第四話 ウィルズマリー・ホテルの侵入者
__ヨスニル共和国サゥスホウ郡ドンクルート市ウィルズマリー・ホテル__555年8月21日深夜
オールソン卿は肩越しに振り返り、キャビン前方にある小さな窓から御者の様子をうかがった。そして、対面に座るアカツキの方へ身を乗り出し、潜めた声で言う。
「ルーカスとエリオットはたしかに驚くほど似ています。しかし、わたしは幼い頃のルーカスを知っていますし、何度か遊んだこともありました。彼が五歳か六歳くらいの時です。そのあと体調が悪化したとかで何年も顔を合わせることができず、久しぶりに会ったのは三年前だったと思います。面影は残っていましたから別人ということはありません」
「しかし、ホクロの位置まで同じなんですよ」
アカツキがそこまで明かすとは思っておらず、わたしは思わず「えっ」と声をあげた。ユーフェミアが驚いてもおかしくない場面だが、どんなふうに言い繕うのか気が気ではなかった。オールソン卿は何とも表現しがたい微妙な表情を浮かべている。
「ケイ卿、ホクロというのは?」
「セラフィアから聞いたことがあるんです。自分の恋人はいつもスカーフを巻いているけれど、喉仏のところにホクロがふたつあるのを見たと。本来なら女性同士でそういう話をするのでしょうが、研究所では女性を探すことすら難しいですから、恋人との惚気話はよく聞かされていたんです。そのホクロが鉄道記念館の肖像に描かれていました」
「そうでしたか」
吐息を漏らしたオールソン卿は、ルーカスとエリオットのホクロについて元々知っていたようだ。
「ルーカスはあのホクロを隠したがっているんです。ホクロのせいで余計にエリオットと比べられることになりますから。
ケイ卿がホクロのことまで知っていたのならイモゥトゥだと疑うのも理解できますが、その疑念はラァラ神殿にあるエリオットの記録をご覧になれば晴れると思います。
エリオットは晩年まで精力的に事業に関わり、ロアナ国内外を飛び回っていました。かなり多くの友人知人がいたようですし、エリオットがずっと二十歳そこそこの見た目をしていたらおかしいと思うでしょう? けれど、エリオットが美男ということは有名でも彼が不老だったという話は一度も耳にしたことがありません」
「オールソン卿がそこまでおっしゃるのであれば、一度ちゃんとエリオットについて調べてみることにします」
オールソン卿の話にはある程度説得力があった。父から聞いた話を思い返しても、エリオットがクローナ大陸を股にかけて事業家として活躍していたのは間違いない。そんな人物がまったく年をとらなければその当時からイモゥトゥではと疑う人間がいてもおかしくないが、研究所に集められたイモゥトゥ関連の資料でエリオット・サザランが登場するのはラァラ神殿建設に関してだけだ。
「ケイ卿、もし宜しければ一度ロアナを訪れてみませんか? ヴィンセント・フォルブスを紹介しましょう。彼なら一般信者が入れない区域も案内してくれると思います」
アカツキはその提案に心を惹かれたようだった。リーリナ神教について詳しく知るにはロアナに行くしかないと以前から口にしていたし、ラァラ派が怪しげな行動をとっている今の状況では直接ロアナに行くべきとも考えているだろう。わたしもそれが最善策のように思えた。
ルーカスがアカツキのリーリナ神教研究を警戒していたのはなぜなのか。そこにルーカスの秘密があるような気がする。
「もしロアナに行くことがあれば、ぜひ」
アカツキが社交辞令のような返事を口にしたとき、馬車はウィルズマリー・ホテルの門をくぐった。四階建ての本館と渡り廊下で繋がった別館は、首都チェサのレイルズ通りにあるのと同じ古典的な石造り。一方、庭園の生け垣は直線的かつ現代的なデザインで、ホテルを囲う雄大な自然とは対照的だった。その芸術性が高く評価されているという記事を以前新聞で読んだのをふと思い出す。
「ケイ卿。たしか、このホテルには生垣迷路があるんですよね?」
わたしが聞くと、「あそこです」とアカツキが本館の左手方向を指さした。建物の奥に角張った生垣が見えたのは一瞬、馬車は本館正面の車寄せに停車する。
わたしたちの他にも急行列車を降りてホテルに来た客がいるらしく、エントランスロビーは活気を帯びていた。行き交う宿泊客をすり抜けてポーターが大量の荷物を台車で運び、滞在客らしい軽装の人々はロビーを突っ切って渡り廊下へ吸い込まれていく。
「別館のステージでは日替わりで演劇や楽器演奏が行われているんです」
一緒にエレベーターを待っていたベルボーイが説明し、アカツキが「レストランもまだやっていますよ」とわたしにだけ耳打ちした。食欲旺盛なイモゥトゥへの気遣いのようだ。
「今夜はもう休みます。明日は一日中馬車に揺られるのですから、ケイ卿もオールソン卿もあまり夜更かししないほうがいいですよ」
わたしのアドバイスに男性二人が肩をすくめる。そのときチンと音がしてエレベーターが到着した。アカツキとオールソン卿は四階東館の突きあたりの部屋、わたしはその真下の三階の部屋。アカツキは案内は不要だと鍵だけ受け取り、わたしはベルボーイと一緒にエレベーターを降りた。
「エレベーターは本館のちょうど真ん中、階段は東棟廊下と西棟廊下の突きあたりに二ヶ所あります。別館へ続く渡り廊下は西棟側にありますのでお客様の部屋からだと少し遠いですが、部屋のそばにある階段を上がればお連れ様の部屋まではすぐですよ。別館は十二時まで開いておりますが、もし行かれるようでしたらお連れ様とご一緒に行かれることをおすすめします。この時間ですと、少々酔いが回ったお客様もいらっしゃいますので」
ベルボーイがニコニコしながら話しているうちに部屋の前にたどり着き、彼は「ごゆっくりおくつろぎください」と笑顔で戻っていった。
カーテンは開けられたままで、窓からはちょうど白神の峰が見えている。別館とは真反対にあるせいか余計な明かりはなく、バルコニーでスパークリングワインでも飲めばいかにも避暑らしい過ごし方かもしれなかった。けれど、わたしが真っ先にしたのは旅行鞄の奥底からノートを引っ張り出すことだ。
万が一のことを考え服に包んだノートは、ウェルミー五番通りの、あのダーシャの部屋に置いてあったもの。ダーシャが新生したらこのノートで文字を教えるつもりだったのだろう。わたしはそのノートをもらって、〝あの夜〟のこと、そしてルーカスのことを思い出せる限り書き留めた。さらにジュジュやオトから聞いたイモゥトゥの情報も書き加え、今ではノートの半分がびっしりと文字で埋められている。
わたしはベッドに腰掛け、サイドテーブルのウォーターピッチャーから水を注いでひと息に飲んだ。
ウォーターピッチャーもあの夜を思い出させるもののひとつだ。混濁した意識の中で見た光景に、ウォーターピッチャーをひっくり返した使用人ロブの姿があった。その時わたしは背後からルーカスに羽交い締めに――正確には羽交い締めではなく彼は右腕だけでわたしの動きを封じたが、では、そのとき彼の左手は何を?
ルーカスの左にはロブ。わたしの足には水飛沫がかかり、ルーカスはロブに手を差し出し、彼の注ぐ水を手で受け止めていたのではなかったか?
何のために?
手を洗うため?
盥も受けず床の上で?
いくら考えても頭痛がしてくるだけで、調節してもピントの合わない顕微鏡みたいに記憶はぼやけたままだった。
気を取り直し、ノートを最初のページからめくっていく。セラフィア・エイツの筆跡だからアカツキに見られたら正体がバレるかもしれない――そんなことを考えつつ文字に目を走らせると、目的の箇所はすぐ見つかった。あの夜の、まだ意識がハッキリしていたときのルーカスとの会話だ。
『ルーカスに聞いたイヴォンの話(嘘?)
・ルーカスが幼い頃サザラン伯爵邸に来ていた少女。
・ロアナ王国王都ハサで再会。ルーカスがソトラッカに引っ越す直前、十日ほどタウンハウスにいた時。
・イヴォンの見た目は昔のまま。
・ハサ郊外の商店街。評判の占い師がいると聞いて霊媒相談のテントに行く。
・ルーカスが店に入ると霊媒師が逃げ出す。吊りランタンにヴェールを引っ掛け顔が見える。イヴォンだと気づく。
・占い師の名前がイヴォン。
・逃げたことでイモゥトゥだと確信する。』
ノートの末尾に挟んでいたチェサタイムスの切り抜きを開き、その文章の横に置いた。
『行方不明のイモゥトゥの名前はイヴォン。神殿が数年前に保護しましたが当時から譫妄症状があり、失踪は記憶障害のためと考えます。
ラァラ神殿ではこれまで極秘に捜索を進めてきました。しかしロアナ王国では目撃情報がなく、捜索範囲を中央クローナまで拡大することにしました。』
オールソン卿から聞いた情報を信じるなら、イヴォンが神殿を出たのは二年前。その後に首都で霊媒師をしていたのなら、やはり自分の意思で神殿を出たと考えるべきだろう。しかし、神殿が嫌で逃げ出したのなら、偽名も使わず首都で評判になるほどの商売をするだろうか。名前が広まった時点で店を畳んで身を潜めるべきでは?
「イヴォン、あなたはいったいどこにいるの?」
会ったこともないのになぜか親しみを覚えるのは、ルーカスに利用されようとしている彼女に自分を重ねているのかもしれない。絶対、ルーカスの手にイヴォンを渡してはならない――そう第六感が言っている。
不意にカツンと控えめなノッカーの音がした。わたしは慌ててノートを服で包み、再び鞄の奥底にしまう。もう一度カツンとノッカーが打たれた。
「どなたですか?」
「内密な知らせです。ジュジュから」若い男の声だった。
「ジュジュ?」
「はい。新月の――」
男はその名を最後までは言わず、「中に入れてもらえない?」と砕けた口調で続ける。ダーシャの知り合いのイモゥトゥかとも思ったが、いざという時の逃げ場としてバルコニーへの窓を開けた。三階から飛び降りるのは無理だけど、叫べば外の警備員やアカツキたちのいる上の部屋には聞こえるだろう。
「開けてもらえないかな」
わたしが過剰に警戒しているからか男が扉の向こう側で笑った気がした。
「今、開けます」
わたしは内鍵を外して扉を開けた。外開きの扉は勢いよく引っ張られ、次の瞬間には男の手がわたしの口を塞ごうと眼の前に迫る。咄嗟にかわしてその手首を掴み、男の動きを利用して部屋に引っ張り入れると、背後に回って腕を捻り上げた。
「誰か! 侵入者です! 誰か!」
咄嗟に自分の体が動いたことに驚きつつも、わたしは開いた扉に向かって叫んだ。男の顔を覆った布を剥ぎ取りたいところだが、捻り上げた腕を両手で掴んでいて、片方でも離したら逃げられかねない。力では明らかに相手のほうが上だ。
「あなた、誰の手先?」
「新月の」
「ならあなたの名前は?」
「……オト」
ハッ、と思わず笑ったとき、男に足を引っ掛けられて床に倒れ込んだ。男はすぐに逃げるでもなく、わたしの腕に巻かれた包帯を強引に解いて「やっぱりね」とつぶやく。浅はかにも扉を開けたことを後悔した。
「ユーフェミア嬢!」
アカツキの声がし、男はわたしを突き飛ばしてバルコニーへ駆けた。手すりを乗り越えると馬鹿にするように手をヒラヒラ振って、そのままストンと落下する。
「えっ……」
わたしが慌ててバルコニーへ出て身を乗り出すと、二階に着地していたらしくぬっと人影が現れた。その影は一気に地上へとジャンプし、警笛が庭に響いたが振り返りもせずに生垣迷路のある本館東棟の横手に向かう。
「あっちです」
警備員が駆けてくるのが見え、わたしは声を張り上げて男の逃げた方を指さした。ホテルはにわかに騒がしくなり、野次馬がエントランスロビーからぞろぞろと出て来てホテルの従業員が押し留めている。
「大丈夫ですか?」
背後からの声に振り向くと、こっちも大変な騒ぎだった。アカツキとオールソン卿だけでなく、同じ階の宿泊客ものぞきに来ている。野次馬たちはホテルの従業員に誘導されて自室に戻ったが、アカツキとオールソン卿は部屋に残り、そのあとやってきた支配人とのやりとりを横で聞いていた。
聴取の途中で警備員が部屋を訪れ、「このようなものが生垣迷路に投げ置かれていました」と見せたのは、黒髪のカツラと黒い布。布は男が顔を隠していたものに違いなかったが、結局逃げられたようだった。支配人は「警備を強化するので安心しておやすみください」と深々と頭を下げて部屋を出ていった。
気になっていたのはオールソン卿の視線だ。包帯のとれた腕はさりげなく隠したけれど、傷跡が消えていることに気づいたようだった。




