するか、そうでなければ聖地に残ることになる。
「誰もいませんね」
オトが説話師にザッカルング語で声をかけた。
「この時間はまだ奉仕中ですからいつもこんなものです。みなさんにお使いいただくのは二階で、そちらには上位修行者の部屋があります。扉もついているのでご心配なく。ただ、普段なら二階も静かなのですが、今はちょっと事情があって慌ただしくしているかもしれません」
「何かあったのですか?」
説話師は刹那迷い、周囲をうかがって足を止めた。
「実は、ラァラ神殿からの修行者が三人出奔したのです。つい数時間ほど前のことで、一階に住んでいた下位修行者が二人と、もう一人は一ヶ月前に教司の聖職位を授与されたばかりの上位聖職者でした。教司が職務を放棄して行方をくらますなどあってはならないことです。〝緋衣の指輪〟を悪用されでもしたら大変なことですから」
〝緋衣の指輪〟とはサルビアの花が刻まれた指輪で、上位聖職者の身分を証明するもの。
「そういうことだったのね」
「緋衣の指輪を見せられたら仕方ない」
「あれはイス皇国でも有効だよ」
わたしたちが口々に言うと、説話師は「どういうことです?」と眉をひそめた。先に口を開いたのはライナスだ。
「その指輪はすでに悪用されました。説話師様はラァラ神殿の修行者がワイアケイシア急行に乗り込んだことはご存知ですか?」
「列車で逃げたという話は聞きました」
「あの列車には聖女が乗っていたんです」
「聖女って、……あの七千万クランのですか?」
「ええ、あの聖女です。説話師様はザッカルングのご出身だそうですからヘサン伯爵様のお名前はご存知でしょう。実は、聖女はここしばらくヘサン伯爵邸に匿ってもらっていました。しかし、いつまでも居座るわけにいかず、それなら大聖会に保護してもらいたいと彼女が望んだのです。そして、わたしたちは極秘裏にワイアケイシア急行に乗りました。
しかし内通者によってそのことが神殿に知られてしまったらしく、聖女は列車に押し入ってきた聖職者に連れ去られてしまったんです。祭服はフードと顔布が付いたラァラ神殿のものでした。
彼らがどうやって車掌を言いくるめたのか不思議だったのですが、説話師様の話を聞いて謎が解けました。祭服姿で緋衣の指輪を見せれば疑う者はいませんからね」
説話師はその顔に困惑の色を浮かべたが、すぐに聖職者らしい温和な笑みをつくって「行きましょう」と先へ促した。おそらく、首を突っ込んではまずい話だと思ったのだろう。
階段を上ると数人の聖職者が部屋の前でヒソヒソと話していたが、説話師はその存在を無視し、わたしたちを部屋に送り届けるとさっさと立ち去ってしまった。
部屋を与えられたのはいいけれど、荷物は押収されたままで、あるのはベッドと机と椅子、空の書棚に空のクローゼット。ベッドに寝っ転がってぼんやりしていると、廊下から声が聞こえて顔を出した。すると、先ほどの説話師とライナスが隣の部屋の戸口で話をしている。
「あっ、ユーフェミア嬢。順番に事情聴取したいらしいから先に尋問されてくる」
「お疲れでしょうがご協力ください。また呼びに来ますので」
説話師はライナスを連れて行き、それからしばらくしてわたしの部屋の扉がノックされた。
「アッシュフィールド様。荷物の検分が終わりましたので屯所まで取りに来てもらえますか」
「聴取は?」
扉を開けて尋ねると、さっきの説話師が「まだかかりそうです」と言う。そしてわたしはオトと一緒に屯所に連れて行かれることになった。情報収集のためなのかオトは色々話しかけていたが、相手のほうは「ええ」「まあ」と煮えきらない返事ばかり。
「ねえ、もしかして余計なことは話すなって口止めされた?」
しまいにはオトがそう尋ね、説話師は「いろいろ複雑で……」と消え入りそうな声で言って目をそらす。
修行者の逃亡は滅多にないが、まったくないわけではない。多くの場合は聖職位を剥奪され、名前と姿絵、聖職番号が公表され、クローナ大陸全土にその事実が知らされることになる。それはひとえに指輪の悪用防ぐためだ。
教司が所持する緋衣の指輪と同様に、祭司は〝花杯の指輪〟という夾竹桃の花とワイングラスが描かれた指輪を持っている。そのどちらにも聖職番号が刻まれており、無効となった聖職番号の指輪を持っている者は警察に捕まる。指輪の偽造や加工も当然ながら処罰の対象だ。
事件や事故の可能性がなく計画的な逃亡であることが明らかな場合は即刻聖職位が剥奪されるのだが、今回はそう簡単にはいかないだろう。ラァラ神殿はきっと理由をつけて三人の逃亡を正当化しようとする。その理由は考えるまでもなく『聖女の保護』だ。
「疲れてるときに考えごとしないほうがいいよ」
オトに肩を叩かれ顔をあげると、目の前に衛兵が立っていた。どうやら屯所に着いたようだが、サルビア聖園に面した正面入口ではなく宿舎の向かいにある裏口。中に入るとムンと汗臭い臭いがし、雑然とした通路を何人もの衛兵が慌ただしく行き交っていた。忙しさの原因はわたしたちと逃亡修行者に違いない。
説話師は入ってすぐの扉をノックし、中に声をかけた。
「ウィッチヌン隊長。ユーフェミア・アッシュフィールド様とオト・アッシュフィールド様をお連れしました」
「入ってください」
返ってきた声は鼻髭の隊長のもので、下位修行者に対して丁寧な言葉遣いだったのが少し意外だった。通された部屋は机がひとつと椅子が二つ。天井は高いが十人入ればいっぱいになりそうな小さな部屋だ。入口脇に鞄がまとめて置かれていたが、タルコット侯爵の荷は見当たらない。
「侯爵様のお部屋はどちらになったのですか?」
わたしが尋ねると「療養所だ」とぶっきらぼうな返事。
「侯爵様もお怪我をなさっていたんですか?」
「捻挫していたようだ。それに、聴取の途中で熱を出して倒れた。医者は疲れだろうと言っていたから心配ない。護衛二人は侯爵に付き添うと言って聞かないから、彼らの荷物は療養所の侯爵の部屋に運んである。
それから、アカツキ・ケイとクリフ・オールソン、ベリックの荷物はセタ治療院に持っていった。彼らはまだ治療中だ」
「アカツキの意識は戻ったんですか?」
「詳しいことはわからない。ところでお嬢さん、アカツキ・ケイというのは銃を持っていたほうではなく暴発に巻き込まれた青年で間違いないね?」
「そうです」
「彼はソトラッカ研究所の研究員だそうだが、お嬢さんはこの書類について何か知っているか?」
ウィッチヌン隊長は手に持っていた三つ折りの紙をわたしに手渡し、一歩下がって腕を組んだ。紙を広げるとザッカルング語の文字が並んでおり、のぞき込んできたオトが「覚書?」と首をかしげる。
『この覚書は不老者特有の〝新生〟により、不老者イヴォンが不利益を被らないために記すものである。
一、不老者イヴォンはラァラ神殿による軟禁生活を拒否し、ナスル王国にあるジチ教大聖会による保護を求める。
二、居住地に関わらずソトラッカ研究所不老因子研究部(通称イモゥトゥ研究部)の研究要請に対しては対等な立場において協力するものとする。
三、不老者イヴォンが新生等により判断能力を失った場合、イモゥトゥ研究部所属アカツキ・ケイがこれを代行するものとする。
以上の内容は以下の者がこれを証明する。
本人 イヴォン
代行人 アカツキ・ケイ(ヨスニル共和国ケイ公爵家/ソトラッカ研究所不老因子研究部所属)
見届人 レナード・ウィルビー(ヨスニル共和国ウィルビー公爵家)
見届人 バルトルト・ヘサン(ザッカルング共和国ヘサン伯爵家当主)』
ヘサン伯爵邸にいたとき、万が一のために作成した覚書だった。おそらくアカツキの鞄から見つけたのだろう。すっかりその存在を忘れていたが、これはイヴォンを拉致したのがわたしたちではないことの証明になる。
「隊長様はこれをお読みになったのですか?」
「彼が訳してくれた」
隊長は顎をしゃくって戸口に控えている説話師を指した。ザッカルング出身なのだから読めて当然だ。彼が急に無口になったのは、これが原因だったのかもしれない。
「この覚書はザッカルング共和国のヘサン伯爵邸に匿ってもらっていた時に作成したものです。イヴォンは大聖会の保護を希望していました。ですが、いつ新生するかわからない状態でしたから、もし聖地に到着する前に新生した場合のことを考えて用意したのです」
「……〝新生〟ねえ」
うんざりした言い方は〝新生〟だけでなくイモゥトゥの存在すら信じていないように聞こえる。ひと筋縄ではいかなそうだと身構えたが、わたしはむしろ隊長のその態度に好感を覚えた。
「なぜ老いない人間が存在するのか、不老者はどうして突然記憶を失うのか。それについては明らかになっていませんが、イモゥトゥは存在しています。彼らが百三十歳から百六十歳くらいで記憶を失うこともソトラッカ研究所が確認しています」
「だが、大聖会はイモゥトゥの存在を否定している」
「ええ、その通りです。わたしの言い方がよくありませんでした。彼らは呪われたイモゥトゥではなく、不老の肉体を持って生まれたただの人間です。愛を失ってもいません」
「愛を失っていない、か……」
隊長がフッと嘲笑うようみ鼻から息を漏らし、わたしの内側でプツンと糸が切れた。
「トゥカ衛兵は愛を持たないようですね。二年も逃亡した末に助けを求めて聖地に来たのに、イヴォンはあんなふうに連れ去られてしまった。それを、そんなふうに笑えるなんて――」
「落ち着きなさい、お嬢さん」
隊長はわたしの手から覚書を奪い、背後の机からノートを手にとって掲げた。
「それは――」
ウェルミー五番通りのダーシャの部屋にあったノート。その中にわたしの字で書かれているのは夾竹桃祭りの夜にセラフィア・エイツの身に起きた出来事だ。それだけでなく、イス皇国を出てから抱いた多くの疑念や推測、知った事実すべてが書き留めてある。
「お嬢さん。これはお嬢さんが書いたものか?」
何をどう書いたか細かいところまでは覚えていなかった。ヨスニル語で書いた数十ページに渡る文章をこの短時間ですべて読んだとは思えないが、表紙の裏に書き殴った短い言葉くらいならザッカルング出身の説話師でも読めるはずだ。
『なぜ私がユーフェミアの体に?
私は死んでしまったの?
なぜあの男は私を殺したの?』
わたしが説話師を振り返ると彼は目をそらした。
「隊長様、この中身を読んだのですか?」
「彼はヨスニル語も堪能らしくてね、ところどころ目につくところを拾い読みしてもらった」
「それで、もしわたしがこれを書いたとしたら?」
隊長は何も答えず、手に持っていたノートをわたしに差し出した。中を確認したが特に変わりはない。
「隊長様、この中に書かれていたことを誰かに話しました?」
「いや。誰かに話すかどうかはお嬢さんが判断することだ。お嬢さんはその誰かとじきに面会することになる」
「誰かって?」
「ヒューバート教司様だ。今はライナス・ローナンの聴取をしているが、お嬢さんも君もあとで彼の聴取を受けることになる。ちなみに、ヒューバート教司様はサザラン伯爵の叔父にあたる方だ」




