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青星の水晶〈下〉  作者: 千雪はな
第3章 水の魔術師と隣国の公女
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12 | 黒魔術の辞書

『黒魔術の辞書』は、アリア視点のお話です。

「公女の解呪が済んだのなら、今すぐにでもここを発ちたい!」


そんなライナス殿下の強い口調に、私は思わず一歩後退(あとずさ)った。




エレーナ公女の解呪で力を使い尽くした殿下は意識を失い、つい先程、目を覚まされたばかりだ。


倒れられた直後に診察した医師の命に別状はないとの言葉を聞いて、皆が安堵した。しかし、数日は静養した方がよいだろうとのことで、チェスター様が帰国の日程の延期を検討されていた。それを殿下に話したところ、今すぐにでもここを離れたいと強く仰ったのだった。


「す、すまない…」


驚いた私を見て、殿下は申し訳なさそうにそう言って私に手を伸ばした。私がその手を取ると、殿下はぎゅっと握った。痛いほどではないが、その強さから私を心配する気持ちが伝わってきた。


今回のユトレフィス公国への来訪がこれほどまでに短いのは、全て私のため。ライナス様は、私をここへ連れてくるおつもりはなかったのに、私が無理に同行するようにしたのだった。公女の解呪、そして黒魔術結社と対峙することがあれば魔術を使って戦われるだろうことを考えると、魔力切れの心配がどうしても拭えなかったから。


ユトレフィス公国には、魔力を持つ者を狙う黒魔術結社の本拠地があるとされている。いつどこで狙われるかわからないこの地に、私を連れてきたくないとここへ来ることが決まって以降、殿下は何度も私がレトーリアに残るよう説得されていた。


___『頼む、アリア。どうかレトーリア(ここ)で待っていてくれないか』


繰り返し仰っていた殿下の言葉が再び耳の奥で響いた。説得――というよりも、懇願だった。


「いえ、ライナス様のお気持ちはわかっているつもりです」


「本当か?」


殿下は疑いの眼差しをこちらに向けた。半ば諦めの気持ちも混じって、じっとりと恨めしさも滲んでいた。


少し拗ねたようにも見えるその表情に、私は思わず笑ってしまった。


「やっぱりわかっていないだろう…」


「わかっております。ただ、私にも譲れないことがあるだけです」


「それがわかっていないって言っているんだ」


少し諦めたように殿下は笑った。


繋いだ手のひらから、ゆっくりと魔力が流れ出ていた。ほぼ空っぽだった殿下に、私からの魔力が満たされていく。


「でも、アリアは僕が倒れてもこうして手を握って見守っていてくれたんだな。ありがとう」


はっきりとは言わないが、私が治癒の魔法を使わずに我慢したことを褒めてくれていた。


本当に命の危機がある時以外は治癒の魔法を使わないように約束をしていた。魔力の補給もライナス様の意思がないとできないから、私がいくら魔力を渡したいと思っても殿下の意識が戻らなければ渡せない。治癒の魔法を止められ、魔力の補給もできず、ただ手を握るしかできなかった私の不安をライナス様はわかってくださっていたのだ。


「ライナス様がご無事で本当によかったです」


殿下は優しく微笑み、空いた方の手で私の頬を撫でた。


やがて魔力が十分に満たされて、その流れは静かに止まった。治癒の魔法のような回復はしないが、顔色が少し良くなった気がした。


ふっと気が緩んだら、涙が溢れてきた。


「心配を掛けてすまなかった」


繋いだ手を引かれて寝台の方へと倒れかかった私を殿下が受け止めてくれた。ぎゅっと抱きしめられたぬくもりと規則正しく聞こえる心音に、私はようやく緊張が緩く(ほど)けていくのを感じた。


 ◇ ・ ◇ ・ ◇


殿下の意識が戻ったことを確認したチェスター様によって医官が呼ばれた。診察の間、私は窓際のテーブルに座り、エレンがこの部屋に持ってきてくれた資料を読んでいた。何かの参考になるかもしれないと持参していた黒魔術結社に関する資料だが、まだ多くの部分が翻訳できていなかった。



「アリア、それは?」


診察が終わり、退室される医官を見送った私に殿下が聞いた。その視線は、テーブルの上の紙束に向けられていた。


「あ、それは黒魔術結社の資料です。以前、殿下が渡してくださった…」


「ああ、書庫で渡したものか。それで、その本は……辞書か?」


「ええ。アカデミーの辞書は古代全般の言葉を対象にしているので、古代魔術の専門用語は少なくてうまく翻訳できなかったんですけど、先程、アイヴァン様がこの辞書をくださって。黒魔術結社から押収したものだそうです」


テーブルの上に広げていた深緑色の表紙の辞書を殿下に見せた。


「何か新しくわかったことでもあったのか?」


「はい。この資料は、遠隔地から魔術を掛ける方法とその解呪の手順をまとめてあるようです」


「遠隔地から?」


「そうなのです。アカデミーの辞書では《湖畔》としか訳せなかったのが、こちらには《遠隔地》と記載されていて…」


私は二冊の辞書を手に寝台まで来ると、殿下の前にそれぞれページを開いて置いた。


「この単語です」


資料のタイトルに含まれる単語の一つを指し示すと、殿下は二冊の辞書に書かれた記述を見比べた。


「………本当だな。隠語ということか?」


「隠語……なるほど、そうかもしれないですね。これまでどうしても上手く訳せないところがあったのは、そのためだったのですね」


今思い返せば、文脈に合わない言葉が度々出てきたが、それはいずれも湖や川など水辺に関係した言葉だった気がする。黒魔術を多用したデイルが考えた隠語だとしたら、その言葉の選択は水の大魔術師だったその男らしいと言えるかもしれない。


「その辞書はレトーリアに持ち帰れるのか?」


「はい、同じものが数冊あるので、これは頂いていいそうです」


「そうか。では、帰国したらもう一度資料を確認してくれ。隠語で書かれたものこそ、奴らの狙いが見えてくるかもしれないからな」


「はい、かしこまりました」


私は早速テーブルに戻って資料の続きを読もうとした。しかし、私は腕を掴まれて引き戻された。よろけて寝台の端に尻もちをつくように座り、驚いて殿下の顔を見つめた。


「…ライナス様?」


「僕は『帰国してから』と言ったんだ。今はここにいてくれ」


そう言って殿下は、私を優しく抱きしめた。顔を私の首元に(うず)め、背中に回した手にきゅっと力を込めた。


私は黙って殿下に身を委ねた。


殿下は、私の存在を確かめるように抱きしめながら「もう少しだけ…」と漏らした。弱音とまでは言わないが、いつにないその様子に殿下が悪夢にうなされていたことを思い出した。


いつも私ばかり悪夢にうなされ不安を抱えているように思っていたが、殿下も不安を感じていることに気付かされた。それを表に出していないだけで。


―――その不安も私のせい…


私が無事であることが、殿下の安心に少しでも繋がるのであれば、今しばらくの間だけでも……私も殿下の背中に手を回してきゅっと抱きしめた。


「ライナス様」


「ん?」


「明日の朝、ここを発ちましょう」


「いいのか?」


「その代わり、レトーリアに着いたらすぐに()()を受けてくださいね」


「…………」


私が体を休めてから帰国するよう主張すると思われていたのだろう。殿下は少し体を離して驚いたように私を見下ろしてから、ふっと笑った。


「ああ、わかった。君の言う通りにするよ」


こちらに向けられる優しい眼差しに私も笑顔を返した。


ゆっくりと殿下の顔が近づいてきて、私は目を閉じた。さらりと私の髪を撫でた手が頭を支えると、殿下は優しく私に口付けた。

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