08 | 夢の中、聞こえた言葉
これは夢の中だとすぐに気づいた。
見慣れない野原には、白い花を咲かせた草が一面に生えていた。
少し離れたところには、ダークブラウンの柔らかな長い髪に淡い青色のリボンを着けた少女がこちらに背を向けて立っていた。同じ色のワンピースのスカートが風に優しくなびいていた。まるでその向こうに見える空に溶けて消えてしまいそうに見えた。
―――消える前に呼び止めないと
そう思うのに声が出なかった。彼女に近づこうと思うのに、一歩も進むことができなかった。
やはりこれは夢なのだ。
焦ることはない。彼女が消えようとも、目が覚めればここで見たことは何もなかったことになるのだから。
そう思うのに、彼女の輪郭が徐々に曖昧になっていくと胸がギュッと苦しくなった。
その時、僕の横を誰かが全力で駆けていった。
銀髪のその男はすぐに何か壁のようなものに思い切りぶつかった。ガラスとも違う見えない壁を握りしめた右手で激しく叩きながら少女の名を叫んだ。
壁を叩く音も、名を呼ぶ声も聞こえない。無音なのに、激しく壁に叩きつける拳の痛みも、力一杯叫ぶ喉のひりつく痛みも伝わってきた。
あれは僕だ。
空に溶けて消えそうなアリアの名を呼び、なんとかして行く手を阻む壁を壊して彼女の元へと辿り着こうとしていた。
―――アリア、待ってくれ。お願いだ。行かないでくれ
そう口は動くのに、どうしても声が出なかった。全力で叩き壊そうとしているのに、壁は壊れる気配もなかった。
アリアの後ろ姿がどんどんと薄くなっていった。
嫌だ。これが夢だとしても、彼女が消えてしまうことに心が潰れそうだった。
―――アリア、僕の側にいてくれ。僕は絶対に諦めないから!
両手で壁を叩き、出ない声で叫ぶと――アリアがこちらに振り返った。
「私も諦めていないわ。待っていますね、ライナス様___
僕の目の前には野原ではなく、天井の木目が広がっていた。
「はっ…はははは……」
なんて都合のいい夢だろうか。
夢でもいいからと思っていたアリアが現れて、僕に笑顔で語りかけた。彼女が待っているだなんて、僕の願望以外の何物でもないが――
「いいじゃないか。都合よくても」
さっきまで声が出なかった反動で、わざとらしく独り言を口にした。
「アリアも諦めないって言ったんだ」
僕は寝転がったまま、寝台の脇のテーブルに置いた懐中時計を手にした。朝日を受けて見えづらいが、手で陰を作るとそれは確かに淡く青く光っていた。
これが本当にアリアの魂なのか、それがいつまでこの石の中に留まっているのか。ユトレフィスの宮殿で用意している魔法陣でアリアを取り戻すことができるのか……どれひとつ確実なものはない。上手くいかないのではと考えだすと、不安に押しつぶされそうだ。
ふぅっと大きく息を吐いて寝台から降りた。
南向きの窓の前に立って、街を囲む山並みへ真っ直ぐに視線を向けた。山々を超えて遥か先にアリアが待つ宮殿がある。
―――今は奇跡を信じよう
僕は手にしていた懐中時計に優しく口付けた。
◇ ・ ◇ ・ ◇
「殿下と共に帰ることができず申し訳ございません。私は大丈夫ですので、どうかご自身の安全にはお気をつけて…」
僕は首都ユトレスへ戻ることを伝えると、寝台の上に座るチェスターが申し訳なさそうにそう言った。
この騎士団の詰所に来て三日目、チェスターは支えがあれば起き上がれるようになっていた。もう僕の魔力を使った治癒を必要とするような悪化はないだろう。
「いや、謝ることはない。僕のせいでこの怪我を負ったんだ。しっかり治して帰ってきてくれ」
「はい、殿下」
「ライナス様」
ベッドの脇にいた女性が僕に声を掛けてきた。
真っ直ぐな艶やかな黒髪を一つに束ね、凛とした印象の彼女はアイリスという名の看護師で、チェスターがここに来た時から献身的に看護してくれている一人だ。
「アイリス殿、急にこの街に来た我々が面倒をかけて申し訳ない」
「いいえ、そのように仰らないでください。エレーナ様を救ってくださった御恩をお返しできる機会に感謝しております。チェスター様の看護は、私共が精一杯努めさせていただきます」
「ありがとう。よろしく頼む」
僕がそう言うと、アイリスはにっこりと微笑んだ。




